第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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「バ……馬鹿な……」
 少年が、立ち上がっている。
 五感を全て断たれ、見る事も聞くことも感じる事すらも出来ないペガサスが、立っている。あろうことか、よろりと一歩を踏み出しさえした。──アテナ神殿へ向かって。
「む……うう……っ」
 サガは、脂汗とも冷や汗ともつかぬ気持ちの悪い汗が、全身から噴き出すのを感じた。いっそ頭を掻きむしって、手当り次第に喚きたい。
(何だ──これは)
 少年が、立っている。よろよろと、今にも倒れそうな足取りで、女神アテナの命を救う為に、ただひたすらにそれだけの為に、意識すらあるのかないのか解らぬ状態で、アテナの盾を取りに行こうとしている。
女神アテナの聖闘士とは──!?)
 ──気味が悪い。
 何も考えずただ女神の為にと、馬鹿の一つ覚えのような聖句を唱えて死地に向かう、女神の聖闘士という名の清らかなる殉教者たち。
 彼らは幼く、大した力を持たぬはずの青銅の身で、白銀全員を倒したばかりか、黄金聖闘士すら倒すという奇跡を幾度となく起こしてきた。……いや、ここまで奇跡が多すぎると、これはもはや──やはり、奇跡ではない。
(女神、……これが女神アテナに侍る、勝利の女神ニケの力だというのか!)
 だとしたら、何と理不尽な事だろう! なんと残酷で、疎ましく、忌々しいのだろう!
 いくら策を弄そうとも、力を得ようとも、血を流そうとも、無駄だという。弟を殺し、赤い目の死神を犠牲にし、黒髪の剣士を死なせ、薔薇の主たる麗人を盾にしても、それでも神は我らを阻む! 理不尽極まる、問答無用の聖なる奇跡によって!
 サガは、頽れそうな膝を立たせながら、震えを抑えて少年を見た。神の奇跡に支えられ、意識がなくとも、自分の命の残り火が消え尽くす最後の瞬間までも進み続け、女神アテナを救おうとする姿は、まさしく神に愛された殉教者の姿そのものだ。
「う、う……」

 ──どくん。

 心臓が、──胸が、痛む。
(こ……こいつらこそ、まさしく平和を愛する女神アテナの聖闘士……)
 声がする。物心ついた頃から、天窓から差し込む光の用に清らかな声で、“彼”は言う。神様の為に、女神様の為に、良い子にするんですよと“彼”が言う。
 少年が、進む。女神アテナの聖闘士が、殉教の道を行く。女神の為に生まれ、女神の為に闘い、女神の為に死のうとしている。
 女神アテナの息子、まさにそれに相応しい、清らかなるその姿。
(そ、それに引き換え、この私は────)

──ドクン!

「────はっ!」
 顎からぼたぼたと流れ落ちる、おびただしい量の汗。内側から殴りつけてくるような心臓の鼓動、目眩がしそうなほどがんがんと痛む頭。
(今、私は何を考えた……!?)
 ぞくり、と、気味の悪い戦慄が走る。背骨の中に氷の棒でも突っ込まれたような怖気が、サガの身を震わせた。
「おのれ、行かせるか!」
 あと少し──あと少しなのだ!
 ほんの僅かなあの火が消えれば神は死に、人の時代がやってくる。理不尽で傲慢な神の膝元にわけも解らず傅くのではなく、尊厳を持って地上を守る為に闘える日が、やっとやっとやってくるのだ!
 その前に、何としてでもペガサスの息の根を止めてやる、とサガは少年の背を追いかける。しかし──
「うっ……!」
 馬鹿な、と、サガは再度愕然とする。目前に立ちはだかったのは、すっかりひび割れたフェニックスを纏うもう一人の少年、一輝。彼もまた、立っているのが精一杯──いや、立っているのが不思議な様相だった。
「貴様まで立ち上がってくるとは、……ギャラクシアン・エクスプロージョンを食らって死んだはずが……!」
 そのフェニックスの名の通り不死身だとでも言うのか、と、サガは畳み掛けるようにして起こる奇跡に地団駄を踏みたい気持ちで、ぎりりと歯を鳴らした。
「退け、一輝! ──む」
 死にかけていると言っていい少年の肩を、乱暴に脇に推す。しかし一輝はそれでも、しつこくサガの前に周り込んで腕を広げた。まるで、雛を守る親鳥のように。
「セ……星矢がアテナの盾を取りに行くまでは、こ……ここは、通さん……」
 掠れ、ひび割れた、哀れなほどの声であった。
 一輝もまた、ギャラクシアン・エクスプロージョンを食らって朦朧とした意識で、しかしサガの演説を聞いていた。
 そしてそれは、正直なところ、一輝にとって、非常に惹かれる内容だった。──一輝がただの候補生だったなら、まっすぐに彼についていったかもしれないと思うほどには。

