第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
<13>
 スペイン・カタルーニャ州の東、ジローナ。
 紀元前、ローマ人によって作られたジローナは、とても良い位置にある。4つの川に挟まれており、水は豊富で、遠く見渡せる高い丘があり、かつてはローマから南スペインのカディスまでの道がここを通っていた。
 オニャール、テール、ガイイガンツとグエイ、4つの川に挟まれた街の景観は旧市街をメインに美しく、カテドラル、旧ユダヤ人地区、市壁、アラブ浴場跡、考古学博物館、川に映る町並み、古橋、中世からの風情ある細道、ランブラス通り、サン・フェリウ教会など、ガイドブックに載せるセールスポイントにも事欠かない。
 そしてバルセロナの100キロ北にあり、またバルセロナとフランスの国境の真中に位置し、夜行列車や国際空港によってマドリードやロンドンへも然程かからないというアクセスに便利なこの街は、活気に溢れている。
 この家は先祖代々からのものらしく、古く、作りもいい。そして首都のマドリードやヨーロッパ有数の世界都市でもあるバルセロナでもなくジローナ、しかも旧市街の端にあるこの家は、かつて遠方からの客、しかもいざという時はあまり人目につかない方が良い客が多かったここの主人にとって都合が良かったのだと、彼は忌々しそうにそう言っていた。
 そしてその主人が凄惨な事件によってこの屋敷で死んだあと、そのおかげで全く買い手がつかなかったこの家に、ルイザは住んでいた。
 彼から譲り受けたこの家と土地の権利書を、自分の実家に頼んでなんとか雇った弁護士経由でその正当性を証明したのだ。書類には、スペインの古い家の人間らしい、やたら長くてややこしい名前のサインが書かれてあった。こんな舌を噛みそうな名前ならそりゃあ改名したくもなるだろう、とルイザは思った。
 正真正銘、前の主人の息子のサインと証明書がついた正式な権利書を持っていた事に加え、凄惨な殺人現場であるお陰で全く買い手がつかず難儀していた物件だったこともあり、思ったより手続きは簡単に済んだ。結局、書類上では彼が正統な持ち主のままだが、ルイザが管理人を任されている、ということになっている。
 嫁き後れで、その素性故に働く事もなかなか難しいルイザがいきなり帰ってきた事に実家は最初難色を示したが、彼女が甥を連れてさっさと出て行ってしまったので、もう何も言って来ない──というか、何も言えなくなっていた。
 失踪した母親、何者かに滅多切りにされて殺された父を持つこの家の息子は、どういうわけだか、神学校の寄宿舎に入って神父になったということになっていた。だがルイザは、彼が神父などにはなっていないことを知っている。

 ──今頃、どうしているのだろうか。

 彼の元を離れてそろそろ11年、そう思わない日は一日もなかった。



「ルイザ」
 全ての花が引っこ抜かれ、すっかり殺風景になった中庭にルイザが呆然としている時、少年は彼女をリビングに呼びつけた。
 聖衣を纏う姿はとても立派だったが、彼がいつもほっぺたにソースをつけながらそこで食事をしている様を散々見ているルイザには、なんて事はない。
「何ですか、ご飯前に仰々しい格好して」
「これをやる」
 彼がドサリとテーブルの上に置いたのは、上等な革のトランクだった。大人が使うにはやや小振りすぎるそれは、彼がここに来る時に持ってきたものである。
 そして彼はパチンと留め金を外して蓋を開けると、中身を一つずつテーブルに並べた。
「これがジローナにある家と土地の権利書」
 唖然としているルイザの前に、シュラは少し分厚い封筒を置いた。父親の財産がどこに消えたのか殆どがよくわからない、しかし先祖代々の家というものを重要視するスペインなので、他のものを処分して相続税を支払い、この家だけが実子の彼の手元に残ることになったらしい。
 そして彼は、元は母親や祖母のものだという指輪やネックレスもぞんざいに並べた。ついている宝石は、いっそイミテーションなのではないかという程大きい。だがテーブルにそれを置いた時の重々しい音で、何となく、それが本物だということがルイザにはわかった。
「……もし聖域がただの胡散臭い宗教集団だった時のことを考えて、家を出る時に手当り次第に金目のものを」
「結構ちゃっかりしてますね坊ちゃん」
「ちゃっかりじゃなくてしっかりと言って欲しいな」
 いつも通りの軽口を叩いたルイザに、シュラは苦笑を浮かべた。
「これを、やる」
「は?」
 思ってもみない台詞に、ルイザは素っ頓狂な声とともに顔を上げた。目の前には、同年の子供よりは随分大人びてはいるが、まだまだ子供の域を抜け出ない顔に奇妙な苦笑を浮かべたシュラが立っている。
