第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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 城戸邸にシュラとミロが出向いてから、もう一年が経とうとしている。
 あの時ニコルは何もかもを知らぬ存ぜぬで通し、沙織の不可解な言動についても、シュラはその時それ以上の追求をしなかった。あとはサガやデスマスクの仕事であると判断したからだ。
 そしてその判断は咎められる事がなくむしろ妥当で賢明なものだと当時は思っていたのだが、今となっては、あの時シュラに屋敷の一つや二つぶった切らせておくのだった、とサガは悔いている。
「グラード財団が子供の行く先を知らぬわけがあるまい、渡航費用や手段はグラード財団持ちなのだからな」
 プラチナブロンドのサガは、しかめっ面のまま溜め息を吐いた。
 あの日と同じように彼の前に立つシュラは、そういえばそうだ、と納得して小さく頷いた。こういうことに素で気付けない辺り、やはり自分は諜報に向いていない、と彼は暢気な自己判断を下す。生まれつきの無能の前にはいくら努力しようと無駄という事をとくと知っており、その結果、逆の分野でのプロフェッショナルとなったシュラは、こういうところ割り切りが早い。
「……くそっ」
 少し珍しく、サガは舌打ちした。
(ニコルとかいう男、相当な狸だ)
 あの直後、ニコルは解雇されたという形で完全に行方を眩まし、沙織も一切合切の面会を行なわなくなってしまった。デスマスクやアフロディーテ、そして白銀たちに散々グラード財団周辺の捜索を行なわせたが、さすがに天下のグラード財団である。ネズミ一匹入れる隙もなく、そして一般社会における権力やコネ、それどころかまっとうな立場さえ持たない自分たちには、どうしようもなかった。
 もちろん聖闘士としての能力を駆使して、「こっそり忍び込む」という形での実力行使も何度か行なったが、それでも大した情報は出て来なかった。
「そういえば、あの沙織という少女が実際の経営者本人だというのは本当だったのか?」
「……ああ、それは白銀達が調査した結果、本当のようだ」
 シュラの疑問に、サガは頷く。
 彼とデスマスクが中心となって研究した『仁』『知』『勇』の小宇宙の概念、それによれば、一般人の高レベル知能指数保持者は、無意識的に『智』の力を使っている者たちにあたる。沙織という少女はおそらくそのタイプなのだろう、とサガは言った。
「だが、少々気にかかるのは確かだな。ただの優等生止まりなら何という事はないが、あの年齢でここまでの事をやってのけているという事は、一般人レベルの小宇宙覚醒の域を明らかに超えている」
 天才も、二十歳を過ぎればただの人──という言葉通り、小宇宙に目覚めていてもそれ以上の修行の仕方を知らない一般人は、秀でた精神年齢や頭脳にやがて実年齢が追いついてしまう、というのが大概だ。
 小宇宙にも漠然と成長期のようなものがあり、18歳くらいまでが放っておいてもそれなりに成長するいわば第一次成長期、そして18歳を超える頃になると小宇宙は安定し、それ以上は本人の努力によってしか成長しない。よって、成長の止まった小宇宙に実年齢が追いつくのが20歳くらい、となるわけだ。
 しかし沙織は、11歳という年齢で、巨大コングロマリットを順風満帆に、いやむしろ更なる新規開拓にまで手を伸ばし、しかも大成功を治める経営を行なうという、大人でもなし得ない業績を築いている。これは、天才というにももはや収まらぬ器だ。
「……だが、子供でもあるだろう」
 少なくともあの時会った沙織はまるっきり子供だった、とシュラは少し首を傾げた。
「いいや。『智』の小宇宙が優秀な高レベル知能指数保持者に、実年齢など無意味な数値に過ぎん」
 小宇宙の闘法では、周りが一動く間に十動く『勇』の技術によって音速や光速の動きを可能とするが、『智』の小宇宙を発達させるという事は、まさに一を知って十を知る、ということである。そしてそれによって、知能と精神年齢は飛躍的に上昇する。
 肉体と違って、脳の成長の限界は、科学的な見地においても非科学的な見地においても、未だ計り知れない未知のものだ。それは宇宙が無限に広がっていく様にも似ており、小宇宙というエネルギーが、まさに生命の中に存在する宇宙的エネルギーなのだという事を実感させる。
「そうか? 子供は子供だと思うが」
「……お前、デスマスクとつるんでいてよくそういう風に言えるな」
 きょとんと首を傾げて言ったシュラに、サガは、驚き半分呆れ半分、という感じの表情を浮かべた。“黄金の器”において『智』の小宇宙が幼少時から秀でていた代表格こそがデスマスクであり、知能はもちろん、精神年齢はあの当時で既に大人の域に達していたと見ていいだろう。しかも彼の場合、それを非常に独特な方向に向けている。単に性格とも言えるが。
