第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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「──あんたは」
 俯いて慟哭の涙を流す元聖闘士に、デスマスクが話しかけた。
「あんたは攫われたニコルを死なせない為に、戦士としてのニコルを貶める嘘の証言をし続け──そしてニコルの代わりにアルターの役目を果たそうとしていたんだな?」
 まんまと聖衣を奪われ、聖闘士として再起不能の障害を負ったトニへの評価は、同情も含めて散々なものだった、と古参の雑兵から既に聞いている。ニコルもまた彼の証言によって戦士として最低の烙印を押されたが、トニも生き恥曝しだと噂は絶えなかったという。
 だがトニはそんな噂の中、完全に潰し切られた脚をヒーリングで無理矢理くっつけ、数年がかりでリハビリをこなした。結果的に再度雑兵数十人が束になっても敵わないまでの立ち回りが出来るようになったのは、流石といったところだ。
 そして周りの評価にも負けずに黙ってそんな暮らしに耐えたのは、ひとえにニコル少年の不憫さを考えての事だろう。
「……最初は、そんなつもりはなかった」
 暫くして落ち着いたらしいニコルは、はあ、と大きく息を吐いたあと、またしっかりした声で話しだした。
「ガキの頃に厨房の下働きをしていた俺は、ろくに野菜も茹でられない後輩どもに飯を作って振る舞ってやっていて、それは俺の持ち芸みたいなもんだった。飯の事を仕切ってりゃ、そうナメられることもねえしな」
 一種の処世術だ、とトニは男っぽく言った。
「脚がダメになった俺は、ロドリオの食堂の主人の勧めで、その持ち芸を仕事にする事にした。……俺はそのまま、あの厨房で一生を終えるつもりで居た。シオン教皇に教皇宮の料理人として徴用されたのは本当に偶然のことだったんだ」
 前の料理長は、老齢を理由に十二宮から降りたようだ。十二宮はあの階段であるので、少なくとも雑兵レベルの体力が必須である。その点、訳ありだが正真正銘元アルターの聖闘士であり、今でも脚を引きずるものの雑兵とは比べ物にならない程強く、しかも料理の腕もいいというトニに白羽の矢が立ったのは当然といえば当然の流れだ。23歳の頃だったという。
「まんまと聖衣を盗まれて再起不能になったなんていう聖闘士として最低の醜聞を立てた俺には、この上ない幸運だった。とんでもない好待遇だ。……そして教皇宮の料理長をするために生まれて初めて十二宮に上がった俺は、アルターはこういうところで仕事をするのか、と思った」
 すっかり元通りの表情になったトニの顔には、涙の跡はもう見えなかった。
「料理長という立場は、戦士でもなければ神官でもない。ただ料理を作るだけの立場だ。……だがだからこそ、見えてくるものもある」
 教皇宮の料理長の仕事は、教皇の食事を作るだけではない。教皇宮には神官、女官、そして交代制の儀仗兵が常に控えており、そういった人々に食事や賄いを作るのも料理長の仕事だ。
「戦士でも神官でもない、ただの雑用、料理人。しかも俺は最悪の醜聞を立てた身で、神官達に大層ナメられている。そういう俺に対しては、誰も彼も態度や口が緩むもんだ」
 そうでなくても、食事をしているときの人間は総じて無防備になる。だからこそ和合を目的とする場は食事会という形態を用いる事が定番なのだ。
「……サガが十二宮に来てから、サガに神官達の内情を教えてやってたのはアンタだそうだな」
 シュラが言った。サガは神官達の悪事を暴く為に奔走したが、黄金聖闘士の最年長であり、神の化身とまでいわれているサガは、当然、神官達に最大限警戒されている。しかし料理長であるトニはそうではない。サガはトニを通じて様々な場所に入り込み、情報を得、ついに教皇宮最奥の資料室で、幻朧魔皇拳の秘伝書を発見することが出来た。
 そしてトニは、おそらくこれはサガではないと気付きながらも、カノンにも手引きをした。あの崖が最も安全なルートだとカノンに教えたのも、おそらくトニだ。
 最も教皇の側近くに控え、聖闘士でありながら神官を監視するアルター。トニはその役目を、料理長という役職を時に利用しながらずっとこなしていた、というわけだ。
