第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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 ──サガたちは、罪人としては扱われなかった。

 サガが自決という手段でもって命を絶った後、駆けつけた黄金聖闘士らによって、その遺体は“下”の、聖闘士の墓場まで運ばれた。
 13年ぶりに見る28歳になった彼の姿、しかしもう目を開ける事のない彼の姿に、形振り構わぬ涙を流す者は少なくなかった。
 そして彼の死を嘆いたのは、黄金聖闘士たちだけでなかった。かつて地獄の釜の底のようであった聖域に頻繁に降り、惜しみなくその手を差し伸べていた彼から怪我や病気を癒され、その人柄を神の化身とまで呼んで慕った人々。彼らは双子座の黄金聖衣を纏った彼を見て、一斉に駆け寄り、膝をついて嘆いた。
 ──彼らの有様はまるで、神が死んだかのような嘆きようであった。いや、彼らにとっては、それそのものであるのだろう。13年間の間サガに会う事のなかった彼らであったが、彼らは、サガの事を一日たりとも忘れた事はなかった。運ばれてきたサガの姿を認めるや否や、全員が一目散に飛んできたことから、その事実が伺えるだろう。
 二度と動かぬと言われた脚を治してもらったと言う雑兵、父親が居ないまま生まれた子供を抱いてもらったのだと泣く女。老いたその背を摩ってもらい、気力を分けて頂いたと小さくなる老人。子供の頃、色んな事を教わったと、お互いの肩を抱きあい嘆く若者たち。
 彼らの嘆きはニコルが仕込んだ“サクラ”たちを完全に追いやり、サガという男がこの聖域でどういう存在であったか立証した。そしてそんな有様であっては、彼を罪人として扱う事など、とても出来はしなかった。
 女神に対する不敬、反逆を犯した罪人、しかもそれが聖闘士であれば、問答無用で“ドラコン”が適応され、挙げ句聖衣を剥がれた遺体は広場に数日晒される、というのが、記録上にも記された通例である。
 サガは、間違いなく、史上最大の女神に対する反逆者である。しかし彼は、まるで英雄の国葬──いや、聖人として列聖するかのような扱いで葬られた。
 それは彼に救われた人々の嘆きを報うためでもあり、また、女神アテナである沙織の判断であった。彼女はサガを公式に、人々の為に命を捧げた聖人、──聖闘士Saintとして認めた。
 女神への謀反にしても、黒髪の姿から推測したムウが「多重人格」という診断をした事で、情状酌量が適応されたような形になり、彼の為した様々な事が偉業として浮き彫りとなった。
 サガの墓は黄金聖闘士らによって用意され、墓標の名は、彼を慕う大勢の人々による一彫りずつで刻まれた。己で掘った墓にひっそりと入る聖闘士としては、史上例のないほどの葬送であった。
 そしてその様は、生前に自分の墓を自分で彫るという古い習慣を行ない、その墓に入る事もなく女神を守って命を落とした英雄アイオロス、彼と対なるものでもあった。13年間逆賊と見なされていた彼もまた、女神の戦士の鑑として、人々に厚い敬意を向けられることになる。
 全く異なるはずの道を歩み、そして命を落とした二人の男。
 女神の戦士の誉れ、英雄アイオロス。そして史上最大の謀反人でありながら、同時に神に逆らっても人々の為に身を尽くそうとし、そして救った人々によって史上初の葬られ方をした英雄・サガ。この二人の聖闘士Saintの名は、聖域の記録に、公式に記された。
 そして今、彼が葬られて一ヶ月近く経とうとしている今も、彼の墓には人々が毎日ひっきりなしに訪れ、話しかけ、花を捧げ続けている。



