第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
<28>
「…………う」
 男が、目を覚ます。

 身を起こして見上げた先には、巨大な女神像。感じるのは、巨大な建造物を間近に見た時に感じる圧迫感──だが、それ以上のものは特に感じない、ただ大きな像だというだけだ。
 それよりも、その先に広がる、降るような満天の星空に、サガは魅入った。
「────ああ」

 ──何と。

 星があまりに美しく、夜の冷たい空気があまりに爽快で、サガは震える声を出した。息をひとつするごとに、酸素が血の隅々を巡るのを感じる。そしてそれはサガの頭を心地よく冷やし、滑らかにシナプスが繋がってゆく。
「ああ……」
 ここは何と美しい世界かと、サガは涙すら流した。
 息苦しく、昼も夜もわからぬ地下から、初めて空の下に出た。それほどの圧倒的な開放感、爽快感、そして震えるほどの感動が、サガの全身に沸き起こっていた。
 ふと気付くと、起こした身体に沿って流れる、白金色の長い髮が視界に映る。

 ──ああ、もう、必要ないのか。

 ブルーグレーの目を細め、サガは微笑んだ。それは心から嬉しげな笑みでもあり、そしてどうしようもなく寂しげな笑みでもあった。
 シュラの黒髪を真似、デスマスクの赤い目を模して、そしてアフロディーテのように美しく装ったあの姿は、サガの鎧だった。幼い頃からずっとサガを脅かしてきた“彼”から身を守り、時に抗うときの為の鎧。
 “彼”の意に反する、すなわち女神の戦士としてらしからぬ事を成そうとすると、“彼”は必ず現われ、サガに苦言を呈してきた。あの清らかなる、天窓から差し込むような声で、“彼”はサガの罪悪感をくすぐり、恐怖心を煽り、同情心をつついて、サガの行動を戒めようとした。
 幼い頃は、ずっとそれに従ってきた。しかしサガは、鎧を得る事によって、13年前のあの日、“彼”に初めて逆らった。
 どんなに虐げられようとも決して意思を見失わず、罪悪感を持たぬ赤い目と、正義を守護する阿修羅の聖剣を持つ、何を恐れる事もない黒い髪。そして全てのものを惹き付ける、同情に引きずられる事なく絶対に想いを遂げる美しい姿が、“彼”からサガを守る鎧となった。
 仁、智、勇。三つの要素をそれぞれ得意分野に持ち、図らずも欠点を互いに補う形となっていた彼らが常にサガの周りを完璧な形で守っていたのと同じように、サガは彼らを模した姿を魂の鎧とし、“彼”に抗い続けてきた。

 だが“彼”は、もういない。
 ──そしてあの三人も、サガの側には居ないのだ。

(──もう、誰も居ない)
 白金色の髮が夜風に靡くのを感じながら、サガは生まれて初めてかもしれない、ひとりきりの時間を噛み締めた。
 夜風の冷たさが今のサガには心地よく、そして同時に、どこか寂しい。

 ふと目線を下げれば、ぼろぼろの姿で、俯せに倒れ伏している少年が居た。女神の為に生まれ、女神の為に闘い、女神の為に命までをも捧げようとした、女神の聖闘士。
「星矢……」
 ぽつりと少年の名を呟いて、サガは小柄な少年の身体をゆっくりと起こし、楽な姿勢にしてやった。血や煤で汚れた少年の顔は幼く、目を閉じていると尚更あどけなく見える。
 哀れなほどに、ひたすらに女神へ祈りながら死地を進む少年の姿は、サガの目にはひどく痛々しく映った。かつてかの十字軍に従軍し、残酷な運命の果てに命を落とした少年らも、彼らのようであっただろうか。──そして、かつて幼かった己も、こんな風であっただろうか。
 サガのブルーグレーの目が、細まる。光を湛えたその瞳は、聖なる戦いの果てに倒れた少年に対し、深い泉のように澄んでいる。
 少年の息は、今にも止まりそうにか細い。