「これをやる。もう4年も経っているし俺はまだこの歳だから、権利書についてはちょっと自信がないし、弁護士の紹介状や名刺を持って来なかった。悪いがその辺はどうにかしてくれ。でも宝石類は本物だから、換金すればそれなりの額になるはずだ」
「ちょっと待って下さい」
「ルイザ。聖域を出ろ」
 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「……何を言っているんです」
「俺が何をしようとしてるのか、お前にはわかっているはずだ」
 まだ、子供子供している顔つき。しかしその表情は、とても子供らしくはなかった。
「これから、神官達が動き出す。俺付きの女官で黄金聖闘士たちに一番近かったお前は、格好の尋問対象になるだろう。だがお前を庇う理由が、俺たちにはない」
「坊ちゃん」
「逃げろ、ルイザ。手の届かない所に」
「──坊ちゃん!」
 思わず、叫んだ。ルイザは、目の前の少年を見る。子供の顔に、子供らしくなく険しい表情を浮かべた彼を。それは昨日、涙も流せずに、しかし泣き疲れるようにしてベッドで眠っていた姿を間近に見ていたルイザにとって、とても痛々しいものだった。
 ──これは、つい今朝まで泣いていた少年だったはずだ。
 それなのになぜ、こんなに大人びた、何もかもを受け止めるような顔をしているのだろう。
「……馬鹿言ってんじゃありませんよ」
「ルイザ」
「坊ちゃんが洗濯と裁縫が上手なお嫁を貰うまではここに居ますからね」
「……ルイザ」
「ここにいますからね」
 ルイザは、部屋の中を見回した。何か出来る事はないだろうかと、洗っていない食器や、汚れた床や、籠の中に突っ込まれた洗濯物や、片付けていない本を探した。
 しかし部屋の中は残酷なぐらい綺麗で、ルイザに出来る事は何もなかった。
「ルイザ。お前は頭がいいから、わかっているはずだ」
「だからここに居ろと言ったのは、あなたじゃありませんか!」

 ──ルイザはどこにも行かないだろう?

 ──頭もいいし、……ここが好きだろ?

 甘ったれたように、花の蜜を吸いながら言った少年の声を、ルイザは今も鮮明に思い出すことが出来る。中庭にもうあの花がなくても。
 だがシュラは、笑った。泣きそうな顔でそれでも泣かない微笑は、10歳の少年がするには早すぎる表情だ。だがシュラは、自然に、それをした。
「そうだな」
「……そうですよ」
「でも撤回させてくれ」
 ぐさり、と、ルイザの胸に鋭いものが刺さった。この少年は、ルイザが絶対に言わないと思っていた台詞を言った。
「ごめん」
「……坊ちゃん」
「撤回させてくれ、ルイザ。一生に一度の、お願いだ」
 ルイザは、泣きそうになった。この少年はいつだって、自分で言った事は必ずやり通した。あまり器用とは言えない少年だけれど、時間がかかっても、言った事は必ずやり通した。食べた後は必ず食器を水に浸ける事、服は裏返して脱がない事、自分の部屋は自分で掃除する事、毎日五時に起きて鍛錬をする事、黄金聖闘士で一番の体術の使い手になる事、歳下の面倒はちゃんと見る事、子守りが苦手でもさぼらないことだって。
 そしてそんな少年だからこそ、その言葉は、とても重かった。
「これっきりだ、ルイザ。もう俺は、自分で言った事を撤回したりしない」
「…………」
「約束する。言った事を撤回するのは、俺の一生でこれっきりだ」
「簡単に一生とか言うんじゃありません」
「簡単じゃない」
 強い声だった。ルイザが怯む程の。
「簡単じゃない」
「……坊ちゃん」
「もう坊ちゃんでもない」
 ルイザは眉を顰めた。
「俺はそろそろ大人なんだよ、ルイザ」
「何がどうして大人ですか、あなたはまだ十ですよ!」
「おまえの甥も十だろう」
 もう怒鳴ってやろうと思っていたルイザは、その台詞に出鼻を挫かれる思いを味わった。
「身体を壊して実家に戻って、そしてまた聖域に戻ってきたのは、お前の姉の子供を他所にやらない為だろう。お前の姉も雑兵で、父親がわからないまま身籠って、里帰りしたけど結局死んだって聞いてる。お前は代わりに育てようとしたけど長年こちらに居たせいで外界でまともな職には就けないから、女官としてここで働いて、その代わりに甥を実家に留めてる」
「……どうして知っているんです」
「知ってるよ。馬鹿に頼めば一発だ」
 あの悪タレめ、とルイザは本気でぎりぎりと歯を食いしばり、銀髪のチビを思い浮かべた。馬鹿みたいに頭がよく、にやにやと笑いながら愛してるぜルイザと言う、こまっしゃくれたあの少年。いつもは愛すべき悪タレであるが、今ばかりは本気で憎たらしかった。
「このままここに居たら神官達に尋問されて、悪けりゃドラコン、そうでなくても追放だ。そうなったらお前の甥も他所へやられてしまうし、俺にはどうしようも出来ない」
 その通りだ。しかし、その言葉に素直に従う事もできず、ルイザは押し黙った。