 それはニコルを救えなかった罪悪感からくる贖罪行為であり、そして彼から一度アルターを託されたのだという彼の自負による行動なのだろう。
「……だが、……トニ」
 言いにくそうに、非常に複雑な表情で切り出したのは、アフロディーテだった。
「あなたはずっと何もかもを承知で、サガや私たちに協力していたことになる。──それは、シオン教皇を裏切ったことになるのだぞ」
 トニが教皇宮へ上がり、料理長となったのはシオンの指名があったからだ。しかしトニは神官達の内情をシオンではなくサガに教え、そしてカノンを手引きし、更にデスマスクたちにアテナ神殿への侵入ルートを教えた。それは、教皇であるはずのシオンをまるっきり無視した行動でもある。
 そしてそれは、自分を重用したシオンに対して恩知らずの裏切りといえる行為だ。
「そうだ」
 トニは、重々しく頷いた。
「俺は、20年近くも“下”で過ごし、聖闘士の修行の何たるかを嫌という程骨身に沁みさせて生きてきた。……だが神官達や、……そして初めて会った教皇シオンも、“下”のことを微塵も考えていなかった」
 その強大な小宇宙によって200年以上も生きながらえているというシオンは凄まじい威圧感を持っていて、いくら“下”でもてはやされようとも精々白銀聖闘士止まりのトニにとっては、化け物、もしくは神にも等しい存在だった。そしてそんなシオンは、一度として候補生達を案じたり、“下”の様子を気にする事などない人物だった。
「……俺はサガみてえに、常々許せないと思っていたとか、そういうわけじゃなかった。というより、あのひどい環境の中で生き抜く事で精一杯で、そんな事を考える余裕なんぞなかったからな。……だが、いざそんな神官達と教皇を見て、正直な所、俺は軽く絶望したよ」
 建前として内務を請け負うはずの神官達の無能と聖域の私物化、そんなどうしようもない腐敗に加え、肝心の教皇は聖戦の事と次代の黄金聖闘士、また自分の後の教皇のことで頭が一杯、──つまり早く自分の責任を放棄したい、というような状態だった。
「どいつもこいつも、自分の事しか考えちゃいねえ。教皇も、神官も、ギルティーの野郎も、皆だ」
「…………」
「だが、サガは違った」
 サガが“黄金の器”の資質を認められて十二宮に上がってきたのは6つの頃で、それはちょうどトニが23歳で料理長になったのと同じ年だ。十二宮勤めを始めた年という意味で、サガとトニは同期に当たる。
「見た目も含めて、まるで人形みたいな子供だった。いつも教皇や神官の言う事を犬みてえに忠実に聞いて、良い子だ、天使のようだと言われて」
 そしていつの間にか、神の化身とまで言われるようになっていた、とトニは言った。
「だが、真実、よく出来た子供だった。俺が初めてサガという子供を意識したのは、奴が俺の作った飯に“ご馳走様でした”と言った時だ」
 茶色の目に、懐かしげな色が浮かぶ。
「ご馳走様でした、美味しかったです、ってな。そんな事を言ったのは、あのガキが初めてだった。神官達は一度も言ったことの無いその言葉をあの子供はさらっと言って、しかも食器を重ねて返しに来た」
 俺は感動したね、とトニはしみじみと言った。三人は、やや呆れつつも、初めて笑みらしいものを浮かべる。
「アンタの基準は、いつも飯だな」
「何が悪い。食う事は人間の基本だ」
 フン、とトニはいつも通りらしい、でかい鼻息を鳴らした。
「……だがその事で、俺はあの子供がただ神官達のいいなりになってる「良い子」なんじゃなく、正真正銘出来た──いや出来過ぎた子供なんだという事に気付いた」
 神官達は、俺に感謝を示せとも、洗い物を手伝えとも、ひとこともサガに言った事なんざなかったんだからな、とトニはずっしりと言う。
「それだけじゃねえ。あれはいつも他人の事ばかり考えている。お前らも知ってると思うがね」
 いつも誰かの言うことを黙って聞いて、よく考えてから、そしてやっと控えめに話しだしていたサガ。とてもまどろっこしく、しかし誰もが損をしない、何も関係ない自分だけが苦労をするやり方ばかりをしていた、神のようだと言われた少年。
「“下”に行って人々に力になるにはどうしたらいいか、どこに行くのが一番いいか、……そんな事をいつも俺に尋ねたよ。まだ10にもならん子供がだ」

  ──トニ、“下”で一番困っている人がいるのはどこ?

