第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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 盟がこのシチリア・エトナの山小屋にこもってはや四年近くにもなるが、自分はいったい何の修行をしているのだろうか、と思うときが度々ある。
 自分の師匠が聖闘士として色々と規格外である事については、盟は先日聖衣を得て正式に白銀聖闘士となったダンテや、時々やってくる師匠の友人達によって薄々既に確信している。……いや、ダンテはともかくとして、シュラとアフロディーテに関しては、やはりにしてさすが師匠の同類でもあるので、何とも微妙であるが。
 ともかく、師であるデスマスクが自分に課す修行は、盟が思っていた様相と異なっていた。もちろんいかにもそれらしい肉体的な訓練も課されるのだが、デスマスクに師事する前は聖域にて訓練を受けていたというダンテによると、あくまで基礎的なものでしかないらしい。それでも、最初の頃は一日に何度も本気で死ぬと思ったが。
 そして、いま盟がこなしているのが、その聖闘士らしくない課題だった。目の前に積まれた本の山、それを読破し内容を理解し、また独自の考察を行なうこと。レポートも書けと言われれば、そのまま大学の課題と変わりない。今回のテーマは生物学見地に基づく環境学で、いま盟が読んでいるのは環境ホルモンに関するアメリカの論文である。
 ちなみに前回のテーマはインドの宗教哲学であり、その前は長らく戦争史をやり、その合間にはCDを山ほど渡されて音楽を聴かされたり、あらゆるジャンルのファッション誌をリサーチして流行の流れを系統化しろとかいうこともやらされた。目的も意味も脈絡も全くもって不明であるが、逆らえば鉄拳が飛んでくるので、盟は毎度真面目に取り組んでいる。また街に連れて行かれてひとりナンパできたら合格というものまであり、懸命に取り組んだ結果成功したはいいが、成功したらしたで生意気だと殴られた。理不尽である。
 そしてデスマスクの用意した資料を吸収し終わった後が課題の本番である。彼はテーブルを挟んで弟子と向かい合い、様々な質問を浴びせかけてくる。この問題についてどう思うか、どういう解釈をしたかなど、とことん突っ込んだ所まで盟に話させる。
 課題を出すだけあって、デスマスクはその内容を既に理解しきっており、そして浴びせかけてくる質問は非常に的確かつ意地が悪い。そしてこれは単に性格だろう、と盟は思っている。
 その性格の悪い師匠は今何をしているのかと言えば、台所で非常に美味そうな料理を作っていた。ひっきりなしに流れてくるものすごくいい匂いは、基礎訓練をきっちりこなした育ち盛りの少年の集中力を根こそぎ奪っている。
「師匠ー、腹が減って課題が出来ませんー」
 包丁が飛んでくる事を覚悟で甘ったれた声を出してみたが、完全に無視された。
 そしてその反応に、これはどうも相当ストレスが溜まっているらしいな、と盟は姿勢を正す。デスマスクが脇目も振らずに凝った料理を作っているとき、それはストレス発散をしているときだ。
 彼の料理は大雑把でも非常に美味なので、気合を入れたときの出来映えはまさにシェフ並みだ。盟も実家に居た頃は相当良いものを食べていたので舌は肥えているのだが、あの頃食べたどんなものよりも、師匠の作るものは美味かった。時々シュラがどこかから食材を抱えてやってくる時は、更に豪華なものになる。
 しかし、いつもより更に美味いものを食べられるのは嬉しいのだが、ストレスが溜まっているという事はすなわち機嫌が悪いという事である。
「盟! テーブルを片付けろ!」
 ガン! と椅子を蹴り飛ばして台所から出て来たデスマスクは、湯気の立ちのぼる大皿を三枚、器用に片手で持っていた。相当重そうだが、皿を支える太い腕には、微塵も危なげな所がない。
 オレンジっぽいピンクの柄シャツに白の綿パンツ、そして黒いエプロン。やはり機嫌が悪いのだろう、凄まじく険しい形相と、どうしても目を引くぎょろ目気味の赤い瞳と見事な銀髪がなければ、生活感漂うシチリア男の姿である。
「とっととやれ、グズ! グラスを出せ!」
