第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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《──シュラ! 話は済んだのかね!》
「うっ……!」
 またサガに呼び出された後、いざ教皇宮を出ようとしたシュラは、いきなりキーンと頭に響いた念波に顔を顰めた。
「……何だ? シャカ?」
《何だではない。教皇との話は済んだのかね》
「済んだが……」
《済んだのなら早く双魚宮まで来たまえ! 私は待ちくたびれたぞ!》
「はあ!? ……くっ、わかった、わかったからそんなに強い念波を飛ばすな!」
 頭が割れる! とシュラが叫ぶ。しかし確かに話は終わったものの用事自体はまだ終わっていないのであるが、早くしろと急かすシャカに根負けし、シュラは言われるがまま双魚宮に足を踏み入れた。超能力への耐久性が高くないシュラには、黄金聖闘士の中でもムウと並んで強力な超能力を持つシャカの念波は強すぎるのだ。

 顔を顰めてこめかみを揉みながら、シュラは言われた通りに双魚宮に向かう。そして勝手知ったる何とやらで友人のプライベート・ゾーンである離宮に足を踏み入れ、二人分の小宇宙が感じられる中庭に向かった。
「やあ、シュラ」
 中庭にしゃがみ込んだまま長閑な挨拶を寄越してきた宮の主人に、シュラは眉を顰めた。
 本殿以上に守護者の個性や生活感が如実に現れているそれぞれの離宮だが、双魚宮の離宮は、常に開発・改良を重ねている魔宮薔薇の無毒タイプの試作品が部屋の中にまで這っており、まさに薔薇の館と呼ぶのが相応しい。
 かつて薔薇の妖精が出ると言われて噂になり聖域に連れて来られたアフロディーテであるが、今でも十分そんな風情を醸し出している。メルヘンめいた形容をすれば、まさに花の妖精、王子様といったところだろうか。子供にそう教えれば、きっと本気で信じるだろう。
 そして彼の自慢の薔薇、その本丸がこの中庭だ。温室も設置されており、実験的な種も多く育てられている。しかも小宇宙を使う事で通常不可能な品種改良が平然と行なわれている様は、外界の園芸家が見れば卒倒しそうな光景だろう。この分だと、青い薔薇もそう夢物語ではあるまい。
 そしてその中庭にアフロディーテが籠っているのはいつもの事なのだが、そこにシャカがいるというのは、全くもって予想外の事だった。
 しかも彼は、丁寧に土を運んだり花を鉢に植え替えたり、とても丁寧かつ真剣に仕事をしている。
「……一体何をやってるんだ?」
「花の手入れの方法を教えていたんだよ」
 シュラの当然の疑問に答えたアフロディーテは、どこか機嫌良さそうな様子だった。花だろうが何だろうが総じて「草」としか見ていない無骨な輩ばかりの中、手入れの方法を聞いてくる人間など滅多に居ないからだろう。
「む、シュラ、やっと来たのかね」
 熱中していたのだろう、急かしたくせに今初めてシュラの姿を認識したらしいシャカは、土を弄る手を止めた。袈裟をたくし上げた姿が新鮮である。
「ならばもうよかろう、アフロディーテ」
「はいはい、その鉢だけやってしまってくれ。そうしたらお茶にしよう」
「おい、全く話が見えんのだがどういうことだ?」
 黙々と土を弄る二人に、シュラは困惑顔で首を傾げる。すると、実に手慣れた様子で薔薇の剪定を行ないながら、アフロディーテが言った。
「君、トニ料理長にチュロスが食べたいとねだったろう」
「……作ってくれたのか?」
「匂いがしているだろうに」
 言われてみれば、濃厚な薔薇の香りの向こうに、油とそれで熱された濃厚な砂糖、そしてシナモンの匂いが感じられた。間違いなく、スペインの伝統的な揚げ菓子の匂いである。
「シャベルの予備を借りようと思って尋ねたら、ちょうど作っていてね。君が教皇宮から出てきたら渡そうとしていたらしいんだが、シャカが」
「ああ……なるほど」
 そろそろ18になろうとしているシャカは、背は皆と同じく6フィートを越したものの、聖闘士にあるまじき細身である。脂肪がないのはもちろん筋肉も必要最低限しかなく、あろうことか肋骨が浮いているような有様だ。
