第13章・Der Dichter spricht(詩人は語る)
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──冥界・第一獄、裁きの館。
地上に置ける人間の歴史にそのまま当てはめて価値観を計る事は出来ないが、全体的に、基本的にはローマ的でありつつも、装飾に古エジプトを思わせる某かが断片的に見受けられる巨大な館は、アケローンを渡った亡者がまず初めに辿り着く建造物でもある。
「不思議なものですねえ」
最高裁判官の席に座した青年は、裁判所に似つかわしくない、暢気な口調で言った。
青年の名は、ミーノス。
だがそれは、生みの親に名付けられた名ではない。彼はごく普通の、いやどちらかというと裕福といえるノルウェーの家に生まれた人間であった。彼は両親の援助と自身の努力によって、法律を学ぶ為に国の最高学府に入学し、大学院に在籍していた。──いま現在、学籍がどうなっているのかは不明だが。
そして今の彼の肩書きは、大学院生ではない。──そして今や、人間ですらなかった。漆黒でありながら不思議に輝く、グリフォンを模した全身甲冑を身に纏う彼は今、死者たちが行くべき地獄を割り当てる冥界の裁判官にして、第九獄コキュートスのうち、肉親に対する客人に対する裏切者を裁くトロメアの主。そして冥王ハーデスに仕える冥闘士の頂点、冥界三巨頭の一人、天貴星グリフォンのミーノスであった。
「本当に。ねえ、そう思いませんか、“ルネ”」
「……はあ」
目線をあわせないまま話しかけられ、斜め後ろに立ったルネという青年は、困惑顔で、彼の性格らしからぬ曖昧な返事をした。
ルネという名も、ここ冥界での名である。ミーノス、ルネ、これらの名は、いわば彼らに課せられた運命の名と言ってもいいだろう。神話の時代から、何度肉体を変え生まれ変わろうと変わらない、魂の奥底にある部分の名。
そして二人は、最近それを思い出した。そして今まで名乗ってきた名──人間としての名を名乗ることがあるのかないのか、もはやわからない。
「大学でランチをしていたら突然心臓が痛くなり、気がついたら地獄。まさに夢にも思いませんよ、ねえ。ルネはどうでした」
「私は買い出し帰りで突然……」
立っていられず踞ったら地獄でした、とルネはどこか遠い目で言った。ごく最近の事であるはずなのだが、昼も夜もない、いや時間の感覚がない冥界で、しかも神話の時代からの記憶を取り戻した今、数千年、数万年もこうしているような気さえする。
「……どうなされたのですか」
ルネは、困惑顔のまま聞いた。
天英星バルロン、そしてミーノスの副官というのが、ルネの肩書きだ。そしてルネは、裁きの館にてミーノスの代行として裁判官を務めるのがその主な役割であった。
本来、裁きの館の裁判官はミーノスの役目だ。しかしここ裁きの館は、第一獄の一番始め、辺獄(リンボ)にあり、そこにいきなり冥界三巨頭が座すのはどこか格好がつかぬので、副官のルネが代行として裁判官を務めるのが、神話の時代からの習わしであった。ミーノス自身は、最奥の第九獄コキュートス・トロメアにある宮殿に居るのが常である。
そして、こうして冥界に来、バルロンの冥衣を纏う事で全ての“記憶”を得てからは、ルネは専ら裁きの館に常駐している。何故と言って、それが“ルネ”の役目であるからだ。──神話の時代からの。
だがミーノスは、冥界に来てからというもの、トロメアに全く居ないという事もないのだが、あっちをふらふら、こっちをふらふら、まるで神曲のダンテよろしく地獄観光でもしているのかといった様子で、あちらこちらを歩き回っている。
それは、院生であった頃の彼を思えば全く彼らしい事であるのだが──今となっては神の仕業としか思えないが、地上に居る頃、偶然にもルネはミーノスと同じ学府の学生で後輩、すなわち知り合いであった──、もしや完全に“ミーノス”の記憶が戻っていない為に不安定なのではないか、と、ルネは言外に尋ねた。
「心配無用です、ルネ。記憶ならしっかりしています」
「本当に?」
「ええ。“両方”ね」