 非常にイライラした声で怒鳴りつける師匠に、盟は「はーい」と非常に良い子らしい返事をして、素早くテーブルを片付け、グラスを取りに素早く食器棚を開けた。
 機嫌の悪いときのデスマスクときたら、この通り地元のマフィアも泣いて逃げ出すような具合なので、料理に喜べばいいのか機嫌の悪い師匠の恐ろしさに戦けばいいのか、最初は非常に困惑したものだ。
 だが四年近くもそうしていれば、おのずと空気も読めてくるものである。育ちがいい割に周りの空気を読む事に非常に長けている盟は、最初の一年くらいで、そういうときはひたすら料理を絶賛しながら食いつけばいいということを悟った。デスマスクがストレス発散として料理をするのは、単に一つの事に集中して作業することで心を落ち着かせる事と同時に、誰かに食わせて褒められる事も目的の一つなのだと悟ったからだ。そうとわかってからは、機嫌の悪い師匠の機嫌を取って行くのが、盟は最近結構楽しかったりする。
 そして、性格が悪く口も悪く態度も悪いと三拍子揃った正真正銘の外道でありながら、こういう妙に可愛らしい一面を持った師匠が、なんやかんやの果てに、盟はすっかり好きなのだった。



「今日もすげー美味かったです師匠……。正直俺、ここ出たらそこらのレストランで満足できる自信がありません」
「当然だタコ」
 フン、と鼻を鳴らしたデスマスクは、最初よりいくらか眉間の皺が和らいでいた。
 デスマスクとて、機嫌の悪い自分を、盟がどうにかして持ち上げようとしている事ぐらいわかっている。しかしこの少年は、小憎らしい事にその言葉の全てが計算でありながら本気だった。本当に美味いと思っているのでうっかり機嫌も良くなってしまうのがまた微妙に癪ではあるが、遠慮なしに食い尽くす悪友二人に比べれば百倍可愛げがある。
「俺ァなあ、自慢じゃねえが、聖闘士の修行より料理の腕磨いてた時間の方が長ェんだよ」
「……何でですか」
 本気で自慢になっていないことを自慢げに言われたので、さすがに盟も素で聞き返してしまった。折角回復した機嫌を損ねるかと少しぎくりとしたのだが、どうやらそんな事はなかったらしく、デスマスクは食後の煙草をふかしながら、悠々と話しだした。
「俺ら黄金聖闘士は師匠らしい師匠がいねえから、基本的に自主練習でどうにかするしかねえ」
「はあ」
「だがそれにも限界があるからな。そこで、正式な師匠じゃねえが、俺らに細々した技術を教えてくれたオッサンがいるんだが、十二宮の料理長をしててな。月謝代わりだとかで料理の下準備を散々手伝わされて」
「……料理長?」
「元は雑兵だ。聖闘士資格は持ってる」
「そんな人が、黄金聖闘士を教えてたんですか!?」
 盟は聖域に出向いた事はないが、聖闘士の総本山であるその場所の事は、この師匠から聖闘士の基礎知識としてしっかり教えられている。そしてこの師匠と二人の友人達が時折見せる力の片鱗から、黄金聖闘士がいかに雲の上の人外魔境な存在なのか、重々承知している。そしてそんな彼らを教えたのが雑兵上がりの料理人だというのが、盟には目玉が飛び出るほど意外だった。しかも、彼は脚が悪いのだという。
「教えるのに向いてるのと実際に強いのとは、また違うんだよ」
「……どういうことですか?」
 椅子に斜めに腰掛けて頬杖をついていたデスマスクは、首を傾げた盟を見ないまま、ふうと煙を吐いた。
「俺たち“黄金の器”と他の小宇宙覚醒者との違いは、わかるな?」
「先天的に既に覚醒してるか、修行によって後天的に覚醒させたかですよね」
 弟子は、師匠が出した基礎問題を難なく答えた。
「そうだ。そしてもう一つ違うのが、小宇宙の規模だ」
「絶対量が大きいってことですか?」
「というよりは、一度に発揮できる大きさが段違いってことだな。思いっきり水が出る水道と、ボタボタ水滴が出るだけのシャワーみたいなもんだ」
 なるほど、と盟は頷いた。
「だがその規模の大きさを覗けば、黄金聖闘士に雑兵が勝る事もある。バランスとコントロールという面で」
「バランスと、コントロール……」
 言われた事を復唱して、盟は考え込んだ。あれ何これ何と馬鹿正直に質問するよりまず自分で考えてみるというこの盟の性質を、デスマスクは密かに高く評価している。