 小宇宙をフルに使えばそれなりに肉弾戦も出来るのだが、アルデバランなどは未だ下手に蹴り飛ばして全身複雑骨折にでもさせてしまいそうだと言い、シャカとは絶対に組み手をしたがらない。
 だがそんな体躯をしているくせに、黄金聖闘士の中で最も大食いなのもこのシャカだった。所謂痩せの大食いというやつで、食べなくても平気でもあるが、食べようと思えばいくらでも入るのだ。神に最も近い男、仏陀の生まれ変わりなどと異名の多い男だが、身内には「異次元腹」の異名が最も身近である。胃に六道輪廻を仕込んでいるのではないか、と誰かが冗談混じりに言ったことがあるが、本気で怪しんでいる者も居るくらいだ。
 そしてそんな彼は、シュラに負けず劣らずの甘党だ。シュラの予想通り、初めて見る甘味にたいそう興味を示したシャカはそれをねだったが、シュラが帰って来たら食ってもいいと言われたので、今までシュラが帰ってくるのをずっと待っていたらしい。
「子供か、あいつは」
「まあ、黙って食べるよりずっといいじゃないか。分けてやってくれ」
 それは全く構わんが、とシュラが言うと、シャカの「終わったぞ!」という声が飛んできた。



 経費での食い道楽がばれてからというもの、シュラの食生活のバラエティはやや侘しいものになっていた。
 ……とはいえ、いくら聖域が万年貧乏であろうとも、紀元前から『食』に対して貪欲なギリシャである。安くても美味いものはたくさんあるし、“下”へ降りれば、すっかり生産量が安定したチーズやグリークヨーグルトが楽しめる。新鮮な野菜を中庭の井戸で冷やすだけでもちょっとした御馳走になるし、自然の恵みとはつくづく偉大だ。
 そんなわけで少々肉気に乏しい事を我慢すれば然程侘しい食生活でもないのだが、その上、シュラにはごく身近に、『食』に関しての大きな味方が居る。
 シュラの食生活の最大の味方、教皇宮の料理長・トニは、食材さえどうにかなれば必ずシュラのリクエストに応え、そしてその出来映えはいつも見事なものだった。その結果、彼はギリシャ料理に限らず地中海地方全体の料理はほぼマスターし、今ではアジア系統の料理まで作れるようになりつつある。レシピの出所は料理において弟子とも言えるデスマスクだ。彼は中国を中心としたアジア文化にいたく詳しい。
 そして今回もまた、スペインの伝統菓子であるチュロスが食べたい、と言った彼のリクエストに応えてくれたらしい。
「おお」
 双魚宮のテーブルにどんと置かれたものを見て、シュラは珍しく、子供のような感嘆の声を出し、目を輝かせた。一抱えもある作り立てのチュロスはたいへんに美味そうで、たまらない匂いが嗅覚を刺激している。
「ちょっとやりすぎだと思うけどね」
 アフロディーテがそう言うのも、無理はないだろう。トニお手製のチュロスは、大きな紙袋二つ分にどっさりと詰め込まれている。
「ホットチョコレートを作ってくる」
「私の分も作りたまえよ!」
 シュラは、トニが抜かりなく添えていたチョコレートを引っ掴んだ。そしてその後ろ姿に、シャカがすかさず声をかける。
「ああ、シュラ、裏庭には入るんじゃないぞ」
「わかっている」
 双魚宮には中庭以外にも表庭と裏庭があるが、アフロディーテは裏庭に人を、特にシュラを入れようとしない。彼曰く、裏庭には小宇宙によって改良した魔宮薔薇の試作品が溢れるほど咲いているので、『仁』の小宇宙の耐久性がないシュラには特に危険だからだ、という事だった。
 事実、シュラは以前うっかり毒薔薇の芳香を吸い込んでひどい目にあった事が何度かあるので、双魚宮においてアフロディーテの指示に逆らう事は絶対にしない。
 言われなくとも行くものか、とシュラはぼそりと暗く呟きながら、チョコレートを持って厨房に入った。

 山のようなチュロスをお供にしたティータイムは、三人しか居ない割に大層賑やかだった。シャカが始終喋っているからである。
 彼は静かな時は貝のように静かなのだが、喋り始めるとなかなか止まらないのだ。