 だがしかし。一輝には、弟がいる。

(イ……一輝……)
(セ……星矢、早く行け……!)
 僅かな小宇宙に乗って読み取れた弟の声に、一輝もまた、やっとの様相でそう言った。
 一輝は、女神も、その正義も、どうでも良い。彼は今、ただ弟の為に、弟を守る為に、生かす為だけに命を賭けて闘っている。どんなに惹かれるものがあろうとも、その絶対の信念を抱く一輝は、立ちはだからないわけにはいかなかった。
 弟たちの為に、弟たちの正義の為に、弟たちの命の為に! どんなに惹かれる道があろうとも、兄の自分が弟たちの行こうとする道を守らぬでどうするのだ、と、一輝は何よりも強く思っていた。
(ここは、俺が死んでも抑える……!)
 それが、愛すべき弟たちに一度拳を向けてしまった自分のせめてもの罪滅ぼしである、と、一輝は頑として言った。
(だ……だから、星矢よ、必ず女神アテナを救ってくれ)
 俺が、守るから。

 ──だから、お前の正義を貫いてみせろ、弟よ!

(頼むぞ、星矢……!!)
「……おのれ」
 ぎり、と、サガが歯を食いしばる音が聞こえた。譲れぬ信念、理想の為に、策を労し、力を得、血を流し。弟を殺し、赤い目の死神を犠牲にし、黒髪の剣士を死なせ、薔薇の主たる麗人を盾にして、神を倒さんとする男が、吠える。
「死に損ないの貴様ごときが立ち塞がったとて何になる! こうなれば、二人諸共吹っ飛ばしてくれるわ……!」
 黄金の小宇宙が、高まる。絶対的な滅びの前兆を表す振動が、一輝の身体をびりびりと震わせる。
(さらばだ、星矢! そして、兄弟たちよ──!!)
「──ギャラクシアン・エクスプロージョン!!」

──ドォォォォォオオン!!