  ──どうすれば一番助かる?

  ──ご馳走様、とても美味しかった


「…………」
「なあ、……比べもんにならんだろうが」
 自分の事しか考えておらず、私利私欲の為に聖域を私物化する神官達、そして200年あまりの責任に疲れ、老い、ひたすら己の終焉を臨む教皇。日々の糧に感謝する事も忘れきった大人達に比べ、あの金色の子供の振る舞いは、何と清廉に煌めいていて、何と思いやりに溢れていることか。
「ニコルは13にして俺にアルターを譲れる程の器を持ち、サガもまたそれ以上のものを持っていた。俺がどっちの味方をするか、深く考えなくたって決まりきった事だ」
「だが、トニ」
「──ガキども。俺は大人だ」
 6フィートを越し、とっくに小窓を通れなくなった三人に向かって、料理長は言った。
「ガキの面倒を見るのが、大人だ。いくら頭が良かろうと、腕っ節が強かろうと、ガキはガキなんだ。そしてガキの面倒を見るのが大人の役目で、忘れちゃなんねえ矜持だ。──なのに、ガキのサガがああまでしてるってのに、神官や教皇の情けなさといったらどうだ」
「トニ」
「俺は何一つ後悔してねえぞ」
 今までで、一番強い声だった。
「俺は俺の信念に乗っ取って行動した。俺は、……聖衣はねえが、アルターの聖闘士として、料理長として、大人として、誰に恥じる事もしちゃいねえ」
 おまえ達に力を貸した事を自分は何一つ後悔していないと、一昨年40を超えた料理長は、頑として言ってのけた。
「──お前らだってな」

  ──お願いだ。アルデバランに力を貸してやってくれ

  ──デスマスクを見てやって。とても落ち込んでいるんだ

  ──あー……。それはそうと、トニ、このこと……


 ぐっと目を閉じれば、心配そうに覗き込んでくる、まだ幼い顔が目に浮かぶ。
「俺は、ずっとおまえらを見て来た。ここで、この厨房で」
 料理長は、大きくなった子供達を、真っすぐに見た。
「お前らは、いつだって間違ってなかった」
 揺るぎのない、太い声だった。力強く背を叩くような、激励するような。自信を持て、と言っているような。
「……俺達はもう、……子供じゃあない、トニ」
 言ったのは、シュラだった。立派な体躯に纏う山羊座の黄金聖衣と白いマント、その姿は確かに子供ではない。しかしそれとは裏腹に、子供ではないと言った声は、どこか弱々しさを隠しきれていなかった。
「……そうかい」
「…………」
「…………そうだな」
 ふっ、とトニは俯いて、僅かに笑んだ。
 ここに来るとき、少年達はいつだってただの子供だった。小窓を潜り、つまみ食いをして殴られて、皿洗いを手伝って、野菜の皮を剥いて、文句を言いながらも妙に丁寧に食器を仕舞い、出来上がった料理や菓子に歓声を上げる。間違っても、聖衣を纏っている事などなかった。
 だが目の前にいる三人はいま、一分の隙もなく黄金の甲冑を着込んでいる。──少しだけ、泣きそうな顔で。
 大人なんだったらそんな顔してんじゃねえよ、とトニは苦笑しながら呟いた。
「──で? 俺にどういう命令をしに来たんだ、黄金聖闘士様」
 三人が、ハッとした顔をする。目を見開いたその表情が、皮肉にも、余計に幼く見えた。
「……気付いて」
「当たり前だ、俺を誰だと思ってる」
 十二宮の一番の事情通、料理長でありながらアルターの役目を間違いなくこなしているこの男は、自分が今どういう状況におかれているのかを、正しく理解していた。
「情けない顔すんな」
「……トニ」
 三人は、押し黙った。
 本当は、聖衣などを纏ってここに来たくはなかった。この男に、命令などしたくはなかった。しかも、こんな命令を。
「大人になったなら、もうわかってるだろう。黄金聖闘士と料理長の俺と、どっちが偉いのか」
 やめてくれ、と言いたかった。だがトニの言う事はいちいち事実で、尖ったそれは色々な所に刺さって三人を縫い留める。