「……女神」
「なんですか、ニコル」
 聖域の最も高み。かつてそこら中に咲いていた薔薇は既になく、白い石柱や壁が、きらきらと輝きを放っている。
 そんな女神神殿からも、双子座ジェミニの墓は、色とりどりの花のおかげで居場所がわかる。沙織はその様子を灰色の目でじっと見遣りながら、複雑そうな表情のニコルに返事をした。
「なぜジェミニらを、あのような扱いにしたのですか」
 ニコルは、サガたちを史上最大の罪人として認定して記録に残すか、あるいは存在を抹消するつもりであった。──歴史に残す価値もない者。彼をそのように扱う事で、女神アテナの権威を絶対のものにしようとした。だから沙織の決定に彼は最後まで難色を示したが、沙織はついに一度も譲らなかった。
 彼女はニコルの考えていたのとは全く逆のやり方、しかも最上級のやり方で、サガたちを扱った。
「……私は、信じます、と言いました」
「…………」
「彼は正義を守る為に命を賭けた、立派な聖闘士。私はそれを信じます。彼にも、そう言いました」
 だからそれを覆す事はない、と、少女は鈴のように可憐な、しかしどこまでも通りそうな声で言った。
「女神の深いお慈悲には、感服する限りでありますが──」
「ニコル」
 要するに奇麗ごとで片付けていい事ではない、と進言しようとしているニコルに、沙織は振り向いた。その表情は、少し苦く、そしてどこか悪戯っぽいような笑みであった。
「貴方の考えは理解しています。悪者を作る事で、どちらがより正しいのかを浮き彫りにする。サガを罪人とする事で、女神である私の正当性を確かなものにする、貴方はそう考えているのでしょう?」
 沙織は女神であるが、城戸光政の孫としての立場を持ち、13歳という年齢で、世界最大のコングロマリット・グラード財団の総帥でもある。そのためのあらゆる知識を学んだ沙織は、その程度の政治的なやりかたは常識以前のものだ。
「おわかりならば──」
「確かに常套手段です、貴方のやり方はね。でも、私情が交じっている」
「……何を」
 柔らかい苦笑、という、13歳の少女としてはとても似合わない沙織の表情に、ニコルはばつの悪そうな顔で黙り込む。
「言い訳はききませんよ、ニコル。貴方は、サガたちを憎んでいた。いえ、今も憎んでいる。貴方の言う真のアルター、ここで料理長をしていたアントーニオ氏に罪を着せて処刑したという彼らを、ひどく憎んでいる」
 だが、そのこと自体は、聖域ではさほど重要な事ではない。まずアントーニオ──トニはかつて無様に聖衣を奪われた男とされてきたし、彼がどんなに希有な男だったか、大衆に理解されるのは正直な所難しい。
 だが女神に対する謀反人、という罪状ならば、サガたちを史上最悪の罪人として扱うには十分すぎる。だからニコルは、サガたちをそのように扱おうとした。
「憎しみは悲劇しか生みませんよ、ニコル。──それは、貴方が一番よく知っているでしょうに」
 ニコルの運命を狂わせた男・ギルティ。憎しみに取り憑かれたあの男は、トニの脚を奪い、アルターを奪い、そしてアルターが、そしてフェニックスも自分のものにならないとわかった時いよいよ狂い、師とは名ばかりに、一輝の心を抉って死んだ。だが彼の死は誰の心も慰める事はなく、ニコルはただ、虚しくやり切れない思いを味わっただけだった。
「それに、わかっているでしょう、ニコル。私がただ、純粋に彼を認めただけではないことを」
「……女神」
 皮肉げに笑う少女に、ニコルは複雑な表情を作る。
「心情的な事はもちろん、実際問題として、いま聖域で用いられている上下水道設備をはじめとした各種の施設や制度は彼らによるものですし、この13年間で聖域のあり方が劇的なまでに改善している事を、貴方も確認したでしょう。その施設を有り難く使っておきながら、それを作った彼らを評価もせず罪人として扱えば、どうなるでしょう」
 記録には、サガたちが行なった改善策の数々が、細々とした所まできちんと残されていた。しかも、大勢の人々の手で何十年もかけて為したと言われても驚嘆に値するそれらが、十代半ばでしかなかったサガ、そして彼より幼かったデスマスク、アフロディーテ、シュラ。彼らだけの力で為したのだという事に、沙織は驚愕を禁じ得なかった。
 彼らの所業はもはや伝説ともいえるようなもので、グラード財団総帥としての目線もあり、沙織は彼らの有能さを、いやというほど思い知った。
「あれほど多くの恩恵を人々に与え、そして数え切れないほど慕う者のいるサガたちを悪し様に扱えば、彼らに勝った私が、今度は彼らによって悪し様に言われる事でしょう。しかしこのように丁重に葬り公式に認めれば、逆に彼と渡り合い、勝利の上に彼の尊厳を守る事も忘れなかった、真の女神として敬われる」
「…………」
「だてに総帥などやっていませんからね。──いえ」
 少女は一度長い睫毛を伏せ、そしてややして、灰色の目を光らせて、微笑を作った。それはどこから見ても完璧な、神の笑みだった。