 天と地をつんざくような、全てが終わってしまったのではないかと思えるような、凄まじい衝撃音。
 聖域にいる全ての者たちが、その音を聞いた。

「クッ、クク……」
 ギャラクシアン・エクスプロージョン──銀河爆発と名付けられたその技は、サガの持つ空間操作の力によって、その名の通り、空間を“爆発”させて完全に破壊する、という技である。
 アナザーディメンションは、空間を異次元として“作り替える”技であるので、双児宮の迷宮のように色々と応用が利くが、ギャラクシアン・エクスプロージョンはそうではない。広範囲の空間を丸ごと異次元に──しかもなるべく複雑なものに作り替えた上で、更に爆発でを起こして完全に破壊するこの技は、まず避けること自体が非常に難しい。いや、不可能と言ってもいいだろう。
 まずは周囲、しかもかなりの広範囲の空間を複雑な異次元へと作り替えられる事で、逃げたり避けたりといった行動の全てが制限される。三次元の現実世界で生きてきた者が、突然二次元だの五次元だのの世界に放り込まれて、動けるわけがない。むしろまず精神が壊れ、身動きどころの話ではない。
 そしてそんな状態で、更にその空間を粉々に破壊する。無理矢理例えるならば、相手を左右前後上下の解らぬ無音、しかも時間の感覚も解らぬ部屋に放り込み、しかもその部屋に超重量のダンプを突っ込ませる、そんな感じが相応しいだろう。
 異次元により精神を破壊し、空間ごとの爆発というとんでもない手段によって、肉体全身を破壊する。念の入った、容赦も隙もない、徹底した必殺の技、それがギャラクシアン・エクスプロージョンである。
 銀河の星々さえも破壊すると謳われるほどに広範囲、あまりに執拗、あまりに強力なこの技を逃れた者は、かつて居ない。
(二人とも、今度こそ跡形もなく消し飛んだようだな……)
 というよりも、そうでしかあり得ない。
 そして今サガが仕掛けたギャラクシアン・エクスプロージョンは、一輝が自らを盾にした事が全く意味を為さない、広い範囲──具体的に言うと、教皇の間全てを範囲として繰り出したものであったのだから。
 ──だが、しかし。やはり奇跡はまだ続いた。
「な……!?」
 二人とも跡形もなく消し飛んだ、と思っていた。いや、それがあるべき事態のはずだった──しかし。
 盾となった一輝の姿は、確かにどこにもなかった。しかし星矢は、サガの足下に、特に大きな傷もなく倒れているだけだったのだ。
 馬鹿な、と、もう何度目か数えるのも阿呆らしい、得体の知れない、不気味なほどに理不尽な奇跡が放つ怖気に、サガは身を震わせる。
「な……何故星矢だけが助かったのだ……」
(イ……一輝……)
 ギャラクシアン・エクスプロージョン。その絶対的な技から、一輝は見事星矢を救ってみせた。
 聖闘士に、一度受けた技は通用しない──多くの場合はハッタリになってしまうそれを、一輝は為してみせたのだ。
 まず、一度ギャラクシアン・エクスプロージョンに耐えて生き延びただけでも、一輝がいかに恐るべき戦士であるかが証明されている。そして彼は完全にギャラクシアン・エクスプロージョンを攻略する事は出来なかったが、しかし驚くべき事に、その技の仕組みを大まかにではあるが理解したのだ。
 さすがに、あの劣悪な環境のデスクイーンで過ごした一輝は、数学だの文学だの、学校に行かねば学べない類いの勉強に励んだ事が一切ない。だからサガが作り替えた異次元の仕組みを解明する事はとても不可能だ。
 だがしかし、一輝は“空間が作り替えられている”ということ自体は、正しく理解していたのだ。どう作り替えられたかは解らずとも、作り替えられた、そのこと自体を確信していた。その事だけでも、彼がいかに頭が回るか──いや、天才であるかがあきらかとなる。
 そしてわけのわからぬ作り替えられた空間で身動きが取れない所に決定的なダメージを与えられる、というごく大まかな技の流れを理解した一輝は、いちかばちか、自分の身を一切顧みず、星矢の居場所だけを死に物狂いで知覚する事だけに専念したのだ。
 どんなに違う世界だろうと、どんな異次元に放り込まれようとも、弟の居場所だけは絶対に見失わないようにと、一輝はそれだけの為に小宇宙を使い、そしてそれは成功した。
 エッシャーの描く世界の方がまだ随分まともだと思うような理解不能の異次元の中で、星矢の場所だけを正確に掴んだ一輝は、爆発が起こる一瞬前に、星矢だけを異次元の外に放り出した。──手を引くほどの余裕すらない、ただ形振り構わぬ体当たりのようなやり方で。
 結果、星矢の盾になるような形で一輝は異次元での爆発に完全に巻き込まれ、星矢だけがこの場に残ったのである。
 星矢の見えぬ目から、涙が溢れる。
 思えば、今まで何人の友が、兄弟が、倒れて行っただろう。己をここまで辿り着かせる為に、そして女神アテナの命を救う為に。
 女神アテナの為というなら、彼らとてそうだ。女神の戦士となるべく死地へ送られた、もう逢えない、幼かった兄弟たち。兄弟である事も知らなかった、90人の子供たち。

《──星矢》

《──星矢》

《星矢……!》

 祈る声が、聞こえる。
 今にも消えそうな火を見つめながら、人々が己の名を呼んでいる。女神アテナの為に闘えと、兄弟たちが呼んでいる。
 ──そうだ、己は倒れてなどいられないのだ。
 己の命の炎が燃え尽きない限り、例え這ってでもアテナの盾に辿り着かなければ。
(沙織さんの命を、救わなければ……)

 ──今までの全てが、無になってしまう。
 兄弟たちの流した血が、失った命が、全て無駄になってしまう──!