 しかしシュラにしてみれば、こうして四六時中何年もつるんで来たからこそそう言っているのだ、と主張したい。いくら頭がよくともそれはそれでしかない、と彼は当たり前に感じていた。
「頭が良くても馬鹿は馬鹿だ」
「馬鹿ってお前……」
「あれは悪魔のように頭のいい馬鹿だ、それだけだ」
 ざっくりと、褒めているのかけなしているのかよくわからない評価を下したシュラにサガは呆気にとられ、しかし彼の言葉に、どこかしっくりくる感覚も同時に感じていた。
 サガもまた、幼い頃から『智』の小宇宙に目覚め、周りの子供達より一歩二歩どころではなく先を行った視野を持つ少年だった。しかもデスマスクと違っていかにも天才少年らしかったサガは「神の化身」とまで言われ、同い年の少年達と泥まみれになって遊ぶような事は殆ど無かった。
 サガは“黄金の器”の最年長で、そして唯一年の近いアイオロスは思い切り『勇』に偏った、聖域育ちらしい、そして年相応らしい少年だった。
(……そういえば、私はアイオロスと遊んだりした事がないな)
 ふと、サガはそう思い出した。アイオロスは毎日転げ回り走り回りで泥だらけになっていたが、サガはいつもそれを眺めているだけだったし、サガが読書をしているとき、アイオロスはそれを遠くからちらりと見ているだけだった。
 お互い相手に一緒にどうだと誘う事もなく、自分たちはいつも一緒に居たわりに、同じことを一緒にした事など殆ど無かった、とサガは回想する。
 そして歳下の後輩達と一緒になって転げ回るアイオロスと違い、サガはいつも一人で、そして唯一同じ歳、いやそれどころか何もかもがそっくり同じな双子の弟カノンは、いつからかサガの行動に異を唱えるようになり、サガはいよいよ一人になったのだ。
 ──あの頃、シュラやデスマスクのような同い年の友人が居たら、何か変わっていただろうか。
「サガ、どうした」
 シュラに声をかけられ、サガはハッと我に返った。
「ああすまん、何でもない。……話の続きだが」
「うむ」
「解雇したとグラード財団は主張しているが、おそらくニコルはグラード財団……いや沙織の側に居るはずだ」
 例え小宇宙に目覚めていても、一般人はその成長のさせかたを知らず、やがて普通の人間になる。しかし沙織の小宇宙の成長の仕方は候補生としてもかなり秀でたレベルであり、指導者がついている事は間違いない。そして、その指導者の心当たりは一人しか居ない。
「教育係──と言っていたそうだが。元塾講師というのはもちろん嘘だろうが、教育係というのは本当だったようだな。彼が彼女に教えたのは勉学ではない。小宇宙の修行だ」
 放っておいてもある程度の成長が見込める、18歳までの小宇宙成長期。聖闘士になる、いや小宇宙に目覚めるのが早ければ早い程良いというのはこのためだ。一番伸びる成長期に上手く修行を叩き込めば、凄まじい成長が見込めるからだ。
 そして生まれつき小宇宙に目覚めている“黄金の器”たちは、この成長期を目一杯活用する事が出来る。黄金聖闘士の実力が事実聖闘士の最高峰であるのは、この事が大きい。
 そして沙織は、おそらく一桁台の年齢で小宇宙に目覚めた。それだけでも相当に希有な事であるのに、彼女はニコルによってその成長を更に促されている。これは限りなく黄金聖闘士にも近い状況であり、よってサガが沙織を脅威とするのも妥当な評価なのだ。
「しかし、あの少女がいくら優秀とはいえ、たがだか脱走兵あがりがまともな指導ができるものか?」
「ニコルはただの脱走兵ではない」
「どういうことだ?」
 はあ、と重々しいため息をついたとサガに、シュラが怪訝な顔をする。
「23年前、祭壇座アルターの白銀聖衣の争奪戦があった」
「アルター……? 聞いた事がない」
 そうだろう、とサガは頷いた。
「アルターは少々特殊な聖闘士でもある。代々、アルターは聖域において教皇の最も側に仕える神官……助祭長という役職に就くことになっていて、助祭長は教皇が不在の際は教皇の代理としての務めも果たす」
「聖闘士が神官に……」
 シュラは、驚きの混じった、不思議そうな表情をした。
 聖域の上下関係や役職は、最高位が『教皇』という肩書きだけあって、全体的にはローマ・カトリックにおけるヴァチカン市国の統治機関、法王聖座Holy See、教皇庁の構成に似た所がある。
 ヴァチカンにおいては、トップがローマ法王(教皇)、そして枢機卿、大司教、司教、司祭、そして一番下に助祭ということになっているが、聖域に置いても枢機卿から司祭までの役職は存在する。
 だがこれらの役職は聖闘士がなるものではなく、神官達、すなわち過去の歴史の中で聖域と関わった外界の者、表向き「俗世を捨てた」という形で聖域に身を置いた者たちがなる役職である。
「そもそも神官というものは、聖域や聖闘士達から恩を受けた者たちが、教皇と聖闘士達が聖戦への備えに全力を傾けられるよう、我々が聖域の内務を請け負おう──と善意で名乗り出たのが発足のきっかけだ」