「ルイザ、聞いてくれ。頼むから」
「…………」
「俺は家が嫌いだったけど、同じスペイン人のお前が居て、やっぱり嬉しかった。側に居て欲しいと思って、磨羯宮付きの女官にした。……お前もそうだったんだよな」
「坊ちゃん、私は」
 我が子と同じように思っている、今は亡き姉の子供。そしてもう会えないかもしれないその子供と同じ黒髪、同じ年の少年。何か思わないはずはない。しかし、
「──あの子とあなたは、ちっとも似てなんか」
「いいんだ、ルイザ。その宝石と家で、甥と一緒に暮らせばいい」
「坊ちゃん!」
 悲痛な声で、ルイザは叫んだ。
「……あの子とあなたが同じだってんなら、あなただってただの10歳の子供でしょう!」
「違う。俺は聖闘士だ」
 キィン、と、聖衣が鳴る。小宇宙が通った特殊な金属が触れ合うその音は、“黄金の器”がそれを纏っている時でしかあり得ない音だ。世界で12人だけが纏う星が鳴るような音、そして夜空にあっても見えるのではないかと思う程の、煌めく黄金の輝き。
「いつまでも甘ったれていられない。俺は山羊座カプリコーンの黄金聖闘士、シュラなのだから」
 もう撤回しないと言った口が述べた口上に、ルイザは目の前が真っ暗になるようだった。
「……でも」
 小宇宙を燃やそうが、技を磨こうが、聖闘士も生身の人間だ。確かにシュラは超人的な力を持って生まれた“黄金の器”で、普通の子供とは違う存在だ。だがそれでも、同時にただの10歳の子供でもあるはずだ、とルイザは何かを振り払うように首を振った。
「ありがとう、ルイザ」
 シュラは、笑った。やはり、子供らしくない顔で。
「でも、いいんだ。俺の分まで、その甥と幸せに暮らしてくれ」
「俺の分までって」
 ぐしゃり、と、ルイザがとうとう盛大に表情を歪める。
「……いつもそんなですよ、あなたは」
「…………」
「そうですよ。あなたは黄金聖闘士ですよ」
 しかしそんな過酷な役目を担っているからこそ、好きなものを好きなだけ食べて、花と小さな音楽に囲まれることを許されていたはずではないか、とルイザは悲痛な声を上げた。
「なのに、何もかも捨てちまって!」
 中庭にもう花はなく、ささやかな旋律を奏でる小箱は、墓の中。その上自分が居なくなってしまったら、誰がこの少年に洗濯をしてやり、寝床を整えてやり、食事を作り、ケーキを焼き、コーヒーを入れてやるというのだ。
「何が俺の分ですか、そんなにして、あなたは」
「…………」
「そんなにしてたら、坊ちゃんのものが、何もかもなくなっちまうじゃないですか……!」
 ぼたり、と、テーブルの上に雫が落ちた。
「……ルイザ、ありがとう」
「…………」
「ありがとう、ルイザ。でも、いいんだ」
「よくありません」
「いいんだ、俺は聖闘士なんだから」
 まるで、よくできた兄が「俺は兄ちゃんだから、弟妹の為に我慢する」とでもいうような口ぶりだった。
 しかし大きな視野で見た時、聖闘士とは、もしかしたらそういうものなのかもしれない。無力な人間でありながら小宇宙を持って生まれつき、十にもならない年で神の感覚であるセブンセンシズを身につける彼らは、人類、いや生物という括りの中で数段上の位置に居る生き物とも言える。
 だが彼はその場所で威張り散らすのではなく、何も出来ない下の者を守ろうとしている。黙って、自分の何もかもを犠牲にして。
 そしてそれはシュラに限った事ではなく、聖闘士というもの自体がそういう精神をどこかに持っている。誰よりも近くで彼らを見てきたルイザには、それがわかった。
 すると聖闘士とは、すなわち聖人saintであるのだろうか。儒教においては人格にすぐれた偉大な統治者や、道徳の体現者として理想とされる人物を指し、仏教では菩薩や如来といった、かつて人でありながら神として崇められるまでに功徳を積んだ者を指す。カトリックにおいては、殉教や徳行によって列聖された人物のことだ。
 そうすると、そのどの意味においても聖闘士とはやはり人類という括りの中で特別な存在であり、まさに聖人、いやそれだけではない。戦う為に生まれた聖人と言える。
 小宇宙覚醒者の中にはその力ばかりに溺れる者も多いが、そうでない者たちは総じて聖人の様相が強い者が多い、と、雑兵経験が長く、様々な小宇宙覚醒者を見た事のあるルイザは確信している。そしてその中でもやはり、小宇宙を持って生まれた“黄金の器”たちは抜きん出た存在だった。
 だがそうであればある程、彼らが自分たちと同じ人間なのだという事が、ひどく切ない。いっそ全く別の生き物であれば無遠慮に、そして無責任に縋りも出来ようが、どんなに強大な力を持っていても、やはり彼らは人間なのだ。
 しかしだからこそ、──同じ人間だからこそ、彼らは自分たちを守ろうとするのだろう。好きでそう生まれてきたわけでもないのに。