「シナモンと砂糖をかけて食べるのが一番ポピュラーだが、やはりこのホットチョコレートにつけて食べるのが真の通だな」
「なるほど、奥が深いのだな。マヨネーズやケチャップなどもなかなか良いやも」
「なぜそのチョイス! お前それやったら殴るぞ!」
 故郷の甘味にこだわりを持つシュラは、いそいそと席を立とうとしたシャカの薄い肩を掴んで止めた。このように言う事がいちいち突飛なので、シャカとの会話は常に大騒ぎになりがちなのである。静かに淡々と会話が出来るのは、デスマスクかアルデバランくらいだ。
 子供の頃はムウと楽しそうに喋る様もよく見られたが、ムウはもう、ずっとここに居ない。
「頼むからそれはやめろ、インスタントコーヒーの粉くらいにしておけ。あれなら結構いける」
「ほほう、そうかね。では持ってきたまえ」
「相変わらず清々しいほど偉そうだな、お前……」
 無意味にふんぞり返って言うシャカにもういっそ呆れて、シュラは軽く息をついた。
 子供の頃から変わり者ではあったが、なぜこんな斜め上をかっ飛ぶような成長を遂げてしまったのだろうか。いや、シャカの場合、成長したというよりも、進化した、という形容の方が相応しい気がする。
 ミロのように落ち着きがないという風では決してないはずなのに、シャカもシャカで、違う意味で疲れる弟分の後輩だった。
「インスタントコーヒーなんてあったかな」
「ないのかね?」
「いつも豆から煎れてやってるだろう。……まあいい、一応探して来よう」
 カタン、と席を立ったアフロディーテを、シュラが驚いたような顔で見る。こういうとき、彼は優雅に微笑むだけで絶対に席を立とうとしないからだ。
 立たないのが当たり前とでもいうような王子のごとき態度を貫く彼に、結局いつも席を立つはめになるのはシュラかデスマスク、しかもデスマスクは料理担当である事が多いので、雑用はおのずとシュラになってくるのだ。
 だからシュラは、もう何を言っても無駄なシャカとそんなアフロディーテとの茶会であれば、当然自分が雑用係なのだろうと悲しくも慣れた覚悟をしていたのだ。
「いいかげん胸焼けがしてきたからね、気分転換がてら探してくるよ。しばらくドーナツ類は見たくない」
「そうか?」
 これぐらいどうってことないだろう、と、既に何本目だか数えたくもないチュロスを食べ続けるシュラとシャカを見て、アフロディーテは「大食いの甘党どもめ……」と、ややうんざりしたように、小さく呟いた。
 アフロディーテも聖闘士の例に漏れず一般の成人男性よりもずっと食べるが、味はどちらかというとしょっぱい方が好きだ。この間シュラが買ってきた牛丼は、安物ではあったがなかなか好みの味だった。
「……まあ、いい。好きなだけ食べたまえ。喧嘩するなよ」
「するものかね。私は釈迦で彼は阿修羅だぞ」
「……それは俺がお前の配下という事か」
 堂々と言ってのけたシャカを、シュラがぎろりと睨む。
 言う側から早速小競り合っている二人に呆れた顔をしたアフロディーテは、私の薔薇に被害が出たら、その砂糖まみれの口に毒薔薇を突っ込むからな、と言い捨てて、さっさと台所に向かって行った。

「そういえば、お前どうして花の手入れなんぞやろうと思ったんだ?」
 アフロディーテが行ってしまってから、シュラが言った。
 シャカの生活は常に非常に質素で、飾り気も何もない。まさに苦行中の仏僧そのままの生活は、家具、しかも寝台すらないという有様だったので、何度か周りが面倒を見ている。食事とて、食べればいくらでも食べるくせに、周りが放っておけば平気で断食状態に陥るのである。ただし、出されたものは全て受け取るので、そのあたりはまだいい。──文句は言うが。
 徹底した托鉢精神といえば仏僧らしいが、デスマスクやシュラたちに言わせれば、ただのヒモ体質である。何もしなくても誰かが養ってくれる星の下に生まれついた男、それがシャカだった。
 ともかく、自発的に何かしようとする事がほとんどないシャカが、よりにもよって、植物とはいえ生き物の世話をしようとするというのが、シュラには非常に意外だったのだ。
「いやなに、私も君らを見習おうと思ってな」