長い前髪の上からグリフォンの兜を被っているせいで目元は殆ど伺えないが、薄い唇が少し持ち上がり、悪戯っぽい笑みになる。
「冥闘士としての魂が覚醒し、記憶の全てを取り戻すと、人間であった頃の記憶や感情が薄れがちになるようですが──……でも、それじゃあ面白くないでしょう」
「……面白くない、ですか」
ルネは、困惑を通り越したしかめっ面で言った。この飄々とした言動、そして性格は、間違いなく“人間”であった頃の彼そのままだ。ルネが顔を顰めたのは、人間で無くなったはずの彼が人間のままの振る舞いをする事に対してであり、そしてこのつかみ所のない性格に散々振り回されてきて、そして地獄にあってもまだそうなのか、という何ともいえない気持ちの現れでもある。
「せっかくこんな、滅多にない状況なのです。楽しまずに何と致しますか」
「……楽しむなどと。我々には冥王ハーデス様より賜った崇高な役目が」
「“あなた”は地上でも地獄でもくそ真面目ですねえ」
やれやれ、とミーノスが肩を竦めると、優雅なラインを描くグリフォンの大きく派手な翼が揺れた。
「役目も義務も、確かに大事です。しかし、好奇心を失ったら人間おしまいですよ」
「もう人間ではありません」
「おやそうでした。でもそのほうが面白いでしょう」
ミーノスはやはり飄々と言う。
「…………」
「そう、例えば」
もはやむっつりと黙りこくってしまった副官を全く気にする事なく、ミーノスは目の前にある、俗に“閻魔帳”と呼ばれる巨大な本を手に取った。
「不思議でしょう? ここに来た亡者の人生の全ての罪が、名前を名乗っただけでこの本のページに現れる。どんな些細な事でも」
「それは、ムネーモシュネーの記憶の館に繋がった唯一の書籍だからです」
ムネーモシュネーの記憶の館とは、地上の、いや宇宙のありとあらゆる生物の記憶を溜め込んでいる場所だ。ウラノスとガイアから生まれた原初の神、ティタンの一柱でもある。
ルネのいう通り、閻魔帳はムネーモシュネーと繋がっている。その上、名前という言霊によって、その名に置いて犯したとされる罪の記憶を片っ端から検索し、リストにする機能が備わっているのだ。いわば、ムネーモシュネーは超巨大なデータベース、そして閻魔帳はそれを裁判の為に運用する為の専用端末である。
「ムネーモシュネー。……こちらもよくわかりませんね。神話では、ムネーモシュネーは女神であったはずですが」
ミーノスが首を傾げる。確かにムネーモシュネーは女神として名を残しており、実際にゼウスとの間に、芸術の天啓・インスピレーションを与える9人の女神ムーサを産んでいる。
しかし今のムネーモシュネーは、性別どころか自我すらない、ただ記憶を収拾・蓄積するだけの巨大なシステムでしかない。あえてその状態に名付けるなら、無機物神、ともいえようか。
「確かにムネーモシュネーは、女神であった時期もありました。ゼウスに魂を与えられ、ただの“ムネーモシュネー”から“記憶の女神”になり──しかしたったの一年、ムーサを生んだ時に、彼女はただの“ムネーモシュネー”に戻ってしまったとされています」
覚えてらっしゃらないのですか、と、ルネは教科書でも読み上げるように言った。
「ああ、いま思い出しましたよ。人間の記憶がしっかりあると、そちらの記憶がなかなか思い出し辛くて」
「…………」
ならさっさと忘れてしまえばいいでしょう、と即座に言えないのは、ルネにもまた、人間であった頃の記憶が残っているという事なのだろうか。──既に、地上で親しかったはずの知人友人の顔はさっぱり思い出せないのだが。
「そう──、そうです、そうでした。女神ムネーモシュネー、彼女は死んだのです」
「死んだ?」
昨夜見た夢の話でもするかのように、どこか浮かされたような様子で言うミーノスに、ルネは疑問符を浮かべた。
「神が死ぬ、などということが?」
肉体が滅ぶことがあっても、その魂は不滅のもの。不老不死、だからこそ神は神たり得るのだ。
「ムネーモシュネーに限ってはね。……彼女の魂は、崩壊しました」
「崩壊……?」
