第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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 外は、すっかり夕焼け空だった。エトナから見える夕焼けの美しさは、盟がここへ来て感動したもののうちの一つだ。
「そこに立て」
 指示された通り、盟は夕焼けがよく見えるそこに立った。デスマスクは斜め後ろに居る。
「まず『智』の修行を教えておこう。ZONEに入れ」
「はい」
 言われた通り、盟は一度深呼吸をすると、集中力を高め始める。自分の意識を針のように細く鋭くしていく感覚。キーン、と耳鳴りが聞こえ始め、そしてそれもだんだんと消えていく。夕陽が沈んでいく様子はひどくゆっくりなはずなのに、その動きがはっきりと把握できる。ZONEに突入し始めたのだ。
「……身体の奥に、エネルギーが沈殿しているのがわかるな?」
 瞬きをせずに夕陽を見つめる盟の様子を見計らい、デスマスクは静かに言った。
 デスマスクの言う通り、極限まで集中した盟の意識は、自分の身体の奥に神秘と膨大なエネルギーが秘められた何かがある事を察知していた。
「五感を外に向けるのをやめろ。自分を見ろ。聞け、触れろ、嗅げ、味わえ、感じろ」
 盟は、素直に言われた通りにした。心を無にする、という言葉があるが、それはすなわち、精神を極限まで素直にする事と言い換えてもいい。何の先入観も持たず、生まれたばかりの赤ん坊のような感覚でもって、集中してものを見ること。例えば拳で瓦が割れるわけがない、手刀で瓶が割れるわけはない、そういう先入観を全く捨てて心を無にし、完全に素直な心でもって「できる」と決意し挑めば、それが可能になるのだ。
 盟はその五感を、完全に自分の内部に向けていた。目は開いているが、もう夕陽など見ていない。耳は風の音を聞いていない。鼻は緑の匂いを嗅いでおらず、肌は温度を感じておらず、味覚はもはや活動を止めている。
「さあ、自分が何者なのか、徹底して見極めろ。──おまえの中に、何がある?」
 どんどん自分の中に沈んでいく意識は、まるで遠くから振ってくるような師匠の声だけを察知している。盟は、ひたすら自分の中に意識を沈めていく。奥の奥に見えるエネルギー、その正体を知りたくて、とにかくそちらに向かって行く。
 煌めきは雄大で、秘められたエネルギーには果てがないような気さえした。これが、

 ──小宇宙だ。

(……これが)
 自分の中に広がる宇宙。外部に向けていた全ての感覚を内部に向け、辿り着いた先は星が煌めき熱が溢れ、凍えるような大気が広がる宇宙だった。
 盟は、感動した。だがそれは、自分の中にこんなにも雄大なものが眠っていたのか、などという俗っぽい感動ではなく、ただただ小宇宙という力が存在するという事に対する、どこまでも新鮮で、心の底からの純粋な感動だった。地球は青かった、と言った男の気持ちが、今ならとても良くわかる。
「盟」
 うっとりとした気持ちで宇宙の中に漂っていたそのとき、師匠の声がした。
「辿り着いたようだな。では次の段階だ。……ゆっくりでいい、井戸から水を汲み上げるようにして、汲んだらそれを全身に巡らせてみろ」
 難しいな、とだけ、思った。
 どんどん沈んでいくのは結構楽しいのだが、これを引き上げるとなるとかなり大変そうだ。目の前に広がる、広大な宇宙。
「……沈んでるだろ。馬鹿、もっと視野を大きく持て。お前は小宇宙の中に居るんじゃねえ、小宇宙がお前の中にあるんだ。呑まれてどうする」
 呆れたような師匠の声に、盟は言われた通りにするよう努力した。そうだ、沈んでいるものだからてっきり小宇宙の中に入ったような気持ちになっていたが、ここは盟の内部なのだ。
 その事を意識すると、小宇宙の一部ずつを手に取ることが出来る感覚を掴むことが出来た。師匠の言う通りに、井戸から水を組み上げるように──というのもまだ無理だったが、どうにか手のひらで少しずつ、丁寧に上澄みを掬うようにすることはできた。
 自分の精神の奥の奥にあった小宇宙、そこから小さな星を、銀河を、少しずつ掬い出し、身体の中に広げていく。それはまるで何もない夜空に煌めきを撒くような感覚にも似ていて、とてつもない集中力が要るとともに、感じた事がないほど爽快で気持ちのいいものだった。
(……何だ、あれ)
 そしてその作業に夢中になっていた盟は、ふと、自分の小宇宙の中に、奇妙な空白を見つけた。煌めく星々の中、ぽっかりと浮かぶようにしてある、暗い星図の空白。
(あれは……)
 ぞくり、と、盟の背中に何かが駆け上った。
 あれは自分にとって何か重大なものだ、と、盟は説明しようのない直感でもって悟った。
 盟は、手を伸ばした。あれを掬い上げようと、手を伸ばした。しかし星のないその空白は手に取ることが出来ず、すかすかと空を切るばかりで、盟はだんだん苛々してきた。この空白こそが自分の本質であるのに、手に取ることが出来ない、その苛立ち!