「いいんだ、ルイザ。もう俺は十分だ」
 十年しか生きていないはずの子供が、そう言った。
「俺はもうたくさん貰った。だからもう、いいんだ」
 花もなく、音楽もなく。がらんとした部屋の中で響いた声に、ルイザは、泣いた。



 その屋敷の玄関先や裏庭には、手入れが出来ないのでもう処分されてしまったようだが、磨羯宮や教皇宮で咲いていたものよりは幾分紫がかった、似たような花が咲いていたと聞いている。そして広間にはいかにも値打ちものらしいアンティークのピアノがあって、幼かった彼が確かにここで暮らしていた事を知らしめた。
 これがどれだけ足しになるかはわからないが、と言ってシュラが片っ端からルイザの手に押し付けた宝石は相当な値打ちもので、甥と二人で新しい生活を不自由なく始めるには十分すぎる金額になった。
 いい思い出があるわけでもないので遠慮なく使えとシュラは言ったが、できるだけそうしたくなかったルイザは、一番最初の元手となる部分だけを宝石に頼り、あとは自分で生活費を稼いだ。確かに学歴の要るような仕事には就けないが、培った超人的体力は伊達ではない。時給が少なくてもばりばり身体を動かして働けば、子供一人を高等学校に入れ、更に料理学校を卒業させるくらいは出来た。
 それに、勝手に屋敷を商売に使う事に最初は迷ったが、最近は屋敷の余った部屋を使って甥の同級生や後輩達を相手に下宿屋を始め、大体安定した収入を得ることが出来ている。何百段何千段という階段を常に昇降し、あの黄金聖闘士候補十人以上の面倒を4年近くも見てきたルイザである。一般人の高校生位、何十人束になってかかって来ようと何という事はない。
 シュラと同い年の甥は全くシュラとは似ていなかったが、しかしそれでも、ルイザは甥の誕生日を祝う度に、あの地図にも載っていない場所の中でも最も奥まった所で暮らす彼が今一体どうしているのか、という事を思い浮かべた。
 甥は今年、21歳になった。料理学校を卒業し、一人前の料理人になるために色んな所をかけずり回っているが、なかなか良い師匠が見つけられずにいて、さっさと定職に就けと尻を蹴り飛ばしている所だ。お前と同い年で神父などメじゃないほど尊い職に就いている人間も居るんだぞ、というのが、その時の常套句である。
 しかしやっと口説き落とした恋人と割と順調につき合っている事に関しては、ルイザも最大限評価している。ルイザの家系らしく縦よりも横方向に体格のいい甥だが、おっとりとしていつつも芯の強い性格は希有な美徳と言っていいとルイザは思っているし、そこに惚れてくれた恋人にも、感謝と好意を抱いている。実際、とても良い娘だ。
 シュラは甥とは似ても似つかない、すらりとした体格をしていた。あれからまた背は伸びたのだろうか、かなりの強面になるだろうと予想していたがやはりそうなっているだろうか、恋人は居るだろうか。
 願わくば裁縫と洗濯が得意な恋人が磨羯宮に居ればいいのだが、どうせあの銀髪の悪たれや無駄に美人な幼馴染みと馬鹿をやっているに違いない。決してモテないわけではなかろうという確信もあったが、その予想が決して外れては居ないだろう確信も、ルイザにはあった。
 だが、それでもいい。せめて元気で居てくれるのならば。

「……どうしてこんな所にいるんだい」
 だが、甥に呼ばれて玄関先まで出てきたルイザは、目の前に立っている男の姿に、呆然とした様子でそんな言葉を発した。
「なんであんたがこんな所にいるんだ、トニ」
「老けたな、ルイザ」
 はっ倒してやろうかと思った。
 外界に出たのは二十五年ぶりくらいだというトニは、お世辞にもおしゃれとは言い難いが、街を歩いても全くおかしくない格好をしていた。革靴に、ズボンに、シャツ。何ら変哲のない恰好、しかし、周りは空しかないあの白い神殿の厨房でキトンや貫頭衣を纏い、編み上げの革のサンダルを履いていた姿しか知らないルイザには、それはとても奇異に見えた。
 しかしトニとて、ルイザに対して同じように思っているのだろう。玄関に出てきた彼女をみた時、彼は女性に対して失礼にも程がある事に、猪がドレスを着て森から出てきたのを見たような顔をした。
「なんであんたがここに居るんだって聞いてるんだ」
 ぐしゃり、とルイザは表情を歪めた。
「あたしは、あんたに頼んだじゃないか。あの子達をよろしくって」
 せめて好きなものぐらい好きなだけ食べさせてやってくれと、できるだけ不自由のないように見てやってくれと、自分が聖域を出る時にとくと頼んだではないかと、ルイザはいつの間にかトニの胸ぐらを掴んでいた。トニでなければ身体が地面から浮いている所だろう。
「──なのに、どうしてこんな所にいるんだ!」
 重量挙げの選手かと思うような体格の大男にかなりの剣幕で詰め寄るルイザに、一体どうしたのかと心配そうに下宿の若者達が降りてきて、とりあえず上がって貰ったらと提案してきた。
