第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
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──バチィッ!
「何……!?」
振り下ろした剣、掌を弾いた衝撃に、サガは声を上げた。
「誰だ、邪魔をする者は──!!」
そこに立っていたのは、橙色に輝く、特徴的な尾飾りのついた聖衣を纏う、少年とも青年ともつかぬ風体の人物──鳳凰星座・フェニックスの一輝であった。聖域が長らく見失い、暗黒聖闘士の巣窟となっていた地獄の修行地・デスクイーンで生き残り、史上初めてフェニックスの聖衣を纏う事に成功し、しかも暗黒聖闘士たちを従わせすらした男。
「バ……馬鹿な」
一輝は、黄金聖闘士の中でも屈指の実力を持つシャカと闘い、彼とともに消滅したとされていたはずだ。それがこうして生きている、ということは──
「……九死に一生を得たその命を、再び捨てにきたのか」
「この俺の命など、いくらでも捨ててやるさ」
──ただし、女神(アテナ)の命だけは絶対に取らせん!
その台詞は本来、一輝が最も口にしないはずのものである。
己を、そして弟たちを、わけもわからぬまま死地に送った実父──城戸光政と、そして城戸沙織を一輝はかつてこれ以上ない程憎み、そして今、憎しみを通り越して無関心の境地に達している。
だから今一輝がこの台詞を口にしたのは、今から助けようとしている星矢、そしてここに来るまでの道行きで見送った、弟たちの思いを代行する為だ。
一輝自身は、城戸沙織、女神アテナの命など、本心からどうでも良い。しかし弟たちを助ける為に闘う一輝だからこそ、弟たちがアテナの為にと言うならば、そのように闘う、それだけだ。
「フッ……笑止な。今更死に損ないが一人増えた所で何になる? こうなれば二人纏めてあの世に送ってくれるわ」
シャカにヒーリングを受けたとはいえ、確かに一輝は万全の状態とは言い難い。聖衣が完全に新生し、強化されているのが救いではあるが、それはサガに対する強みとはならない。
「残念だが、あの世へ行くのはお前の方が先だ! 受けろ、炎の拳!」
サガの実力を正しく把握した一輝は、小手調べなどせず、最初から全力で畳み掛けた方が良い、と的確に判断し、瞬時に最高まで小宇宙を高める。
凍気使いでない限り、小宇宙の高まりは、総じて熱を生む。しかし一輝から感じられる小宇宙は、それを遥かに凌駕した、圧倒的な熱量を生み出していた。
炎や熱の性質を持つ小宇宙は、珍しい。黄金聖闘士の中でも、発火能力を持つ者は居ない。
発生に酸素を必要としない、普通の炎とは違う燃焼。燃える土とも呼ばれる燃素(フロギストン)を全てのものに見出し、どんなものでも燃焼させる炎熱の力。これこそ、一輝が生まれ持った“仁”の力。
「鳳翼天翔────!!」
──空気が、燃える。
鳳翼天翔は、空気中に含まれる燃素(フロギストン)をことごとく発火させるという技だ。一輝から放たれた小宇宙が空気中の燃素(フロギストン)の全てを発火させる様は、ガソリンが巻かれた地面が一瞬にして炎に舐める様にも似ていた。いや、水をかけても消えない上、発火後に酸素を巻き込む為、酸欠、また一酸化炭素中毒をも起こすあたりからして、ナパーム弾のほうが近いだろうか。
一輝自身は知らぬ事であったが、空気を操る、という点に置いては瞬の能力とも似通った力であった。
炎の神鳥フェニックスの羽ばたきが全てのものを燃やし尽くすように、サガの周りの空気が燃える。更に熱がもたらす圧力により、サガの身体が吹き飛び、教皇宮の柱を砕いて落ちた。
「──星矢!」
サガが地面に落ちる所までをしっかりと確認した一輝は、反対の位置で俯せに倒れる弟に駆け寄った。
「星矢、しっかりしろ! おい、星矢──」
「ククク」
低く、喉で笑う声。小さな笑いさえどこまでも響くようなバリトンが、一輝の耳に届けられた。
「無駄だ。ペガサスは五感を全て失っている……」
背後に感じるのは、圧倒的なまでの黄金の輝き。
「いくら呼んでも叩いてもわかりはしない。そいつはもはや生ける屍なのだ」
「な……」
驚愕の表情で、一輝は振り返る。そこに立っているのは、確かに、先程吹き飛ばしたはずのサガ。食らえば全身大火傷、いや全身の皮膚が炭化してもおかしくない鳳翼天翔を食らったはずの、しかし火傷どころか白い肌に赤み一つないサガであった。
「……不死身か」
皮肉にも不死鳥の名を冠するはずの一輝が半ば呆然と呟いたその言葉に、サガはフッと嗤いを見せる。
「笑わせるな。今までの相手には通用したかもしれんが、私の前には貴様ごときの技など一切無力なのだ」
「な……何ぃ」
これがサガでなければ、一輝ももっと強気に出ていただろう。しかしサガの言う事が脅しでもはったりでもない事を、一輝は優れた能力でもって理解していた。──しかし、だからといって、退くわけにも行かない。絶対に!
「無力かどうか、もう一度食らえ──鳳翼天翔!!」
──バォォォォオン!!