「はあ?」
 相変わらずよくわからない切り返しをするシャカに、シュラは眉をひそめて首を傾げた。この男が、一言でわかる答えを返した事は一度としてない。
「先日、少々頼まれて“下”の墓地に行ったのだ。死者の供養をしてくれまいかと」
「……宗旨が」
「ここで宗教などあってないようなものだろう。何でも良いのさ」
 女神アテナの為の聖域、というといかにも宗教集団のようであるが、その実、儀式や教典などは一切存在していないので、アテナに対する聖域のスタンスは信仰というのとは違う。だから聖域の人々は何かに祈りを捧げるという事をしないのだが、常に死と隣り合わせの訓練に身を置く彼らは、自然と、死者に対して敬意を払う。環境から生まれた、名前のない小さな信仰、と言ってもいいかもしれない。
 そしてそんな彼らだから、何でもいいから目に見える形での死者への供養をしたいと思ったのかもしれない。そこの所、仏陀の生まれ変わり、神に最も近い男と噂され、そして仏僧そのものの袈裟かヴァルゴの黄金聖衣を纏っているシャカは、うってつけだったのだろう。
 しかし、それは単に袈裟と聖衣以外に着るものを持っていないだけだということを知っているシュラは、今度Tシャツにハーフパンツでも与えてやろうか、と意地の悪い気持ちで思った。与えたものは文句を言ってもちゃんと着るシャカのことだ、袈裟と同じ感覚でTシャツを着て“下”に降りるに決まっている。
「……で?」
「アフロディーテが11年前に咲かせたという、墓地の花園を見た」
「…………」
「たいへん見事だった」
 そう言って、シャカはチュロスをまたひとくち齧った。
「そしてついでだからと思い、アイオロスの墓参りをした」
「…………」
「そうしたら、横に君の墓があるではないか」
 シュラは、返事をしない。
「安心しろ、ちゃんと経を上げてきた」
「待て」
 神妙な表情をしていたシュラは、思わず突っ込んだ。
「おい、確かに墓はあるが、俺はまだ生きているだろう。経なんぞ上げるな」
「ついでだよ」
「何のついでだ!」
「君が死んだときは、私も生きては居ない」
 あっさりと、シャカは言った。
「……どういう意味だ」
「どういうも何も、処女宮は六番目で磨羯宮は十番目の宮だろう。君が死んでいるという事は、私も戦死している。経も上げられはしない」
 だから今のうちに上げておいたのだ、と、やはり無意味に偉そうにシャカは言って、ホットチョコレートにチュロスをつける。
「そのあと、アルデバランからあの墓は何だと聞いてな。聖闘士にそういう習慣があるとは知らなかったが、私も聖闘士であるからにはその習慣に倣おうと思った」
「……墓を」
「そうだ」
 もぐもぐとチュロスを咀嚼しているシャカは、相変わらず目を閉じている。最も小宇宙が現れやすい目を閉じ、視覚を断つ事で、彼は日常生活を送りながらも常に瞑想に近い状態を保つことが出来る。そしてそれは始終『智』の修行を行なっているのに他ならず、その結果、彼は凄まじい量の小宇宙を身につけた。
 小宇宙の量が多い事は、それだけ神という生き物に近い性質になるという事でもある。この膨大な量の小宇宙こそが、シャカが「神に最も近い男」と呼ばれる所以である。よって彼は神が持つ感覚であるセブンセンシズを発揮できる時間が最も長く、また小宇宙を多大に用いる『仁』の大技を、何度も発動することが出来る。天魔降伏、転法輪印、六道輪廻、天舞宝輪、天空覇邪魑魅魍魎。彼の技はどれもこれも、生まれ持った類い稀なる『仁』の才能を、神かと思うほどの膨大な量の小宇宙でもって発動する、というものだ。
 ただしその代わりに、見た目通りに『勇』の肉弾戦はかなり心許ないところがある。身のこなしが非常に軽い所が強みではあるが、実力はデスマスクとどっこいどっこいだろう。
「覚悟の証しとしての、己の墓。なかなか悪くないではないか。だから思わずリスペクトをだな」
「リスペク……デスマスクか」
 いきなりカタカナ語を用いたシャカに、シュラは脱力したような仕草を見せた。全く正反対なようでいて奇妙に話が合うらしい二人は結構よく話しているが、その際、デスマスクが使う近代語をシャカが覚えて使う事が時々あるので、思わず驚いてしまう。