「──盟!」

 がっ、と手を掴まれて引っ張られ、盟は驚いて目をぱちくりと見開く。急に拓けた視界には、夕陽によって赤く染まった銀髪を風に靡かせ、苦々しく表情を歪めた師匠が居た。そこまでうざったそうな顔をしなくてもいいだろう、というぐらいうざったそうな顔をしている。
「ああ、どこまで世話が焼けるんだ、このぼんぼんめ。集中するのはいいが、未熟者のくせに深入りしすぎると戻って来れなくなるぞ」
「でも、もうちょっとで」
Fanculo!
 罵声とともに、スパン! と、頭を叩かれた。かなりイイ音がした自分の薄茶の頭を抱え、盟は涙目になる。かなり痛い。ちなみにファンクーロとは「尻でも掘りに行っちまえ」の略語で、チンピラ御用達の非常に下品な罵声である。
「黙れ、くそ生意気なピゼッリーノpiselinoめ。お前は俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ」
 今度は小さな豆、すなわち「チビ金玉」ときたものだ。南部イタリア男の発する罵声はどこまでも下品で、正真正銘「ぼんぼん」である盟は最初かなり度肝を抜かれた。よもや人生のうちで「小さい金玉」呼ばわりされる屈辱を味わうことになるとは、色々な覚悟をしてここへ来た盟とて想像だにしていなかった。人生の修行とは兎角予測不可能である。
 ちなみにスペイン語の罵声も負けず劣らず下品なので、シュラとデスマスクが口喧嘩を始めた時と言ったら、それこそ耳が腐るほど下劣だ。
「死にたいのか? 死にたいなら殺してやるからそこに直れ。ほら」
「だだだだだすンませんッしたァ────!」
 再度のアイアンクローに、盟が体育会系の悲鳴を上げる。美しい夕陽をバックに、顔面を掴まれて高くぶら下げられる少年が、絞首刑にあった罪人よろしく空中でエビのようにばたばたしているシルエットが浮かび上がっているのを見ている人間は、誰も居ない。
 そしてやはり限界ギリギリになって離してもらった盟は、地面に情けなくへたり込んだ。
「今度余計な口答えしやがったら、エトナの噴火口の縁に三日立たせるからな」
「……それは遠回しに死ねってことですよね?」
「せっかくオブラートに包んでやってんのに自分で剥がして、アホかお前」
 いやそれオブラートになってねえよむしろ過激になってるよ、と盟はまっとうなツッコミを心に抱いたが、命が惜しいので口を噤む。目の前にズンと仁王立ちする師匠は、地獄からの使者にしか見えない。なんでこんなに怖いんだろうかこの人は、と盟は少し泣きたくなってきた。
「フン。じゃあもう一度だ。立ってても座っててもいいから、ZONEに入れ」
「もっかい『智』の瞑想ですか?」
「脳細胞が死滅しまちたかァー、盟ちゃーん」
 奇妙に高い声での幼児言葉に加え、完全に目が死んだ無表情で、首を90度近く傾げられた。チビるほど怖い。
「セブンセンシズ体験させるつったろうが。ほらさっさとやれ」
 完全にビビった盟は、泣きそうになりながらそれでも健気にZONEに入ろうと努力した。達成できたのはひとえに「やらねば命が危ない」という危機感のお陰だろう。腑抜けた現代っ子には効果がないとされる恐怖感による追いつめだが、今回はそれが効いたらしい。きちんと命の危機を察知できるようになった自分を、盟は少し褒めてやりたくなった。
 そしてきちんとZONEに入った弟子の後ろ姿を見ていたデスマスクは、ぬっと腕を伸ばし、薄茶の頭をがしっと掴んだ。たった今アイアンクローのトラウマを再度刻んだ盟は、思わずヒッと声を上げる。ZONEを解かなかったのは根性である。
「いいかげんビビんな、うぜえ。……いいか、今から俺の小宇宙を送る。俺もお前の小宇宙に多少波長を合わせるが、お前もそれに同調してみろ」
 盟が返事をする隙もなく、デスマスクの分厚い手のひらから、少しずつ小宇宙が送られてくる。それは、夜の冷気と月光の煌めきを纏った、とても静かな小宇宙だった。
 同調する、という言葉通り、デスマスクの小宇宙は盟の小宇宙にゆっくりと並歩するようだった。その様子を観察しながら、盟も同じくデスマスクに歩調を合わせるような具合でついていく。しばらくすると、完全に盟の小宇宙の波長を掴んだデスマスクの小宇宙が、盟の小宇宙を引っ張っていた。まるで手を引かれて導かれているようだ。
 きらめく星々、渦巻く星雲、爆発、消滅、レールを通るような公転の軌跡、広がる空間、肌を裂くような凍気、灼熱。宇宙に存在する雄大なそれらが、盟の周りを凄まじい早さ──光の早さで通り過ぎていく。盟一人ならあっという間に呑まれて塵になってしまうような激流、しかしデスマスクは全くもって堂々とした慣れた様子で、どんどん盟を引っ張っていく。
 そうしていたのは数秒だったのか数分だったのか、しかし光の早さで進んだのなら、とんでもなく遠い所に来てしまったことになる。盟がどうしたものかと不安になりかけたその時、デスマスクが言った。
「ここから先がセブンセンシズだ。さあ、目を開け!」