「そう。死んだというのは、ただ単に魂が肉体から離れてしまったというだけの事。しかしムネーモシュネー女神の魂は千々に崩壊し、転生もできずに消滅しました。以来、ムネーモシュネーという存在に人格、魂を持たせることは不可能とされ、魂が付加されることはなく、今の“ムネーモシュネーの記憶の館”がある」
「それは、なぜ」
「おや、好奇心が出てきましたね、ルネ。いい傾向ですよ」
にやり、と笑って言ったミーノスに、ルネは若干ばつの悪そうな顔で黙り込む。しかしミーノスは、相変わらず楽しげに、そしておかまいなしに続けた。
「まず、全ての生きとし生けるものは、肉体と魂の2つで成り立ち、そしてどちらかが欠けていた場合、地上では“生きている”と見なされません」
肉体がなければ魂は不安定な幽霊状態となってしまうし、魂のない肉体はただの生ける屍です、とミーノスは説明した。
「そして神の場合は、これにもう一つの要素が加わります。『魂』『肉体』、そして『力』。神とは、この3つの要素で完璧な状態と言え、また三つの要素が相互に関係し合っている。『力』は『魂』に宿り、それが『肉体』に収まっているわけです」
「神の『力』とは──“何々を司る神”、というのの、何々、の部分ですか?」
「その通り。アテナなら戦争とその知恵、工芸等を司る『力』、ポセイドンは海を司る『力』、ゼウスは全知全能の『力』、そして我らが冥王ハーデス様は、死したもの、地下にうずもれたものを支配し冥界を統べる『力』」
そしてこれは、突き詰めれば小宇宙の特性そのものでもある、とミーノスは滑らかに講義を続ける。
「よって、聖闘士を含め小宇宙に覚醒した人間は、人間でありながらその構成は神と同じ、といっていい」
ミーノスは、前髪の下の目を少し伏せた。
「人は力を手にしたとき、人ならざるもの、神に近付く。人でありながら神に近付いた人間──……、英雄、というやつですね」
「英雄……」
「そう、聖人、聖闘士(Saint)という言い方もあります」
まあ、聖闘士なんて、冥界では大罪人の最たるものですけどね、と、何が楽しいのか、ミーノスはにやにやと笑いながら言った。
「そして我々もまた、そのような存在です。肉体という器を持った魂、我々は地上で暮らしていた。人間として」
「…………」
「しかし、ハーデス様を封じるアテナの封印が緩んだ事で、封じられていた108の冥闘士の『力』が解き放たれた。それがその『力』を制御できる能力を持った魂、すなわち私たちに宿り、今現在こうしている」
天貴星グリフォンのミーノス、天英星バルロンのルネ。これらは『力』の名である、とミーノスたる青年は言った。
「『力』、すなわち小宇宙は血液に宿ります。貴方も、ここ冥界に喚(・)ば(・)れ(・)た(・)時、心臓がとんでもなく痛くなったでしょう?」
ルネは、複雑そうな顔のまま頷いた。
「それは我々の肉体が、冥闘士としての『力』と、それを制御する能力に目覚めた『魂』の巨大な負荷に悲鳴を上げたからですよ」
「今は何ともありませんが」
「そう、この冥衣が我々の肉体の一部となり、人間の肉体では支え切れない『力』を制御する補助を担っている」
ミーノスが纏うグリフォンの翼が、ばさりと風を起こす。その動きは単なる鎧としてのそれではなく、意思によって動く生き物の動きだった。
「だから冥衣を脱げば、我々はただの人間に戻るわけです」
「そんな──」
「事実でしょう? 私たち二人は元々同郷ですが、108人の冥闘士は、人間として暮らしていた頃はそれぞれ全く別の国に住んでいました。全く言葉が通じないはずの我々が難なく意思疎通が出来ているのは、冥衣によって小宇宙を操り、テレパスを可能にしているからです」
「……私たちは」
ルネは、生真面目で、深刻な様相で言った。
「人間、なのですか」
「さあ?」
しかしミーノスは、相変わらず飄々とそう返しただけだった。ひょいと肩を竦める動きに合わせて、重々しいはずのグリフォンの冥衣もまた、軽やかに動く。