「さあ命令しろ、黄金聖闘士。お前達の、俺たちの聖域の為に」
 お前は何も間違っていない、堂々としていろ。激励するような、強い声。
 そして三人の青年は、まっすぐに、目の前の男を見た。背筋を伸ばしたその姿にはもう、どこにも頼りなげな所などない。
「──十二宮料理長、アントーニオ」
 山羊座の声は低く、腹に響いた。蟹座が息を吸う。
「謀反人である神官数人と癒着し、脱走者を手引きした罪により──」
 十分息を吸ったつもりだったが、喉が詰まった。魚座が言う。
「追放とする」
 何とか言い切った三人に、男が笑う。いつだってぶっきらぼうに拳骨を落とすばかりだった男が初めて見せた、褒めるような笑みだった。
 そしてそんな彼に、三人がとうとう堪え切れずにぐしゃりと表情を歪める。
「……公開の“ドラコン”じゃないのか? 構やしねえぜ、俺は」
「馬鹿言うな」
 つい先程、折角きちんと言い切ったというのに、シュラの声は震えていた。
 広まってしまった不穏な噂は、時間の流れに任せておけば消えるだろう、というような悠長なレベルでは既になくなっていた。そしてそこまで広まってしまったものに片を付けるには、見せしめの効果も含め、全ての元凶だとされるものを皆の目の前で処分する、というのが一番いい。
 そしてその全ての元凶、犯人だというのが、十二宮の教皇宮に長年勤め、黄金聖闘士達から最も近い場所に居て、幼少の頃から彼らの面倒を見ている事を誰もが知っているトニならば、説得力は抜群だろう。それが例え冤罪であっても。
 しかもその方法は、彼の言う通り、公開処刑の“ドラコン”が最も効果的だ。
 しかし、聖域という場所の為にいつでも躊躇いなく殺してきた三人は、どうしてもそれをすることができなかった。革命という大望の為にいくつもの残酷な案を出しそれに決断を下してきたサガでさえ、追放が精一杯だった。
「馬鹿はどっちだ。そうするのが一番いいってことはわかってるだろうが」
「黙れよ」
 妙に穏やかな声で言うトニに、三人は一層表情を歪めた。
 トニは、何もかもを知っている。そして全てを知っているのに何も言わず、黙って手を差し伸べ、時に容赦なく叱りつけ、そしてどんな時も全面的に味方をしてくれたこの男がいたから、彼らはこの11年、いやもっと前から、この聖域に来てからの十数年を過ごすことが出来た。
 そんな彼を殺す事は、いかにこの4人でも、どうしても出来なかった。
「黙れよ……」
 消え入りそうな声を出して俯いたシュラを、デスマスクとアフロディーテが見る。しかし彼らも、シュラと同じような表情をしていた。
「……情けない顔すんじゃねえって言ってんだろ。──ああ」
 トニは、がりがりと頭を掻いた。
「わかったよ」
「トニ……」
「だが、やはり追放じゃヌルすぎる」
 泣き出しそうな顔を上げた三人とは裏腹に、彼は射抜くような目をして、彼らに向き直る。それは間違いなく戦士の目、しかもどっしりと頼もしい、熟練の兵の目だった。
「公開処刑が一番いいが、それがダメなら」
「トニ」
「わかってる。ちょっと黙ってろ」
 厳しい声に、三人は大人しく口を噤んだ。
「西地区の5番宿舎に住んでる、ティモスって雑兵が居る。こいつが結界の森の綻びから度々外に出て色々仕入れちゃ捌いてるんだが、その中に、最近煙草がある」
「……マリファナか?」
「そうだ」
 直ぐさま察して反応したデスマスクに、トニは頷いた。
「まだ奴が少々仕入れただけだから雑兵連中の一部しか知らん事だが、放っとけば爆発的に広まっちまうだろう」
 厄介な、と三人は苦い顔をした。
 サガが上下水道の環境を整え、そして農作、酪農、製鉄、革や石などの細工、裁縫、洗濯、食事提供など、非戦闘人員達の職業を制度として確立し、人々が担う役割とその範囲をきちんと決めてから、聖域はより安定した生活水準を保った暮らしができるようになった。