先程よりも更に広範囲の燃素(フロギストン)の燃焼。酸素が燃え尽き、それによって起こる業火と風の音が、教皇の間に響き渡る。
「な……何!?」
一輝は、驚愕を通り越し、もはや信じられない心地で、目の前の男を見た。
全てを焼き尽くす、鳳凰の羽ばたきと称して過言ないはずの鳳翼天翔の威力。その炎全てが、サガを避けて吹き抜けていっているのだ。
星矢の流星拳は数で範囲をカバーしているが、所詮は一発ごとの拳に過ぎない。その点で、鳳翼天翔は一発が広範囲である。拳銃を連射するのと大きなナパームを投げ込むのは、点と面ほどに効果に違いが現れる。
サガは星矢の流星拳を防いだように、鳳翼天翔の範囲──燃素(フロギストン)の燃焼の範囲の空間ごとを歪め、その威力を殺した。一発目は熱を食らう事はなくとも威力を些か殺し切れなかったが、一発食らえば二発目は完璧に分解する事など容易だ。一度解いたパズルを二度間違えるなど、サガには決してあり得ない。
「だから言ったはずだ、貴様の技など私には無力だと……」
聖闘士に、同じ技は二度効かない──サガこそが、その言葉を真に体現する戦士であった。
不敵な笑みを深くしたサガは、優雅にすら思える動きで、右手を前に差し出した。
「そうら、自分の仕掛けた技で、自分が吹っ飛べ!」
「うっ……!」
──パァン!
燃素(フロギストン)が燃えたぎる熱風の渦が、一斉に一輝に吹き付ける。サガの空間操作によって、空間ごと、そのベクトルが反転されたのだ。
自分の小宇宙による炎熱であるので火傷を負う事はなかったが、己が放ったものより更に圧力の加わった凄まじい衝撃により、一輝は柱の天上近くの部位に派手に叩き付けられ、そして受け身も取れぬまま床に落下する。
「うう……」
馬鹿な、と一輝が呻く。触れたら最後肉体を焼き尽くす鳳翼天翔、まさかそれを完全に跳ね返されようとは。
自分の実力を過大評価していたわけでも、奢っていたわけでもない。サガが己よりも強い事は、最初に対峙したと時からわかってはいた。ただ、その強さは規格外過ぎた。
サガに鳳翼天翔の威力を食らわせるには、サガが支配できないほど広い空間ごと焼き尽くすしかないだろう。しかし小宇宙の大きさ、コントロール力──すなわち小宇宙における“智”の力は、圧倒的にサガのほうが勝っていた。すなわち、いくら一輝が燃焼を起こそうとも、その範囲を丸ごといいように歪められてしまうのである。
──ドガッ!
「ぐっ!」
思い切り背中を踏みつけられた衝撃に、一輝が呻く。踏みつけた後なじるような仕草は、己の方が強い、優位であると示す動物的な行為であるようにも感じられた。
「フェニックス……貴様は双児宮でも私の邪魔をした」
楽に死なせるわけにはいかん、と、赤い目が細まり、黒髪が逆立つ。好戦的で嗜虐的な笑みが、サガの顔に広がった。
「──たっぷりと苦しませてから殺してやる!」
浮かせた足が垂直に振り下ろされる様は、削岩機のようであった。しかしそれは一輝の背中を踏み抜く事なく、本当に削岩機のように石床を抉った結果に終わる。一輝が力を振り絞り、素早く身を躱して避けたのだ。
荒い息をつきながら、しかししっかりとした身のこなしで、一輝は直ぐさま体勢を整え、サガに対峙する。
「鳳翼天翔が効かぬとあらば、肉体ではなく精神の方を砕くまでだ……」
「何、精神を砕くと……?」
この私のか? と、サガは心底おもしろそうに笑みを浮かべた。
「おもしろい。ならば私も肉体ではなく、貴様の精神を破壊してやろう。伝説の幻朧魔皇拳によってな……」
サガは、更に笑みを深くする。獲物をいたぶる猛獣のような、好戦的で、嗜虐的な、獰猛な笑み。
一輝が今から放とうとしている、鳳凰幻魔拳。これはデスクイーンにて、暗黒聖闘士たちを従わせる目的も含め、そして実父への復讐の道具のひとつとして一輝が習得したその技は、皮肉にも、噂に流れてきた幻朧魔皇拳を想像にて模倣したものであるということを、サガは知っている。
脳に働きかけるという、相手を支配する系統の技の中でも最も確実かつ、それ故に難しい技。しかも教皇秘伝の技であるそれを、噂に聞いただけで独自に模倣してみせる才能はかなりのものだ。それはサガも十分認めている。だからこそ、一輝の事は印象深く記憶しているのだから。
──だが、模倣は所詮模倣である。
「どちらが先に相手の精神を支配できうるか……」
それは、“智”の大きさも問題となるが、それよりも“仁”の能力。持って生まれた才能が大きくものを言うだろう。
「勝負だ、一輝! 幻朧魔皇拳!」
「──鳳凰幻魔拳!」
──カカッ!
二つの力が、すれ違う。
──ピシッ!