「冥衣を脱いだら、我々は言葉すらまともに通じません。もちろん光速で動く事も出来ませんし、念動力も使えません。しかし記憶はある。天貴星グリフォンのミーノスとしての“記憶”、天英星バルロンのルネとしての“記憶”。……さて、“記憶”って何でしょうね」
「何、とは……」
「魂は、生命や精神の礎であるといえるでしょう。ならば記憶は“存在の礎”といえる、と私は思います」
それは、ルネに説明しているというより、どこか独り言のような呟きだった。
「私には、天英星バルロンのルネとしての“記憶”と、人間として暮らした23年間の“記憶”があります」
後者は、殆どの冥闘士が失いつつありますけどね、と苦笑するミーノスに、ルネは頷いた。ルネもまた、人間であった頃の記憶を徐々に失いつつある一人だからだ。
「しかし、例え私たちが冥闘士としての『力』によって、人間としての記憶を『魂』から失ったとしても──…… 地上には、我々の肉親や知人友人が居ます。彼らの中には、人間であった我々の事を覚えている人もいるでしょう。我々自身が人間であった事を忘れても、人間であった我々を覚えている人が居れば、我々が人間であった事実は消えないのです」
屁理屈だ、とルネは思ったが、しかし反論も出来ないので、難しい顔のまま黙っていた。
「そこで、ムネーモシュネーです。ムネーモシュネーは、生きとし生けるものの、ありとあらゆる“記憶”を、決して忘れる事なく延々と溜め込んでいる」
「……我々が人間であった事は、ムネーモシュネーが存在している限りなかった事にはならない、と?」
「そう。ムネーモシュネーがある限り、あったことは、なかったことにはならない。何万年経とうとも」
だからこそムネーモシュネーは、閻魔帳のデータベースたり得る。
ありとあらゆる、そのままの事実──“記憶”を溜め込んでいるからこそ、あらゆる叙事詩、英雄譚、そしてここ冥界を記したダンテ・アリギエーリの『神曲』も、ムネーモシュネーの娘たち・ムーサへの祈りから始まっている。
「しかしまあ、我々よりも人間かどうか怪しいのは、聖闘士の方ですけどね」
「聖闘士が?」
「だってそうでしょう? 彼らは聖衣を纏いますが、纏っていなくても小宇宙を扱う事は可能です。小宇宙というものを生身のまま扱えるというのは、本来神でしか為し得ない事」
「聖闘士が、神だというのですか!?」
いつも静粛にと言い続けているルネは、初めて裁きの館で大きな声を出してしまい、慌てて口を噤んだ。
「神であるとは言っていません。しかし彼らの有り様は、明らかに神に近い。彼らは小宇宙に目覚めたとき、我々のように、小宇宙に耐え切れず心臓が破裂しそうになったりはしない。黄金聖闘士に至っては、生まれながらにして小宇宙が目覚めており、セブンセンシズまで使役する始末」
──彼らは、果たして人間であると言えるのでしょうか?
その問いにルネはもちろん答えることが出来ず、そしてミーノスも何も言わなかった。
「そもそも、人間が小宇宙を扱えること自体、おかしい事なのです」
つらつらと、ミーノスは言う。次々と出てくる彼の知識に、もしやとっくに自分よりも様々な“記憶”に目覚めているのではあるまいか、とルネは思った。ルネは人間であった頃の記憶が随分薄れてきているので、イコール“バルロンのルネ”としての記憶が濃いのだと勘違いをしていただけなのではないかと。
「人間とは、クロノスの時代、神々が己らの姿に似せて創造した生物です」
美しくおもしろい生物が見たいという考えから、神のペットのような存在として創造された生物。最も美しいものは即ち我ら神である、と考えられた為、人間は神に似せて創られた。2本ずつの手足、5本ずつの指、顔の造りの善し悪しの基準も、神と同じ生物。
「黄金、白銀、青銅、英雄、鉄……と、人間は様々なコンセプトで創り直されては滅ぼされしてきました。そしてとうとう神の思い通りにならない為に結局匙を投げられ、鉄の種族の段階でオリュンポスから追放、地上に取り残された。それが今地上に住まう人間たち」
「…………」
「確かに、人間の姿は神に似ています。しかしあくまで似ているだけ、のはずなのです」
──人間は、小宇宙を持たない生物のはずだった。