 しかし相変わらず外界に出る事は禁止されており、しかも聖域にはろくな娯楽がない。よって、主に雑兵達の間で、賭博を始めとした娯楽が急速に流行ってしまった。もちろんかつてから細々とそういった裏の娯楽は行なわれてきていたが、散々な環境でまず生きる事に精一杯だった頃は、要するに遊んでいるどころではないので然程の規模ではなかったのだ。しかし生活が安定し、各々の負担が軽減した事によって、皮肉にも、自ら身を滅ぼす者が出てきてしまった。
 見つけ次第取り締まる事にはしているが、頭ごなしに取り上げるのも士気の低下に繋がってしまう。よって何らかの季節の催し物の案、また酒精の醸造を試みる案も出ているが、まだまだ他の事で忙しい今、具体的な段階まではまだまだ遠い状態だ。
 そしてそんな様子のこの場所でマリファナ混の煙草など、トニの言う通り、放っておけば爆発的に流行ってしまうだろう。しかも大麻自体は栽培が非常に簡単で、繁殖力が強い。そのことに誰かが気付いてしまったら、聖域が大麻天国になってしまうのに然程の時間はかかるまい。
「このティモスと俺が繋がっていた、ということにしろ。俺が外界に逃がした神官をティモスに紹介、斡旋。そしてそのルートで手に入れた大麻に俺がハマッて抜けられなくなり、仕入れ人であるティモスに縋るようになった、とな」
 外界で麻薬を仕入れていた雑兵と、かつて聖衣を奪われて障害者になった雑兵上がりの料理長。生々しい説得力は抜群だろう、とトニは落ち着いた様子で言った。
 それに、このギリシャで大麻を持っているという事は、一般社会でも軽くない犯罪と言える。
 ヨーロッパにはオランダをはじめとしてマリファナを合法化、もしくは軽犯罪としてしか扱っていない国も少なくない。ギリシャも1870年に大麻使用が全土に普及したが、現在、ギリシャは医療行為で使用する以外の大麻の使用と栽培を刑事罰の対象とする国のひとつである。周囲の国にマリファナが普及しているだけに、取締は厳格で、囮調査なども行なわれており、入手は困難だ。
 煙草よりも依存性は低いとして合法化を進める国もあるが、ギリシャ・パトラス大学病院の博士は、マリファナを長期に使用すると記憶力や認知能力に障害が生じるという研究結果を発表している。このように、ギリシャは大麻に関して比較的否定的な国だ。
 そしてそれだけに、大麻混入の煙草を入手してきたというのは大変な事だ。そのティモスという男が実際にどうやってその煙草を入手してきたのかはわからないが、それは世界各国に散らばったとされる脱走神官と繋がりがあるという有力な証拠として申し分ないものでもある。
「そしてティモスを公開処刑。俺はマリファナで酩酊してる所を粛清されたとか、そんな感じでいいだろう。ジャンキーなんぞ公開処刑にも値しないのでさっさと殺した、とか言えばいい」
「…………」
「それに23年前の俺の醜聞は、古参の雑兵なら割と誰でも知ってるからな。そんな俺がそういう末路を辿ったって、疑う奴なんざ誰もいねえ」
 完璧、と言っていい案だろう。アルターの聖衣はパンドラボックスの中から彼の前に姿を現す事がなかったが、今の彼の姿は、教皇の為に内政を補助する祭壇座アルターとして申し分ないものだった。広い事情に通じ、戦士として現場の空気を正確に読み、大きな視野で政治的判断を下す役目。
「色々細かい所はサガに任せる」
「……わかった」
 三人は、重々しく頷いた。
「──で? 俺はいつここを出て行きゃいいんだ」
「出来るだけ、早く」
「わかった」
「聖域を出たら」
 わざとらしいほど堂々としているトニに比べ、若者三人の声はすっかりぼそぼそとしていた。
「ルイザのところへ」
「……スペインか」
「不自由はないと思う」
「気を使わんでいい」