 聖闘士達、また聖域生まれ聖域育ちの者たちの弱みは、外界に置ける立場や力が全くない所である。しかしある程度まで外界で育った者たちは、外界で教育を受けており、また実家のコネクションもある。そういう立場の者たちが内務を請け負う事で、聖闘士達が聖戦の事だけ考えられるように──というのが、本来の神官の役割なのだ。
 そして教皇や聖闘士達は当初それを有り難い申し出だとして、大変に喜んだ。初代の神官達も、本当に善意で協力を申し出たのかもしれない。だがなまじ俗世で長年暮らした者たちは、聖域という場所がいかに利用価値があるものかすぐに気付き、私利私欲の為に聖域を利用するようになる。そして今現在に至る、というわけだ。
「……フン、いくら外界で高度な教育を受けたと言っても、小宇宙に目覚めていないのではな。すぐに根性が腐るに決まっている」
 シュラは、忌々しそうに目を細めた。
 小宇宙に目覚めるという事は、精神鍛錬がある程度の域にまで極まったという事でもある。特に『智』の小宇宙を高める事は脳の成長を促す事であるので、精神年齢の上昇とともに、いわゆる俗物的な価値観の薄れや、精神的な意味での大きな視野の獲得などが顕著になる傾向がある。
 それにそこまでスケールが大きい例えを用いずとも、ぬくぬくとした部屋に籠ってばかり居た頭でっかちのガリ勉と、兵役や過酷なスポーツ訓練、また同じような立場の者たちと競い合い助け合ってきた経験のある者を比べた時。組織のトップがどちらを雇いたいかといえば、おおかたが後者を選ぶのは普通だろう。組織において、特に幹部クラスに採用するとなれば、能力以上に人格や器の大きさというポイントは非常に重要になってくる。
「そらみろ、いくら頭が良かろうと馬鹿は馬鹿なのだ」
「……そう言われると、そうなのかもしれんな……」
 吐き捨てたシュラに、サガは今一度、もはや癖にもなりつつある重いため息をついた。
 かつて、嬉々として神官達に内務を丸投げし、聖闘士達はよりいっそう鍛錬に励むようになったはいいものの、もともと『勇』の小宇宙ばかりを鍛える傾向にあった彼らである。鍛錬に没頭するあまりに聖闘士達は更に脳味噌まで筋肉になり、聖域の内務はすっかり神官達に牛耳られ、そしてもちろん聖域をより良くしようなどという気などとっくにない神官達のお陰で、聖闘士達はむしろ前よりも過酷な環境で過ごすことになってしまっていた、というわけだ。
「まったく、つくづく『智』の修行は必要だ。……ああ、少し話がずれた」
 サガは、コホンと咳払いをして姿勢を正した。
「つまり……。本来、神官達は内務、聖闘士達は他勢力との外交および戦闘を行なうというように完全に役割が別れているわけだ」
「……なるほど、聖闘士であり神官でもあることで、教皇や聖闘士が神官達の動きを把握できるようにする役職が助祭長・アルターか」
「その通りだ」
 最初は助祭長も神官の役職の一つでしかなかったが、何代か前の教皇も、神官達の現状にこれではまずいと気付いたのだろう。神官達のうち最も下位である助祭長のポジションに聖闘士を置き、聖闘士および聖域のトップである教皇の側付きとする。これは、軍隊であれば完全に階級の逆転現象にあたるややこしい状態だ。
 階級の逆転現象とは、主に軍隊において、階級が低い者が、自分より階級が高い者の上にあたる役職を設けてしまうことを指す。例えばある作戦行動のメンバーを決定する際、少尉が隊長で中尉が部下に居るというような状態のことだ。多くは階級よりも個々人が持っている技能を重視した配置を行った場合に起こる現象である。
 実力主義・適材適所だと言われればそれまでだがしかし、上からの命令は絶対、という徹底したトップダウン方式の軍組織においては、これは本来あってはいけない事だ。階級は下だが役職は上、などというややこしい事態になると、このトップダウン方式が機能しにくくなる。そしてトップダウン方式を叩き込まれた軍隊においては下の階級の者に命令されるのに耐えられないという者も珍しくなく、能力重視の役職を振ったはずが、結果的に士気の乱れによって作戦行動がうまくいかなかった、という場合も多い。
「ふむ、なかなか上手い考えではないか」
 だが、シュラは感心した様子で頷いた。
 聖域はアテナ軍の本拠地・基地であり、そして聖闘士という戦士を育成する軍学校でもあり、軍隊式のトップダウン精神を叩き込む事ももちろん行なわれている。ちなみに前聖戦の生き残りであるシオンは特に直弟子のムウに対してこの傾向が強く、ムウがシオンに口答えでもしようものなら、土下座の強要くらいは当たり前だった。
 聖域というアテナの軍事組織において、黄金聖闘士は将官にあたり、また黄金聖闘士から選出されてトップとなる教皇は、まさに元帥である。そして白銀聖闘士たちは尉官クラス、その中でも白銀聖闘士総括であるライラのオルフェとケフェウスのダイダロスは佐官であろう。そして青銅が准士官や下士官、雑兵はそのまま兵となる。