 ここに来た頃は、赤ん坊の方がまだ背骨がしっかりしているのではないかと思う程どうしようもない子供だった彼らがトニと自分の間に割って入ってきた事にルイザは軽く感動しながら、何とか落ち着いて、トニを家に上げた。

 全ての経緯をトニの口から聞き終わったルイザは、やるせなさに両手で顔を覆った。
「なんで、あの子達ばっかり」
 嘆いてみるが、その答えはわかっている。
「あいつらには、為そうとしていることがある」
「自分を犠牲にしてまでか」
「犠牲にしてるんじゃねえ、戦ってるんだ」
 トニは、譲らない声で言った。
「あいつらは、でかい事を為そうとして戦ってる。それを邪魔なんぞ出来るかい」
「聖闘士だからか」
「違う」
 フン、と、トニは鼻から勢いよく息を吐いた。
「男だからだ」
 馬鹿じゃなかろうか、とルイザは思った。横っ面を思い切り引っ叩いてやりたい。
「あんたにとっては、未だ10歳のガキのままなのかもしれねえが」
「…………」
「あいつらはもう、守られるような子供じゃねえ」
 トニとルイザの付き合いは、実は長い。ルイザが雑兵を引退したのは二十歳過ぎの頃で、姉が死に、甥が生まれた時、彼女は24歳だった。そして再び女官として聖域に戻ってきた彼女は、他の女官のように見目麗しいわけではないという理由で、厨房の下働きや力仕事を請け負っていたのだ。しかも当時の料理長は老齢であったので、ルイザの仕事も多かった。
 そしてそれから一年後、その老いた料理長の代わりにやって来たのがトニだった。彼とニコルの一件のことはルイザの耳にも入って来ていたが、ルイザの方がふたつ年上である事に加えこの豪快かつ目の前のものを評価する性格である。ひどく寡黙でぶっきらぼう、かつ脛に傷持つ身のトニにも、彼女はいつも通りに接していた。
 アントーニオという名前が長いと言って、トニ、という呼び名を付けたのも彼女である。そして彼は時間とともに、祭壇座アルターのアントーニオではなく、教皇宮料理長のトニになっていったのだった。
 そうして二人は10年近く同じ職場で働いていたのだが、アルターの一件が昔話になり、トニがすっかり何もかもを一人で取り仕切れるようになった頃、シュラがルイザを磨羯宮付きの女官に指名し、ルイザがそれを了承した、というわけだ。
「……知ってるよ」
「…………」
「知ってるさ。あの子達が、いつだって何かを守ろうとしてるって事は」
 もはや人類という枠に収まらない特別な力を持って生まれついた彼らは、更に上の生物である神に陣地を奪われないように戦う役目、すなわち聖戦に赴き神を倒すという使命を担っている。地上に暮らす多くの人々には想像もつかないようなその激務は、実際、殆ど誰も知る事はない。彼らが死力を尽くして何千年も地上を守って来たことを知っているのは、ほんの一握りの人間だけなのだ。
 だから彼らが無力な人々を全く顧みる事がなかったとしても、それは何らおかしいことではない。神が人間に対してそうであるように。それに、彼らが人々に対して与えて来た恩恵は数知れないが、人々は彼らの存在すら知らないのだ。
 だが、彼らはそうしない。彼らは、聖闘士としての義務以上の事をやろうとしていて、そしてそのために、色々なものを犠牲にしているのだ。ただでさえ、聖闘士だという事で被る事が山ほどあるというのに。
「あの子達がどんな凄まじい覚悟をしてそうしてるのか、あたしだってよく分かってるさ。そりゃもう、痛いぐらいに」
「…………」
「──でも、だからって、心配しないわけがないだろう……!」
 ルイザは歯を食いしばり、呻いた。
「何かを得る為に戦ってるんならいいさ。でもあの子達は、失うばっかりじゃないか!」
 どんなに強いと知っていても、もう二十歳を超えた大人になったのだと言われても、彼らがしている事の報われなさを考えると、どうしたってやり切れなかった。彼らが納得の上でそうしているのだとしても。
「百歩譲ってそれでもいいよ。でもあたしは、こんなにしてたら、失うものすらなくなって、とうとうあの子達が消えて無くなっちまうんじゃないかって、心配でたまらないんだよ……!」
「……ルイザ」
 顔を覆って呻くルイザに、トニはいつもより五割り増し厳めしい顔をした。
「気持ちはわかるが、男には何を犠牲にしてもやり遂げなきゃならん時があるんだ。縮み上がった情けねえタマの持ち主だって事になっちまう」
「うるさい、そんな気持ちわかるもんか。そんなことで縮み上がるようなタマならぶら下がってるだけ鬱陶しいばっかりだ、もいじまえ」
「…………」
 女がこういう理由で喚く時、男は黙っていることしかできない。嵐が過ぎるのを耐えて待つように、いくら喚いてもどうしようもないことがあるというのを女が納得してくれるまで、こちらが頑固にかこつけて甘えるのを許してくれるまで、冷や汗を隠しながらひたすら待つしかない。