「うっ……!」
頭の芯に針が突き刺さったような感覚に、一輝が呻く。
「うっ……、ああ、あ……」
「フフフ」
脳を支配する、伝説の幻朧魔皇拳。教皇のみに秘伝されるこの技を、サガはスターヒルに仕舞われた数々の資料の中から見つけ出し、会得した。本来、聖闘士、特に替えの効かぬ黄金聖闘士が女神アテナの意に反した時、従順な戦士に作り替える為のその技を。
「もはや貴様に自分の意思はない。全て私の命じるままに動くのだ」
だが女神の狗たる貴様らに、それで何の変わりがある? と、サガは声に出さずに呟く。ただ女神の為にと馬鹿の一つ覚えのような聖句を唱え、何も考えず、レミングのように死地に特攻をかけるのみの殉教者たち。その主が変わったとて、ただ盤上の駒の持ち手が変わっただけではないか、とサガは嘲笑う。
「まずは自分で自分の腕を撃ち抜いてもらおうか……。さあ、やれ……」
「う……うう……、うっ!」
──ピッ!
一輝の右の人差し指と中指が、自らの左の上腕に、深々と突き刺さる。
「フフ……よし、なかなか従順だ」
腕の痛みと激しい頭痛に呻く一輝に向かって、サガはまるで奴隷を褒めるような声色で言った。
「次は自分の心臓を撃ち抜け。そうだ、自ら自分にとどめを刺すのだ……いや、待て」
笑みを深くしながら次の命令を放とうとしたサガは、ちらりと目線を動かした。その視線の先には、倒れ伏したペガサスの少年。
「その前に、あのペガサスの首を私の代わりに落としてもらおうか。そうだ、その方が手間が省けて助かるというものだ」
高みから笑いながら、貴様の弟を殺せと言うサガは、まさに残虐非道の暴君であろう。
だがサガは、神とどこが違うのか、と、皮肉げに天を仰ぐ気持ちだった。波の音の幻聴が聞こえる。神しか開ける事は叶わぬ牢獄の中で叫ぶ、己と同じ姿をした弟の姿を幻視した。
我々こそがこの地上を支配するのだと囁いた弟を、サガは殺した。“彼”の声に従って──神の声に従って、サガは弟を殺した。己と同じ姿をした、たった一人の弟を。
サガが後悔していることがあるとすれば、その事だ。今なら弟の囁きに、笑みさえもって同意することが出来る。今頃は手を取り合い、二人でこの地上を支配していたかもしれない。
後悔が生む夢想、しかしその中にさえ、サガは決意の要素を見る。弟を殺し、赤い目の死神を犠牲にし、黒髪の剣士を死なせ、薔薇の主たる麗人を盾にして、いまサガはここに居る。
だからこそ。犠牲の上に立っているからこそ、負けは許されぬ。
──神に屈する事だけは、決してしてはならぬのだ!
「さあ、ペガサスの首を落とせ。そしてその後その行いを悔い、自らも死すのだ、一輝」
神の檻、スニオン岬の監獄に閉じ込めた弟が消えた時、サガは死にたいほどに嘆いた。神の救いはとうとうなく、果てに弟を殺しても、それは訪れる事はなかった。泣き、喚き、後悔し、絶望し、しかしその果てに、サガは絶対の決意を立てた。これからは、決して神には祈らぬと。
しかし、さあ。女神の聖闘士、女神の狗としてここに居る彼らは、どうだろうか。
「う……、う……」
拳を構えた一輝は、蒼白な表情で、星矢の側に立っている。抗おうとしているのだろう、その身は震えていた。
「どうした一輝、やれ!」
命じるままにやるがいい! かつての己がそうだったように!
「ペガサスの首を落とせ!」
さあ、弟の首を落とせ! ──かつての己が、そうしたように!