 聖闘士の最高峰、将官同士である黄金聖闘士のみで接する際はそんな軍隊的な風潮はあまり感じられないが、ひとたび“下”に降りれば、雑兵と黄金聖闘士では二等兵と将官以上の差があり、態度や接し方にもそれなりのものが如実に現れる。
 そして祭壇座アルターは、教皇の側近というとんでもない高位職でありながら神官の最下位職でもあり、そして更に白銀聖闘士であるという、逆転現象どころかもはや階級が定められないほどごちゃごちゃしたポジションにあえて立つ事によって、神官達の動きを把握する事が出来る、という立場なわけだ。
 非常に突飛な役職であるが、そのあたりは「特別職」で片付けてしまえばいい事だろう、と、割と大らかなアテナ軍磨羯宮大将・カプリコーンのシュラは評価した。
「確かに上手い考えだ。……しかし、助祭長はアルターにしか出来ないという事にしたことは失策だったな。アルターの聖衣を継承する者が居なかったら、助祭長は空位のままだ」
「……ああ」
 ひどく気の抜けたシュラの相槌に、サガも苦笑混じりの微妙な表情を浮かべた。せっかくナイスポジションを設けても、その立場を請け負う者が居なくては全く意味がない。
「しかし、ともかくそういう特殊な立場の聖闘士であるので、能力もそれ相応のものが求められる。白銀聖闘士たり得る戦闘の実力、そして外界で教育を受けた神官達と同等に話が出来る頭脳」
「……それは」
「そうだ。アルターには、教皇と同じく、仁・智・勇を兼ね備えている事が求められる。精神的なものと同時に、小宇宙の面でも。……そしてニコルは、このアルターの聖衣をかけて試合に臨んだ候補生だった」
「なに……?」
 すなわちニコルもまた、小宇宙の絶対量は少ないながらも正三角形に近い仁・智・勇のバランスを持つ小宇宙覚醒者だ、とサガは言いたいのだろう。黄金聖闘士たちを実質的に指導した料理長・トニと同じように。
 シュラは、僅かに目を伏せた。
「……なるほど。それでは確かに、家庭教師としてはこれ以上ない人材だな」
「そしておそらく、ニコルは外界に逃げた神官や脱走兵と繋がっている」
「何だと?」
 シュラの眉間に、皺が寄った。そしてそんな彼を前に、サガが重々しい表情で続ける。
「奴は、他の白銀聖衣よりも高い能力を求められるアルター候補者として選ばれる程の実力の持ち主だった。この聖域でそこまで上り詰めた者が、どうして脱走兵になったのかというと……」
「聖衣の争奪戦試合で負けたのか?」
 どうせそんな所だろう、といった風に吐き捨てたシュラに、サガは頷いた。
「そうだ。そして試合に負けた当時13歳のニコルは、自分に勝った対戦相手を他の脱走志願者とともに闇討ちし、アルターの聖衣を奪って逃げたのだ」
「何だと……?」
 シュラの表情が、更に険しくなる。
「負けたとはいえ、ニコルは人望も実力もある候補生だった。そんな少年が、卑劣極まる行動に出た上に聖衣を奪って脱走したのだ。当時は大変な騒ぎになったが、結局ニコルとアルターの聖衣は行方がわからなくなった」
「…………」
「おそらく神官の手引きで、外界に脱出したのだろう。今まで奴が外界で何をして過ごしてきたのかはわからないが、現在奴はグラード財団に属し、脱走兵や神官達とのパイプ役になっている、という可能性は高い。神官達と手を切っていたら、外界で社会的な立場の全くない人間が天下のグラード財団に、しかも総帥の一人娘の家庭教師になどなれるものか」
 よって、万がいち本当にグラード財団が子供達の行き先を知らずとも、ニコルはそれを知っているはずだ、とサガは言った。
「……フン、聖闘士と神官の橋渡し役であるアルター候補が堕ちたものだ」
 痛烈な皮肉である。サガは苦々しい顔をした。
「まあ、とにかくニコルの素性については以上だ。……そして、例のイッキという少年の居所の手がかりが多少だが得られた」
 ぴくり、とシュラの眉が動く。
「情報源は?」
「アイオリア、……いや正しくはアイオリアが親しくしている候補生だ」
 セイヤという、とサガは言った。シュラが口元に手を当てて、思案するポーズを取る。
「セイヤというと……グラード財団から送られてきた子供の一人だな。鷲座イーグルの魔鈴が師匠をしている少年」
「相変わらず記憶力が良いな」
 グラード財団から送られてきた子供たちの多くは、神官達が用意した修業先で遭わされた仕打ちにより皆ひどい状態で情報を聞き出せるような状態ではなく、更に小宇宙に目覚めているわけでもないたかだか6歳前後の子供の言う事など、どうしてもあまりあてにならない。よって子供達に事情聴取をするという事は今まですっかり失念していたし、それに、ニコルがああまでして隠そうとした情報をまさか子供達本人が持っているなどとは思っても見なかった、とサガはやれやれと首を振りながら、疲れの滲んだ声で言った。