「……そういやあ、小宇宙についてどれぐらいお前に教えたかね」
「原子を砕く闘法だって事と、更に肉体を凌駕したレベルの影響を与える力だってことです」
「えっ」
 初めて盟を見たデスマスクは、目を丸くしていた。完全なる悪人面のくせに実は目が大きいので、驚いた顔をすると奇妙な愛嬌がある。そしてそんなリアクションをとった師匠に、弟子は非常に不安げに眉を顰めた。
「……えって何ですか師匠」
「いや、ええ? ……俺、そんな超基本的な事しか教えてなかったっけか」
「ちょ、えって言うのこっちの方じゃないですか!」
 この男に弟子入りして4年近く、修行開始4年となれば人によっては聖闘士資格を得る事もある時期だというのに、この師匠ときたらどうだ。椅子から立ち上がりたくもなるというものである。
「前々から思ってましたけど、そういうことを先ず教えて下さいよ! ほんと俺何の修行してんだかマジわかんなくなるんですけど!」
 政治や戦争、他の硬質な学問に関してはともかくとして、ファッションチェックやら新譜リサーチやらが聖闘士になるにあたって重要だとは、盟にはやはりどう考えても納得できない。
「うるせえなあ、いいんだよ、小宇宙云々よりそっちの方が大事な修行だって」
「どこが修行!?」
「何よりも大切なのはまず人生の修行だぜ、小僧」
 ニヤリと笑って、デスマスクは短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
 すっかり機嫌が良くなっている師匠に、盟は非常に納得の行かない顔のまま、渋々と黙った。デスマスクは持ち上げられる事でも機嫌を直すが、それと同時に、目の前の人間が自分におちょくられて右往左往するのを見て非常に楽しそうな顔をするのだ。つくづく外道である。
「じゃあ、今日の講義は小宇宙のバランスと性質について、にするかね。聖闘士らしく」
 そう言って、デスマスクはちょいと人差し指を動かした。途端、壁際に置いていたホワイトボードが、ひとりでにがらがらとキャスターを滑らせてこちらに近付いてくる。デスマスクが得意とするサイコキネシスは、盟には未だ魔法そのものにしか見えない。人ならざるその力を前に、少年は自然と背筋を伸ばし、椅子に座り直した。
「じゃあまず復習問題。小宇宙を発現させる行程とメカニズムを述べよ」
「えーと、まず極限の集中力をもってZONE現象を起こし、普段眠って……いえ、脳による安全装置によってセーブされている肉体的・精神的な潜在能力を開放します」
 人間には様々な能力があるが、例えば筋肉。人間の筋肉というものは本来、女性でも成人なら1tの物を持ち上げるだけの能力を持っているのだ。ただ、これを全開で使ってしまうと筋肉細胞があっというまに壊れてしまうので、普段は無意識のうちに脳が全力を制御している。
 よって、その際大きすぎる潜在能力によって身体に害が出る場合もある。実際に小宇宙に目覚めた事によって身体を壊したという皮肉な事例も時々ある。
 盟がそこまで答えると、デスマスクは目を閉じてそれを聞きながら、更に言った。
「小宇宙の発現による身体への悪影響と、その解決法」
「小宇宙の発現によって身体を壊す事例は、単純に筋力等だけを小宇宙で強化したからです。これを解決するには、脳に小宇宙を送る事」
 こうすることで、神経各位との正しい連携を取り、また脳内麻薬などの力を借りることによって、強化された肉体に見合った自己防衛能力を持ち、問題なく強化された肉体を動かすことが出来る。
 トントン、とデスマスクは指でテーブルを軽く叩くと、うん、と満足げに唸った。
「完璧。さすが俺」
 ぴしりと背筋を伸ばしていた盟が、がくりと崩れた。
「いや師匠! 答えたの俺じゃないですか! なんで「さすが俺」!?」
「教えたのは俺じゃねーか。お前のは全部俺の受け売り」
「え、いや、まあ、そうですけど……」
「まっとうにオツムに異常がなけりゃ、誰だって教えた事の復唱ぐらいできらあ。そんなことでいちいち褒めるわけあるか、赤ん坊じゃあるまいし」
「…………そうですけど」
「よって凄いのはお前がそうやって完璧に受け答えできるよう教育した俺。感謝しろよ、英才教育受けられて」