「私は女神アテナですよ──ニコル」

 女神として相応しい、高貴で、神々しいとしか言いようのない笑みで、少女は言う。
「戦争と、その為の知恵を司る女神。そんな私が、きれいごとに流されただけのことをすると思う?」
 サガをああして扱う事で、少女は女神として、確固たる立場を作ることが出来る。あの少女こそ我らが女神、と、知らしめることが出来る。
 目を閉じたサガの顔を思い出しながら、少女は誓いを思い出す。
(──星矢)
 奇跡的に一命を取り留めたとはいえ、グラード財団の病院で未だ目を覚まさない少年の名を、少女は声に出さず、そっと心で呟いた。
(紫龍、氷河、瞬、──一輝……)
 神話の時代から、アテナの為にと言って死んだ聖闘士は、どのくらいいるだろう。数千人か、数万人か。──女神として生まれた沙織は、しかし彼らの事を、何も知らない。聖域には僅かな墓しかなく、記録にも、きちんとした記録は残されていない。
(やはり私は、ふつうの少女としては生きられない)
 わかっていた事。しかし改めて、色とりどりの花に埋もれる墓を見下ろしながら、少女は誓う。
(貴方たちが闘ったように。多くの人たちが、倒れていったように)
 神話の時代から、アテナの為にと言って死んだ、数千人、数万人の戦士たちのように。女神の戦士として闘い抜き、そして未だ目を覚まさない少年たちのように。そして神に逆らっても、人々の為に、己が信念の為に、命を賭けて闘った男たちのように。
(私もこれから、倒れるまで闘い続けます──女神アテナとして)
 少女は長いスカートの裾を翻し、玉座に腰掛ける。
 右手には黄金の錫杖、勝利の女神、ニケ。そして少女は、左手を掲げる。いかなる敵も退ける正義の盾アイギス、その力を身に備え、少女は凛として頂点に立つ。最も清らかな女神神殿、パルテノンの頂へと。
「──女神アテナ
 そのあまりの神々しさに、祭壇を守る男が膝をつき、頭を垂れる。あらゆるものをこの祭壇に捧げるべく、その決意を示して。
 純白の衣を淑やかに纏った灰色の乙女は、宇宙の器である天球に、身と心を委ねた。
「それが、宿命さだめだというならば」
 少女は、──女神は、天を見上げる。挑むように、そして、もう戻って来ない、懐かしい時の海を眺めるように。
「演じましょう、女神アテナの“意思”を」