 ──辛かろう。

 そう思った時には、サガはその手を、少年の頬に添えていた。
 Sympathy──同情の語源はギリシア語にあり、共に苦しむこと、感情が同一になることを指す。他者の苦しみに応答して自らも苦しむような感情を、サガは少年に向けた。薔薇の主たる麗人が決して持たなかったそれを、サガは少年に惜しみなく向けた。
 黄金の器に満たされた雄大な小宇宙が、少年を癒していく。今にも止まりそうなか細い音を立てる心臓、幾度も無理な爆発を繰り返し、いま消え行かんとしている哀れな銀河に、サガはそっと手を差し伸べる。
 力ない鼓動を、サガは無理に奮い立たせようとはしなかった。その弱々しげな鼓動に、小宇宙の波長に、サガはそっと同調し、己の小宇宙を分け与える。
 みるみるうちに傷が癒え、苦しげだった少年の顔が安らかになる。サガのヒーリングの巧みさに、癒された事に気付かないまま、星矢はぐっすり眠っていた。
 あどけない少年の寝顔にサガはふっと微笑むと、膝を伸ばしてまっすぐに立った。

 ──がちゃん。

「っ、と……」
 双子座ジェミニの聖衣が重々しい音を立て、僅かによろける。
 “彼”がいなくなったせいだろう、単なる超重量の鎧となっている聖衣に、サガは小さく苦笑した。
 そしてサガは、ゆっくりと歩み始める。
 暗い通路を通り、赤い天幕を潜り、倒れた玉座の横を抜ける。あらゆる所にある枯れた薔薇を静かに見ながら、サガは教皇宮の階段を下りた。



 ──双魚宮には、まだ薔薇が咲き誇っていた。
「アフロディーテ……」
 血塗れで倒れているアンドロメダの少年、彼と相対して倒れたのがありありとわかる様で、アフロディーテが倒れている。
 双魚宮の薔薇は、アフロディーテが己の小宇宙を与えて育てたものだ。だから彼が死んだことにより栄養の供給源を失った薔薇たちは、端からどんどん枯れて行った。しかし、ここにある薔薇──正しくは、彼の遺体に群がる薔薇は、彼が生きていた頃そのままのように咲き誇っている。
 主にどこまでも忠実な薔薇たちであるが、所詮は植物。忠実なのは、アフロディーテが操っていたからでしかない。だから栄養源を断たれた薔薇たちは、小宇宙が宿る血を求め、機械的にアフロディーテの遺体に群がっていた。
 既にアフロディーテの姿はなく、ピラニアン・ローズによって肉体は破壊され尽くしており、ブラッディ・ローズが血を吸い尽くして真っ赤に染まっていた。
 異様なまでに茂る茨に、ピスケスの黄金聖衣のパーツが絡まっている。その隙間に、薄い金色の髮と、僅かに爪や骨の欠片が見えた。
 サガの指先がそれに触れようとすると、薔薇が動いた。それはまさに、獲物を捕らえる食虫植物そのものの様相──、いや、正しくは、食べている獲物を捕られないようにしたように見えた。
 ぎゅるっ! と、ピラニアン・ローズの太い蔦が動き、ピスケスの黄金聖衣が繁みから閉め出されて飛び出す。食べられない所を吐き出す猛獣のようなその動きの後には、薄い金髪はすっかり繁みの中に引きずり込まれてしまっていた。おそらく、そう時間も経たぬ間に、アフロディーテはまさに骨も残さず薔薇に取り込まれてしまうだろう。
 ──この薔薇たちは、いつまで咲いているだろう。
 願わくばこの双魚宮の一部として、主亡き後も咲き続ければ良い、サガはそう思いながら、主を取り込んで、その主のように美しく咲く薔薇を眺めた。
 そして、装着者を失い、薔薇の繁みから弾き出されたピスケスの聖衣が、ひとりでに組み合わさる。それが華やかな魚の姿をとったのを視界の端に置きながら、サガは少し離れた所で、血だまりの中に倒れている少年を見た。
 随分失血した少年の顔は蝋のように白く、またそれに反して、胸に突き刺さった薔薇は血を滴らせて赤い。
 サガはその薔薇に手を添えると、そっと小宇宙を与え始める。
 アフロディーテの小宇宙によって作られながら、他者の小宇宙──この場合瞬の小宇宙を貪欲に吸うブラッディ・ローズは、栽培そのものが難しく、その後も非常に扱いが難しいものだった。
 心臓に突き刺さった薔薇を抜くには、心臓を傷つけぬよう少しずつヒーリングをしながら、ゆっくりと抜くしかない。しかし薔薇自体に宿る小宇宙はアフロディーテのものなのだが、瞬の小宇宙をふんだんに吸っているこの薔薇を身体から引き抜く為のヒーリングは、いわば、病巣が巣食った繊細な患部に対し、本体を傷つけぬようミクロ単位のメスを振るいつつ、少しずつ輸血を施すような超絶的テクニックが必要だ。
 サガはじっと集中し、瞬の血、即ち小宇宙の流れと、ブラッディ・ローズに宿る、馴染みあるアフロディーテの小宇宙を完璧に把握しつつ、その隙間から、瞬の小宇宙に限りなく波長を合わせた己の小宇宙を滑り込ませてゆく。
 そして数分もせぬ間に瞬の心臓から抜けた薔薇を手に、サガは瞬の真央点を突いてから、更にヒーリングを施す。
 あまりにも失血が多かった為、顔色が僅かに戻っても、瞬は目を覚まさない。だが苦痛が薄れたその表情は、柔らかい。少女のような顔立ちが幼い頃のアフロディーテを彷彿とさせ、サガは僅かに微笑んだ。
 ──アフロディーテが命懸けで倒した敵を癒す事に、サガは些かの躊躇いも持たない。それは、彼の信念のせいだった。
 サガは、聖域の人々を理不尽な目から救う為に、教皇になろうとした。地獄の中で死んでゆく子供たちを救うことを誓ったサガからすれば、星矢や瞬も、確かにそのうちの分け隔てない一人だった。──アフロディーテも、それはよくよく知っている事。
 サガは黒髪と赤い目をした美しい鎧を纏い、一度はその誓いを破る事もやむなしとした。しかし結局、サガはとうとう子供たちを殺す事はなかった。
(──私は、負けた)