「うっ、……うおお────ッ!!」
少年の首が、飛ぶ。
跳ねて転がった星矢の首を、光を失った目で、一輝が追いかける。
「フ……フフフフフフ……」
その様に、サガは肩を揺らして笑んだ。心底面白そうな、しかし歪んだ笑み。
「ウワーッ、ハハハハハハ!!」
喚きとも叫びとも取れぬ、奇妙な笑い声であった。
「よくやった、一輝! さあ次は貴様の番だ! ……自らの心臓を撃ち抜いて、あの世でペガサスに詫びろ!」
弟を殺し、赤い目の死神を犠牲にし、黒髪の剣士を死なせ、薔薇の主たる麗人を盾にして、いまサガはここに居る。
だからこそ。犠牲の上に立っているからこそ、負けは許されぬ。泣き、喚き、後悔し、絶望したその果てに今がある。だから、──だが、
──だが、本当は。
「な……」
突然変わった空気に、サガははっとする。軽い混乱を振り払い、辺りを見回した。
「バ……馬鹿な」
俯せに横たわる星矢の首は、繋がったままであった。
「い……一体これは……」
「どうした、ジェミニ……夢でも見ていたのか……?」
フッ、と小さく笑う声に、サガは歯を鳴らす。
「バ……馬鹿な、それでは私の方もフェニックスの幻魔拳にかけられて、脳裏に浮かんだ幻を見ていたというのか……!」
「ジェミニ、次に見るのはお前の最期だ! だがこれは幻ではなく現実だがな……!」
幻朧魔皇拳の模倣であるという情報から、サガは鳳凰幻魔拳の威力を若干見誤っていた。幻朧魔皇拳は、与えた指令を無理矢理行なわせる技。しかし鳳凰幻魔拳は、そうではない。これは脳に働きかけ、精神崩壊を起こさせるレベルでごくリアルな幻を見せる技だった。
一輝も当初は、幻朧魔皇拳のような効果を狙って技を生み出した。しかし相手を意のままに操り指令を実行させるというのは遥かに難しく、妥協案、また実父への復讐に用いるという面を考慮して生み出されたのが、今の鳳凰幻魔拳であった。
とはいえ、己より遥かに強大な小宇宙を持つサガに精神崩壊レベルの幻を見せる事は叶わず、中途半端なものを見せるだけに終わってしまったが。
だがしかし、サガの幻朧魔皇拳から完全には支配されず、ダメージはなかったもののサガにまんまと技をかけた事からして、勝負には勝ったとはいわずとも引き分けと言えるだろう。
「……しかし、貴様の鳳凰幻魔拳がここまでの威力を持つとは……ヒヨコながら褒めてやるぞ、フェニックス……」
それは、認める言葉だった。何度倒しても起き上がってくる星矢には決してかけなかった類の言葉が今、一輝に向かって発された。
そして一輝もまた、サガに対し、同じ思いを抱いていた。いや、完全に実力が上であると認めている分サガと同じとは言えないだろう。しかしサガに認めるような言葉を受けた今、一輝に心に沸き上がったのは、確かな充足感であった。
シャカに認められたと感じたその時も抱いたそれを、一輝は今、サガに対して抱いている。圧倒的強者、見上げて臨む者たちに認められるという、戦士として最高の誉れに、一輝は戦場において震えた。
そして同時に、畏れた。幻朧魔皇拳こそ、やはりまさしく恐るべき伝説の魔拳である、と。
「……もし最初の指令が俺自身の腕を撃ち抜くものでなく、星矢の首を落とせと言われたなら、俺は間違いなく星矢の首を叩き落としていただろう……」
静かに、慎重に、敵同士として最大の警戒を崩さず、──しかし間違いなく敬意をもって、一輝はそう言った。
「フッ……そうか、精神支配に関しての勝負は互角という事か……」
互角。そう評された一輝の胸に、戦場であるにもかかわらず──いや戦場だからこそ、歓喜が沸き上がる。強敵に認められ、互角であるとすら評された歓びは、戦士にとって至上のものであった。
「ならばこれ以上かけあっても同じこと。下手をすれば千日戦争に陥るかもしれん」
もはや互いに幻朧魔皇拳も鳳凰幻魔拳も使えんな、とあっさりと切って捨てたサガは、一輝と己が、戦士として似通ったタイプである、という事に気づいていた。
双方特殊な能力と、天才と評すべき力を持って生まれ、更に努力を惜しまず自らを鍛え上げてきた彼らは、仁智勇の全てをバランスよく伸ばす事に成功した、希有かつ理想的なタイプの戦士であった。
性格や適性的にも、責任感に溢れ、人の上に立つ才能があり、また自らの思想や信念を決して折る事のない頑強さと、その為に手段を選ばない過激さを持ちつつもその根底は身内や他人への思いやりであるという点などは、間違いなく似通っている。
例えば──あくまで仮定の、あり得ない話であるが──もしサガが師で一輝が弟子であったなら、サガは非常に良く一輝を育てることが出来るだろうし、一輝はその才能をめきめきと伸ばすことが出来るだろう。
同じタイプの戦士である二人。そして今、“智”ではサガが圧勝し、そして精神支配能力という“仁”においては互角という結果が明らかになった。ならば──
「こうなれば、もはや肉体の戦いしかない……どちらの小宇宙が勝っているか!」
サガが、初めて構えらしい構えを取って小宇宙を高めたのを見て、一輝もぐっと拳に力を入れた。神にも匹敵する強大な“智”、そしてそれによって繰り出される空間操作や精神支配といった希有な“仁”の力のせいであまり披露する機会がないが、物心つく前から古武術を叩き込まれた一輝には、サガの構えに一切隙がない事──すなわち“勇”においても相当な実力者である事に気づき、新たな冷や汗を流した。
「さあフェニックスよ、この私に最期を見せてくれるのではないのか! かかって来い!」
「望む所だ……行くぞジェミニ!」
しかし行くぞと言いつつも、一輝は躊躇った。初めての躊躇いといってもいいだろう。
“智”や“仁”であれば、ぶつけてみなければわからない、という気概も持てる。だが──
──まるで勝てる気がしない。
サガも一輝も、仁智勇を同等のレベルで持つ、最も理想的とされるタイプの戦士である。しかしその仁智勇の正三角形の大きさにおいて、サガは己を遥かに上回っているのだということを、一輝はどうしようもなく感じた。
なまじ格闘術においてかなりの覚えがある一輝は、あまりのサガの隙のなさに怯み、そして結果、悪手を選んでしまう。──それ以外に手がない事も確かであったが。
「食らえ、鳳翼天翔────!!」
──パァァァアン!!