ルネが、そんなばかな、とありありとわかる表情をした。いつも無表情で冷たそうに見えて、彼の表情はなかなか豊かである、今も昔も。
「視覚を得る為に目があるように、小宇宙は本来第七感でもって制御する、神特有の感覚です。海の生き物が音波の反響で周囲を理解するセンサーを持つように」
「では、現在人間に小宇宙の素養が備わっているのは──」
「あきらかに異常な事です。元々そんな生き物ではないはずなのですから」
例えるなら、蛇が翼を持って生まれてきたような状態である。
「だから聖闘士も、小宇宙に目覚めることがあってもそれを扱う正統な感覚器・セブンセンシズを得るまでは行かず、非常に中途半端な状態になる事も多いようですね」
訓練すれば海の深い所まで潜れるようになるが、エラ呼吸が出来るようになるわけではない、そのはずだ。だが聖闘士は、それが出来る。
「……進化────ですか?」
人間が持つ、最大の特徴。不老不死であるため一個体で完結し、一個体で完璧である神々と違い、老いて死ぬが故に輪廻転生と男女の交わりによって命を繋ぎ、しかも新たな生命はよりよく生もうとする群体生物の、最大の武器。
「そう、進化、それが最も考えられます。だとすると、いまの人類はシーラカンスや始祖鳥のようなものなのかもしれません」
「完成系ではない、過程の段階だ、と?」
「だから小宇宙を発現させる事は出来ても、セブンセンシズという所までは行かない。それを踏まえると、生まれながらにして小宇宙を発現させており、セブンセンシズを体得する黄金聖闘士は、まさに新人類と言えるのかもしれないですね」
神話と進化論が合わさったとんでもない理論にミーノスは興味深そうだが、ルネには面白い話ではない。特に、女神アテナとその聖闘士たちの天敵たる冥闘士、“バルロンのルネ”としては。
「だとしても、しかし、この進化もおかしい」
「おかしい、とは」
「人間は進化するように作られていません」
またも飛び出した新事実に、ルネはもうどこから驚いて良いものやらわからなくなってきた。
「黄金、白銀、青銅、英雄、鉄。神話の時代にも人間は様々に変化しましたが、それはあくまで創造主たる神々が手を加えての事。それに、人間は神の姿を似せて作られたのです。完璧に完成され尽くした神の姿を、勝手に自己変化を起こして変質させるようなプログラム、神が組み込むはずはない」
非常に説得力のある理論だった。
基本的に神々は、己の事をこそを愛する。ナルキッソスだけが特別なわけではないのだ。だからこそ彼らは己より美しいと言われるものに猛烈に腹を立てたり、生涯誰も伴侶としない誓いを軽々と立てる。永遠の時間の中を、一人きりで生きると平然と言ってのける。それは、不老不死でない代わりに男女の間に子供を作って命を繋ぐ人間には、決してない感覚である。
「進化という能力が小宇宙の発現をもたらしたのか、小宇宙が進化という能力を促したのか、それは定かではありません。しかし」
ミーノスは、にやりと笑った。興味深げで面白そうな、しかし心の底から憎らしいような、複雑な、しかし凄みのある笑みだった。
「──誰かが、人間に進化と小宇宙という要素を組み込んだ事は明らか」
「それは、誰ですか」
「さあ?」
ミーノスは、肩を竦めた。
その表情は軽く、もうあの凄みは残っていなかった。
「……さて、少し話がずれました」
少し沈黙した後、ミーノスは講義を再開した。
「人間の場合、肉体がなければ存在する事は難しい」
その辺りは聖闘士とて、いくら強力な小宇宙を持っていても、肉体のない魂の状態、つまり死んで幽霊になってしまうと、『力』を使役するどころか、積尸気の穴に吸い込まれないように踏ん張るだけで精一杯だ。だが神は、肉体が無い魂だけの状態でも、多少威力は落ちるものの十分『力』を振るうことが出来、それ故に神足り得るし、聖闘士は人足り得るのだ。
もちろん、専用の肉体があればその力はより強力に使役できる。つまり“The cunning mason works with any stone.”、というわけだ。