──ごっ、

 と、世界が丸ごと自分の中に飛び込んできたような衝撃だった。
「──あ、」
 盟は、言われた通りに目を開けていた。目の前にあるのは先程よりも沈んで真っ赤になった夕陽、雲、空。影になって黒い枝には、小さな虫がゆっくりと這っている。
(……虫?)
 ちょっと待て、と盟はぎょっとした。あの虫が居るのは、百数十メートル──いや正確な数値も出せる。126.3メートル離れた木の枝だ。そしてこの木の枝の数は92本。大気には小さな塵が舞っていて、夕陽を受けてきらきら光っている。
(そんなものが)
 盟は、ごくりと唾を飲み込んだ。いまの自分の唾がどれだけの量で、どうやって喉を流れていったのかもまた克明にわかる。
(こんなものが、人間に見えるはずかない────!)
 だが、今の盟にはそれらが克明に見えた。もっと目を凝らせば、光の粒子すら掴めそうだ。自分の身体を巡る血液の胎動とともに、地球上の大気の流れが手に取るようにわかる。
「……そろそろか」
 師匠の声だ、と思った瞬間、盟の手を引いていた手が離れた。

がくん!

「がっ……!」
 一気に身体にのしかかった凄まじい重力に、盟はめり込む勢いで地面に臥した。しかし、基礎しかしていないとはいえ、盟も一般の少年とは比べ物にならない肉体への訓練を受けている。もちろんすぐ立ち上がろうとしたのだが、指一本動かせない事に気がついた。おまけに、全身が激しく震えている。
「あぐ、はァッ……!」
 全身の筋肉が完全に痙攣を起こしている。喉もまた例外ではなく、そのせいで呼吸もままならない。
「あーあー、だいじょぶかァー」
 そして師匠の暢気な声が聞こえた瞬間、盟の意識はブラックアウトした。