格闘では絶対に勝てないだろう、だから、と繰り出したそれは案の定──いや勝てる気がしないと思ってしまった分もあるのだろう、今までのどれよりも見事に跳ね返され、一輝は宙を舞った。
ドシャッ、と無様な音を立てて倒れた一輝に、サガは若干拍子抜けたような、失望したような色の目を向ける。
「馬鹿め。鳳翼天翔など通用しないと、何度返されればわかるのだ」
それは、どこか弟子を叱るような、とも感じられるような口調だった。もしかしたら、サガも一輝に対し、戦場の中での歓喜を多少なりとも感じたのかもしれない。
「鳳翼天翔も鳳凰幻魔拳も、貴様の持つ最大の拳は私の前ではもはや使えん」
しかし、気迫で負けたせいかなかなか立ち上がれず呻く一輝を、サガは非情に引きずり持ち上げる。
「──いわば貴様は、両腕もがれたダルマも同然なのだ!」
──グワシャアッ!!
見事な掌底が、一輝に叩き込まれた。衝撃を緩和する事も出来ず吹っ飛び再度倒れた一輝に向かい、サガは小宇宙を高める。
「だが、この私は違う……最後にそれを見せてやるぞ」
長い腕が、広げられる。まるで全てを抱きしめるような仕草であったがしかし、サガが高める小宇宙の質から大地震が来る前の不気味な悪寒のようなものを感じ、一輝は滝のような冷や汗を流した。
「これは、ここまで闘った貴様に対するいわば褒美だ、フェニックス」
戦慄の中で、一輝はサガの笑みを見た。認めようという強者の笑み、しかし終わりだと勧告する、非情極まりない一流の戦士の微笑みだった。
「さあ、死の間際にしっかりと見届けろ! この双子座ジェミニ最大の拳!」
「うっ……!」
大地震が来る時のような不気味な浮遊感が、一輝を襲う。冷たい汗が、全ての毛穴から溢れ出る。
全てを抱きしめるように広げられた腕、それが広い胸の前で交差されたその時、それは起きた。
「うお、こ……これは……!」
「ギャラクシアン・エクスプロージョン!!」
──星々が、砕けた。
サガは力はもちろんの事、神の化身ではないかと思われるほど心の清らかな男であった。
13年前以前、聖域にいたサガを知る者たちに彼の人となりを尋ねれば、一人残らずそう言うだろう。彼はどんな者にも分け隔てなくやさしい男だった、ゆえにまるで神のように多くの人々から慕われていた、と。
「あ……あの、消えたと思っていたサガが……」
アルデバランが、呆然と呟く。
決して焦ったり、怒ったりすることは無く、皆の言い分を全部聞いて、そして言い切って静かになってから、ゆっくりと話し出していた彼。とてもまどろっこしく、しかし誰もが損をしない、納得するやり方。何も関係ないのに全員の愚痴を全部聞くことになる彼だけが大変な思いをするそのやり方を、いつだってとってきたサガ。
小さかった自分たちの癇癪を、我が侭を、どんな時もやさしく受け止め、納得するまで説明し、側に佇み、実際に手を差し伸べ、時に諭してくれた、兄のような存在。彼が──
「この十三年間、教皇に成り済ましていたというのか……!」
アイオリアが、震える。
神の化身とまで言われていたサガ、彼こそが成り代わった現教皇なのだとムウから聞かされた皆は、明らかに動揺していた。
「し……信じられん」
ミロが、もつれそうになる舌で、辛うじて言う。
「で……では、真の教皇は」
──シオン教皇は、一体どうしたのだ?
《──殺したのよ、このサガが!!》
聖域にいる者たち全員に、戦慄が走った。
「な……何だ、あの声は!」
誰かが、震えながら喚く。
だが皆、曲がりなりにも小宇宙の何たるかを学んだ聖域の者たちは、理解していた。今の声が声ではなく、途方もないほど巨大な小宇宙が、意思として聖域全体に伝わったのだ、という事を。
──それはまるで、天から響く神の声のように、絶大な力に満ちた声だった。
《そうだ、俺は神だ!》
しかし神というには生々しすぎる、しかしだからこそ恐るるに足る、とも同時に感じる声でもあった。
人の上に立つ才能を持ち、演説を振るえば、若者の背筋を正し、老人の肩を支え、抱いた女の子宮を刺し貫くだろう、力強い男の声。
フェニックス、不死の神鳥の首を掴んで掲げながら、神に成り代わらんとする男は言う。
《これより後、この聖域はおろか地上全てを支配する大地の神となるのだ!》
──この、サガがな!
名乗られたその名に、ある者は混乱し、ある者は嘆き、ある者は納得する。
「サ……サガ……」
神の化身のようと謳われたサガ。どんな者にも分け隔てなく、どこまでもやさしかったサガ。自分だけが大変な思いをするやり方で、皆の言い分を全て聞いてきたサガ。誰かが泣いているとき、最後までどんな時もやさしく受け止め、納得するまで説明し、側に佇み、実際に手を差し伸べ、時に諭してくれた、兄のようであったサガ。
彼こそが、13年間教皇に成り代わっていた張本人である事が、今、本人の口から証明された。
「し……しかし、サガの声にしては、まるで別人のような……」
珍しくも動揺した声でシャカが言ったそれに、皆も同意する。
サガの声はもっと、神の化身と呼ばれるに相応しい、天窓から差し込む光のような、染み入るような、どこまでもやさしいものであったはずだ。
腹の底からびりびりと響き、悪魔のような誘惑を含み、骨の髄を支配するような、このように圧倒的なものではなく!