「……そうか」
 一輝のおかげで星矢がかすり傷程度で済んだという事を、サガは星矢の小宇宙から読み取れる思考から理解し──そして、安堵した。
 星矢たちのように、何かというと女神の聖闘士を名乗る少年らとは一風変わった雰囲気を持った一輝に、サガは正直、一目置いている。そして今、彼が神の奇跡に頼る事なく、ただ持てる力の全てを尽くし、命を賭して弟を救ってみせたという事実に、驚嘆と感心、また素直な賞賛と敬意を送りたい気持ちであった。
「だが、これでもうお前を庇うものはない……今度こそ殺してやるぞ、ペガサス!」
 一輝は、若いながら恐るべき戦士であった。立場や条件が違えば、もしかしたら同志と呼べたかもしれぬ程の。
 しかしそれほどの戦士でもってさえ、己の行く手を阻む事は出来ぬのだ、と、サガは笑みを浮かべてみせる。
(うう……)
 星矢は、どうしていいかわからない。
 考える事を忘れて久しい星矢は、一輝のように、状況を分析し、己の持てる力を隅々まで把握して、知略を尽くして戦況を変えるやり方などとても出来ない。
(も……もう一度……)
 だから、星矢は、祈った。
(最後に、もう一度だけでいい……!)
 ただ、祈る。純粋に、ただひとつだけを、哀れなほどにひたむきに星矢は祈り、ひたすらに願った。
(小宇宙よ……)

 ──どくん、

 心臓が、脈打つ。小宇宙の媒体である血液、その源が、──星矢の、“女神の聖闘士”の中にある“なにか”が、願いに応じて鼓動を紡ぐ。

(心の小宇宙よ……!)

──ドクン!

(奇跡を、起こせ────!!)






 ──祈りが、届いた。






「な……何ぃ……!?」
 今まで少年らにもたらされてきた、数々の奇跡。そしていまサガの目の前で起こっている事もまた、間違いなく奇跡であった。

《星矢、俺の命を、お前にやる────!!》

 女神の聖闘士、そのうちの一人の叫びが、祈りが、聖域中を支配するサガの小宇宙に響いて聞こえる。

《そうだ、俺たちの小宇宙を!》
《俺たちの命を全部くれてやる、星矢──!》

 祈りが、聞こえる。
 救いを求め、どうかどうかと切実に、命を捧げてもいいからと、血の涙を流さん程の祈りには、サガも遠く覚えがある。

《だから立て、立ってくれ、星矢──!》

 いくら願っても、無駄だった願い。どんなに血を流しても、犠牲を捧げても、何一つ聞き入れられず、ついには何もかも無駄だったのだと告げられた祈り。ついには絶望し、憎むようにすらなってしまった、ただひたむきで必死なばかりの、幼い祈り。

《星矢……》

 ──ああ、

《あなたは、希望……》

 ──これは、

《今、全ての人々の、貴方は希望……》

 ──女神の、声か!

《星矢……》

 あれほど求めた、祈りに応える神の声──奇跡!
 15年、あらゆる犠牲を払って祈り続けても得られなかったそれを今、たった12時間の行軍の中、この少年は幾度与えられてきたのだろうかと、サガは唇を噛み、今にも血の涙を流して慟哭せんかのような表情を浮かべる。
 それは、怒れる神のようにも、──そして、とうとう名を呼ばれなかった──見捨てられた、子供のようにも見えた。

