第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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 ひたすらまっすぐに続く、闇に包まれた道。
 やっと抜けた先に現われたのは、見上げるように巨大な女神像。
「ア……」
 巨大な建造物を間近に見た時、誰もが感じる圧迫感。だがその女神像から感じるのは、単なるそれだけではなかった。
「アテナ……」
 この聖域には、数々の古いものがある。どれもこれも、表の世界なら片っ端から世界遺産に指定されるような、数百、数千年の時を経た神殿や像。そして最も古いのが、この女神像であった。
 度重なる聖戦にて、敵を迎え撃つ際、十二宮とて何度も壊れては修復されてきた。しかしこの女神像だけは、聖域が出来てから一度も、傷ひとつつけられた事はない。その様は、必ず勝利を得るという戦女神・アテナを、これ以上ない威圧感でもって象徴している。──いや、代々人の姿を借りたアテナがこの像の前に降臨するという事からしても、この女神像には、像である以上の何かが確かにあるのだろう。
 一瞬以上巨像から感じるに圧倒されていたサガであったが、だらりと額を流れた己の血によって、ハッと我を取り戻す。
「──星矢……!」
 よろよろと進んだ少年は、足をもつれさせた挙げ句に膝をつく。
 震えながら、女神の玉趾の元で、少年は手を伸ばした。

 ──それはまるで、縋るような姿だった。

 サガは、駆けた。全力でもって。
 しかし星矢の手は、既に女神が立つ台座にかかっている。全開でセブンセンシズを発揮した、すなわち光速の動きを可能にしたサガが全速力で走っているのに、のろのろとしか動けないはずの星矢は、既に女神の足に縋ることに成功していた。
 不可思議な、聖なる、理不尽なまでの神の奇跡が少年を守り、そしてサガの歩みを阻む。
 だがサガは、なおも駆ける。決して諦める事なく、どんな理不尽に遭おうとも、全力で駆けることをやめなかった。

《────星矢》

 声が、聞こえる。

《星矢……》

 少年の名を、呼ぶ声。女神の戦士を呼ぶ声が、聖域中から聞こえてくる。

《星矢》

《星矢》

《──星矢!》

 サガの名を呼ぶ者は、誰も居ない。
 しかしサガは、必死で駆ける。一人きりで、駆ける。

 たった一人の弟は、もういない。
 サガがどんな事をしても笑っていた赤い目の死神も、聖剣でもって正義を示してくれた黒髪の剣士も、いつだって赤い薔薇であらゆるものから守ってくれた麗人も、もう居ない。

 ──サガの側には、誰も居ない。

《星矢……!》

 少年の兄弟が、友が、師が、仲間が、少年の名を呼んでいる。

《星矢……》

 一度もサガの名を呼んだ事のない女神が、少年の名を呼んでいる。だが、

《────星矢》

 ──サガの名を呼ぶ者は、誰も居ない。

「おのれ、盾に触らせるか────ッ!!」
 だがサガは、駆ける。
 数々の、理不尽なまでの奇跡を星矢たちにもたらした勝利の女神ニケはいま、確かに女神アテナの手にあるのかもしれない。しかしそれだけは渡してなるものか、と、サガは駆けた。
(私こそが、)
 サガは、駆ける。弟と同じ顔で、駆ける。
 赤い目を光らせ、黒髪を振り乱し、誰よりも美しい姿で、サガは駆ける。
(我々こそが、)
 あらゆる敵の攻撃も振り払う事の出来る正義の盾、アイギス!

(我々こそが、正義だ────!!)

 サガは、駆ける。たった一人で、──たとえ、手が届かなくても。


「アテナよ……!」
 少年が、手を伸ばす。縋るように、女神に向かって手を伸ばす。
「我に、」
 神に縋る、小さな手。女神の戦士のその手が今、

「我に、正義の盾を与えたまえ……!」

 ──神に、届く。



 アテナの巨像が持つ石の盾が、みるみる小さくなってゆく。アテナの従獣たる梟・グラウクスの姿を刻んだ盾が、黄金とも白銀とも、あらゆる宝石ともつかぬ美しい色の、太陽の意匠を掲げた盾へと変化し、──そして、降臨した。

──……キィィィィイイン!!

 星矢がその盾を掴むと、まるで、天から落ちてきた星を受け止めたような音が響く。
 縋って伸ばした少年のその手に握られた神の盾は、まるで彼の為にあつらえられたようであった。

 その様に絶望を感じながらも、しかしサガは、決して怯まず、駆け続ける。
 盾は奪われた、しかしまだ、終わったわけではない!
 そうだ、女神の戦士、あれを殺しさえすれば!
(消えろ、神の火よ!)
 サガの小宇宙が高まる。 
 誰の助けも借りず、サガは己の小宇宙によって、天の星々を、神の火を砕かんとした。

「死ね、星矢────ッ!!」
「盾よ、女神アテナを、救えぇぇえええ────ッ!!」


 神の火が、消えた。────そのはずであった。




──カッ!!