 だが、信念を通した。

 その事を、サガは、不思議に爽快な気分で噛み締める。試合に負けて勝負に勝ったとはこの事であろうか、と、いつも悪魔のような理屈をこねてニヤリと笑っていた彼を思い出す。
 ──本当は。
 サガは、何かを倒したいのではなかった。
 本当に望んでいたのは、救うことだった。神の強大な力をもってすれば、誰を傷つける事もなく全てを救えるであろうと信じ、サガは幼少の頃から、ずっと神に忠実に生きてきた。
 しかしとうとうその祈りは、願いは、神に聞き入られる事はなく、サガは神に見切りを付けた。
 人間であるサガが何かを救うには、手段を選ぶ事は出来ない。救う為に他の何かを傷つけねば、目的を為す事は敵わない。だがそれこそが人間のやり方なのだとサガは考え、誇りをもって、13年間、多くを救う為に、他の何かを傷つけ続けた。
 ──本当は、何も傷つけたくはないけれど。
 そんなサガの思いを、いま彼に癒されている少年が聞けば、どう思うだろうか。その通りだと頷くだろうか。──命を賭けて殺しあった敵の、その総大将に、同意を示して頷くだろうか。
 そして、命に別状はなく、治療を施せばきちんと回復するであろう所まで瞬を癒すと、サガは立ち上がった。
 片手に持った血濡れの薔薇を、アフロディーテを取り込みきってただ咲く薔薇の繁みに、献花でもするようにそっと捧げる。
 アフロディーテを取り込みきって取りあえずは満足したのか、薔薇たちは、サガの捧げた花を食らおうとはしなかった。
 サガが双魚宮を去った後には、薔薇たちと、血濡れの花と、眠る少年。そしてきらきらと輝く、しかし主を失ってシンと静かなピスケスの黄金聖衣が、そっと残された。