 ──ばしっ。
「痛っ……」
 こめかみに与えられた軽い衝撃によって目覚めた盟は、自分がベッドに寝かされていることに気付いた。自分のベッドである。
「おうコラ、ピゼッリーノpiselino。いつまでも縮み上がってねえで起きやがれ」
 いきなり振ってきたやはり下品な呼びかけになんとか頭を動かすと、そこには黄金の煌めきを纏った男が立っていた。
「……なんで聖衣……」
「招集かかったんだよ。起きるまでついててやった優しい俺に泣いて感謝しろ」
「今殴って起こしたんじゃないですか……」
「減らず口は健在なようだな」
 はン、とデスマスクはこ憎たらしい調子を打つと、腕を組み直した。キィン、と星が鳴るような音がする。聖衣が触れ合う特有の音だ。
「俺、なんで倒れたんですか……」
「お前はまだ、自分の奥から少ししか小宇宙を汲み出せてねえ。そこを俺がヒーリングによって小宇宙を貸し、誘導してセブンセンシズの扉を開かせたからだ。10しかマジックポイントのない初心者が1000ポイント必要な魔法を使えば、当然マイナス990ポイントのペナルティが降り掛かる」
 単純な話だろ、とこれまたゲームに例えられて説明された。
「まあ、それも俺がヒーリングでいくらか治してやったがな。気分はどうだ」
「……凄かったです」
 デスマスクが聞いたのは今の気分だったのだが、盟はそう言った。
「──神様になったみたいでした」
 全てのものが分子・原子レベルで視認でき、あらゆるものを余す所なく把握できるあの感覚。まさに全智全能になったかのような無敵感だった。
「あれが、セブンセンシズ……」
「そうだ」
 黄金の甲冑を身に纏った男は、肯定した。
 盟は、そんな師匠を見る。芸術品としても十分すぎるほど鑑賞に堪えうる黄金の甲冑、蟹座キャンサーの黄金聖衣。それはデスマスクという男にこの上なく似合っており、そしてその姿は紛れもなく人ならざる迫力を醸し出していた。
「……師匠達は、全員あんな世界で生きてるんですか……?」
 信じられない、と盟は唸った。あんな世界が普通だなどと。
 そして、あんな風に世界を捉えて生きているような生き物に、どうしたって勝てるわけがない、とも思った。彼らは本当に人間なのだろうか。
「まあな。言っとくが、黄金聖闘士は最低でも一時間はセブンセンシズを発揮させたままで戦えるぜ? というか、発揮できてもこんな風にぶっ倒れてちゃ話にならねえしな」
「……さっきのは、どのくらい……」
「10秒くらい?」
 仰向けの頭を、盟はガクッと横に倒した。
「人間じゃねえ────……」
「まあ、否定はせんが」
 ありえねえー、と素でぶつぶつ言っている盟に、デスマスクは更に言った。
「だが神に比べりゃ、聖闘士なんてどうしようもなく人間でしかねえ。聖戦の後は、黄金聖闘士も毎度全滅に近い有様だそうだからな」
 こんなに凄い力があっても、神には易々勝てはしない。
 あっさりとそう言われ、盟は茶色の目を見開いた。
「……そんな」
「事実だよ。まあそんなわけだから、神に勝つ為には最低限、セブンセンシズを身につけなきゃ話にならんわなあ。ガンバレ」
 盟は、唇を噛み締めた。自分は沙織──いや女神を守る為、そして兄弟達とともにそれをする為に聖闘士になろうとしている。それを諦めるつもりは絶対にないが、だがここまで厳しい道だったとは。
(俺は、甘い)
 布団の中で、盟は強く拳を握り締める。
(まだまだ、甘かった……!)
 全ての甘えを捨てて、どんな事にも耐えると誓って家を出てきたはずだった。しかし自分は結局この師匠に殆ど頼る形で小宇宙に目覚め、そしてその先にあるものの遠さに、こうして情けなく愕然としている。
 こんな事では、何も為せるはずかない。何ひとつ、守れるわけがない。
「……俺、弱いですね」
 噛み締めるように、盟は言った。
「すっげえ弱いですね」
「そうだな」
 あっさりと肯定されたが、むしろ盟はそれで心が奮い立った。自分は弱い。だから、どんな事をしてでも強くならねばならない。
「俺、強くなります、師匠。でないと何も始まらない」
「……そうだな」
 ぎりぎりと歯を食いしばり、泣きながらベッドに横たわっている少年を、デスマスクはどこかぼんやりした様子で見ていた。何かを思い出しているような、遠くを見るような眼差しだった。
 そして彼は、ふと腕を伸ばした。テーブルの上から取ったのは、小さい皿。上に乗っているものに銀のフォークを突き刺すと、師匠は泣いている弟子の顔の前に、それを突き出した。
「食え」
 食べやすい大きさに薄切りにされた林檎を、盟はきょとんと見た。
 師匠を見れば、怒っているのだかそうでないのだか判別がつかないしかめ面で、睨むようにしてただフォークを突き出している。
 盟は頭の周りにたくさんの疑問符を飛ばしながらも、おずおずと口を開け、ぱくり、と、突き出された林檎を食べた。瑞々しい、甘酸っぱい味が口の中に広がる。
「……美味いです」
「そうか」
 デスマスクは頷くと、盟の胸あたりの布団の上に、残りの林檎の皿を置いた。後は自分で食えという事らしいが、なぜ食べさせてくれたのかはやはりさっぱりわからず、盟はひたすら困惑した。
 凝った料理を出されたことは数あれど、ただの林檎を剥いてもらってしかも手ずから食べさせられるなど、本当に初めての事だった。
「……一つの事に集中しすぎるな」
 ぼそり、と、深い所で呟くような声で、彼は言った。
「広い視野で、出来る限り多くの事を見聞きしろ。一つ残らず見逃すな。手遅れになってからじゃ何もかも遅い」
「師匠?」
 いつになく深刻な声で言ったデスマスクを、盟は泣き腫らした目で見遣る。だがヘッドパーツの影になった師匠の顔はよく見えず、彼がどんな顔をしているのかはわからなかった。セブンセンシズのあの力があれば、この男がどんな暗闇に居ようと、どんな顔をしているのかもわかるに違いない。しかし盟はセブンセンシズどころか意識も半分朦朧としていて、そのあと彼が何か言ったのかどうかさえ、疲労が呼んだ眠気に飲まれてわからなくなってしまったのだった。