 ドアの向こうには、数人の若者の気配がする。小宇宙に目覚めていない彼らのそれは、聖闘士の最高峰たちが集う十二宮で暮らして来たトニにとって、まるで締まりのない頼りない気配だった。しかし若い男達が自分のことのように己を心配しているのがわかって、トニは少しだけ心強いものを感じる。
 トニは厳めしい顔で──そして行儀よく脚を閉じて、彼女が自分のタマをもぎたいと思わなくなるのを、黙って待った。
 そしてそれは、ルイザが11年間の彼らの様子を矢次早に尋ねるという事をし始めるまで、延々と続いたのだった。






「沙織お嬢様、ニコル殿が帰って来られましたぞ!」
 何を慌てているのか、騒がしい辰巳の声に、沙織は振り返った。しかしそう無駄に大声を張り上げずとも、ニコルの小宇宙が屋敷に近付いて来ていることは、もうずっと前からわかっている。
 そしてしばらくすると、部屋のドアを開け、ニコルが部屋に入ってきた。
 ──その背には、白銀に煌めく祭壇座アルターのパンドラボックスがある。
「ニコル……? アルターを纏ったのですか……?」
「はい」
 沙織が目を丸くして発した質問に、ニコルは端的に答えた。
 ニコルは、沙織が物心つく前から、城戸の家に、光政の側に居た。後で聞けば、沙織が一歳になるかならないかの頃に光政と出会い、外界での正式な身分を得たという。
 当時20台後半であったニコルは、ヘルメスを彷彿とさせる、ほっそりとしつつも逞しい、美しい容貌をしていた。30台半ばの今でも、その容貌は深みを増しこそすれ、全く衰えてはいない。そしてその優しげな面にはいつも深い陰があり、否が応にも彼が何らかの過酷な過去の持ち主である事を知らしめた。
 しかしそれが彼がかつてアルターの候補生であり、不運かつ複雑な事情によって外界で生きていかざるを得なかったからだったとは、沙織は想像もできていなかった。そして、自分がその聖闘士を統べる女神アテナだったという事は、まさに青天の霹靂とも言える驚愕であった。
 聖域で生まれ育ち、外界で言うまともな教育など一切受けていないというニコルだったが、光政と出会う以前の十数年の間に得たのであろう知識と経験は、大学院卒業者と比べても遜色のないものだった。彼の表向きの経歴はもちろん詐称だが、彼はその嘘の経歴に十分すぎる説得力を与える頭脳を持っていたのである。その上、光政は正式に彼に外界での高レベルの教育を受けさせ、更に様々な免許などをも取得させた。
 沙織が自らをアテナと知らなかったごく幼い頃、ニコルは家庭教師として、沙織に様々な事を教えた。そして彼女がアテナである事を自覚してから、彼は小宇宙について、そしてアテナとして必要な様々な知識を授けた。そうして、彼は正真正銘、あらゆる面で沙織、そしてアテナをサポートする一番の人物となった。
 その働きは、まさに本来教皇を一番に補佐する助祭長・祭壇座アルターとして遜色のないものだ。そして彼は、二十数年前の悲劇の際に聖域から持ち去って来てしまったのだというアルターの聖衣を所持していた。
 しかし彼は、頑にそれを纏おうとはしなかった。彼が言うにはアルターの正式な所有者は聖域に居り、自分にはこれを纏う資格などないのだという。
 そしてそれを語る時の彼の表情は、痛々しい程悲しげだった。
「どうしたのです? あれほど頑に纏おうとしなかったものを……。いえ、もちろんあなたがアルターの聖闘士となってくれるのは喜ばしい事ですが」
「…………」
 ニコルは、目を伏せた。濃いブラウンの睫毛が、彼の頬に影を落とす。その様は彼がアルターについて話すときのきまった表情だったが、しかしいつもより比べ物にならない程陰っていた。
「これの本当の持ち主は、聖域に居ました」
「……?」
 過去形で言ったニコルに、沙織は眉を顰めた。
「死んだ、いえ」
 ニコルは、歯が鳴る程険しい表情をした。彼はいつも、まるで隠れるようにして、小宇宙を必要以上に身の内に納めている。彼の人生の中で何があったのか沙織は詳しくは知らないが、おそらくそうせざるを得ないような環境で長らく生きてきたのだろう。しかしだからこそ、彼がこうして感情に任せて小宇宙を制御しないのは珍しい事、いや、初めての事だった。
「殺されたのです」
 沙織は、絶句した。
「外界に脱走した神官と癒着し、麻薬に手を出して酩酊していた所を粛清されたと」
「まあ……!」
「……そのような事、あり得るはずがない!」
 凄まじい怒鳴り声が響き、辰巳が腰を抜かしかけた。
「祭壇座アルターのアントーニオは、仁智勇に優れた素晴らしい男だった! ……そのような醜態、あり得るはずがない! 偽教皇め、彼に罪を着せて処刑し自分を疑う噂を払拭しようと……!」