実際の例として、ハーデスは、普段は魂のままの状態でいたり、あるいは人間の中から最も相性のいい肉体を仮の肉体として使い、己オリジナルの肉体は、厳重にエリシオンに仕舞い込んでいる。いざという時、最も強力な力を使役できるように。
「そういうわけだから、下級の神には『肉体』を持っていない神も珍しくありません。精霊やニンフなんかがそうですね。だが……」
肉体はおろか、『魂』さえも持っていない、『力』だけの神こそが“ムネーモシュネー”なのだ、とミーノスは言った。
「コンピュータに例えると、『力』、すなわち小宇宙とその特性はアプリケーション、『魂』は力を管理するOS、『肉体』はそれらを収める実際の部品と外装。特に脳は入出力や処理を担当する、最も重要なCPU。そして小宇宙の大きさはハードディスクドライブの容量や、処理速度に関わる搭載メモリに相当します。HDDやメモリは、修行次第で増設が可能」
地上であった頃の知識で説明するミーノスに、ルネはまた少し顔を顰める。
「ただの人間は、肉体を正常に動かすための最低限のアプリケーションしかインストールしていません。つまり五感、良くて六感までしか能力がないので、基本的な容量があれば稼働するのに──生きていくのに問題はない。しかし、巨大な容量を食う上に複雑なアプリケーション・小宇宙。それを効率よく使う為には、それ専用のOS、すなわち第七感、セブンセンシズがあったほうがより良い」
「そしてそれらをよりスムーズに稼働させるには、アプリケーションを使う際の強力な負荷に耐えうるHDDとメモリ容量、専用の部品や外装──特に処理能力の高いCPU、つまり優秀な脳や肉体であったほうがよい──」
「その通りです。でないと壊れたり、狂ったりしてしまう」
人間であった頃の知識を頭の奥底から引っぱり出しながらルネが言うと、ミーノスは満足げに頷いた。
「そう、その通り。そして、『魂』は『力』を制御、コントロールする役目を担うが、同時に『魂』には感情というものがあります」
ミーノスは続けた。
「『魂』を持つ人格神たちは、その性格や感情によって力の振るいどころを決める。海神ポセイドンが怒りで海を荒ぶらせ、洪水をもたらすように。しかしムネーモシュネーは『肉体』だけでなく、『魂』もない。わかりにくいかもしれないですが……とにかく、魂、人格、感情がない。だから“記憶を司る”神ではなくて、“記憶の”神なのです」
「……なるほど」
「原始の神々には、こんな風に、魂が存在しない場合があります。太陽や月のように、ただ淡々と機械的にその力を発揮している存在。そこに感情や性格というものはありません」
だから原始の神々のうちのいくつかについては、生きているというより、存在している、と言った方がいい、とミーノスは言う。
「……だが、大丈夫なのですか?」
「何がです?」
訝しげに疑問を口にしたルネに、ミーノスは笑ったまま首を傾げた。
「バルロンのルネたる私の“記憶”にはその辺りの知識がさほどないのですが……。原初の神々ほど、その力は大味で巨大でしょう。ムネーモシュネーもまた、原初の神の一人」
そうでなくても、宇宙創造のビッグ・バンから生きとし生けるものたちのあらゆる“記憶”を溜め込み続けているのだ。そのログは膨大という言葉でもまだ足りないだろう。
「そんな『力』が、制御を担う『魂』を持たず、ただ力を発揮し続けている状態というのは危険ではないのですか?」
「成る程、いい質問です」
ミーノスは、大きく頷いた。その顔に浮かべる笑みもまた、今までで最も大きい。学生であった頃のルネは、いい質問をよくする後輩だった。
「貴方の言うことはもっともです。しかし、狂った制御システム──つまり不安定な『魂』がなまじ付随しているよりも、『力』だけであるほうが安全な場合もある」
「どういうことです?」
「例えば“嵐”をはじめとする自然災害の『力』を持つ魔神テュポンは、その魂の人格が不安定である故に魔神と呼ばれています」
危ない刃物を管理させる為に人に預けたはいいものの、それが狂人であったので、余計に厄介なことになった、というようなものだ。