 ──“神々の意思ビッグウィル”を。

 それが、地上の愛と正義の為であるならば。






「…………」
 何の装飾もない銀色の仮面を被った女──肌の瑞々しさからして、少女であるかもしれない──が、墓地に佇んでいた。
 両腕の無い男が墓守をするこの墓地は、主に雑兵や非戦闘員が葬られる所で、どちらかと言うとあまり目立たない所にある。かつては区画整理すらされておらず、墓地というよりは遺体廃棄所のような有様であったらしいが、教皇──サガの意向できちんと整えられ、今ではただひっそりとした墓地となっていた。
 この墓地が地味な立地であるにもかかわらずあまり寂しげな風情ではないのは、色とりどりの花々が、そこら中に咲いているからだった。墓標があるのに気付かなければ、美しい花園だと思うだろう程に。
 聖闘士でさえまともな墓が建てられない聖域では、雑兵や非戦闘員の墓など、ある方が珍しい。昔ほどではないとはいえ今でもそれは変わっていないが、しかしこの花たちが彼らの墓標の代わりになると、人々はそう捉え、亡くなった者たちを、ただ寂しげな、穏やかな表情でここに葬る。
 女は──魔鈴は、色とりどりの花々の間を、音も立てずにそっと歩く。
 日本人、しかも女であるということで迫害に誓い扱いを受けてきた魔鈴は、知り合いが少ない。だからこの墓地にも、魔鈴が知っている者は眠っていない。
 しかしここには、ひとつの有名な墓があった。
 有名と言いつつ名も彫られていないその墓は、かつて琴座ライラを得る為の聖衣奪取試合にて命を落とした女の墓である。
 実のところ、彼女自身が名なわけではない。墓にその名が彫られていないように、彼女の名が何だったのか、どんな女だったのか、知っている者はもうごく少ない。しかし彼女が得ようとした琴座ライラを巡ったエピソードは、この聖域で最も有名な話のひとつだった。
 女には小さな娘がいて、女は娘を聖闘士にしたくない、五体満足に育てたいばかりに無理をして奪取試合に挑み、そして命を落としたという。ただこれだけなら全く珍しい話ではないのだが、彼女の望みを汲んで聖闘士としてでなく育つことになった娘──ユリティース、彼女が年頃になった頃、彼女を愛した男がいた。
 オルフェというその男は、物心ついた頃からジプシーよろしく各地を流れつつ音楽を奏でていたのを、その音に籠った小宇宙を認められ、聖域に連れて来られていたという。
 オルフェの境遇からすると全く珍しい事ではないが、家族から殆ど売られるようにして聖域にやってきた彼は、聖闘士になる事にまるで関心がなかったらしい。だが一芸で各地を流れていた者らしい要領の良さで、彼は過酷な地を飄々と生き抜いていた。
 しかし彼は、恋をした。ユリティースという少女に、オルフェは全てを捧げん程の愛を示し、かつて様々な楽器を扱っていたのを竪琴一本に極め、そして彼女の母が得ようとした聖衣だという事を聞き、とうとう琴座ライラをその身に纏ったのである。
 そうまでされて、元々彼に惹かれていたユリティースが彼を愛さないわけもなく、オルフェは聖闘士でありながら妻同然の女性を持つという、とても珍しい存在となった。
 そのことで、嫉妬混じりに──それが聖衣を得た事に対してなのか、相思相愛の恋人がいることに対してなのかは定かではないが──因縁を付けられた事も数限りなくあるらしいが、オルフェはそれらをことごとく返り討ち、しかもそのためにどこまでも実力を伸ばした挙げ句、黄金にも匹敵するとまでいわれる実力者となっていた。
 冗談のような話だが、全て真実である。魔鈴自身、イーグルの聖衣を得て白銀聖闘士になった時、先輩に当たるオルフェと話した事があるし、その時ユリティースも紹介された。
 ユリティースは、母のことがあるからだろう、女の身でみごと聖闘士になった魔鈴を、涙まで流して絶賛した。オルフェはその後ろでずっと嬉しげな笑顔を浮かべていたが、それは魔鈴に対するものではなく、喜んでいるユリティースに対するものであった、と魔鈴は断言できる。
 細かい事は省くが、魔鈴に限らず、オルフェを知る誰もが、彼に対して色々と諦めていた。それは聖闘士でありながら妻同然の存在がいる事に対してであり、またその反則気味の強さに関してでもあり、そしてユリティース以外はことごとくどうでもいいと公言し、彼女に害成すものに対してはもはや外道と断言してもいいような振る舞いを躊躇わない性格に対してでもあった。
 だからユリティースが死んだとき、彼は世界が終わったようになった。
 毒蛇に噛まれた、というあっけない理由で、ユリティースは死んだ。そしてオルフェもまた死んだ、とされている。正しくは、なぜかはわからないがユリティース関係で何やら縁があるキャンサーのデスマスクに攻撃を仕掛け、彼の技で死界に落とされたらしい。
 オルフェが何故そんな行動に出たのかは不明だが、あれほどユリティースを愛していた彼が、彼女の死で気が違ってしまうというのは十分すぎるほど考えられる事であったし、黄金聖闘士に匹敵するという実力を持つオルフェに襲われれば、いかにキャンサーであろうとも、手加減できずに必殺技にて彼を葬ってしまったのだろう、というのが、多く信じられている見解であった。
 話がずれたが、ユリティースが生きていた頃、彼らはよくこの花園のような墓地にやってきていた。
 それはユリティースの母の墓参りの為で、名前のない小さな墓の前で微笑みあう二人は、聖域の人々の誰もが見たことがある光景だろう。墓とはいえ、ごく美しい花園と十分いえるこの場所ならば、恋人同士の愛を語るにも遜色はない。魔鈴も、よくここから、オルフェの奏でる竪琴の音が流れてくるのを聞いたことがある。
 その逢瀬の邪魔をしたら、オルフェにどんな目に遭わされるかわかったものではない。だから絶対に近寄るまいと思っていたその場所こそが、いま魔鈴が目指している場所だった。
 小さな、名前のない墓。しかしその風情は、寂しげではない。