「──フン」
 眠ってしまった少年を見て、デスマスクは小さく鼻を鳴らした。
 そしてテーブルの上に林檎を置き直すと、くるりと小屋の中を見回した。テーブルに椅子、食器棚、ベッド、ソファ、講義や課題で使う本の山にホワイトボード。
「俺って結構真面目だよなあ……」
 友人達が聞けば一斉に口をひん曲げそうな台詞だが、この部屋の中を見る限り、デスマスクがなんだかんだできっちり師匠をやっているのは明らかである。
 デスマスクとダンテは聖域とここを行ったり来たりだが、盟はもう4年近くここで寝起きしている。ときどき街に連れて行ったことがあるが、それくらいが精々だ。
 この少年は、例のグラード財団経由でこちらに派遣されてきた。孤児だというが、明らかに上流階級、しかも相当なレベルの家の子供だという事は明らかだった。本人はその事についてあまり言いたがらないので、特に聞き出そうとした事もないが。
 だが、坊ちゃん臭い少年は、いつぞやの黒髪の誰かを思い出させた。
(あいつはここまで可愛げもクソもなかったが)
 あっても気色悪いが、とデスマスクは思い出を馳せながら、白いマントを翻した。
 甘やかされて育ったくせに、それを捨てて何かを為そうとしているこの少年に、デスマスクはあらゆることを詰め込んだ。何も知らない世間知らずぶりに苛ついたというのも、最初はあったと思う。何も知らない、知らされない、そして結局何も出来なかった無様な子供を見るのが嫌だったのかもしれない。
 あの時何もなかった暖炉には、火の消えた薪と火掻き棒が突っ込んである。
「──せいぜい頑張んな、Bambino」
 眠る少年に背を向けて、デスマスクの姿が掻き消える。
 シチリアから聖域までのテレポートなど、もうすっかり軽いものだ。