「──あのサガとは、完全に別人ではないのか?」
ミロが呟いたそれを、聖域中の空間に行き渡らせた小宇宙から聞き届けたサガは、生け贄のごとく掲げていた一輝をぞんざいに放り投げた。
「クッ、ククク」
不死鳥を足蹴に、口の端を釣り上げた獰猛な笑みを浮かべ、男は声を張り上げる。
「──聞け!」
古代のギリシア・特にアテナイでソフィストたちがこぞって研究し、政治家・雄弁家たちの必須技法である修辞学、レトリック。身ぶりや発声法なども重要視され、言語学、詩学、演技論、全てをひっくるめたそれは、演説をより説得力豊かにし、聴衆の心理操作をすべく魅力的に見せるために開発された技術の集大成。
「生き残った黄金聖闘士から雑兵に至るまで、この聖域にいる全ての者たちよ!」
サガが響かせる声は、神の化身たるそれではない。人として、人の心を掴む為に計算され尽くした声、話術、洗練され尽くしたその技術の集大成。人の上に立つ者としてこの上ない魅力を持った声、民衆を支配し統率する者の、堂々たる演説であった。
「女神(アテナ)を擁してこの聖域に乗り込んできた5人の青銅聖闘士共は、今全て片付けた!」
宣言。王の独壇場のアゴラと化した聖域は、彼以外、誰も声を発していない。──いや、出来なかった。聖域中の誰もが、彼の、サガの演説に呑まれ、聞き入っている。
「あと僅かで、火時計の炎が消え!」
導かれ、人々が顔を上げて火時計を見る。
地上の人々が灯す、いやサガが灯させた炎が闇の中で無数の輝きを誇るのとは裏腹に、火時計の上でポツンとひとつだけ、今にも消えそうな炎が、弱々しい光を放っている。
「そして、女神(アテナ)も死する!」
びりびりと、腹の底に響く声。悪魔のような誘惑を含み、骨の髄を支配するような圧倒的な声で、彼は宣言する。女神を擁する者たちよ、絶望せよ! そして今こそ己の元で、新たな希望を抱くべきだと気付くがいい!
脆弱な神への絶望の向こうに、人である我々こそが地上を守る、誇りと尊厳に満ちた未来があるのだと、今こそ目覚めよ、人々よ、──聖闘士よ! 我々は、神の狗でも、駒でも、木馬の騎士でもない、──尊厳を持つ、人間なのだと!
「これも、このサガを教皇に選ばなかった、真の教皇の罪だ!」
我こそが正義であるのだと、ひとかけらの迷いもなく、サガは宣言した。
己だけの正義を貫く聖剣を携える、黒い髪を靡かせ。決して意思を見失わず、神にすら抗う事に躊躇わない、赤い目を輝かせ。全てのものを引きつける、華々しく美しい姿を示し!
人の上に立つ才能を持ち、若者の背筋を正し、老人の肩を支え、抱いた女の子宮を刺し貫くだろう、力強い男の声での、堂々たる演説。
仁、智、勇。全てを雄大なまでに備えた、その風格。
──今こそ神を屠らんとする強大な力を宿した王者が、そこに居た。
「……やはり、老師や私の予感は正しかったのだ」
13年間。師シオンがこの世からいなくなったのではないかと訝しみ、日を過ごすごとに確信を深め、胸を掻きむしりたくなるようなもどかしさを堪えた長い時間。
おそらく事件当日かごく近い日であっただろうあの日、珍しくテレパスで語りかけてきた彼の会話の内容を思い返し、ムウは彼を殺してやりたいと思った事もある。今でも、少なくとも半殺し程度には殴り飛ばしてやりたいと思っている。
あの夜、どの面を下げて自分とあんな会話をしたかは想像もつかないが、いつも人を食ったような憎たらしい笑みを浮かべた赤い目の彼の事を、自分は永遠に理解できる気がしない。──童虎老師は、親しかったようだが。
だが、理解できない──想像もつかないという事も、腹立たしい事のひとつだった。難解な問答やふざけた会話はいくらでもふっかけてくるくせに、実はその中身は空っぽなのだ。
──ああそうだ、私は彼に、彼らに、一度もまともに話をしてもらった事すらない。
薔薇の下、いつも意味ありげに微笑む、己から一番遠い所にいる麗人。彼ももう、いないという。何を考えているのか分らぬ男とずっと思ってきた彼の事を、もう永遠に理解する日は来ないのだろうか。
それが非情に腹立たしく、そして、こんな思いをするのなら何故自分から彼らの胸ぐらを掴みに行かなかったのか、と、ムウは眉間に険しい皺を寄せた。
「……なんて事だ」
俺たちは13年間騙され続けていたというのか、と、アルデバランはやり切れない気持ちで呟いた。幼い日を共に過ごし、兄のようだと思っていた人々、彼らにずっと欺かれていたという事。──そして隠し事をされていると気付いていながらも、今の今まで追求せず放置していた己に、アルデバランは絶望する。
だがどんなに悔やんでも、時が戻るわけではない。──あの人たちは、もう帰っては来ない。
……俺は、自分で言った事を撤回したりしない
俺は聖闘士だ、と、剣を、ケーキを、花を与えてくれた彼は言った。
自分も同じ聖闘士のはずなのに、その言葉が、自分と彼らを決定的に分った気がする。
救いがあるとすれば、それは、彼が揺るぎない目をしていた事だ。あの目を見た事で、もう何を言っても、それこそ殴り掛かったとしても、自分に打ち明けることはないのだと、アルデバランは理解した。──理解、させられてしまった。
自分がして嬉しいことだからお前にもやると、惜しげもなく、自分の宝をお裾分けしてくれた彼。この花は甘いのだとどこか誇らしげに教えてくれた、そして一人で静かにオルゴールを聞いていた、黒髪の、三つ年上の少年。
そして花も小さな音楽さえも冷たい墓の下に打ち捨てて、研ぎ澄ました剣を手に、揺るぎなく立っていた彼はいま、その冷たい墓の下にさえ居ないのだと思った時、アルデバランはどうしようもなくやるせない気持ちになった。
「こ……これが、全ての真実……」
そしてやはり、あの娘は本当の女神(アテナ)!