 ──真っ白な薔薇が、小さな墓石の周りに、これでもかと咲き誇っている。

 色とりどりの花々の中で、その白さはひときわ目立つ。華やかで清楚な薔薇に囲まれた小さな墓石は、さほど寂しげには見えなかった。
(……薔薇の、下……)
 この薔薇も、そして他の色とりどりの花々も、かつて魚座ピスケスのアフロディーテ、あの男が咲かせたものだという。
 この花々によって随分癒されたという人々の声から、アフロディーテもまた、サガほどではないが、人々の為にその力を振るった者として認められている。彼の長い金髪が絡んだ双魚宮の薔薇から、彼の遺体は彼自身の薔薇たちに取り込まれてしまったという事がわかり、墓は建てられなかった。
 この墓地と同じように、その花こそが彼の墓標である、とそう見なされたのだ。
 聖闘士ですらない人々の墓に花を咲かせ、そして自らもそのように葬られる事になったアフロディーテは、最上階の双魚宮からあまり降りて来なかったのにも関わらず、墓地が不浄に分類されるという事からしても、奇麗ごとではない面にも力を振るってくれた聖闘士、として身近に捉えられていた。
 方々に伸びる白薔薇の蔦の大元の木を探し出した魔鈴は、誰も居ない事を用心深く確認し、そっとその根元にしゃがみ、そこに爪を立てる。

 ──私はこの13年間、ずっと秘密を守り通してきた。薔薇の下で、という言葉どおりにね
 ──しかしここまで来たら、もうすべてを明かしてしまってもいいのではないかと──
 ──いや、明かしてしまいたい、と思ったのだよ

 それが、彼の遺言だった。

 ──我々は、確かに皆に対して多くの隠し事をしている
 ──しかしそれは、明かしても決して恥じるようなことではないし、本来誰からも責められるようなことではないと、胸を張って言うことが出来る

 その言葉に、嘘はなかった。
 彼らが為したこと、それは上下水道などの施設であったり、制度であったり様々であったが、確かに、誰に言っても恥じる事のない、立派な成果であった。
 事実、この聖域にて、他よりも更に恵まれない環境におかれた魔鈴が生き延びられたのは、誰もが自由に使える水道や、きちんと配給される食事があったからこそなのだから。
 そして彼らは、認められた。彼らの恩恵を受け、それを忘れなかった人々によって、そしてそれを汲んだ女神によって。

 魔鈴は、黙々と薔薇の下を掘り続ける。
 するとその指先に何かが当たり、それは、そう大きくはない箱であった。

 ──薔薇の下には、秘密がある。

 箱についた泥を落としながら、魔鈴は仮面の下の目を光らせる。
 魔鈴は、彼の薔薇に導かれ、聖闘士となった。蔓一本程度の僅かな縁だがしかし、同じ魚座の星の下に生まれた者同士だからであろうか、魔鈴はもはや意味などない、意地と言っていい心地で、彼の言葉を実行しようと──、いや、実行してやろう、としていた。