 バシッ、と膝に大きな手を叩き付け、トニは椅子から立ち上がった。
「しかし、巡り合わせだな。こういうことになるたあ」
 トニは、不敵とも言える笑みを浮かべた。
「いや、……いっそ俺には相応しい」
 かつてニコルは彼によってギルティーらの罪を全て被せられ、そしてそのことによって命を救われた。そして今、今度は彼が、サガたちにかけられた疑いを全て被って聖域を出て行く。最低の末路の果てに死んだ、聖闘士の恥さらしとして。
「俺の事は気にするな」
 三人の背丈は、トニともう然程変わらない。しかも聖衣を纏い、ヘッドギアを装着しているぶん、三人の方が立派で、大きく見えるはずだった。しかし三人には、聖衣など纏っておらず、ただ年季が入って汚れたエプロンを巻いただけのトニが、とても大きく見えた。
「俺が、何もかも持って出て行ってやる」
「トニ」
「お前達はいつも正しかった。いつも見てた俺が言うんだ、間違いねえ」
「トニ、」
「心置きなく、自分たちが決めた事をやれ」
「死ぬな」
 それは、誰が言った言葉だろうか。
「生きていてくれ」
 行かないでくれ、とは言えない。そう出来なくしたのは自分たち自身なのだから。
 しかしせめて、と、彼らは願った。もう会えないかもしれない、しかしこれだけは、と。
「……馬鹿め」
 俯く三人に、料理長は言った。
「甘ったれたガキみてえな事言うな」
「いつもガキ扱いするのはあんたの方じゃねえか」
「黙れ」
 いつも通りに口答えをした銀髪の頭を、トニが勢いよく叩いた。キャンサーのマスクが盛大にずれる。デスマスクは複雑な笑みを浮かべ、それを外した。
「死なないでくれ」
「…………」
「頼むから、生きていてくれ」
 自分たちにはもう手の届かない、どこか平和な所で。
「……この、クソガキどもが」
 トニは、一番近くにあった黒髪の頭に、乱暴に手を置いた。山羊座のヘッドギアが、音を立てて厨房の床に落ちる。
「馬鹿野郎。ガキが余計な心配すんなって、何度言やあわかるんだ」
 生まれつき小宇宙に目覚め、超人的な力を持っていた子供達。だが料理長にとってはいつだって彼らは元気のいい子供で、そしてその頭の位置がすっかり高くなってしまっても、もう大人なのだと口先で言ってはみても、それは永遠に変わらないことだった。
 その証拠に、今の彼らの表情は、11年前にここにやって来た時と、全く変わってはいない。アイオロスを殺したかもしれないと、聖衣を着たまま虚ろにスープを掬っていたシュラ。きびきびと行動しては居るが、常にシュラの様子を伺っていたデスマスク。そして誰よりもいつも通りに振る舞う事で場の空気を引き上げていたアフロディーテ。シュラが全く食欲を見せない横で、彼は普段の1.5倍もの量をわざと乱暴に詰め込んでいた。食欲など、あるはずもないのに。
 そして彼らは、こぞってトニの様子を伺った。自分たちの味方などして、お前は大丈夫なのかと、心配そうな顔で。
 人ならざる力を持って生まれた“黄金の器”、しかしこの厨房にいるときの子供達はいつだってそんな風だった、と、大きくなった彼らを見て、料理長は再度深く感じ入る。
「俺の事なんぞ、心配しなくていい」
「トニ」
「気にするな。──生き恥曝して過ごすのにはもう慣れてる」
 23年そうしてきたんだ、今さらなんて事はない、とトニは力強く言った。
「心配するな、俺は元気にやっていく」
「……トニ、」
「だから、お前らも」
 トニは、三つの頭を引き寄せる。トニが彼らを抱擁したのは、初めての事だった。
 彼らの図体はもうすっかり大きくなり過ぎていてまとめて抱くには無理があったが、無理矢理、トニはそうした。
「死ぬなよ」
 一人前の聖闘士、しかも黄金聖闘士には言ってはいけないだろうか、と思いながらも、トニは言った。言わずにはいられなかった。
「俺より先に死ぬなよ、ガキども」