《星矢……、僅かに残った、俺の命を……》

 龍座の少年の、誠実な声が聞こえる。

《星矢、消えそうな、俺の命を……》

 白鳥を纏う少年の、凛とした声が届く。

《そ……そうだよ、星矢……、かすかに残った、ぼくの命を……》

 犠牲の乙女・アンドロメダの星を持つ少年の、清らかなる想いが響く。

《ぼくの小宇宙を、全部きみにあげるから……》
《だ……だから》
《だから、もう一度立ち上がれ……!》

 少年たちの、祈りが響く。

《正義の為に────》

 女神の為に生まれ、女神の為に闘い、女神の為に死ぬ事を厭わぬ少年たち。

女神アテナを、救う為に──!!》

 殉教の道、死をも恐れぬ“女神の聖闘士”、まさに“女神の息子”に相応しい少年たちの祈りが、いま、

《星矢! お前は今、皆の、たったひとつの希望なのだ!》


 ──神へと、届く。


「な……」
 とうとう立ち上がってみせた星矢に、サガは沸き上がる畏れを噛み殺す。──奇跡。神に愛された者にのみ与えられる、どうしようもなく理不尽な、無敵の権現。
(し……しかも何だ、星矢の後ろに浮かんだあのオーラは……!)
 ──あれは、ペガサスか。
 いや違う、それだけではない、と、目の前で起こる奇跡の有様に、サガは自分の目を疑いそうになるのを必死で堪える。たった一人きりになった今、自分の目を信じずしてどうするのだと、サガは黒髪を振り乱し、懸命に赤い目を凝らす。

 ──見えたのは、乙女の姿。そして白鳥、龍。
 ──更には一角獣、子獅子、ヒドラ、大熊、狼!

 星矢の後ろに、そんな無数の小宇宙が浮かんでいる奇跡を、サガは見た。

(サ……サガよ……)
 ろくにテレパスなど使った事がないはずの星矢から、思念が響く。
(確かに五感を断たれた俺は、何も見えないし、聞くことも出来ない……)
 視認できるほどに強く、そして大きく揺らめき立ちのぼる小宇宙に乗せて、少年の、何かが乗り移ったかのような、神の啓示を告げるシャーマンのような声が、わんわんと波を帯びて響いてくる。
(だが、見る以上に、聞く以上に、それらの感覚を超えて、今はっきりと全てのものを感じ取ることが出来るのだ……)
「な……、何だと」
 星矢の言う事が確かならば、それは間違いなく、第六感をも超えたセブンセンシズ、そのものである。
「バ……馬鹿な! いくら小宇宙を燃やそうと、私には一切歯が立たないのは立証済みのはず! ましてや今更セブンセンシズに目覚めたとて、この私に敵うはずがない!」
 百歩譲って、星矢が小宇宙を黄金聖闘士と渡り合えるほどに高めることが出来たとしても、セブンセンシズに目覚めることが出来るかどうかは、また別の事だ。いくら長く息を止めることが出来、いくら深く潜れるようになったとしても、エラ呼吸が出来るようになるわけではないように。
 第七感は、本来神だけが持つという超感覚。黄金聖闘士とは、生まれながらに小宇宙を発現させているが故に、生物としての順応性をはたらかせた末、第七感を備えて生まれてくる存在だ。後天的に小宇宙に目覚め聖闘士になる者たちと、根本からあり方が違う。
 はっきり言えば、黄金聖闘士とそれ以外は、同じ人間でも白人と黒人の違いなど全く問題にならぬレベルで人種が違う。いや、いっそ違う生き物だと言ってもいいほどに違うのだ。
 だからこそ、後天的にセブンセンシズに目覚めるには、尋常ならぬ努力の上、奇跡としか言いようのない幸運が必要になる。
(これも、奇跡か!)
 聖闘士になってどれ程も立たぬ子供が、12時間そこらの戦いの中で、セブンセンシズにまで目覚めるというこの有り様。ここまでくると、奇跡を通り越してもはやナンセンスな喜劇か何かのようである。
 だから、己は終わらせてやらねばならぬ。
 この忌々しい、神の奇跡という名のふざけた喜劇を、何としても止めねばならぬ!