 ──君の仕事は、どちらかの味方をすることでも、どちらがより正しいかを断ずることでもない。ただありのままを見ることだけさ

 ならば、見てやろうではないか。
 見届けてやろうではないか。──この、鷲の目で。






「……まだ、少し、頭が痛い」
 そう言ってこめかみを押さえたミロに、アルデバランが苦笑する。
「そりゃあ、つまみもなしにあれだけ飲めばな」
「飲み尽くしてやろうと思って」
 事実、飲み尽くした。
 事後処理のおおかたを経た彼らは、改めて集まり、あの頃飲めなかった酒を飲みながら、今までの事や、いなくなった彼らについて話した。
 場所は、巨蟹宮。そして飲む酒は、主が大事に仕舞い込んでいた秘蔵の数々。いつだったか好奇心からこっそり盗み出して死ぬほど怒られたそれを、ミロは全部飲んでやる、と言い、実際に全部飲み尽くしたのだった。
「ざまあ見ろ。死んだりなんかするからだ」
 値打ちもののワインをラッパ飲みしながらミロは大声でそう言い、そして全員がそれに同意し、同じように酒を飲んだ。
 盛大に墓が建てられたサガや、双魚宮の薔薇を墓標とされたアフロディーテと違い、デスマスクに墓は建てられなかった。
 それは単純に彼の遺体がないからでもあったし、そして彼がずっと故郷に帰りたがっていたことを、皆が知っているからだった。
 無理矢理に聖域に連れて来られ、ずっと故郷に帰る事を目指していた少年の頃の彼の姿を、皆知っている。そして“生前に自分の墓を自分で掘る”という聖闘士の風習を心の底から嫌っていた彼なので、墓を建てる事で、この聖域に縛り付けるのは、彼にとって喜ばしくない事なのではないか、そう思ったからだった。
 そして墓を建てない代わりに、巨蟹宮での酒盛りである。やれあいつはよく殴りやがった、最悪に口が悪かった、根性が腐っていた、外道というのはまさにあいつの事だ、実は好きな女の子の事を相談したことがある、作る飯が美味かった、おまえ寝小便の世話をしてもらったことがあるだろう、と、めいっぱい酒を飲みながら、そして飲むごとに思い出せる限りの事を口にして、彼らは夜を明かしたのだった。
「ムウ、おまえ、どのくらい聖域に居るんだ?」
 大柄な体格のせいで誰と歩いても歩幅を狭める必要のあるアルデバランは、ゆっくりと歩きながら、斜め後ろを歩く旧友に尋ねた。
「しばらくは居ますよ。星矢たちの聖衣を修復しなくてはいけませんし」
「そうか。随分ぼろぼろだったらしいが、直るのか?」
「ぼろぼろどころの状態じゃありませんけどね」
 特に龍座なんか、一から作ると言った方が相応しいような有様ですよ──と、ムウは二日酔いも相俟って、うんざりした顔で愚痴を言った。
「で、直すには例によって血が必要なので、是非協力をお願いしたいんですよ。早い所酒精を抜いて下さいね」
 酒臭い聖衣ではさすがに可哀想ですからね──とムウが冗談めかしていうと、アルデバランとミロ、そして先程からむっつりと黙っていたアイオリアが、力なく笑った。
「そうだな。シベリアに行く頃には何とかする」
「……カミュですか?」
「ああ」
 ミロは、頷いた。
 絶対零度の凍気によって倒れたカミュの遺体は、維持できなかった。発見時は聖衣を纏った姿であったのだが、触れた途端に原子から崩れ、ダイヤモンドダストのような塵になってしまったのだ。
 だからカミュの墓は宝瓶宮であるともいえるのだが、あえてミロは、シベリアに彼の墓を建てる事にした。
 あの凍える大地に弟子とともに暮らしていたカミュが一番活き活きしていた、と、ミロはしみじみと話す。だから墓を建てるという行為でであるが、ミロはカミュをシベリアに帰してやろうと、そう思ったのだ。
 氷河はまだ目を覚まさないが、氷河の母もあの地に眠っているというし、氷河にとっても、その方が良いような気がした。
「……アルデバラン」
「うん?」
「その、花は」
 アイオリアが示したそれに、ああ、と、アルデバランは頷く。
「シュラは、ああ見えて花が好きだった」
「そうそう、あのやくざ顔で」
 アルデバランが抱える真っ赤な花束に、ミロがけらけらと笑う。
 シュラはかつて自分の離宮の庭に目一杯赤い花を植えていて、それを大事にしていた。蜜の甘い花で、むしりすぎて怒られた事も何度かある──とミロが言うと、おまえは子供の頃から食い意地が張っていた、とアイオリアが言い、人のことを言えた義理かとミロが半目で睨む、といったやりとりがあった。
「……シュラには、とても世話になってなあ────」
 アルデバランは、赤い花を見ながら言った。
 剣を、ケーキを、花を、時に小さな音楽を与えてくれた彼。自分がして嬉しいことだからお前にもやると、惜しげもなく、自分の宝をお裾分けしてくれた彼。この花は甘いのだとどこか誇らしげに教えてくれた、そして一人で静かにオルゴールを聞いていた、黒髪の、三つ年上の少年。