「盟」
 呼びかける低い声に、盟はふっと意識を浮上させた。
「あ、ダンテ先輩」
「飯」
 厳つい身体と顔をしたダンテは、盟と同じくデスマスクの弟子にして、正式な白銀聖闘士である。聖衣は地獄の番犬座ケルベロス。現在学会で認められているものとは違う古代星座の聖衣で、珍しいと言えば珍しい。
 盟がセブンセンシズを体験してぶっ倒れた次の日、このダンテがやって来た。デスマスクは招集がかかって暫く来れないので、その間ダンテに修行をみてもらえという事らしい。今までは一人で与えられたメニューをこなす事も度々あったのだが、『智』の瞑想をひとりでやってこの間のように沈んで帰って来れなくなったらおおごとだということで、ダンテが派遣されたのだ。
 食事の用意を手伝いながら、盟は昨日の講義で使ったままのホワイトボードを見た。
「ダンテ先輩は、どの辺の人になるんですか?」
「……ああ、その授業やったのか」
 ホワイトボードをみたダンテは、どこか懐かしそうな顔をした。
「俺は『勇』『智』だ。……といっても、ずっと聖域で修行してたから思いっきり『勇』に偏っててな。どうせだから、お前の『智』の瞑想に俺もつき合うつもりだ」
「そうですか」
 ダンテの都合とは言え、一人きりで修行するより心強いと思ったのか、盟は笑顔で頷いた。
「……しかし、本当、凄いよなああの人は。この概念だって、あの人たちが作ったやつだろ? 俺聖域でこれの話したらものすごく驚かれてさあ、教科書にまとめてくれればいいのにって皆すげえ言ってんだぜ」
「他では教えてないんですか?」
「ないない。聖域じゃ「小宇宙を燃やせ!」で終わりだよ」
「はあ……」
 呆気にとられて、盟はぼんやりした相槌を打った。
「……もしかして、俺すごい恵まれてます?」
「それは間違いないな」
 ダンテは、即答した。
「ちょっと性格に問題はあるが──あの人は間違いなく、教える側としてむちゃくちゃ優秀な人だ。基礎訓練は済んでたとは言え、俺に一ヶ月半で聖衣を取得させただけでも明らかだ」
「ダンテ先輩の実力じゃないんですか?」
「そんなわけないだろ。自分の力量ぐらい把握してる」
 これまた即答だった。昨日の講義での自分のリアクションを思い出し、盟は少し唇を尖らせる。
 そして盟はホワイトボードを見つめ、ふと、赤いペンを手に取った。教皇、そして料理長、シュラ、アフロディーテ達の三角形が書かれた図。盟はその中央点にペン先を置き、ゆっくりと、三つの点を打った。
「……ちっせ……」
 一番大きく出ている『智』ですら、料理長の三分の一程度。自己評価なので、もっと低いかもしれない。小さいばかりか形も歪な自分の三角形を見て、盟は顔を顰める。周囲にでかでかと広がっている見事な正三角形や均整の取れた二等辺三角形、こうして見るとそれがいかに凄まじいものなのか、今となっては痛いほどわかる。
 どこか拗ねたような顔をしながらも、しかし生真面目にホワイトボードを見つめて復習をしている盟を見て、ダンテは口の端に薄い笑みを登らせた。

 ダンテは、最初から彼に師事を受けていたわけではない。出身は師匠と同じイタリアで、そこから聖域に行って基礎訓練を受けた。そしてそろそろ聖闘士資格の試験を受けられようかという頃、突然イタリアに戻って蟹座キャンサーの黄金聖闘士に弟子入りしろと命令を下されたのだ。彼が13歳になってすぐの頃、今から2年近く前のことだった。
 候補生の大方は、聖闘士や、聖闘士資格は持っているが聖衣が無いという格上の雑兵が一気に何人もの生徒を持って面倒を見る。聖衣が無いと正式な聖闘士とは見なされないが、候補生たちを教える資格は貰える。教職員免許のようなものだ。
 聖衣持ちの聖闘士に特別に弟子入りさせてもらえるというのは幸運も幸運であり、しかもそれが聖闘士最高峰の黄金聖闘士とあっては、まさに宝くじでも当たったようなものだ。だからダンテは大喜びで承諾した。
 黄金聖闘士の実態は正式な聖闘士でもなければ知る人ぞ知るという状態なので、黄道十二星座の12人であること以外は顔も名前もほとんど解らないというのが普通だ。だから、ダンテもキャンサーがどんな人物なのか、さっぱり知らなかった。
 だが聖闘士資格取得試験を控えたダンテにとって、レベルの高い先生に訓練をつけてもらえるのは、まさに“受験前の追い込みに抽選でいい塾に入れた”というようなそんな気分でもあって、ダンテはまだ見ぬキャンサーを、伝説の師匠、のようなイメージで捉えていた。
 そして意気揚々とシチリアにやって来たダンテが出会ったのが、当時19歳だったデスマスクである。その珍しい容姿と意外な若さにも驚いたが、尋ねてきたダンテにこの師匠は開口一番、マフィア顔負けの迫力で顔を顰めてこう言った。

 ──くそったれ、こんなごっついの寄越しやがって暑苦しい!