 零次元、一次元、二次元、三次元、四次元、五次元、またはそれ以上。
 サガが作った宇宙、どんな光も曲げてしまうはずのブラックホールに、光が射す。黄金とも白銀とも、あらゆる宝石ともつかぬ美しい色の光が、全てのものを照らし出す。
 その光の前では、影さえも存在を許されない。ただその光一色に、世界が染まった。

──カカァッ!!

 正義の盾アイギスの光を受けた勝利の女神ニケが、輝く。
「お、おお……」
「おお────!!」
 少女の胸に刺さった黄金の矢、決して緩む事のなかったそれが光の中に溶けてゆく。その奇跡の様を、人々が震えながら見守った。
「黄金の矢が、き、き……」
「消えた……!!」

 ──少女が、瞼を開ける。
 神の火、その光に何よりも美しい輝きを返す瞳が現れる。
 それは、グラウコーピス。輝く瞳、女神だけが持つ、灰色の瞳。







 ──それは、光の早さをも超えた、まさしく一瞬の出来事だった。







「──刮目せよ」
 神の火が照らし出す清らかな世界、影さえ許さぬその輝かしい世界に、男が立っている。
女神アテナは決して死にはしない……」
 神の化身のような、その微笑み。顔のわからない、ただ清らかで聖なる笑みが、そこにあった。
「刮目せよ。勝利と正義は、常に女神の元にある」
 喜ばしげに“彼”は言い、そして、手を伸ばす。
「理解したであろう、聖闘士よ」
 手が、差し伸べられる。長く美しい指をした、優美な男の手が、伸びてくる。
「わたしは、おまえだ、──聖闘士」
 天窓から差し込む光のような、清らかなる、聖なるかな、優美とすら言える低いバリトン。
「さあ──女神の聖闘士よ。わたしとおまえは、おなじもの」
 手が、伸びてくる。──その、心臓へ。
「おまえは、わたし」

 ──どくん。

「……違う」
 地を這うような低い声が、光に満ちた世界に、ぽつりと小さな影を作った。
「違う……」

 ──どくん。

「わたしは、おまえ」
「黙れ」
 今にも心臓に触れようとしていた清らかな手を、振り払う。
 心臓が、規則正しく鳴っている。己だけの思考の為に、脳が滑らかに回りだす。
「この心臓の鼓動は、私だけのものだ」
 そうだ、“私”の思考は、思想は、生まれた意味は、闘う信念は、
「私は私、誰でもない、私だけのものだ」
 ──その果てに死す時の、その尊厳は!
「“私”は、“おまえ”ではない」
「おまえは、誰だ」
 クーロスが、問う。顔のわからぬその聖者に向かって、赤い目が、笑う。ブルーグレーの目が、睨む。黒髪を振り乱し、白金色の髮を靡かせて。弟の顔をして、己だけの顔をして、黄金の剣を振り上げる。
 ──薔薇が、咲き誇る。何よりも、美しく!

「私は、私。おまえではない」

 神の火で満たされた、聖なる宇宙。その光の世界に、影が生まれる。光が射せば影が生まれる、人の住む地上で当たり前の現象が、神の世界でいま成される。

「私は、人間だ」

 そう、我々は、神の狗でも、駒でも、木馬の騎士でもない。

「私は、私。──双子座ジェミニのサガは、他の誰でもありはしない!」

 たとえ誰もその名を呼ばなくなってもそれは揺るぎないのだと、サガは宣言する。若者の背筋を正し、老人の肩を支え、抱いた女の子宮を刺し貫くだろう、力強い男の声で!

 ──そして、サガは立ち上がる。

 “Memento mori”。自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな、その死神の警句をもって。
 正義を守護する阿修羅の剣、華咲く茨を巻き付ければ、決して離すことはない。

 誇りと尊厳を示すその刃を今、サガは、──“彼”の胸に、突き刺した。

「──う、」

 紋切りのクーロスが、ひび割れてゆく。
 “彼”の顔が、初めて歪み。──断末魔の、叫びを上げた。



──ギャアアアアアアアアアアアアア!!



「な……なんだ……」
 倒れ伏したサガの身体から抜け出て行った“なにか”を、盾を支えに立つ星矢は、訝しげに見送る。
 しかし満天の星空に融けて消えたそれはすぐに見えなくなり、星矢は目線を下に戻す。
 そこには、優しげな、安らかな顔をした白金色の髮のサガが伏していた。
 その表情は、星矢が教皇の間に来た時に見たサガと同じである、と星矢は判断した。アテナの盾の光により、サガの身体に潜んでいたなにか──邪悪ななにかが消し飛んだのだろう、と星矢は単純に結論づける。
「よ……良かった……本当に……」
 どう見ても安らかで清い表情の男に、星矢は笑む。
「こ……これで……」
 ぐらり、と、少年の身体が傾ぐ。輝く盾が、ごろりと石床の上を転がった。
「…………もう……」

 数々の、奇跡の果て。
 ついに力尽きた少年は、女神の玉趾の元に倒れた。

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BY 餡子郎
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