 そして花も小さな音楽さえも冷たい墓の下に打ち捨てて、研ぎ澄ました剣を手に、揺るぎなく立っていた彼はいま、その冷たい墓の下にさえもう居ない。
 しかし思いを馳せる位はいいだろう、と、アルデバランたちは今、彼が生前建てた、味も素っ気もない自作の墓に向かっているのだった。
「ケーキや音楽は難しいし、何の酒が好きなのかもあまり知らん」
 酒より食う方が好きだったような気もするし、とアルデバランが言うと、ミロが同意して頷いた。シュラは酒だけを飲む事があまりなく、沢山の食事にさほど多くない酒を嗜み程度に飲む、というのが多かった。
「しかし、花なら何とかなるからな」
 花に詳しくないので、もしかしたら、あの花とは違うかもしれないが──と、アルデバランは頭を掻いた。
 実績が分かり易いサガやアフロディーテ、そして記録の端々に発案者として名が残るデスマスクと違い、シュラは主に現場の実行者であったので、あまりその名が知られていない。
 しかも墓は生前から目立たぬ所に建てられたので、場所を知っている者も多くなく、きっと花も供えられていないだろう。
 だが彼が居たからこそ、サガたちは様々な案を実行することが出来た。そして彼は、サガたちに表立って協力する事のないアルデバランやミロたちの事も決して否定せず、むしろ時に背を押してくれたのだ。
 自分たちが泣いているとき、困り果てた顔で、ただじっと立っていた彼。しかし泣き止んで立ち直るまで絶対に側を離れずに居てくれた彼の事を、アルデバランたちは絶対に忘れはしない。
「ところで、シャカはなぜ来なかったんだ?」
 アイオリアが、訝しげに言った。
 昨夜の酒盛りで誰よりも多く飲んでいた彼は、今ここにいない。
「ああ……。よくは知らんが、“経ならもう上げた”とか言っていた」
「……なぜ生きている時に経を上げているんだ?」
「さあ……」
 アルデバランはアイオリアと同じように首を傾げ、まあ、シャカだからなあ、と言った。そしてアイオリアも、まあ、シャカだからな……と、遠い目で言う。ミロまでもが、シャカだしなあ、と呟くのを、あなた方にとってシャカはどういう人なんですか、と呆れたように言ったが、「シャカはシャカだろう」と全員から直ぐさま返されたので、ムウはもうそういう事なのだと諦めた。
 だがアルデバランは、もう経は上げた、と言ったシャカのどこか不機嫌そうな表情が印象に残っている。「私の役得が台無しだ」と心底楽しく無さげな呟きは、アルデバランの耳には入らなかったが。
「ああ、そこだ。アイオロスの墓」
 沢山の花が捧げられた英雄の墓が、遠目でも視認できる。アルデバランたちはその花の山の中に赤い花の半分を置くと、小さく頭を下げる。
 アイオリアは、未だかつてなく華やかな兄の墓に、少し複雑そうな表情をしていた。
 アイオロスが自分で作ったこの墓に、本人の遺体はない。だからではないが、アイオリアは、13年前のあの日、兄が死んだ事を信じられず、何度もここに足を運んだ。逆賊と見なされたアイオロスの墓に唾を吐きかけたり傷をつけたりしようとする者も多く、そういった者たちとも、アイオリアは何度も喧嘩をした。
 半ば兄の墓守のようにして、一時期はこの墓の前で寝泊まりすらし始めたアイオリアを引きずって行ったのは、シュラだった。甘ったれるな、と恐ろしい顔で言ってのけた後、アイオリアを風呂に叩き込み、食い終わるまで出さない、と飯と一緒に部屋に閉じ込めた。
 兄を殺した彼と、アイオリアはまともに話した事がない。だが彼が死んだ今、それをする事はもう永遠に叶わなくなった今、アイオリアは自分でよく分からないが、何やらひどく虚しい心地だった。
 ただ、兄が死んで一番最初に部屋に引き籠ったあの日、ガンと大きく殴られたドアの向こうに、聖域を辞した彼の女官──ルイザが作ったとっておきのケーキが丸ごと置いてあったのを、不意に思い出した。
 あれは、花と音楽とともに、彼が一番大事にしていたもののひとつだった。
 そして彼は、おそらく最後のそれを、丸ごとアイオリアに寄越したのだ。よりにもよって、まともに口を利きもしない、いやそれどころか、憎悪の言葉しか向けて来ないアイオリアへ。
 だがそれは、彼がアイオリアに罪悪感を抱いていたからとか、そういう事ではないだろう。シュラがアイオリアに向ける「甘ったれるな」という言葉の迫力は、罪悪感などというものは微塵も感じられない、恐ろしく厳しいものだった。
 だから、シュラという男は、ただ面倒見が良い男だったのだろう、とアイオリアは今、初めて思う。殺した相手の弟にさえ、彼は面倒見が良かったのだ。しかも、最後のとっておきのケーキもやってしまうほどに。
 シュラが居なくなった今、アイオリアはそうして初めて、彼の事を僅かに理解した。