 宝瓶宮は極寒を通り越し、死地と化していた。
 神に逆らった者が落とされるというコキュートスとはこんな風であろうか、と、サガは執行前の虜囚そのものの心境で、ふと思う。
 踏み出して地に着いた足裏が床に張り付いていちいち凍り付くのを剥がしながら、サガは宝瓶宮の中央あたりに倒れている二人に近付く。
 アクエリアスの黄金聖衣を纏ったまま凍り付いたカミュの表情は、安らかだった。凍り付いてしまっているだけに、彼が今際の際まで満足げな微笑みを浮かべていたのが、ありありと残されている。
「……すまない」
 デスマスク、シュラ、アフロディーテの三人は、13年間サガに付き従ってきたのだから、この結果も当然といえば当然だ。しかしカミュはそうではなく、半ばサガたちに巻き込まれたような形で、命を落とす結果となった。
 ──しかも、息子のよう、弟のようであった最愛の弟子と殺しあう、という事で。
 子供たちを救う事を目的としてきたサガは、カミュが辿った道を、この上なく過酷であると感じた。そしてそんな道を歩ませてしまった事をやり切れない気持ちで悲しみ、そしてカミュが満足げに微笑んでいる事に、僅かな救いを感じた。
 おそらく絶対零度で凍り付いたカミュは、その真っ赤な髮以外は、全て真っ白になっていた。唇さえも真っ白になった遺体は、触れれば間違いなく粉々に崩れるだろう。しかも小宇宙によって凍り付いた事から、おそらくは原子から粉々になって崩れ落ちる。
 既にカミュの命がない事から、ヒーリングでどうこうする事も出来ない。サガはやむなく手を引っ込め、満足げな表情を凍り付かせたカミュを、少しの間じっと見る。ブルーグレーの目が、棺の中で息をしていない家族を愛おしげに、そして切なげに、寂しげに、じっと見つめた。
 そしてサガは、カミュと向かい合うようにして倒れているキグナスの聖衣を纏った金髪の少年の側にしゃがみこみ、星矢と瞬にしたようにその手を翳す。
 カミュは、この少年を、最愛の弟子を成長させる為に、命を賭けた。どんな戦場でも生き残れるように、全てを尽くして導こうとした。ならばこの少年だけは死なせてはならぬと、サガは氷河にヒーリングをかける。
 それは巻き込んでしまったカミュに対する罪滅ぼしでもあったが、それよりも単に、幼い頃から見てきたカミュに対する、純粋な思いからの行為であった。
 仮死状態そのものであった氷河の心臓の鼓動が、戻ってくる。冷えきった金属に触れてくっついたときのように、床に張り付いていた頬が、サガの小宇宙によって無傷で剥がされる。
 氷河も凍気使いなので、常人なら凍死するような温度の空間でも、この程度なら寝ていても支障ないだろう。氷河をその程度まで回復させたサガは、立ち上がり、また階段を下りた。



 磨羯宮、というよりは磨羯宮前の広場に、聖衣を纏わぬ、長い黒髪の少年が倒れている。
 しかし今までの三人よりも、彼──紫龍は、一刻も早くヒーリングを施さねば、というまでの必要は、さほどないように見て取れた。しかし重症なのには変わりなく、サガは紫龍に手を差し伸べる。
「……シュラか」
 ヒーリングのために紫龍の小宇宙に同調すると、その全身に、紫龍のものではない、しかしサガのよく知った、研ぎ澄まされた小宇宙の欠片が感じられた。特に彼の右手は、まるでシュラの手をそのまま切って繋げたような気配がある。
 相変わらず面倒見のいい事だ、と、サガは傍らで、紫龍の顔をじっと覗き込むような姿勢になっている山羊座カプリコーンの聖衣を見ながら、苦笑した。
 シュラは、正義の守護神阿修羅の名に相応しく、その手に持つ刃を絶え間なく研ぎ澄まし、聖剣としてそれをサガに提供してきてくれた。これにておまえの正義を守るがいい、と。
 彼の剣は、正義を示す聖なる刃であった、と、サガは間違いなくそう思っている。そして彼の剣があったからこそ、サガは己の信念を正義と信じ、ここまで来る事が出来たのだから。
 そしてそんな彼が、この少年に刃を──聖剣を与えたという事は、この少年は、守護神阿修羅に認められた正義を持つ者なのだろう。
 それは、サガの正義とは相反するものなのかもしれない。しかし、正義である。正義に相反するのは、もう一つの別の正義である、とは、誰の言葉であっただろうか。
 シュラは、そのあたりを、理屈ではなく、感覚でよくよく理解していた、とサガは思う。おまえの思う正義とは何か、とシュラに尋ねても、理論を捏ねたり、話して説明するのが苦手な彼は、困った顔をするだけだった。真面目な彼が、苦手ながらに何とか説明しようとしてどんどん難しい顔になる様を思い出し、サガはふと表情を緩める。
 シュラは、誰かが困っている時、ただじっとその側に佇んだ。叱咤するでもなく、慰めの言葉をかけるでもなく、本人が気を取り直すまで、ただじっとそこに立っていた。そしてその後、こうと決めた目的の為に力を貸してくれと頼めば、彼は決して断らない。
 そしてサガは、シュラの恩恵に最もあやかった者だった。なんといっても、13年間。しかし、守護神阿修羅とその聖剣が味方である事は、サガに限りない勇気を与えてくれた。何を恐れる事もないと、サガは黒い髪を靡かせて、恐怖を忘れ、まっすぐに己の正義を掲げることが出来た。