黄金のちび林檎、と、おしゃまな仕草でミロを呼んだ小さな少女。彼女が女神だということを、三年前、きっと彼らは確信したのだろう。
しかしミロは、未だ信じられなかった。いや、それは、サガが教皇であった事ではない。この13年間の教皇がサガであった、と言われれば、ミロは成る程と納得すらするのだ。
この13年間で、聖域は変わった。清潔な寝床が整えられ、きちんとした食事が賄われ、怪我や病気には手厚い手当が与えられるようになった。小さな子供が無闇に死なぬようになり、老人が元気になり、若者が目を輝かせるようになり、男たちが親切さと誠実さを取り戻し、女たちの笑顔が増えた。
ミロ自身、その恩恵を受けている。聖闘士を目指すと決めた者は、肉親と完全に縁を切らねばならぬという掟が、この13年の間に教皇のひと声で廃止され、ミロは家族と再び会うことが出来たのだ。姉たちの結婚式には全て出席し、カミュを親友だと紹介し、共に食事を取る事も出来た。
もう二度と会えないとされていた末の弟が結婚式に現われた時、花嫁衣装を着た姉は、化粧どころか目が溶けるのではないかと思うほど泣いた。──なんて思いやりのある、人の心がお分りになる教皇様なのでしょう、と、……そんな教皇様なら姉さんは安心だわ、と、泣いてミロを抱きしめたのだ。
だからミロは、彼が──サガが教皇になる為に、シオンを殺し、アイオロスを陥れついには殺し、赤ん坊であった女神も殺そうとした、という所に、パニックに近いような驚愕を覚えていた。
──そして、シャカは。
久方ぶりに大きな迷いを覚え、その真実の解明を一輝に託して送り出した結果がこれかと、衝撃を何とか消化しようとしていた。
(し……しかし)
迷いを打ち払う為に求めた真実、しかしそれを知り、シャカは更に迷う羽目に陥っていた。
「……この13年間、サガが正体の教皇からは一片の邪悪も感じられなかったのに……、な……何故……」
放つ小宇宙からも、そして実際に聖域を治めるやり方にしても、彼からは常に聖域を、人々を、聖闘士たちを良くしようという想いで溢れていた。その分け隔てない善良さをシャカは正義と判断し、そしてその正義の為に悪と見なした者を容赦なく粛清する過激ささえ、頼もしいと思ってきた──それは間違いない。
だがそこには、常に女神への敬愛も同時に存在していたはずだ。間違いない、とシャカは断言する。女神を敬愛し、そしてその上で人々に分け隔てなく与えようとし、善良であろうとする彼を信頼し、従ってきたのだから。
そして今、女神を排し王となるのだと宣言した彼を見てなお、シャカは迷っていた。──言っている事は確かに過激だが、やはり彼は善良なままだという事に気付いたからだ。
女神を排する──その一点さえ除けば、彼の主張はごくまともで理論的で、やはり善良だ。事実彼は13年間常に人々の為に奔走してきたし、それは力なくては為せなかった事である。
だがそれが、──神を殺すことで為すそれが本当に正義と呼べるものなのか、シャカは迷う。
(……君のいう強さとは、何だったのかね、デスマスク)
赤い目の悪魔の問答の答えがわかれば、この迷いの答えも見つかるだろうか。
だが彼が死んだ今、その答えももはやわかる気がしない。──シャカは生まれて初めて、晴れそうにない迷いに、瞑想以外の意味で目を閉じる。
「うう……」
歯を食いしばり、震えを抑えながら、アイオリアが呻いている。
日本にて、彼は聞いた。幼い女神を殺害しようとし、兄・アイオロスを反逆者に仕立て上げ、13年もの間、教皇になりすましている者がいると。
そしてそれがサガその人だという事が判明した今、アイオリアは、爆発しそうな感情を、必死で堪えていた。
「おのれ、サガめ……!」
獅子の目が、怒りに燃えた。正義の為ではない、欺かれていたからではない、ただ肉親を殺されて13年間もしらばっくれられていたという事実に、彼は怒った。
「全てがはっきりした以上、もはやここに留まっては居れぬ! このアイオリアが容赦はせぬぞ……!」
《待ちなさい、アイオリア!》
駆け出しかけていたアイオリアを、キンと響く鋭いテレパスが引き止める。凄い目で振り返ったアイオリアは、見えぬ仲間に対して咆哮そのもののような怒声を張り上げた。