 アイオロスの墓に居たのは、そう長くない時間だった。沢山の花が捧げられた墓の前は、ほんの少し居辛かった、というのもある。
 そして華やかな英雄の墓からちょうど死角になるあたり、鬱蒼と茂る木々の影になるような所に、シュラの墓がある。
 彼が生きていた頃は、当然ながら来た事は一度もない。場所は知っていたはずなのだが、13年の間に木々が成長してなお鬱蒼と茂っている事もあるだろう。改めて見ると、非常にわかりにくい所に、それはあった。
 おそらく、花のひとつも捧げられてはいないだろう、そう思うに十分な、ひっそりとした場所。

 いよいよその墓に向かい合った、その時。アルデバランは、目を見開いた。

 真っ赤になった、磨羯宮の離宮の中庭を思い出す。
 ひとつ残らず引っこ抜かれ、満開だった花が地面に飛び散った様。飛び散り、千切られたことで咽せるほど濃厚になった蜜の匂いが、中庭じゅうに、いや離宮じゅうに充満していたあの様を、アルデバランはいま、ありありと思い出した。

 ──ここに今、その様があるからだ。

 小さな音楽を奏でる小箱を投げ入れた後、シュラは唇を噛み締めたまま、もう片方の手に持っていた赤い花の低木も、穴の中に叩き付けるように放り込んだ。
 強い花だと、彼は言った。世話の要らない、しかし満開に咲く強い花なのだと、何やら自慢げに笑っていた。
「……つくづく、何もさせてくれん人だ」
 やはり記憶とは少し違っていた赤い花を手に、アルデバランは立ち尽くし、くしゃりと表情を歪めた。泣き笑いのような表情であった。

 花の蜜の甘いにおいが、濃厚に香る。

「……ケーキも、花も、剣も、なにもかも」
 俺はとうとう貰いっぱなしだ、と、アルデバランは言った。最後まで、何もさせては貰えなかったと、形の違う赤い花を握り締める。その表情には、残念そうな深い悲しみと、少しばかりの怒りが表されている。しかしその怒りも、殆どがやるせなさで構成されていた。

 ──山羊座カプリコーンの黄金聖闘士・シュラ。
 そう彫られた墓石をやや持ち上げるようにして、その下から伸びた低木。強い花だというそれは、おそらくは13年の間に、みごとここまで育ったのだろう。──誰にも知られないまま。

 子供の掌ほどの赤い花が、満開に咲いている。
 誰に知られる事がなくても、おかまいなしに咲いている。

 他の花など供える場所がないほど咲き誇り、甘い匂いを香らせる赤い花たちを前に、残された者たちは、何も捧げられない者たちは、ただ静かに、黙祷を捧げた。

 ──せめて眠りに入った者を起こさぬように、ひっそりと。



第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供) 終
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BY 餡子郎
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