 ──そして今も、サガは何も恐れていない。

 すっかり回復し、おそらくは最も早く目が覚めるだろう紫龍を残し、サガは立ち上がる。
 斬り裂かれ、崖になった階段を飛び越えて下ってゆくサガの後ろ姿を、面倒見のいい山羊座カプリコーンの聖衣が、ちらりと見送ったような気がした。



 ──人馬宮。
 凛々しく矢を番える射手座の聖衣に、サガは複雑な表情をした。
(……アテナを託す────か)
 こんなものを残していたのか、と、壁に彫られた文字を、サガはやや伏せた目で、興味の湧かない絵画でも眺めるような風情で見た。
(あれは)

 ──

 キン、と、射手座の聖衣から、ほんの僅かに、星の鳴る音。サガはそれをちらりと見遣り、数秒、射手座の聖衣の輝きの向こうを、問い質すようにじっと見つめた。
「…………」
 しかし、ふい、と興味を失くしたように、サガはサジタリアスからも壁に彫られた祝詞からも目線を外し、淡々と人馬宮を抜けて行った。
 ──アイオロスは、ここには居ない。



 天蠍宮に、ミロはいなかった。城戸沙織が目覚めてから、ミロ、アルデバラン、ムウ、シャカ、アイオリアは、全員彼女の元に“下った”ようだ。──文字通り。
 そして、同じく誰も居ない天秤宮、処女宮、獅子宮を抜けて巨蟹宮まで辿り着いたとき、サガは、声を聞いた。

《──女神アテナ復活、ばんざ────い!》

 城戸沙織らが居る広場で、そんな風に叫ぶ声を、サガは小宇宙によって拾い上げる。

《これでこの聖域から、全ての邪悪は退散したぞ──ッ!》

 邪悪、という表現にサガは片眉を上げ、呆れたような、苦いような笑みを浮かべる。
(──ニコルか)
 今までサガは、聖域の人々らに、女神アテナに対する敬意などは一切植え付けて来なかった。事実、人々は挨拶や儀礼的な事以外で女神の名を出す事はなかったはずだ。事実、サガが小宇宙を聖域中に巡らせてみれば、感じられる感情の殆どは、急な事に対する戸惑いばかりである。
 ──それに、あのような声を上げている者の気配に、サガは覚えがない。少年の頃から“下”を実際に歩いて回り、怪我や病気の面倒を見ながら人々と接してきたサガは、彼らのひとりひとりを、よく知っている。あのような者は、聖域には居ない。盛大に騒いでいるそういった何人かは、おそらくは、ニコルによる“サクラ”だろう。
 ニコルは、あのような者たちをあちこちに配置する事で、女神アテナが勝利を得た事を知らせ、そしてそれこそが正統であるという空気を作ろうとしている。決着がついたその瞬間にこのような声を大々的に上げれば、この結果を前々から待ち望んでいた者たちがいる、即ち急な事ではないのだ、ということを暗に人々の意識に植え付けることが出来るからだ。
(つくづく、人心操作の上手い事だな?)
 ニコルによる情報撹乱に散々苦い目に遭わされたサガは軽くため息をつき、巨蟹宮にじっと潜むような風情のキャンサーの聖衣に、苦笑を投げかけた。
 デスマスクは積尸気の中で闘ったので、サガは彼がどうやって死んだのか、詳しくはわからない。だが気のせいか、全体的に薄暗い巨蟹宮の更に暗い所にいるキャンサーの聖衣は、どこか拗ねているような、機嫌が悪そうな風にも見えた。

《ばんざい!》
《ばんざ────い!》

 やたらに張り上げられている大声を聞きながら、サガは一歩踏み出す。
 機嫌の悪い時のデスマスクにいつもそうしてきたように、サガはただ苦笑するまま、キャンサーの聖衣には触れず、そのままそっと巨蟹宮を抜けた。