 カラン、と音がした。魚座のメットが、アフロディーテの手から落ちた音。
「俺はもう、ここでお前らを見てやる事は出来ねえ」
 菓子や料理を作ってやる事も、つまみ食いをぶん殴って叱る事も、仕込みを手伝わせる事も、もう出来ない。こうして、抱きしめてやる事も。
「頑張れ」
 すっかり大きくなった三人を、彼は、乱暴に抱きしめた。
「俺がいなくても、頑張れ」
 激励とも願いともつかぬ、しかし切実な声。
 三人は、初めて彼の背中に腕を回す。いくらトニが大柄でも、六本の男の腕では、すぐにその背中はいっぱいになってしまう。
 しかし三人にとって、その背中は、やはりとても大きかった。






 二日後、雑兵・ティモスの処刑が行われた。
 聖闘士として最低の恥を晒した料理長の墓は、聖域のどこにも作られなかった。

「──シュラ」
 ティモスの処刑立ち会いを終え、磨羯宮まで戻ってきたシュラの背中に声がかかる。
 振り向いたそこに立っていたのは、アルデバランだった。肩の幅に脚を広げて立ち、太い腕を組んで立つその格好は、彼のファイティングポーズでもある。シュラは、僅かに目を細めた。
「トニは、死んだのか」
 すっかり低い声のアルデバランは、予想通り、黄金聖闘士のうち誰よりも逞しい容貌の巨漢に育った。その体躯は背が高いと言われていたシュラをとっくに追い越し、そして子供の頃から変わらない柔らかい茶色の目が、既に頭一つ分高い位置からシュラを見下ろしている。
「死んだ」
 シュラはそんな彼を見上げ、微塵も動揺のない目で、淡々と言った。
「……あの人は、そういう男じゃない」
 だがアルデバランも、シュラから目を逸らさなかった。
「俺はあの人の教え子だ。トニがどういう男かはよくわかっている」
 シュラが頼み込んでトニに教えを請うことになったアルデバランは、トニの弟子を自称している。自称なのは、トニが認めないからである。
「トニは、そういう男じゃない」
「そういう男だったんだ」
 固い声で、シュラは言った。
「奴は、惨めな最期を遂げた聖闘士の恥さらしだ」
「…………」
 アルデバランは、豊かな眉をぐっと顰めた。その巨躯に似合わず非常に温和な性格のアルデバランだが、やはり顔の造り自体は厳ついので、こういう顔をすると非常に迫力がある。
 だがシュラとて、眼光の鋭さでは他に類を見ない強面である。二人はそのまま睨み合うようにして立ちあい、そして先にアルデバランの方が、目を伏せた。
「……わかった」
 一体肺活量はどの位あるのだろうか、大滝のような大きく深い溜め息をつき、アルデバランは一度ぎゅっと目を瞑ってから、もう一度シュラを見た。
「わかった。……トニは惨めな最期を遂げた聖闘士の恥さらしだ」
「…………」
になったんだな?」
 何かを堪えた顔でそう言ったアルデバランに、シュラが眉を顰める。
「──アル、」
「もういい」
 アルデバランは腕組みを解き、右手を腰に当てて俯いた。
「シュラ、貴方とてあの人がどういう男だか知っているはずだ。俺と同じように」
「…………」
「くそ」
 珍しく悪態をつき、アルデバランは伸びたブルネットの髪を乱暴に掻き上げた。
「トニがどういう男だか知っているように、俺だって、貴方がどういう男だか、ある程度はわかっているつもりだ。だから貴方が何か俺に、……いや俺たちに何か隠している事ぐらいわかる」
「アルデバラン」
「だがそれを教えてはくれんのだろう。それだってわかっている」
 はああ、と、アルデバランはもう一度ため息をついた。
「そして貴方が俺にして欲しいことがあるとすれば、何も聞かない事なのだろう。だから俺は、貴方と同じように言ってやる。トニは恥さらしの最悪の男だった」
 シュラが眉を顰めるが、アルデバランはそのまま続けた。
「やめろ、などと言うなよ」
「…………」