「どの子供がどの修行地に飛ばされるかは……くじ引きで決めたそうだ」
「くじ引き、な」
 苦虫を噛み潰したような顔をして言ったサガに、シュラは、糞でも食らってやがれ、という顔で相槌を打った。
「セイヤは特に親しかった子供達がどこに飛ばされたのかを覚えていた。シリュウは中国、シュンはアンドロメダ、ヒョウガはシベリア……と正確に言ったそうだから、イッキの行き先も信憑性がある」
「どこだ」
「デスクイーン島」
「……どこだ?」
 全く聞き覚えのない島の名前に、シュラが眉をひそめて首をひねる。
「なにぶん子供の記憶なのでな……“灼熱地獄のような島”ということしかまだわかっていない。目下調査中というところだ」
「灼熱地獄……赤道近くの島という事だろうか」
「おそらくは」
 今もその辺りを中心に捜索している、とサガは神妙な表情で頷いた。
「そしてこのデスクイーン島とやらが、脱走兵の主戦力……暗黒聖闘士ブラックセイントの本拠地である可能性は非常に高い」
 暗黒聖闘士とは、脱走兵の中でも小宇宙に目覚めている為に比較的実力の高い者たちの事である。ただし例によって『勇』の小宇宙を中心とした中途半端な者ばかりなのでたかが知れてはいるが、暗黒聖衣ブラッククロスと呼ばれる漆黒の甲冑を纏っていることが特徴として挙げられる。
 暗黒聖衣は、大昔にアリエスから見よう見まねの技術を盗んで逃げた者が作った偽物だと言われている。聖衣と名はついているが、強度は高くなく、所詮偽物でしかない。しかし本物の聖衣のように装着者を選ぶ事がない上、偽物といえど、一般には存在しないとされる金属や様々な物質が微小ながら使われているので、一般に流出したら非常に厄介な代物である。
「……それで? 俺は何でここに呼ばれたんだ?」
 本題が近付いている事を察し、シュラは細めた目を光らせた。
 話し合いや相談、某かの案の作成などであれば、呼ばれるのは大概デスマスクであり、それは彼を事実上サガの参謀という立場にしている。意見を聞く為にシュラやアフロディーテも呼ばれる事がないとは言わないが、こうしてシュラだけが呼ばれる時、それは全ての結論が出て、実行に移るときだ。
「俺は何をすればいい?」
 さあ命令を寄越せ、と、孤剣を携えた剣士は言った。
 サガは一度、すっと目を伏せた。プラチナ色の長い睫毛が、石像のように完璧なラインを持つ頬に影を作る。
 シュラがサガの下した命令を失敗させた事は、一度としてない。だからこそ、サガはデスマスクとどんなにドロドロした話し合いをする時よりも、シュラに命令を下すときの方がよほど気が張る。彼に殺せと言えば、絶対に標的は死ぬ。殺すのはシュラだが、そうさせるのはサガなのだ。サガの殺意によって、シュラは標的を間違いなく殺す。
 だからサガがシュラだけを呼びつける時、それはサガが何もかもを覚悟した時に他ならなかった。そしてそうでなくば、彼の聖剣は標的ではなくサガに向いてくるだろう。そういう契約だ。
「……ニコルがグラード財団に居るという事は、“外”に出た神官も、やはり活動しているということだ」
 サガが教皇に成り代わった直後辺り、サガたちは神官達に片っ端から幻朧魔皇拳をかけるために奔走した。しかし何が起こっているのかはわからずとも不穏な空気を察していち早く聖域を後にした勘のいい神官達もやはり何人か存在しており、それはサガたちの不安の種でもあった。
 外界には、彼らが永きに渡って作り上げた脱走者による傭兵集団のようなものが存在しており、そしてそれは未だ根絶やしに出来ていない。神官達の取引先を奪う事でいくつかのアジトを突き止め、脱走者・謀反者として討伐を行なったものの、何十年もかけて作られたのだろう組織、しかも脱走兵とはいえ構成員の殆どが元候補生、少なくとも三分の一が小宇宙覚醒者という集団がそう簡単に壊滅できるはずもなかった。
 そして聖域で育ち、『勇』の小宇宙ばかりを育て学のないまま“外”に出た彼らのブレーンこそが彼らの脱走の手引きをした神官達、いや、今となっては、サガが教皇になった際に聖域から脱出した神官達である。
「彼らは、当然私に疑いを抱いている。だからこそここから逃げたのだからな」
「なるほど。任務はそいつらの討伐か?」
 これまでも、脱走兵達のアジトを殲滅した事は何度もある。多くは外界の人材派遣会社や警備会社にカムフラージュされたそれらにシュラは何度も出向き、一度に何十人をも細切れにしてきた。
 だから今回もそのアジトの場所を突き止めたから向かってくれという任務だろうとシュラは当然の流れでそう思った。しかし、サガはゆるゆると首を振る。
「……そうであれば、話は早かったのだがな。奴らめ、搦め手から来た」
「?」
「“下”で、教皇……つまり私に対しての疑いが高まりつつあるらしい」
「なに……!?」