「え……? いや、……えええ?」
 こういう、筋が通っているのだか通っていないのだかよくわからない理屈は、この男の十八番である。いわゆる『悪魔の証明』と呼ばれるものにも似た彼の論述は、常に、たとえ証拠がなくても誰も反論できない、巧妙かつ憎たらしい展開を見せる。だが盟とて、彼が一つの事を無理に立証する為にそのような論述を好むのではなく、単にそういう論述によって相手が混乱するのを楽しむことが目的なのだということは、既にわかっている。
 悪魔のような男だ、とは、その悪魔の友人二人の弁だ。非常に的を射ていると思う。
 そして、おちょくられて若干ぶーたれている弟子を無視して、その悪魔の申し子のような師匠は言った。
「そんじゃ、新しい単元に行くにあたって、復習問題その2だ。新しい教皇を選ぶ際、基準となるものは?」
「仁・智・勇に最も優れている事」
「正解」
 デスマスクはそう言って、ペンのキャップを器用に片手で取ると、ホワイトボードに盟が答えた三語を書き入れた。一番上の真ん中に『智』、右下に『勇』、左下に『仁』。そしてそれを線で結び、三角形を作る。しかし、さらりと漢字を書いてのけるこの師匠の博識ぶりには、盟は本当に感心する。
「これは、“将軍とは、智、信、仁、勇、厳の五条件を満たす人物でなければならない”という孫子の兵法からくるもので、教皇の選出基準に用いられるこの三つは、そのまま人格的なものを評価する基準だ。しかし、それ以外の意味もある」
 ふんふん、と盟は真面目に新しい単元の講義を聴いている。
「……といっても、これは教皇と俺の独自見解で、他では教えてねえ事だ。だが信憑性はあるぞ」
「教皇様のお墨付きならそうでしょうね」
「テメー、師匠差し置いて教皇か」
 いや普通そうだろう……と盟は思ったが、チンピラそのものの形相で「ああん?」とメンチを切ってくる師匠には逆らわず、「すみませんでした」と返しておいた。
「くそ生意気な小僧だ。……まあいい、続けるぞ。つまり小宇宙には三種類の働きがあり、それはそのまま仁・智・勇に当てはめる事が出来る。すなわち教皇を選出する基準である仁・智・勇は、人格的な意味とともに、小宇宙のバランスが非常に優れている事、という意味も指す」
「小宇宙の仁・智・勇、ですか」
 復唱する事で、盟は頭の中にノートを取る。ZONEに近い集中力を発揮し始めて講義を聴く少年に、デスマスクは更に続けた。
「そうだ。まず『勇』。これは聖闘士の闘法として最もポピュラーなものだ。小宇宙によって肉体を強化し、音速だの光速だのの動きを可能にし、自らの肉体を用いた物理的攻撃をもってして原子を破壊する。そして、この『勇』の存在しか知らないという阿呆は結構多い」
「はあ」
 盟もそれしか知らない。そしてそれはデスマスクが教えてくれなかったからなので阿呆呼ばわりされる筋合いはないのだが、賢明にも黙っておいた。
「確かに、『勇』は最もわかりやすい力だ。ダイレクトに怪力・神速の超人になれるわけだからな。しかしさっき言ったように、肉体のみに小宇宙を使いその負荷に耐えられず自滅するというのは、『勇』のみを発揮させた為だ。『勇』は基礎なんかじゃねえ、きちんと小宇宙を扱えるようになって初めてまっとうに扱える力だ」
「……なるほど。よくわかりました」
 こくり、と盟は神妙に頷いた。
「だが、小宇宙に目覚めた後に関しては、一番鍛えやすいのは『勇』だ。だからこそ聖闘士はこのタイプが最も多い。で、……この『勇』に関して最も優れている黄金聖闘士が、シュラだ。聖剣に加えてあの迅疾。接近戦のスペシャリストだな」
「おお……」
 普段悪態ばかりつき合っている悪友を褒めることになったデスマスクは非常に微妙な表情をしていたが、盟は尊敬の眼差しをきらきらさせた。デスマスクは盟に体術等の訓練を然程つけないので、格闘技に関しては黄金聖闘士随一だというシュラがふと見せる身のこなしに、盟は少年らしい憧れを持っている部分がある。
「次に『仁』。これは小宇宙そのものが独立した物理的エネルギー……例えば凍気・炎・雷、もしくは相手の精神に作用する力などとなって、外部に影響をもたらす使い方を言う。アフロディーテは小宇宙を薔薇に宿らせて色々な効力を付加し、更に自分の身体の一部のように操る。厳密には『勇』と『仁』の中間の能力だな」