「何故止める、ムウよ! 全てははっきりしたのだぞ……女神(アテナ)を救い、サガを全員でもって倒すべきだ!」
《動けるものなら、老師や私も初めからそうしている》
──13年間、私とて堪えた。
言外にそう言うムウの声の低さに、アイオリアがぐっと息を詰まらせる。怒れる獅子の足を止め黙らせるほどの暗さと深さ、そして凄みが、ムウの静かな一言にはずっしりと詰まっていた。
《……ただこれは、天が女神(アテナ)に与えた試練なのだ》
「なに」
女神(アテナ)の試練。聞き慣れぬ言葉に、アイオリアだけでなく、皆が困惑に眉を顰める。
「……そうだ」
拳を握り締めながら、ムウは言う。ぐっと目を瞑るその様に、彼が何かを堪え続けてきている事を、皆が悟る。そんなムウの様を前に、アイオリアの勇み足から、思わず力が抜けた。
「サガごとき一人の邪悪に倒されるような女神(アテナ)であれば、それはどうあっても偽物……これから始まる大いなる聖戦を闘う事は出来ない、と老師は仰られているのだ」
前聖戦を生き延びた、今では唯一の聖闘士・天秤座ライブラの童虎の言葉は、時に教皇よりも重い事さえある。
彼女が真の女神(アテナ)であれば、決して死なぬ。そして星矢たちが真の聖闘士であれば、例え自らは死しても必ずや女神(アテナ)の命を救うはずだ、と老師は言ったという。
「今は耐えるのだ……そして信じて待つのだ、星矢たちの勝利を……女神(アテナ)の復活を……!」
握り締めたムウの拳から、赤い血が一滴、ぽたりと落ちた。
「……フン」
──火時計の火が、消える。
か弱い揺らめきを、サガは死にかけの虫でも見るような目で見遣ってから、聖域の空間全てに行き渡らせた小宇宙を把握する。
時折箱庭とも称される聖域であるが、面積は決して狭くない。詳しくは記録が残っていないが、古都アテナイから結界によって分たれたもう一つのギリシア──いやヘレネスの首都、それが聖域だ。
近代都市であるアテネまでとはいかぬとも、聖域の人口は村と言うには規模が大きすぎる程度にはあるし、手つかずの自然や神殿がある場所を含めれば、それは立派に都市面積のレベルである。
サガはその全てに、小宇宙を行き渡らせることが出来た。そして他人の小宇宙に同調する事──ヒーリングやテレパスを得手ともする彼は、聖域中の者たちの表層思考を全て同時に聞き取り、そしてその全てを理解することが出来る。
人々の声を全て聞き、それが全て終わってから話しだすかつての彼のやり方は、彼にとても負担がかかるものだと思われ、だからこそ尊敬されてきた。確かに疲れる事ではあるが、しかしサガはそれが出来た。
数千──いや数万もの人々の声を聞き、その全てを理解する事が、サガにはできる。彼の持つ“智”の力──小宇宙は、それほどに広いのだ。いくつもの星々の軌道を正確に把握し、微塵もズレなく管理する事が、サガには出来る。そうでなくば、空間操作などという強大な力を振るえはしない。
──女神には、出来ぬ事だ。
いや、出来るかもしれないがせぬだろう。よしんばやったとしても、人の心などきっと解りはしないだろう、とサガは吐き捨てる。もしかしたら、要らぬ事をするやも知れぬ。有り難かろう、と、傲慢な笑みを浮かべて。
そうして徹底的にこき下ろす程度には、サガは神が、女神が邪魔だった。一輝は父に対する憎しみを超え、絶望を経て、とうとう何も期待せぬ境地に至ったが、サガの心境はそれを超える。ただ冷徹に、忌々しい邪魔な害獣を駆除するような気持ちで、サガは神を殺したいと思っていた。
《──星矢》
《──星矢》
《星矢……!》
祈る声が、聞こえる。
今にも消えそうな火を見つめながら、人々が女神の聖闘士の名を呼ぶ。何も考えず、ただ女神の為に死をも恐れぬ殉教の少年に、人々が縋る。どうか助けてくれ、と。
──反吐が出る。
サガは、更に冷え冷えとした赤い目で、炎を見つめる。あと何分だかの時間が、ひどく長い──
「……!?」
火が消えるまでの、女神が死ぬまでの、僅かな時間。──しかしセブンセンシズの世界では、無限にも感じるその時間。その中で、サガは何度目かの奇跡を見た。
「馬鹿な!」
振り返った、その先。
「ペガサスが、再び……!」
再び立ち上がった少年の背。
女神の聖闘士が起こす不気味なまでの奇跡の所業に、サガは、戦慄した。