(今、皆がこの俺に、勇気と力を与えてくれた!)
 星矢の身には今、確かに、小宇宙がみなぎっている。自分のものではない誰か──友たちの、兄弟たちの小宇宙が今、星矢の身に確かに宿り、星矢に力を与えていた。
(俺は、皆の希望なのだ!)
 シャーマンのトランス状態にも似た精神状態でもって、星矢は無意識の自己暗示をかける。更に小宇宙が高まり、新しい世界が──異次元ではなく、己が望む世界の更に高みが拓こうとしているのがわかり、星矢は歓喜に身を震わせる。
(心の小宇宙よ)
 この行軍で、いつも星矢を助け、導き、奇跡を起こしてくれたが一体何なのか、星矢は考えない。考えようとも思わない。
(セブンセンシズよ!)
 ただ、純粋に。哀れなほどにひたむきに、星矢は一点だけをただ目指す。
(今こそ、究極まで燃え上がれ! そして今こそ、邪悪を断つ!)
 教皇の名を騙り、聖域を我がものとしていたというサガを今、星矢は完全に邪悪と見なしていた。この男は女神の聖闘士、しかも最高峰の黄金聖闘士として生まれながら、女神に反して戦いを挑み、諸悪の根源として最期を迎えようとしているのだ、と。
「食らえ──」
 小宇宙が、高まる。
 片やたった一人、孤立無援で、しかし犠牲の屍の上で決して顧みる事なく頑として黄金に輝く、完成された、雄大なまでのカリスマに溢れた男の小宇宙。
「ギャラクシアン・エクスプロージョン────!」
「サガよ、お前の最期だ!」
 片や一人一人の力は決して大きくなくとも、多くの友を、兄弟を、そしてその盲信とも取れるひたむきさによって、神さえも味方に付けた、少年の小宇宙!

「──ペガサス、彗星拳!」


──ガカァァアアッ!!


(な──何、これは────!?)

 ──雄大なる、黄金の銀河。
 その完成され尽くした小宇宙を、まっすぐな彗星が駆け抜けた。

──ド、ガシャァァアアン!!

「ぐ……う、う……っ!」
 初めてまともに、そして致命的なまでの攻撃を食らったサガは、揺れる脳の衝撃を感じながら、呻く。
 空間を曲げる隙は、なかった。ただ愚直なまでにまっすぐな彗星、しかしそれは巨大で、そして光の速さを持っていた。真空の銀河をいつ燃え尽きてもおかしくないほどに燃えたぎりながら直進する彗星は、止まっているようにも、この上ない速さで進んでいるようにも、一方方向にまっすぐに飛んでいるようにも、三百六十度あらゆる方向に向かっているようにも感じられた。

 ──勝った……!!

「…………ッ」
 瓦礫の向こうに、黄金の輝きが倒れ動かなくなったのを確認する。
 安堵からだろうか、星矢が、呻き声すら上げられず膝をついた。しかしそれも数秒も持たず、力尽きたように前のめりに倒れてしまう。
「ま……まだ、俺は、死ねない……」
 サガが気を失ったせいだろうか。薄らとであるが五感が戻ってきているようで、いまいち回らない舌が、辛うじて言葉を紡ぐ。
「アテナの盾を取り、沙織さんの方角に翳すまでは……、ま……まだ……」
 半ば這うような有様で、よろよろと、ぼんやりとした視界の中、星矢が進む。
「まだ……死ねないん、だ……」
 教皇の玉座の脇を抜けて、赤い天幕を掻き分け、更にその奥へと、少年の姿が吸い込まれるように見えなくなった。