 眉間の皺を深くし、サガは悲壮とも言えるような顔をした。シュラは驚きに目を見張っている。
「ばかな。そんな噂が広がる隙などないはずだ」
「ところが、ある事ない事広がっている。……娯楽も少なく、言っては悪いが学のない人々の事だ。良いものであれ悪いものであれ、噂が広がるのはひどく早い。……さすがに聖域で育っただけあって、こちらの空気をよく読んでいる」
 つまり、神官が紛れ込ませた者、すなわち草が“下”にいる、ということだ。その者が噂を流しているのである。
 敵地に人員を送り込み、噂を流す事で士気を下げたり情報を混乱させたりするのは戦術としての常套手段である。そして潜入先は軍内だけとは限らない。実例を挙げれば、例えば敵方領地の農民に混じり、領主の悪い噂を流して一揆や反乱が起こるように煽動、そしてその隙に外から攻め込むといったやり方は昔から行なわれてきた。
 今現在でも、マスコミ関係を買収する事で大衆への情報操作を行ない、水面下で意図的に世論を作り上げるなどといった方法は珍しくも何ともない。そしてこれは外国に対してではなく、むしろ国内の敵を見えない圧力で自滅させる際に最も効果的なやり方でもある。
「外堀を埋める事から始めてきたか……いやこの場合、こちらの内部の破壊が狙いか」
 チッ、とシュラは舌打ちした。真っ正面から向かって来られれば、地上最強の軍事組織である聖域、ひいては黄金聖闘士が負けるはずはない。そして向こうもそれをわかっていて、こうして内部から腐らせる方法をとったのだろう。忌々しいが、敵ながら英断である。
「水道工事、物資補給、修行地の安定化……。この10年、福利厚生、インフラストラクチャー整備に奔走してきたつもりだったのだがな……」
 サガは、裏切られたような顔をしていた。無理もない。
 聖域全体への水道設備建設を中心とした衛生面の大幅改善、衣食住の充実、教育制度の見直し、犯罪行為に対する必罰、女性の権利の確立、子供の保護、死亡率低下を目指す様々な試み。
 10年もの間、本来なら何百倍もの人材と、何倍もの時間がかかるだろう様々な事項を、サガたちは比喩でなく、本当に寝る間も惜しんで成し遂げてきた。
 しかし、これほどまでに“下”の者たちの為に尽力したというのに、神官側から密やかに送り込まれた草の数本ばかりが流した根も葉もない噂に人々は揺らぎ、聖域の世論は彼について来なかったのだ。
 もちろん全部が全部そうとは言わないが、人間というものは、一人一人がそうでなくでも、集団になると何故か途端に頭が悪くなるものだ、ということを、サガはいま本当に痛いほど実感していた。
「……だが、ただ落ち込んでばかりはいられんだろう。どういう手を打つ?」
 自分が呼ばれたという事は何かを決行するのだろう、とシュラはサガに言った。サガは重々しく頷く。
「“草”の討伐……ではなさそうだな」
「違う。……もちろん“草”が誰かわかればやってもらうがな。今回の任務は討伐ではない」
 サガは、すう、と息を吸い込み、真っすぐにシュラを見た。迷いを吹っ切った顔だ。
「──交渉、説得だ」






「──トニ」
 シャカを双魚宮に置いて教皇宮厨房にやって来たシュラたちは、見慣れた背中に声をかけた。しかし、大きな背中は振り返らない。
「何だ、聖衣なんぞ着込みやがって」
 がちゃがちゃと食器を仕舞いながら、シュラたちを一瞥もせずトニは言った。いつもながら背中に目でもついているのかと言いたくなる。しかしこれは、聖衣を纏う、すなわち聖衣に小宇宙を通わせるために普段よりも小宇宙を強く発している彼らの気配を正しく感じ取っているからだ。
「厨房に聖衣なんぞ着てくるな、鬱陶しい。暇なら手伝──」
「元祭壇座アルターの白銀聖闘士候補、アントーニオ」
 静かに言ったシュラの言葉に、男の動きがぴたりと止まった。
「……“黄金の器”でないにも関わらず、仁智勇を兼ね備えた実力を持ち、黄金聖闘士候補にも一度上がったほどの候補生」
「…………」
「そして23年前、当時13歳だったニコルに勝利しアルターの聖衣を得て助祭長の地位に就くも、その当日深夜闇討ちに遭い、聖衣を奪われた。脚の負傷はその時のものだ」
「……欠伸が出るような昔話掘り返して、何のつもりだ」
 初めて、トニが振り返った。眉間にはいつもより深い皺が刻まれている。
「アンタを闇討ちした、脱走兵のニコルが」
「──何だと?」
 トニが、目を見開いた。
「奴が神官と共謀し、聖域に草を送り込んでいる」
 シン、と、沈黙が落ちた。料理長は目を見開いたまま、自分の前に立つ若者三人をじっと見つめていたが、やがてそっと口を開いた。
「……抜かせ」
「本当だ」
「馬鹿馬鹿しい」
 トニは吐き捨てて、まだ仕舞い終えていない食器もそのままに、どっかと粗末な椅子に腰掛けた。
「俺に闇討ちをかけて聖衣を奪ったのは、あの小僧じゃねえ」
「……?」