 デスマスクは、『勇』『仁』を繋ぐ三角形の辺の真ん中にぐりぐりと点を打つと、その横に“A”と友人のイニシャルを書き込んだ。アフロディーテ、と書き込むのが面倒だったのだろう。
「ああ、アフロディーテさんの。あれ、凄いですよね。どういう修行するんですか?」
「残念ながら、『仁』の力に関しては先天的なもの……才能が大きくものを言う。小宇宙そのものに凍気を宿らせる氷の闘法や異次元を開く力、あと五感を奪うとか、こういう力は生まれもっての特殊なもので、修行で身に付ける事は出来ない。まあ、修行してるうちに潜在してたものが出てくる事はあるらしいが」
「そんなもんがあるんですか……」
 若干冷や汗を流しながら、盟が呟いた。つくづく聖闘士とは人外魔境である。
「でも聞いてると、あれですね。ファンタジーっぽいRPGなんかで言うと、『勇』は戦士とか剣士とかで、『仁』は魔法使いっぽい感じがしますね」
「ああ、なるほどな。まあ、間違ってねえ解釈だと思うぜ」
 この小屋にゲーム機器などないが、盟は課題としてテレビゲーム10本をクリアさせられたことがあるので、それなりにゲームには明るい。あれはなんの修行だったというのだろう、ということはもう考えないようにしている。
「そうそう、魔法といやあ、超能力も『仁』の力だ。だからシュラは超能力が使えない」
「……えーと、どういうことですか?」
 師匠の言葉の意味を素早く考えたものの答えが出なかった盟は、素直に質問した。するとデスマスクは、『勇』と『智』を結ぶ線の真ん中にまたぐりぐりと点を描き、その横に“S”と書き入れた。言わずもがな、シュラ、の“S”である。
「聖剣は『勇』の技だが、それを発現するには『智』の力も磨かなきゃならん。『智』についてはあとで説明するが、とにかく、奴は『勇』と『智』のエキスパートである分、真逆の位置にある『仁』の力がないわけだ」
「あ、逆の位置にある力は不得手になるんですね」
 だから三角形なのか、と、盟は納得して、大きく頷いた。
「そうだ。しかもシュラは『仁』の才能がありえないほどない。救いようがないほどない。悲しいほどない」
「……はあ」
 真顔で友人をボロクソに言う師匠に、盟は曖昧な相槌を打った。
「確かに、自分と真逆の位置の力は不得手になるが、それにしたって、黄金聖闘士なら近距離のテレポートやある程度のサイコキネシスは使えて当たり前なんだ。なのにあいつはドアを開けてしか部屋を出られねえし、スプーンも曲げられやしねえ。辛うじてテレパスが出来るがほとんど受信のみだし、おまけに15分もやれば頭痛を訴える。こんな奴は他に居ねーぞマジで」
「……って言われても、普通の人なだけって気もしますけど」
 そんな、超能力が使える事が前提で言われてもピンと来ない。盟がそう言うと、デスマスクはどこまでも生暖かい笑みを浮かべた。
「普通の人はビルをタテに真っ二つにしませんよ盟ちゃん」
「…………」
 いいかげん状況に慣れろ、という意味を含んだ気色悪い笑顔から、盟はさっと目を逸らした。
「……ま、とにかく。『仁』に関しては才能がものを言うから如何ともし難いが、『仁』の力がない場合、シュラのように『勇』と『智』をバランスよく磨く事が理想的だ」
 そしてこのポイントを守っていなかったからこそ、今までの聖域では故障者が相次いでいたのだ、とデスマスクやサガは分析している。
 聖域は昔から、『勇』の力ばかりを重視して来た。
 それ故、一番最初に行なう小宇宙の目覚めのきっかけとして、死ぬほどの訓練、また崖から突き落とす等の死と隣り合わせの方法を用いてしまっている。実際にはこれは小宇宙に目覚めた後に『勇』の修行として行なうのが効果的なのだが、聖域ではこのあたりがずっと勘違いされているのである。
 もし小宇宙に目覚めたとしても、聖域で行なわれるのは『勇』の修行のみだ。よって、生まれつき『仁』の素養がある者はいいが、そうでない者は『勇』の修行しかしないことになる。それはたいへんバランスが悪いことであり、このことによって、小宇宙に目覚めても結局聖闘士になれずに雑兵止まりという者が多いのだ。