「う……」
 星矢が天幕の奥に消えてから、何十秒すらも経たぬうち。
 薄らと開けた視界、しかしぼんやりと逡巡する間もなく、ハッと赤い目が見開かれる。寝んでいた猛獣がすぐさま戦闘体勢に入れるように、サガもまた、一瞬にして戦闘に向けた小宇宙を発揮させた。
「セ……星矢は……!?」
 だらり、と、額から血が流れるのを感じるが、そんな事を気にするそぶりも見せず、天幕の隙間が開いているのを見つけたサガは、一瞬にして状況を把握する。
「お……おのれ、アテナ神殿へ向かったか────ッ!!」
 つい先程思い切り石柱に叩き付けられて気を失ったとはとても思えぬ見事な身のこなしで起き上がったサガは、雄叫びを上げて駆け出し、教皇の玉座を乱暴に蹴り上げる。
「そ……そうはさせるか! アテナの盾は絶対に取らせん!」
 持ち主を必ず勝利に導く、勝利の女神ニケ。数々の理不尽なまでの奇跡を星矢たちにもたらしたそれに加え、あらゆる敵の攻撃も振り払う事の出来る正義の盾──アイギスをも手に入れられたら!
 アイギスにより、本当に黄金の矢が抜けるのかどうか、サガは知らない。だが“彼”が言ったのだから、おそらく本当なのだろう。ならばなおの事、早く星矢を殺しアイギスを守らなくてはいけない。
(……“奴”め! いつも鬱陶しいばかりのくせに、余計な事は知っている……!)
 血が出そうなほど、サガは唇を噛む。幼少の頃からいつもサガを抑制し、嗜め、天使のように優しげな言葉でサガを脅す“彼”。まさか彼が、サガの知らない知識などを持っているとは──
(──私の、知らない、知識?)
 サガは、ハッとした。
(あれは、誰だ?)
 物心ついた時には、共にいた“彼”。サガが迷う時、いつも女神の為にこそあれとサガを嗜めてきた“彼”は、己の──
(いや、違う)
 ぐるぐるとした、混乱と紙一重の混濁した思考の中で、サガは否定した。
(あれは、誰だ?)

 ──私ではない

 背骨の随に氷塊を突っ込まれたような感覚が、サガに震えをもたらす。
(──お前は、誰なのだ!)
 真っ赤な天幕を、引き千切るようにして暴いた先には。



WHO ARE YOU ?




 黄金の、聖なる衣。
 女神アテナの聖闘士、その最高峰たる黄金聖闘士のうち、双子座ジェミニの黄金聖闘士のみが纏う事を許されるその聖衣。サガがいま纏っているはずのそれが今、顔のない姿で、そこに立っていた。







「正義か悪か神か邪悪か」

 顔のない“彼”が、──が、尚も問う。

 ──WHO ARE YOU?

「う……、」

 ──お前は、誰だ?

「う……、うう……っ」

 脂汗とも冷や汗ともつかぬ、気持ちの悪い汗が全身から噴き出す。
 “彼”の顔は、わからない。女神の聖闘士たる者だけが纏う事の出来るジェミニの聖衣を纏った彼は、男のようであり、女のようであり、子供のようであり、大人のようでもあり、

「答えろ、サガよ」

 狂人のようでもあり、常人のようでもあり、正義のようでもあり悪のようでもあり神のようでもあり邪悪のようでもあり、──誰かのようでもあり、



お ま  え は、 だ  れ    



 ──自分であるようでもあった。


 まるで神の化身のような、完璧な微笑を浮かべたクーロスが見える。同じ型で作られた鋳造品。完成度は確かに高い、だが紋切りの量産品が、全く同じ完璧な笑みを浮かべて無数に立っている。個のない群体。まるで、女王蟻の為に生まれ、一生を費やし、死に続け、また生まれ続ける蟻の群れのような。

 ──あれは、聖闘士だ。

 女神の為に生まれ、女神の為に闘い、女神の為に死んでいった、過去幾多の聖闘士たち。女神の為に他の神に逆らい、それ故に氷地獄コキュートスにて永遠に苦しみ続けるという彼らが一体どんな姿をしていたのか、どの記録にも残っては居ない。墓ですらまともに残っては居ない彼らは、一体どんな者たちだったのか、もう誰も知りはしない。
 生前、彼ら自身で掘られるという、彼らの墓。名前こそ違うがしかし、墓石には、必ず同じスペルが刻まれている。──“Saint”と。
 イメージが、──幻影が、浮かび上がる。戦士たちが、女神の為に戦い死んだ殉教の聖者Saint──聖闘士たちが、氷の檻に閉じ込められ、ずらりと並んでいる。
 だがその表情は、どれも同じ顔。型を押したような微笑み、神のように完璧な微笑みを浮かべた聖闘士たちが、何千、何万と積み重なって打ち捨てられている。
 ふと、その一人が、こちらを見た。みごとなプラチナ・ブロンド、ブルーグレーの目。

 完璧なる神の微笑を浮かべた“彼”は、天窓から差し込むような清らかな声で、言った。

「わたしは、おまえだ、──聖闘士」
(──わ た し は、)



WHO ARE YOU ?