 13歳のダンテは、そのときちょっぴり傷ついた。あの頃はなかなか繊細だったな、と今では思う。
 そして既に彼の弟子としてそこにいたのが、日本人の盟である。ダンテよりも3つ年下で、日本人らしく細くて小柄、顔つきもどちらかというとかわいい部類に入る少年だった。
 どこか育ちの良さを感じさせる盟は、正反対であるデスマスクにとてもよく懐いていた。聖闘士というよりはマフィア構成員と言った方が十人中十人が信じるだろうこの男を、あの少年は、師匠、師匠と慕っていた。そのきらきらした目は憧れのヒーローを見るようなそれに似ていて、尊敬しているのと同じぐらい、単なる純粋な好意があった。
 そしてこの盟こそが、ダンテがデスマスクの弟子として召喚された理由だった。
 黄金聖闘士であり、教皇の近くに仕えるというデスマスクは、月に半分は聖域に詰めておかねばならない。
 その間、もちろん盟は一人になる。だが自主練習にも限度があるし、なるのが早ければ早いほどいい聖闘士として、訓練の進行がダラつくのは致命的だ。
 だからデスマスクは聖域の教皇に、その間の盟の訓練の面倒を見る白銀か青銅を派遣しろと、つまり「留守中の子守りを寄越せ」と要請したわけである。
 だが深刻な人手不足である聖域はそうホイホイと聖闘士を派遣できないとし、どうしてもというなら、と、あと一歩で聖闘士資格、つまり候補生を教える教職免許を取れる、そしてイタリア出身であるダンテをそれに寄越したのだ。子守りに使いたいなら自分で鍛えて資格を取らせろと、そういう意味である。
 それを知った時ダンテは納得いかないようなものを覚えなかったではないが、やはり黄金聖闘士に教えてもらえるというのはかなりの幸運であるから、ダンテは正式にデスマスクの弟子としてシチリアで訓練を受けることになった。
 ダンテは盟より年上で候補生としては数年先輩、だがデスマスクの弟子としては盟の方が兄弟子であるという微妙な関係であったが、盟はダンテを「ダンテ先輩」と呼ぶようになった。こういう、とりあえず他人を立てておいて場を荒立てない小器用さは師匠譲りなのか、それとも天性の性質なのか。とにかくダンテと盟はいがみ合うこと無く、それに常に気分屋な師匠の機嫌に振り回される同士として、上手くやっている。
 そしてその日から、デスマスクは、詰め込めるだけ詰め込んだ超スパルタ訓練をダンテに課した。ダンテは正直その頃のことを曖昧にしか覚えていないが、毎日5回は「もう死ぬ」と思った、ということだけははっきりと覚えている。
 そして驚くべきことに、一ヶ月半のその訓練のあと、「もうイケるだろ」とデスマスクは聖域にダンテを連れて行き、聖闘士資格取得試験を受けさせた。

 一ヶ月半、である。

 ダンテは、聖闘士資格をとることが出来た。
 あの候補生の中でも一番強かった男にあっさり勝った時、嬉しいということよりも、「勝てなかったら俺がもう一回殺してやる」という師匠の言葉が現実にならなくて良かった、と心から安堵して、少し泣いたのを覚えている。そして、資格を取得しほとんど呆然として戻ってきたダンテに、デスマスクが満面の笑顔で言った台詞も。

 ──よくやった! よし、これでガキ置いて遊びに出れる!

 これが、ダンテが師匠に初めて褒められた言葉である。
 そしてダンテは、自分の師匠が“私的な目的の為なら凄まじい有能さを発揮するが、気が乗らない時は激しく適当”という、女神の聖闘士にあるまじき性格であることを知った。
 その後から今までの生活は、一ヶ月半の地獄を経験したあとだからか、酷く穏やかであるように思う。デスマスクがいないときは今回のようにダンテが盟の訓練を見るようになり、そして稀にデスマスクが帰ってきて3人揃ったときは、二人揃って師匠の訓練を受ける。
 そして時々ふらりと遊びにくる、デスマスクの友人であるシュラやアフロディーテ。彼らも黄金聖闘士であるとわかった時は相当驚いたが、接してみれば、黄金聖闘士というより気の置けない師匠の友人という感覚の方が強くなった。
 さらに、シュラなどは頼めば『勇』の修行を気軽に引き受けてくれるので、黄金聖闘士、しかも格闘技において随一と言われる彼の教えを受けられるのは相当な役得である、とダンテは思っている。
 ただし、シュラの訓練は、デスマスクに負けず劣らず鬼畜のように厳しい。