 そして辿り着いた、己の宮であるはずの双児宮。
 しかし修行中の頃はこの宮の守護者であるという自覚が薄かったし、この13年間、ここに来るのは数えるほどしかないので、感慨らしいものはあまり湧かない。
 随分降りてきたものだ、と、長い間、殆どあの高い教皇宮に居たサガは、柱の間から見下ろせる、雲のかかっていない低い景色を物珍しげに眺めた。
 ──すると、視線の先に、小さな白い影が横切った。
(あれは──)
 サガも忘れていた事だが、双児宮からは、広場から白羊宮、つまり十二宮の入り口に続く長い階段を眺めることが出来る。小さな白い影は、その階段を、あまり速いとはいえない速度で走っていた。
(──城戸、沙織)
 白い影は、少女であった。
 灰褐色の長い髮をした少女は、裾の長い白いドレスのような服を着て、階段を駆け上っている。首元には、柔らかく輝く真珠のネックレスがちらりと見えた。
(あれが……)
 ──あれが、女神アテナか?
 思わずサガは、走る彼女に小宇宙を向けた。

《はっ、はっ、はっ……》

 巡らせた小宇宙を通じて、走る少女の、上がった息が聞こえる。

《う……》

 ──そして、彼女は、泣いていた。

《氷河、紫龍、瞬、一輝……》

 女神であるという少女は、少年らの名を、胸が張り裂けそうな思いで叫んでいた。その様を、サガはブルーグレーの目をじっと見開き、瞬きすらせず見つめている。

《……星矢……》

 他の少年らより僅かに特別な気配が感じられる様子で、少女が名を呼ぶ。
 サガは、彼女が女神アテナを名乗る少女であるという事を、今、俄に信じられない気持ちで見つめていた。
 星矢、と、一人の少年を呼ぶその様は、女神の為に生まれ、闘い、死にさえする女神の戦士に向けるものとは、明らかに異なっていたからだ。
(……あれは)

 ──あれは、少女ではないか。

 サガが秀麗な眉をひそめたその時、再度少女の声が聞こえた。

《──できることなら》

 泣きながら紡がれるその声は、悲痛で切実な叫びのようであり、そして、全てを諦めた末の暗い呟きのようでもあった。

《できることなら、……私は、女神アテナなどではなく》

 サガの目が、見開かれる。大きな手が、ぐっと拳を握った。

《ふつうの少女として、生まれてきたかった……》

 ──衝撃を受けた。

 膝から、力が抜けてゆく。
 がくりと膝をついたサガは辛うじて柱に添えた手で身を支え、もう一方の手で、震える肩をぐっと握る。

 13年前。サガは、赤子の姿をした女神アテナを、殺そうとした。赤子の姿をしていても神、そして役に立たない神であると憎しみを向け、黄金の短剣で殺そうとした。
 いま泣きながら走っているあの少女こそが、間違いなくあの赤ん坊だ。しかし見る限り、彼女が心ない、聖闘士たちの屍の山の上で凛々しく微笑む戦女神であるようには、とても思えない。
(──少女ではないか)
 サガは、ぐわんぐわんと揺れて鳴り響く頭を、ぐっと押さえる。
 かつて黄金聖闘士たちの当番制で、あの赤子の面倒を見た。おむつを替え、ミルクを飲ませ、泣くのをあやし、短い間ではあったが、育てていた。
 だがサガだけは、それをしていない。赤子の姿とはいえ、神に触れるのは何よりも恐ろしい事だった。人一倍子供好きで赤子の面倒も見慣れているはずのサガが、女神と呼ばれた赤子の面倒だけは、一度として見ず、抱き上げる事すらしなかった。

 ──……じゃあ、本当に普通の赤ん坊じゃないか

 不貞腐れた様子で言う、黒髪の少年の姿を思い出す。アテナアテナと言いはしているが、本当は女官の誰かが産み捨てていっただけの普通の赤ん坊なのではないかと言った彼を、サガは激しく窘めた。──あの赤子は、赤子の姿をしているだけの神なのだと、──サガがずっと恐れてきた神なのだと、そう思っていたから。──しかし。

 ──あれは、ただの少女ではないか!

 サガはふらりと立ち上がると、もつれそうになる足で、双児宮を抜ける。
(──私は)
 金牛宮を走り抜けながら、サガは回想する。13年前のあの日、サガは神を殺そうとした。黄金の短剣でもって、赤子の姿をした神を殺そうとした。それは、地獄の底で死んでゆく、多くの子供たちを救う為。──だが、その赤ん坊は、──あの少女は、
(私は)

 ──私は、子供たちを救う為に、赤子を殺そうとしたのか?