 墓の下で、神の微笑みを浮かべた無数のクーロスが、問いかける。

「お前は誰だ?」
「誰だ?」
「おまえ?」
「お前はわたし」
「わたしはおまえ」
「わたしはおまえはおまえはわたしは女神の誰だ正義か悪か聖闘士お前は誰だ誰だ誰だ誰だ神か邪悪か狂人のようでもあり常人のようでもあり正義のようでもあり悪のようでもあり神のようでもあり邪悪のようでもありWHO ARE YOU? WHO ARE YOU? WHO ARE YOU? WHO ARE YOU? WHO ARE YOU? WHO ARE YOU? WHO ARE YOU? 誰だお前はわたしおまえ誰だWHO ARE YOU? おまえはおまえはわたしは女神の誰だ正義か悪か女神の為に聖闘士死ぬ生きる闘うおまえはおまえはわたしは女神の誰だ正義か悪か聖闘士、」



   

    


  
 


 






 がり、と、奥歯が砕ける音がした。

「……ッ、ええい、失せろ! これ以上、私の邪魔をするなァァアアアアッ!!」
 咆哮を上げ、サガは無数のクーロスたちを黙らせた。わたしは、──私は!

(私は、絶対にお前たちとは違うものだ……!)

 ぎらりと赤い目を光らせて、サガは走る。

「“お前”が13年間邪魔さえしなければ、とっくに大地は私のものだったのだ……!」
 何か決定的に女神に抗う行動をしようとしたときに、ことごとくそれを阻止してきた“彼”。幼い頃は阻まれる前の忠告で怯え、しかし黒髪と赤い目の姿を得てからは、忠告を無視して行なえば阻まれるようになった“彼”さえいなければ!
「それを“お前”は、ことごとく遮ってきた! ……もう邪魔はさせん!」

 ──よせ。もはやこれ以上罪を重ねるな……

 ──女神アテナは決して死にはしない……

 神の化身のごときクーロスたちが、悲痛な声で訴える。天使の声とも神の声とも、常人が耳にしたなら涙を流して膝をつき祈りを捧げるだろう、それほどまでに清らかなるその声を、サガは心底忌々しげに黙殺する。

 ──女神アテナに詫びろ……そして罪を償え……

「黙れ、えええええええええ────ッ!!」

 ぶつん、と、何かが決定的に切れて離れる感覚を、どこかで感じる。
「何度も言ったはずだ! 私が、この時代の救世主なのだ!」
 脆弱な神への絶望の向こうに、人である我々こそが地上を守る、誇りと尊厳に満ちた未来があるのだと、サガは信じている。そうだ、我々は、神の狗でも、駒でも、木馬の騎士でもない、

 ──尊厳を持つ、人間なのだと!

 魂の叫びでもって、清らかなる鎖を、サガは躊躇いなく、力の限り振り払う。
(そうだ、この心臓の鼓動は、私だけのものだ……!)
 私の思考は、思想は、生まれた意味は、闘う信念は、──その果てに死す時の、その尊厳は!
(私は私、誰でもない、私だけのものだ、──女神アテナ!!
 鎖が千切れ、澱みが晴れる。走るに合わせて心臓が、規則正しく鳴っている。己だけの思考の為に、脳が滑らかに回りだす。
 人間として、ただ当たり前のそれ。だが聖闘士には、女神の聖闘士にはないそれを、サガは爽快極まる気分で、たまらない気持ちで抱きしめる。
(ああ──これこそが、)
 視界の端で、黒髪が翻る。真っ暗な中、まだ残る薔薇の赤さが、道を示してくれている。
(これこそが、私が求めた真の強さ……!)
 赤い目に、涙が浮かんだ。


 そうして、闇に包まれた道を、迷いなく駆け抜け。
 ──そしてその先は、女神神殿。


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BY 餡子郎
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