「ニコル」
「おのれ……!」
 震える程強く握り締めた拳は、ミシミシと己を痛めつける音すら発していた。
「おのれ、許すものか」
「いけません、ニコル」
 沙織が嗜めた。彼の指導によって急速に小宇宙を成長させた沙織は、この一年で、精神的にも肉体的にも顕著な変化を遂げている。まだ11歳の少女であるが、とてもそうとは言えない程に大人っぽい容貌になっている。小宇宙の活性化は、肉体や頭脳の活性化にも大きく影響を与えるのだ。
「あなたがアントーニオという者をとても尊敬していることは知っています。あなたの言う事が本当なら、それはとても辛いことでしょう。しかし、憎しみや復讐に取り憑かれてはいけません」
「……ええ、わかっています」
 わかっていますとも、と、ニコルは、フーッと何とか息を吐き、気を整えた。
「憎しみや復讐に取り憑かれた者がどういう末路を辿るのか、私が一番よく知っています」
 まだ13だったニコルを人質にアルターの聖衣を持ち出したギルティーだったが、彼は結局、アルターのパンドラボックスを開ける事は出来なかった。当然だ、とニコルは今でも思っている。
 元々その性格故に御し難い男だったが、アルターに認められなかった事で怒り狂ったギルティーは、もはや神官達の手には負えない状態になった。実力だけならアルター候補として申し分ない男だったのだから、元雑兵や元候補生の脱走者達の手に余るのは当然である。
 そしてその状態を何とかしろと、彼らは恥知らずにもニコルにそのお鉢を回して来たのである。
 だがニコルもギルティーには言葉では言い表せないほどのものがあったし、対決する事自体は望む所だった。ニコルは激闘の末ギルティーを倒し、そして双方が気を失っている間に、ギルティーは神官達によって拘束され、彼らが古くから独自の修行地として管理するデスクイーン島に追いやられた。
 ニコルは奴にとどめを刺すべきだと長い間主張したが、それは認められなかった。それはデスクイーンに青銅最強と言われるフェニックスの聖衣が眠っており、それを手に出来れば、と神官達が目論んでいたからだった。
 だが神官達にアルターの聖衣を取り上げられ、デスクイーン島の場所もわからなかったニコルには、それ以上どうする事も出来なかった。
 万がいちにもないとニコルは思うが、フェニックスの聖衣をギルティーが得たとしても神官達に奴が従う可能性など低いのに、それでも浅ましくそんな事を画策する彼らに、ニコルは吐き気を催した。
 あれから二十年余が経つが、ギルティーが動いた気配はない。フェニックスの聖衣を手に入れた可能性はゼロだが、奴が何もせずにいるわけはないので、死んだか、もしくは前から兆候があったようにいよいよ頭がおかしくなってしまったかのどちらかだろう。
 そして今、デスクイーン島には一輝が居る。正式な場所ではないぶん他の修行地と比べて過酷極まる場所であるが、一輝の母は古武道の家元の女性で、彼も短期間だがその心得を学んでいた。ここに居る頃から小宇宙への覚醒の兆候があった彼は、ニコルの目から見て最も有望な子供だった。彼ならば、青銅最強のフェニックスの聖衣を獲得して帰ってくる可能性は高い。
 光政翁が何も知らない自分の実子達にした仕打ちは、聖域で生まれ育ったニコルでも酷いと思う凄まじいものだ。しかし、隠し通せば事実もあってないものとなる。既に90人が死んだという事実はニコルにも凄まじい罪悪感を与えたが、ニコルはその痛みを死んでも抱き続ける覚悟をしているし、生き残った10人に、彼らの父親が誰なのか知らせるつもりは一切ない。
 その点で最も過酷な道を選んだのは、光政の嫡男である盟であろう。彼はシチリアのエトナに行ったが、あそこにはフェニックス以上に特別な聖衣が眠っていると聞く。
 幼い少年達に、自分たちがどれほどの仕打ちをしているのかは、自覚している。そしてその分、自分もそれに見合う働きをすべきだという事も、ニコルは重々自覚していた。
 外界で暮らしながらも修行を怠らず力を付けたニコルは、外界でドブネズミのように動く神官達を脅し、アルターの聖衣を取り戻した。そして今では未だ聖域との道を繋いでいる彼らを使って、聖域の内情を調査し、様々な情報を得、時に意図的に噂を流すなどの行為も行なっている。だがそれでアントーニオが処刑されることになるとは、まさかニコルも思っていなかったのだ。
「ですがこれではっきりしました。今聖域を統べる教皇は悪です、沙織お嬢様……いえ、アテナ」
「ニコル……」
 険しい顔で言い切ったニコルを、沙織は見た。
「アントーニオが殺された今、私はこのアルターの聖衣を纏う覚悟を致しました。これから行なう事にも、このアルターの聖衣は役に立つでしょう」
「と、言うと?」
「現在の教皇への不信を高める噂を、再度流すつもりです。……今度は、聖闘士達にも」