「だが、ただでさえ自作だというのに、あのような味も素っ気もない石の墓標ではなんとも寂しかろう」
「味も素っ気もない寂しい自作の墓に入る予定で悪かったな」
「突っかかるのはやめたまえ。……沙羅双樹という木を知っているかね」
「サラソウジュ?」
 シュラは、素直に首を傾げた。
「インド原産の、背の高い常緑高木だ。白い花を咲かせ、ジャスミンティーのような香りがする」
「へえ」
「釈迦がクシナガラで入滅したとき、臥床の四辺にこの木があったという。その時この木は一斉に花を咲かせ、たちまちに枯れ、白色に変じ、さながら鶴の群れのごとくであったという……」
 どこか恍惚としたような風情で、シャカは言った。シュラはそれを半目で見ている。
「なるほど。釈迦繋がりでそれを植えるということか」
「そうだ。まさに釈迦牟尼リスペクト」
「お前リスペクトって使ってみたいだけだろう」
 妙に子供っぽい所のあるシャカに、シュラは淡々とした声で言った。といっても、シャカもまだ18歳、やっと少年の域を過ぎようかという年頃なのだから、年相応といえば年相応である。この歳頃の男といえば、ロックスターやらスポーツ選手に憧れて、彼らを真似たりする行為はごく一般的な傾向だ。
 シュラとて、アメリカ生まれの中国人俳優にいたく心酔した時期がある。正直、今も心酔している。シュラに信仰があるとすれば「截拳道」と答えるだろう。
 そして、シャカのリスペクト先はロックスターやスポーツ選手、そしてアクション俳優や格闘家ではなく、仏教の開祖ゴータマ・シッダールタだった、それだけのことだ。だけ、と言い切れない辺りはシャカだから仕方が無い。
 お前らアテナはどこに行ったんだ、と突っ込む人材は居なかった。
「まあ、ともかくそういうことだ。娑羅双樹は温暖な地域でないと育たない。ギリシャならまあ大丈夫だろうとアフロディーテには言われたが、やはり初心者なのでな。素直に教えを乞おうと思ったわけだ」
「なるほど」
 シュラは、納得して頷いた。
「それに、どうせ土地があるのだから、いっそのこと広大な花園にしてはどうだと言われてな、そうすることにした。“下”の墓地の花園も素晴らしいものであったし、あのような場所で死ぬのならわるくあるまい」
「……? お前、それをどこに作る気なんだ?」
 “下”にそこまでの事が出来る場所があっただろうか、と記憶を辿っているシュラに、シャカはフフンと笑った。まるっきり悪戯坊主の笑みである。
「秘密だ」
「はあ?」
 にやにやと笑っているシャカに、シュラは変な声を出した。
「私がいよいよ死ぬ時には、沙羅双樹の園はきっとそれはそれは見事な様になっているだろう。その時まで楽しみにしていたまえ」
「死ぬのに楽しみもクソもあるか」
「おや、私が死ぬのが悲しいかね」
 からかうような声で、シャカは言った。こういうところは気が合うだけあってデスマスクと似ているな、とシュラはぼんやりと思いつつ、口を開いた。
「……楽しくはないだろう」
 シャカは、目を閉じたままだが、きょとんとした顔をした。そして、すぐに薄く笑う。
「それは、ありがとう」
「礼を言う所じゃない。それに、生きる事を放棄する“死ぬ気”と、必死になって事を成そうとする“死ぬ気”は全く違うものだ。俺の覚悟は後者であって前者は言語道断だ」
「もちろん、私とてそうだとも。だが全てを為しきった後に眠る場所が寂しい石の墓より花園の木の下の方がいいだろう」
 柔らかい笑みを浮かべているシャカとは正反対に、シュラは険しい顔をして、呟くように言った。
「……だが、お前は俺の墓を知っている」
「それは、先程も言っただろう。君が死んでいるということは、私も生きては居ない。だが私が死んでも君が生きているという可能性は充分あり得る。だから君は、私が死んで初めて私の墓を見ることになる、これはごく普通の成り行きであり、私の役得だ」
「役得?」
 思ってもみない言葉が出た事に、シュラははっきりと怪訝な顔をした。