 シュラたち三人が、訝しげな顔をする。トニは床に視線を落としながら、険しく硬い表情で言った。
「……俺は小宇宙の覚醒が遅かった」
 ふう、と彼は一度息をつく。
 確かに、トニは小宇宙の覚醒が遅かった。しかし、地道な格闘訓練の挙げ句にやっと、そしてある意味では堅実に小宇宙に目覚めた彼はまさに大器晩成型と言えるタイプであり、雑兵でありながら聖闘士と等しい実力を持っていた、と言われている。
「対してニコルは、13にして仁知勇を兼ね備えた早熟の天才だった。そして聖闘士になるには18歳が上限と言われているが、俺はあの当時20歳。聖衣の奪取試合に参戦するには異例の年齢だ」
「…………」
「雑兵の経験が長い俺が聖衣を得る事を応援する奴も居れば、ロートルは引っ込んでいろと妬む奴らも居た。主に俺より若い奴らだが、その代表格がギルティーという男だった」
「ギルティー?」
 23年前の話なので当たり前だが、聞いた事のない名前に若者三人が眉をひそめる。トニは頷いた。
「奴は当時18歳。実力は申し分なかったんで、ニコルは決定としても、俺と奴とどちらをアルター候補者としてニコルと対戦させるか多少もめた。年齢的にいって当然ギルティーが選ばれる所だが──……詳しい事は俺も知らんが、奴は何らかの復讐の為に修行を積んでいた」
 ギルティーが誰に何の憎しみを抱いて復讐を誓っていたのかなどもうわからないことだが、とにかく、彼は自分の目的の為に聖闘士の修行をし、聖衣を得ようとしていたらしい。
「そんなわけだから、奴は聖衣を得るには人格的に問題があるってんで──結局、俺がアルター候補になった」
 そしてトニとニコルは試合を行なった。片や13歳の早熟の天才、片や下積みの長い熟練の雑兵上がり。そしてどちらもが仁知勇を兼ね備え、突出した実力者。さらに取り合う聖衣は白銀でありながら教皇に最も近い特別職、アルターである。またヴィジュアル的にもニコルはヘルメスを彷彿とさせる軽妙な美少年で、トニはヘラクレスのようなどっしりした偉丈夫という、対極的な見た目をしていた。話題性も十分、実際に非常にレベルの高い試合に聖域中が注目し、試合は白熱した。
「……誰にも文句を言わせない試合だった」
 遠くを見ながら、トニはどっしりと言った。
「だがあまりに実力が拮抗していたので、俺たちは最終的に所謂千日戦争状態に陥り、そしてニコルが先輩格の俺に勝ちを譲る形で決着がついた」
「なに……?」
「……若いニコルにアルターを譲った方が良いのでは、と俺も考えていた所だったんだがな」
 先を越されたのだ、とトニは自嘲するような笑みを浮かべて俯いた。
「だが俺も、……迷いがあった。18を迎え、もはや聖闘士になる道は完全に断たれたと諦めてから2年も経って訪れたチャンスに、なんだかんだで俺も舞い上がっていたんだ。……ニコルはまだ13だ、ケガもしていないしこれからもうまくやれる。チャンスはいくらでもある。だが俺はこれっきりだと」
 デスマスクは、かつて我が子の為に聖闘士になろうとした娘の事を思い出した。18だった彼女は、もうチャンスはこれきりだと、追いつめられた様子で、自分に強く言い聞かせるようにしていた。生まれつき小宇宙に目覚めている“黄金の器”はそんな事で悩む事などあり得ないが、“下”で聖闘士を目指す者にとっては、年齢のカウントダウンというものはとてもつもないプレッシャーを与える要素の一つなのだろう。
「……おそらく、ニコルはそんな俺の迷いを見抜いたのだろう。……だが俺より7つも若いとはいえ、滅多に開催されない聖衣の争奪戦、しかもアルターの聖衣だ。だが、あいつはそれを潔く諦めた」
「…………」
「何も保障がないのに「きっとチャンスはある」と言ってのけるその度量のでかさと、そしてチャンスが訪れれば必ず掴んでみせるからと笑ってみせた、自惚れでない自信。……簡単にできる事じゃねえ」
 それは、好敵手を讃える、気高い戦士の声だった。
 トニはそんな彼に、やはりニコルの方がアルターに相応しいのではと思ったそうだが、ニコルはトニと全く同等に戦ったという事実を掲げ、トニに有無を言わせなかったという。戦士が戦士にそう言われては、もはやそれ以上言葉を返すのは無粋だ。
「そして、俺はアルターの白銀聖闘士になった。まだ多少の戸惑いはあったが、──その夜、俺はニコルにアルターを譲られたのではなく託されたのだと、そしてその期待を裏切ってはならないと、決意を固めた所だった。……だが」
「ギルティーとやらか」
「そうだ」
 尋ねたアフロディーテに、トニは苦々しい、そしてやりきれない表情で暗く頷いた。
「奴は、他の脱走志願者とともに俺を闇討ちした」
 人格的な問題でアルター候補を外されたギルティーだが、しかしそれ以外の面では候補生たり得る実力者だという事でもある。全てを出し切ってニコルと戦い休んでいたトニは、仲間を連れたギルティーとまっとうに戦う力は残っていなかった。