 まずはアンドロメダ島、ケフェウスのダイダロス。人格者として名高い彼が教皇へ疑いを持てば、その真実味はぐっと上がる。そして彼に教皇への不信を抱かせるには、正真正銘本物のこのアルターの聖衣は、大いに役立つだろう。
「ケフェウス以外にも、黄金聖闘士……ジャミール、アリエスのムウや、中国五老峰、ライブラの童虎にも接触を試みるつもりです」
 この両名は前教皇のシオンと縁深く、実際に聖域の招集にも応じていない。おそらくそれは今現在で独自に現教皇への不信を抱いているからだろう、とニコルは言った。
「そして彼らと繋がりを持てれば、聖域内部の様子を探るのも更にやり易くなります。まずはどのようにして素性を隠し教皇に成り代わっているのか、その絡繰りを突き止めようと思っています。何らかの特別な術を用いているのは間違いないでしょうからね」
 沙織は頷いた。
 硬い表情をしている少女に、ニコルは初めて、苦笑であったが、笑みを見せる。
「知恵と戦争の女神には、このようなやり方はもどかしいでしょうけれど、今暫くのご辛抱を」
「いいえ、情報戦は近代に置ける最も有効な戦法です」
 あなたが教えてくれた事ですよ、と沙織は首を振った。腰まで伸びた、素晴らしく艶やかな灰褐色の髪が揺れる。
「ですが、あなた自身はとんでもなく猪突猛進な性格でいらっしゃいますからね」
「まあ!」
 ニコルが肩を竦めて言った言葉に、沙織は面白くなさそうな顔をした。
「一年前、スコーピオンとカプリコーンに要らないちょっかいを出して私の肝を冷やしたのは、一体どちらのお嬢さんでいらしたかな」
 言い返せない。そのせいで、ニコルは今一度、一般社会での姿を隠すはめになった。
「まあ、小言はこれくらいにしておきましょう。ともかく、私はそのようにして動きます。お嬢様は引き続き、グラード・コロッセオの建設とギャラクシアンウォーズの開催を進めて下さい。くれぐれも慎重に──全てお任せしてよろしいですね?」
「もちろん」
「結構」
 ニコルが満足げに頷く。
「──では、アテナ。我らが正義の為に」
 祭壇座アルターの聖衣を背負ったニコルは、深々と礼を取ると、部屋を辞した。



「アイオロス……」
 ニコルが去り、そして辰巳達も全員下がらせた沙織は、傍らにある黄金の箱に、そっと触れた。
「ごめんなさい、アイオロス」
 万がいちの時の為に、本来の姿に色々と加工を施したサジタリアスの黄金聖衣。北欧のアンティークと言い張っているが、それには少々どころでなく無理があろう、と沙織は一人苦笑した。
「皆が仲良く、楽しく暮らせますように……なんて」
 そんな純粋な願いを持っている子供が、今の世の中、どれくらいいるだろうか。毎年夏になれば飾られるどんな短冊にだって、本気でそんな願いを書く者など居ない。そして命を賭してそれを為したかった少年が居たことなど、彼らは露程も知らない。彼らに何千年も守られて来た事を知らないように、人々はのうのうと生きていく。
「ごめんなさいね、アイオロス。……私は、あなたの願いを叶えてあげられません」
 少女の嫋やかな指先が、黄金の輝きを撫でる。
「私は──戦争の女神ですから」
 平和を目指す為とはいえ、その為の手段として、戦争という方法以外の道を取る事が出来ない。アテナとはそういう神なのだということを、沙織は自らの小宇宙が高まるごとに自覚し、魂の奥深くから、理屈抜きで理解した。戦いの為に生まれて来た、それが自分なのだと。
「ごめんなさいね、アイオロス。あなたの友人に、私は刃を向けます」
 背の高い黒髪の剣士は、この目で見たことがある。そして彼の仲間には、銀髪赤目の悪ガキや、薔薇の精のように美しい子供がいる。そして彼らを統べるのは、神の化身とまで呼ばれた少年。アイオロスは彼を断罪することが出来ず、こうして今黄金の輝きとなって沙織の傍らに留まっている。
「……ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければ我が破滅……」
 少女の唇が、皇帝カエサルの勇ましい言葉を引用する。ルビコン川は、もう目の前だと。
「進もう、神々の待つ場所へ。我々を侮辱した敵の待つ所へ」

 ──Jacta alea est.

 黄金の林檎は既に投げ入れられたのだと、少女は言った。それを得る為に、我こそがそれに相応しいと、そう宣言する為に戦うのだと。
 黄金の箱が、キィン、と、星が鳴るような音を立てた。
第11章・Fürchten machen(怖がらせ) 終
BACK     NEXT
Annotate:
『Jacta alea est』……ヤクタ・アレア・エスト、「賽は投げられた」。ラテン語。
BY 餡子郎
トップに戻る

各メッセージツールの用途と使い方
拍手 Ofuse Kampa!