「そうだとも、君が死んだら味も素っ気もない寂しい自作の墓に入り、しかも誰も生きていないから墓参りをするものすらいない。しかし私が死んだ時は、花が溢れる沙羅双樹の木の下に、人々が私を拝みにやってくるというわけだ」
 とりあえず、コイツが死んでも絶対に墓に手を合わせてはやらない、とシュラは決意を固めつつ、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……はぁ、もういい。死んだ後の事を考えるほど暇じゃない」
「生きる事に手一杯というわけか。それは良い事だ」
 やはり無意味に偉そうなシャカに、シュラはもはや何度目かもわからぬため息をついた。
「何もかもがはっきりせんうちから死んでたまるか」
「おや、迷いがあるのかね、阿修羅」
「迷ってはおらん。道がわからんだけだ」
「迷子は皆そう言う」
 誰が迷子だ、とシュラは悪態をついたが、チュロスを頬張ってアフロディーテとはまた別のベクトルで美しい顔を盛大に変形させているシャカに、それ以上言う気が失せた。
「……阿修羅、か。わからん神だ」
「名前をそのままリスペクトしておいて、今さら何がわからんのかね」
「だからお前リスペクトって使いたいだけ……いや、もういい」
 シュラは半ばやけくそ気味に、チュロスを豪快に口に放り込んだ。
「……阿修羅は、正義の神だ」
「…………」
「だがその正義が一体どういうものなのか──俺には未だよく分からん」
 娘を陵辱した帝釈天を許すことが出来ず、そしてそれ故に悪鬼に墜ちた正義の神。だがシュラは未だ彼のとった行動が悪であるとは思えない。
「自分の娘や姉妹が陵辱されて、それを簡単に許すことができるか? むしろ許す方が悪だと俺は思う」
 しかも、許しを乞うなり甘んじて罰を受けようとするなりというならまだしも、帝釈天は怒れる阿修羅を迎え撃った。反省の色ゼロではないか、と、阿修羅の名を名乗る青年は、不貞腐れた顔をした。
「ああ、わからん、何もかもわからん。正義、ああ、なんて曖昧な言葉だ、苛々する」
「ふむ──」
 シャカは笑みを消し、少し顎を上げて空を仰ぐような仕草をした。
「……なるほど。ではこのシャカから、悩める阿修羅に救いの手を伸ばしてやろうではないか」
「…………」
 シュラは、非常に胡散臭そうに目の前の弟分を見た。確かに、悪鬼となった阿修羅は後に釈迦の説法に触れる事で改心し八部衆のうちのひとりになったという背景があるが、それを自分たちに当てはめられてはかなわない。
 何を言いやがる似非仏陀が、と言いたいのをシュラは何とか堪えた。ここで千日戦争を始めてしまったら、アフロディーテに毒薔薇を口に突っ込まれるからだ。
「阿修羅は正義の神ではない」
「……何だと?」
 しかし、この言葉には心底驚いて、シュラは目を丸くした。
「ギリシャの神々は、大いなる意思がそのまま神格化した者たちばかりだ。何も知らない学者どもの言葉をあえて借りるなら、様々な意思や現象の擬人化であると」
「…………」
「しかし、こちらにおいてはそうではないのだ。阿修羅は正義そのものではないのだよ」
「なら、何だ」
 シュラの目には、鋭いものが宿っていた。怒っているとも充分取れるその眼差しだったが、その奥にある刃先が僅かに揺れているのを、シャカは感じた。
「天龍八部衆は、仏教が流布する以前の古代インドの神々が仏教に帰依し、護法善神となったものとされる。そして阿修羅もその一人というわけだ」
「……だから?」
「仏法を守護する八神。戦闘神である阿修羅は、戦う事によって仏法を守る」
「だから、何だというんだ!」
 やや声を荒げたシュラは、直後にハッとした顔をした。ばつの悪そうな表情が見えなくても、心を落ち着けようとシュラが小宇宙を抑えたのが、シャカにはすぐにわかる。
「──阿修羅は、正義の神ではない」
 シャカは、優美な手つきでカップの縁に触れた。
「…………」
「護法善神。……つまり、正義の守護神なのだよ、シュラ」
「……どういう意味だ」
「それは自分で考えたまえ」