 がん、と頭を殴られたような心地だった。
 サガの望みは、救うこと。人間であるサガが何かを救うには、手段を選ぶ事は出来ない。救う為に他の何かを傷つけねば、目的を為す事は敵わない。だがそれこそが人間のやり方なのだとサガは考え、誇りをもって、13年間、多くを救う為に、他の何かを傷つけ続けた。本当は何も傷つけたくはない、しかし人の身で人々を救う為に、サガは闘う事を受け入れた。
 だから、子供たちを救う為に、最初はシオン教皇を殺し、そして神官たちを殺した事を、サガは後悔していない。──しかし、子供を救う為に赤子を殺そうとした、その本末転倒、矛盾も甚だしい行為を、サガはどうしても受け入れることが出来なかった。

《そ……そして……》

 少女の泣き声が、サガの頭に、胸に響く。

《そして、私は……!》

 とうとう白羊宮も抜けたサガは、宮の前の広場で膝をつき、その手さえも地面につけた。

「あ……」
 そう経たぬうち、下から走ってきた少女とちょうど向かい合う形になり、可憐な声が上がる。
 ──少女は、美しかった。
 灰褐色の長い髪はよく手入れされ、肌は白く、灰色の目が印象的な顔立ちは、これ以上なく整っている。──しかしその頬には、風に流れてあちこちに飛び散った涙の跡が、くっきりと残っている。その様は、悲しみに泣く子供そのものであった。
(──少女ではないか……!)
 サガは、唇を噛み締める。
 目の前に現われた少女からは、あの巨像から感じたような圧迫感など、微塵も感じない。確かに小宇宙を感じるが、それも人間としてのものでしかなかった。
 彼女は、ふつうの少女として生まれたかった、と言った。悲痛で切実な叫びのような、そして同時に、全てを諦めた末の暗い呟きのような声で。
(これは、少女だ)
 だが、女神として生まれたと、彼女は言う。本当はふつうの少女として生まれたかったけれど、女神として生まれてしまったのだと、泣きながら彼女は言った。
(──ああ、)

 それは、黄金聖闘士として生まれながら人であろうと足掻いた自分と、何が違うだろう。

 サガは運命を撥ね付けようとして足掻き、そして彼女は運命を受け入れるべく足掻いている、それだけだ。何が違うというのだろう。
 そしてそれを完全に理解した時、──サガは、罪を自覚した。
(……私は)

 ──私は、己の目的の為に、何の罪もない赤子の彼女を殺そうとしたのだ!

「あ……あなたは……!?」
 跪いて俯いたサガに、泣き腫らした顔の少女が尋ねる。
「────サガ……」
 顔を上げ、サガは、名乗った。
「13年前、あなたを殺害しようとした男です……」
 そう告白し、サガは、目の前の少女を見つめた。
 その表情はこの上なく悲しげであり、そして、かつての己の姿を思わせる子供に向ける、やさしい大人の笑顔でもあった。
「サ……サガ、それでは、あなたが……」
「ア……、女神アテナ
 女神アテナと呼ぶか沙織と呼ぶか迷って、結局サガはそう呼んだ。
「……あなたに一言お詫びを申し上げたく、ここでお待ちしておりました」
「え……?」
 涙の跡が残る顔で、少女が眉をひそめた瞬間、サガは腕を振りかぶった。


──ドン!!


「な……!」
 己の拳で己の胸を──心臓を貫いたサガを、少女は信じられない思いで見た。
「何を、」
「ア……女神アテナ
 サガは、彼女を沙織とは呼ばない。
 それは、女神として生まれた事を泣きながら必死で受け入れようとしているのだろう彼女に対する敬意であり、また、サガ自身が13年の間で為した事を決して後悔していないという意思表示でもあった。
 サガから見て、彼女はどう見ても人間の少女であるが、彼女は必死に神たらんとしている。そして彼女が女神アテナだとうのなら、サガはどうしても彼女の敵にならざるを得ないのだ。
 彼女に自分の姿を見、それに共感し、同情もする。幼い身で過酷な運命を受け入れようとしている子供を、健気だとも思う。しかしそれでも、サガは己の為してきた事への責任を、僅かでも放棄するわけにはいかなかった。