「さっきも例に出しましたが、例えば太陽。太陽の力は凄まじいが、太陽自身には魂が無い。だからこそ、太陽は何万年も狂わぬ自転を機械的に繰り返してくれているわけです。もし太陽に魂があったら、機嫌が悪くて光るのをやめる、なんてこともありえるわけですからね。特に神は気まぐれで我が侭な類いが多いですし」
笑えない冗談である。
「そこの所、テュポンの場合は、災害を制御する為の魂が狂っている為に余計に手に負えないことになっている──と言えばいいかな。しかしムネーモシュネーの場合は、持てる力そのものも非常に無害」
ムネーモシュネーの『力』は、過去に起こった事柄を覚えておく、という、どこまでも受動的な力だ。その力に外に向かう要素は一切なくどこまでも無害であるが故に、力を管理する魂も特に必要とされていない。
「ムネーモシュネーに『魂』があった時期。それは、ゼウスがムネーモシュネーに子供を産ませるために、ムネーモシュネーという存在に女性としての魂を与えた時です。だからムネーモシュネーは未だ“女神”と呼ばれる」
「しかし、今現在のムネーモシュネーは」
「ただの“ムネーモシュネー”ですね」
肩をすくめて、ミーノスは言った。
「“女神”であったムネーモシュネーの魂は、『力』に耐え切れなかった。だから一年経たずに崩壊してしまったのですよ」
「耐え切れなかった……?」
ルネは、訝しげに尋ねた。
「ムネーモシュネーの『力』は無害そのもの、であるのにですか?」
「ええ」
「なぜですか?」
「さあ?」
グリフォンの翼が、剽軽に揺れた。
「私もそれが知りたいんですけどね──“ずっと”」
脳裏に浮かぶのは、女神の姿。一年足らずで無に消えた、二度と、永遠にまみえる事叶わぬ女の姿だ。──だが彼女がどんな顔をしていたか、“ミーノス”にも思い出せない。
ただ、オーロラのような、夜光の蝶のような。
七色に揺らめく静かな光が、ぼんやりと脳裏を横切った気がした。
「──さて、そろそろ“仕事”をしましょうかね。ここにやって来ているのは何人です?」
「青銅聖闘士が5人、黄金聖闘士が3人──、であるはずです。確認出来ている分ですが」
「生身のままエイトセンシズを発揮して、ですか。いよいよ人間離れしていますね」
ミーノスは、呆れたように言った。
コキュートス、中でも神に謀反を起こした大罪人──すなわち聖闘士が堕とされるジュデッカに収容されていた双子座ジェミニのサガ、山羊座カプリコーンのシュラ、蟹座キャンサーのデスマスク、魚座ピスケスのアフロディーテ、水瓶座アクエリアスのカミュ。彼らと交渉し、仮の肉体を与えて地上に遣わしてから、もう十数時間が経過している。
彼ら5人は、仮の肉体を維持し、そして時間が来ればその肉体を崩壊させる機能を持った冥衣によって、再びジュデッカの氷地獄に沈んでいるはずだ。
まさか彼らが素直にハーデスの為に動くとは思っていなかったが、確認しているだけでも8人もの聖闘士、そして女神をこの冥界に侵入させるとは思っていなかった。
辛うじて、牡羊座アリエス、獅子座レオ、蠍座スコーピオンを結界の中で弱らせて倒し、コキュートスに沈めることが出来たものの、やはり彼らもエイトセンシズに目覚めていたため、肉体ごと、つまり生きたまま氷地獄に堕ちるという、前代未聞の有様となっている。
「どうなりますかね、“今度”の聖戦は」
神話の時代から続けられてきた、女神アテナとの戦い。過去数多の聖戦の記憶を呼び起こしながら、ミーノスは最高裁判官の席を立つ。
──この戦いも、ムネーモシュネーに、余す所なく記憶される。
閉じられた閻魔帳、現在唯一ムネーモシュネーと繋がっているとされるそれを見て、ミーノスは目を細める。
「ルネ。ここは頼みましたよ」
「はっ」
グリフォンの翼を揺らしながら歩き去るミーノスを、副官は礼を持って見送った。
“The cunning mason works with any stone.”=熟練した石工はどんな石でも良い仕事をするが、より良い石であればさらに高級な作品が出来上がる