 そうすべき事だ、と、シャカは仏僧らしい厳かな様子で言い、そして今までの騒がしさが嘘のように、シンと黙った。
 そしてこうなってしまってはもう彼は何一つ喋らないということを知っているシュラは、眉をひそめつつも、本当に自分で考えるしかないのだろうと腹を決めた。
(──ああ、考えるのは苦手だというのに)
 考えなければいけない事ばかりだ、と、シュラはガリガリと頭を掻き、そしてそうしてから自分の指先が砂糖まみれだった事に気付いて、思いっきり舌打ちをした。



「二人とも、残念ながらコーヒーはなかったよ」
 そしてそれからいくらもしないうちに、アフロディーテが帰って来た。
「む、それは残念だ。せっかくそのために一本残しておいたというのに」
「一本しか残ってないのかい……」
 あれほどあったチュロスが本当になくなっているのを見て、アフロディーテはひやりと妙な汗を流した。
「おい、何だこの気狂いみたいな茶会は」
 匂いだけで胸焼けしそうだぜ、と言って顔を出したのは、デスマスクだった。
「帰ってきたのかナニー」
「ナニー言うなぶっ殺すぞクソ山羊。……チュロスか?」
「ああ。トニに作ってもらった」
 シュラがそう言うと、デスマスクが片眉を上げた。そしてシュラはそれを摘まみ上げると、デスマスクの前に突き出した。
「食え」
「シュラ、それは私の──」
「シャカ、譲ってやってくれないか」
「むっ」
 アフロディーテになだめられ、シャカはやや渋々とだが引いた。
「まあ良い、譲ってやろう。ただし次は必ずコーヒーのチュロスを食わせるのだぞ!」
「……次」
「そうだ、次だ」
 うむ、と頷くシャカだったが、しかし、シュラは困ったような笑みを見せた。癇癪を起こす子供の側に、どうしようもなく黙って立つときの、あの表情である。
 そんなシュラに、シャカは少しだけ怪訝な顔をした。
 そしてデスマスクは、自分の前に突き出されたチュロスをじっと見てから黙って受け取ると、軽く砂糖をふりかけて、豪快に口に入れた。もぐもぐと咀嚼して飲み込んでから、彼は言った。
「……最後の一本か」
「そうだ」
 シュラが答えると、デスマスクは、そうか、と呟いて、残りをまた口に入れて咀嚼し、全部を食べきった。
「美味い」
「そうだろう。あの料理長の作るものは絶品だ」
 シャカが、まるで自分の事のように言った。
「君の料理も美味いのだが、君は菓子をあまり作らぬだろう。子供の頃は磨羯宮の従者の、ルイザ、そうルイザだ。彼女がとても美味いケーキを焼いてくれたものだが──あれは絶品だった」
「……そうだね」
 穏やかな相槌は、アフロディーテ。
「ああ、そういえば──シュラ、君、どうして教皇に呼び出されていたのかね」
「今さらそれを聞くか……」
 本当、先ず自分の事だよなあお前は、と完全に脱力して言ったシュラは、もはや呆れを通り越して笑いを浮かべていた。疲れきった笑みを。
「俺はその事で呼びにきたんだよ」
 デスマスクが、言った。シュラとアフロディーテが振り返る。
「……お前だけってのは、筋じゃねえだろ」
「……そうだな」
 苦笑にも似た表情で言ったデスマスクに、シュラは静かにそう返した。アフロディーテも、声に出さずとも同じように頷いている。
「では、行こう。シャカ、後片付けを頼んでも?」
 さらりと言ったアフロディーテに、シュラとデスマスクがぎょっとした。この天下の托鉢僧──もといヒモ体質男に労働をさせようとは。
「私がか」
「君がだ。……クッキーをやるから」
「ふむ、まあいいだろう」
 あっさり頷いてカップを集め、厨房に向かったシャカに、シュラとデスマスクは呆然としている。
「さあ、行くぞ二人とも」
 餌で釣ったとはいえあのシャカを操縦し、さっさと歩み始めたアフロディーテの背中を、二人は半ば尊敬とも畏怖とも取れる眼差しで見つめながら、その後を追った。
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BY 餡子郎
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