「せんぱーい」
「何だ」
 過去に思いを馳せながら水を汲んでいたダンテは、暢気な声で呼ぶ盟の方を振り向いた。盟はアフロディーテとシュラ、教皇、そして料理長の三角形が書き込まれた、仁・智・勇の図を指差している。
「師匠が『智』と『仁』な人だっていうのは教えてもらったんですけど、この三角形にすると師匠ってどのくらいなんですか?」
「教えてもらわなかったのか?」
「というより、聞き損ねました」
 別に教えてくれなかったってんじゃないです、と盟はふるふると首を振った。
「あー……。今はまた違うのかもしれないが、俺が教えてもらった時はこうだったな」
 そう言って、ダンテは赤いペンを取ると、きゅっきゅっと三つの点を取った。『智』と『仁』がマックス値、『勇』は料理長よりやや低い場所だった。
「……この料理長って、どれだけ強いんですかね」
「さあなあ……。教皇の間の厨房に詰めてて降りて来ないから俺も会った事はないが、相当らしいぞ。雑兵達の間で、こう、伝説っぽくなってる人だ」
「はー、一回会ってみたいようなみたくないような……。……あっ」
「どうした?」
 ホワイトボードを見て声を上げた盟に、ダンテが不思議そうな顔をする。
 しかし盟はダンテを放り出し、本棚の近くのキャビネットからノートとペンを素早く持って来ると、ホワイトボードをちらちらと見上げながら、突然それに図形を書き出した。どうも、この仁・智・勇の三角形らしい。
「えーと、ここが40度でここが100度だから……比率が……」
 ぶつぶつ言いながら複雑な計算作業を進めるスピードは、とても速い。デスマスクの方針で『智』の修行を重点的に行なっている盟の知能指数がなかなか凄いことになっているのは、ダンテも知っている。ホワイトボードに書かれた盟の三角形はとても小さいが、『智』の所はもう少し上でも良いと思う、とダンテは密かに評価する。
「あー! やっぱそうだ、すげえ! ダンテ先輩、ほらほら見て下さい!」
「は?」
 きらきらした表情でノートとホワイトボードを指し示してくる盟に、ダンテは首を傾げる。
「ほら、まずこの図!」
 盟は、ホワイトボードに最初に書かれた三角形を示した。中央点には教皇の“P”、『智』『勇』の辺にシュラの“S”、『勇』『仁』の辺にアフロディーテの“A”、そして『仁』『智』の辺にデスマスクの“D”の点が書き込まれている。
「これ、師匠とシュラさんとアフロディーテさんの点を結ぶと、正三角形になるでしょ?」
「……なるな」
 きゅっきゅっきゅ、と盟が三点を赤ペンで結ぶと、教皇を囲んで、ちょうど上下逆向きの正三角形が出来上がる。
「これで気付いたんですけど、こっちの図で作った三人の三角形を、底辺の長さを統一した二等辺三角形に直してですね」
「ほう」
 今度は、ノートに書かれた計算式。
 物心ついた頃に聖域に連れて来られたダンテはあまり学がないが、デスマスクに師事してからは勉強もそれなりに叩き込まれているので、この位はすぐ理解できる。
「で、この三つの三角形を並べるとですね……。ほら!」
 今度はホワイトボードを裏返し、まっさらのそこに計算式とフリーハンドの三角形を書き込む。
 ──三つの二等辺三角形が合わさって出来たのは、黄金率の正三角形だった。
「この三人の三角形を合わせると、教皇様よりも面積の大きい正三角形になるんですよ!」
「……本当だ」
 盟が得意げに示す図を、ダンテもまじまじと見た。元になる図がフリーハンドであまり正確ではないが、それでもここまでピッタリになるのは面白い。
「師匠達って、黄金聖闘士の中でも教皇様近くに仕えてるって聞きました。三人揃ったらこれだけバランスよくなるんですもん、これ、側近としてはかなり心強いんじゃないですかね?」
「確かに……」
 この図がどれだけ正確かはわからないが、それぞれ全く違う得意分野を持つあの三人は、あらゆる面でとてもバランスが取れた三人だ、とダンテも思っている。盟の言う通り、教皇の周りを固める人材としては、もしかしなくても完璧に近いものがあるのかもしれない。
「鉄壁って感じですね」
「というか、お前本当に師匠が好きだなあ……」
 きらきらした目で大きな三角形を見つめる盟に、ダンテは微笑ましいものを滲ませた苦笑を浮かべる。
 そしていい加減飯が冷めるぞと盟を促して、彼らは師匠に仕込まれた腕で作り上げた、遅めの昼食を始めたのだった。
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BY 餡子郎
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