「俺と貴方が知っているトニは、そういう男ではなかった。でも貴方は俺に何もさせてはくれん。……だから俺は、貴方が口にする、言いたくもない事を一緒に言ってやる。貴方はそれを言うなと思っているだろうがな」
 ささやかな意趣返しだ、と、アルデバランは少し刺々しい声で言った。
 普段、トニのことをこんな風に言えば、シュラは相手が誰だろうと殴り掛かるくらいの事はしかねない。──自分と同じように。そして今だって、本当はそうに決まっている。だがあえてそんなことを言うという事は、何かを隠しているに違いないのだ。アルデバランはそう思っていた。
「貴方がトニを悪く言うなど、あり得ない。俺は知っている」
 そしてシュラは、何も知らないお前だけはそんな風に言ってくれるな、と思っているのだろう。本当は誰よりも素晴らしい男だった、あのぶっきらぼうな料理長の事を。
 黙りこくったシュラの形相は、最早もの凄いことになっている。
 しかしシュラがそういう顔をする時、それはひどく困り果てているときだという事も、アルデバランは知っていた。これは泣き喚いたり無理を言ったりする自分たちの横に、途方に暮れて突っ立っているときの顔だ。
 こんなに嘘が下手なくせに、つくづく似合わない事をする人だ、とアルデバランは目の前の先輩を見る。
「……俺と貴方は仲間で、貴方は俺の、恩ある先輩だ」
「…………」
「俺は貴方がどういう男だか知っている。貴方はいつだってそんな風だ。俺に何も返させない」
「何を、言っている」
「ケーキも、花も、剣も、なにもかも」
 俺は貰いっぱなしだ、というアルデバランの表情には、残念そうな深い悲しみと、少しばかりの怒りが表されている。しかしその怒りも、殆どがやるせなさで構成されていて、シュラは一層眉を顰めた。
「だから俺は何も聞かず、貴方のやることに従おう。……トニは最悪の恥さらしなのだと」
「…………」
「だが、……ひとつだけ聞かせてくれ」
 強ばっていたアルデバランの頬が、僅かに崩れた。ぶるっと震えた唇が、言葉を紡ぐ。
「あの人は、生きているのか」
 懇願するような声だった。頼むから、それだけは、という思いが込められた。
「シュラ。あの人は、どこかで生きているのか」
「…………」
「シュラ」
 縋るような茶色の目に、シュラは思わず背を向けた。白いマントが翻る。
 シュラが薄い唇を噛み締めているのを見た者は、誰も居なかった。
「シュラ、」
「死んだ」
 喉の奥から絞り出すようにして、シュラは言った。
「トニは、死んだ」
 アルデバランは、シュラの背中をじっと見つめている。
「──に」
 よく出来た後輩には、その言葉で、不器用な先輩の胸の内を察することが出来た。
「……そうか」
 だが、に、というあとに、しておいてくれ、とは言わない、──あくまで自分に求めようとしない彼に、再度やるせないものを抱く。
 背を向けたまま振り返らないシュラに、アルデバランも背を向けた。
「俺たちは黄金聖闘士で、仲間だ、シュラ」
「…………」
「だから俺はいま、何も聞かずに貴方に従うが」
 アルデバランは、太い腕をもう一度組んだ。
「──だが、貴方がこれ以上仲間である俺たちに隠し事をし続けるのであれば、俺はもう黙ってはいないからな」
 そう言って、アルデバランは階段を下り始めた。
 少ししてから、シュラが振り返る。下から二番目にある自分の宮へ向かって迷いなく歩いていく彼は、一度もシュラを振り返らなかった。
 遠目でも大きい背中は、彼の師匠である料理長の大きな背中に、とてもよく似ていた。
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BY 餡子郎
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