 ──なぜなら、サガはもう一人きりだ。

 デスマスクも、シュラも、アフロディーテも、そして弟カノンも、トニもルイザも、もうここには居ない。残ったのはサガだけで、そしてもしそうでなかったとしても、全ての責任は自分にあるのだと、サガは頑として譲れなかった。
 泣きながら女神たらんとする目の前の少女を、サガは好ましく思う。敬意を表しても良いと思う。だからこそ、サガはいま、最後まで彼女の敵であらんとする事を決意した。
「サガ!」
 己の名を呼んで駆け寄ってくる少女は、やはりいよいよ女神には見えない。
 十何年も、サガは神に名を呼ばれるのを待ってきた。しかしそれは為されないままサガは神に絶望し、今に至ったのだ。なのに、この少女は簡単に、しかも必死な様子でサガの名を呼び、あろうことか触れてきている。
 細く柔らかい指が己の剥き出しの腕にかかっているのを見て、サガは少女にわからない角度で、ふっと微笑む。それは、赤子が自分の指を小さな手できゅっと握ってきたときの笑みにそっくりだった。
 ──サガは、かつて赤子だった彼女を、一度も抱き上げた事がない。そしてそのことを、サガは今、初めて後悔した。
「こんなことで、私の罪が許されるとは、思っておりません……」
 子供たちを救う為に13年を過ごしたサガにとって、何の罪もない赤子を殺そうとしたことは、何の言い訳もきかない、問答無用の最大最悪の罪であった。サガは少女の敵である事をやめるつもりは毛頭なかったが、その罪だけは、真正面から認めている。──だからこそ、サガは己の心臓を貫いた。
 “彼”がいなくなり、単なる重い甲冑と化したジェミニの聖衣を砕くのに難はなく、拳は完全に心臓に達している。サガはあと少しだけ少女に話をする為に、破れた心臓から溢れる血を、小宇宙による優れた身体コントロール──“勇”の力でもって、何とか食い止める。
「で……でも、このサガ、本当は正義の為に生きたかったのです……」
 罪を認めた今、サガは、たったひとつ後悔していた。
 しかし、過去は覆せない。サガは彼女を抱き上げる事をせず、彼女を女神と決めつけて殺そうとした。子供たちを救うという大義名分を掲げながら、罪もない赤子であった彼女を、殺そうとした。
 ──完全無欠と思われていたサガの信念、正義には、既に13年前、この傷がついていたのだ。
「ど……どうか、それだけは、信じて下さい……」

 サガの望みは、救うことだった。
 本当は誰も、何も傷つけたくはないと思い、しかしそれを覆しても救いたかった。

 誰に名を呼ばれる事がなくても、邪悪と言われようと構わない。だがそれだけは信じて欲しい、と、サガは祈る。
 どうか、どうかとひたすらに、サガは祈った。女神を名乗る、頬に涙の跡をつけた少女に、サガは祈った。
「サ……サガ……」
 己で己の命を絶つまでに強い意思、信念を示してくるサガに沙織は呑まれながらも、どうにか言葉を紡ぐ。
「……信じますよ」
 沙織は、きっぱりと言った。
 ──13年前、赤子だった彼女を抱き上げていれば。彼女が赤子の姿をした神ではなく、神として生まれさせられてしまった人間なのだと気付いていれば、サガは決して彼女を殺そうとはしなかった。
「信じますよ。ほんとうのあなたは、正義だったという事を……」
「あ……」
 サガは、光を見たような顔をした。
 そして、微笑む。眠りに入る子供を眺めるような、どこまでもやさしい笑みで。

「────ありが、とう……」

 サガの力をもってすれば、心臓を回復させる事も出来なくはなかったが、サガはそうしなかった。むしろ今まで小宇宙で留めていた出血を放り出し、訪れた脱力感に、がくりと体勢を崩れさせる。

 心臓が、止まろうとしている。己だけの思考を巡らせる事は、もう出来ない。
 だがしかし、嗚呼。
 己の思考は、思想は、生まれた意味は、闘う信念は、己だけのもの。

 ──そしてその果てに死す時の、その尊厳も、己だけのものなのだ!

「サ……サガ!」
 女神として生まれた少女が、彼の名を呼ぶ。その灰色の目から、涙さえ流して。

 しかし、サガと呼ばれた男は、女神の呼びかけに、もう応える事はなかった。


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BY 餡子郎
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