「──聖衣を纏う暇もなかったのか?」
 怪訝な顔で、シュラが言った。いくら疲れていたとはいえ、聖衣を纏うことが出来れば、そのコンディションは比べ物にならない程マシになるはずだ。しかし、トニは一度だけ首を振ってそれを否定した。
「もちろんそうしようと、俺はアルターのパンドラボックスの取っ手を引いた」
「なら」
「だが開かなかった」
 すとん、と、あっけない程にきっぱりと短く、トニは言った。
「俺は、祭壇座アルターの宿星を持つ者ではなかったんだ」
 デスマスクがまた何かを思い出し、苦々しい顔をした。
 死ぬ思いをして訓練に耐え、小宇宙に目覚め、また運としか言えない確率で開催される聖衣の争奪戦に挑む、しかも18歳までというタイムリミット付きでだ。しかし例えそれに勝利できても、肝心の聖衣に認められなくては結局聖闘士にはなれない。そしてそんな聖闘士への道の尋常でない厳しさを痛い程知っているからこそ、トニは潔く勝ちを譲ったニコルを讃えた。
「だが、それでも聖衣を渡すわけにはいかない。俺は仕方なく開かないパンドラボックスの前に立ちはだかったが、奴はニコルを人質に取った」
「な……?」
「ニコルも俺と同じく、試合で疲弊しきっていた。ギルティーたちは多勢無勢で俺とニコルを半殺しにし、更にニコルの首に刃物を突きつけ、アルターを渡せと俺に言ってきた」
 卑劣極まる展開に、三人の若者の顔が、更に険しくなった。
「俺もニコルも、最後まで渋った。ニコルは俺に絶対に応じるなと血まみれの姿で叫び続け、俺もそうした」
「…………」
「だが」
 鉛を飲み込んだような顔で、トニはぐっと一度目を瞑った。
「俺はアルターを渡してはならないと思うと同時に、絶対にニコルを死なせてはならないと思っていた」
「……しかし」
「ああそうだ、矛盾している。この展開じゃ絶対に無理な事なのにな。しかし、俺は聖衣に認められなかったが、ニコルはきっとそうじゃない」
 あれほどの度量と実力を持った少年だ、俺と違って、きっと聖衣に認められるに決まっている。
「俺はそう確信していたし、今でもそう思っている」
 だから絶対にニコルを死なせてはならない。そう思っていた、とトニは言った。
「……それに、あいつはまだ13歳だった」
 トニは、大きな拳を握り締めた。
「仁智勇を兼ね備え、大人顔負けの頭脳と度量を持ち合わせているとはいえ、あいつはまだ13歳の子供だった」
「トニ」
「血塗れになって、泣きながら俺にアルターを渡すなと叫ぶ13の子供を、20にもなった俺が、どうして死なせられるものか。まだ13にしかなっていない子供の未来を、どうして……!」
 ガン! と、トニは調理台の端を殴りつけた。三人は、黙っている。
 そして暫く沈黙が続いたあと、トニはやや震える息を吐き、また話しだした。
「……だが結局埒があかないと判断したギルティーは俺の脚を切り落とし、そしてアルターを奪って逃げたのは自分ではなくニコルだと証言しろと要求した」
「な……」
「でなくばニコルを殺す、と」
 ニコルが犯人だという事にされてしまっては、たとえ生きていても、ニコルは聖域に帰れない。しかしトニが真実を言えばギルティーに追っ手がかかり、ニコルは殺される。
「……では、ニコルは」
「そうだ」
 トニは、黄金の聖衣を纏った、三人の若者の目を真っすぐに見た。
「ニコルは脱走兵なんかじゃねえ。人質として、アルターの聖衣とともに連れ去られたんだ」
 サガから聞いた、そして“下”の雑兵達の間でまかり通っている説と全くもって異なる事件の真相に、三人は驚きを隠せない。そしてトニは、普段のどっしりとした落ち着きからして考えられない程の興奮を表しながら、更に続けた。
「俺は、ギルティーに言われた通りにした。まんまと聖衣を奪われ、そしてまだ13だった少年の命をどうにか救う為に、13にしてあの見事な戦士だった少年に、卑劣極まる冤罪を被せ続けた」
 ──23年もの間一人でそうしてきたのだと、彼は言った。
「……だが、……生きていたんだな」
 ぼそりと、震える声で、トニは言った。
「ニコルは、生きているんだな」
「……ああ、生きている」
 シュラが頷いた。
「日本で会ってきた」
「そうか」
 ぽたり、と、厨房の床に、雫が落ちた。
「俺はもう、あの誇り高い戦士に罪を被せ続けなくてもいいんだな」
 ぎりぎりと、大きな拳が、血が出る程に握り締められていた。
「俺はもう、最低な嘘をつき続けなくてもいいんだな……?」
 厨房の床に、雫が落ちる。23年間秘められていたものを解放した男の声は震えていて、それはもはや慟哭の様相だった。
「生きていたんだな、ニコル……!」
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BY 餡子郎
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