「なんか、『智』が一番重要っぽいですね?」
「ああ、そうだ。少なくとも、俺はこれが最も重要だと見ている」
 手の中でくるりとペンを回したデスマスクは、『智』の文字をさっと囲った。
「で、どういう力なんですか?」
「『智』は自分の精神や脳に作用し、基礎精神力を強化する力だ。『勇』や『仁』とは根本的に全くスタンスの違う、自分の内部に働きかける力にして、小宇宙というエネルギーを扱う上での基礎」
 デスマスクは、脚を組み直した。
「さっきお前が言ったファンタジーRPGに例えようか。『勇』が物理攻撃力および防御力、『仁』が魔法や特殊攻撃力とそれに対する耐久力。『智』は体力、精神力。ヒットポイントとマジックポイント、スタミナ全般だ。ああ、あと命中率の高低も『智』の練度によるな」
 自分の例えを採用してもらった事に、盟は少し嬉しくなりながら頷く。
「そして、だ。確かに、崖から突き落とすだの半殺しにするだの、肉体を危険に晒す事で『勇』の小宇宙、いわゆる「火事場の馬鹿力」を起こさせ小宇宙への目覚めの取っ掛かりにするのも、効果がないわけじゃない。成功例もある。だがあまりにもリスクが高く、非効率的だ」
「……つまり……小宇宙に目覚めていないのに、いきなり外部に働きかける力である『勇』の力を呼び起こそうとするのは無理がある、という事ですか?」
「その通りだ」
 レベルの低い冒険者が先ずすべき事は、魔法の力や腕力を上げる事ではなく、ヒットポイントやマジックポイントの限界値を堅実に上げる事だ。攻撃こそ最大の防御という言葉もあるが、一撃でも食らえば即死というレベルの低さでは、あまりにもリスクが高すぎる。
「よって俺は、小宇宙の目覚めを促す方法としては『智』の修行による方法を断固推薦する。これもデメリットがないわけじゃないが、何より死亡リスクがほぼゼロだ。ちなみに、現在正式な白銀聖闘士である奴らの八割ほどは、この方法で小宇宙に目覚めた」
 この『仁』『智』『勇』の概念とその研究は、いかに死亡率を下げて小宇宙覚醒者を育成するかという問題を解決する為に、シュラやアフロディーテも協力し、デスマスクとサガが中心となって小宇宙というものを改めて研究・考察し、考案したものだ。
 そして彼らは『智』の修行によって小宇宙の目覚めを促し、まずスタミナ、小宇宙の基礎体力をつけることで小宇宙覚醒後の修行も効率的に行なえる、すなわち死亡率が低いと結論付けたわけだが、時間がかかる、指導者の労力が大きいというデメリットも新たに出て来た。
 よって先天的な能力である『仁』の素養の片鱗がある子供、実際の例としてカラスを操る事が出来るジャミアン、気流をコントロール出来るミスティなどを優先的に候補生として採用し、他の者は『智』の修行とともに、慎重な段階を踏んでの『勇』の修行を行なわせる事とした。
 そして結果、彼らが正式に白銀聖闘士となるまでの間に出た死亡者・障害者の率は、2パーセントにも届かなかった。彼らが想定した『仁』『智』『勇』という小宇宙概念理論の信憑性は、これによってはっきりと実証されたのである。
「『智』の修行法は、主に瞑想だ」
「瞑想……」
「超集中状態、ZONE状態をより深くすること、つまり小宇宙そのものの練度を上げたり、絶対量を上げることがこの『智』だ」
 そして、“小宇宙を練る”とか、またよく言われる“小宇宙を燃やす”という行為は、この『智』のアプローチのことをいう、とデスマスクは補足した。
「へえ……。あっ、アフロディーテさんは『智』とは真逆の位置ですよね? ということは、小宇宙の絶対量が少ないんですか?」
「なかなか鋭いとこ突いてくるじゃねえか」
 講義を順調に理解している弟子に、ニヤリ、とデスマスクは笑ってみせた。
「ま、黄金聖闘士だから白銀や青銅とは比べるまでもねえが、確かにアフロディーテは黄金の中では小宇宙の絶対量が少ない方だ。よって一度に大量の小宇宙を消費するような大技は持っていない」
「……あのー、候補生の身で生意気かもしれないんですけど」
 盟が、おずおずと言った。技の内容を、こんなにあっさりバラしていいものなのだろうか、とハラハラと進言した少年に、デスマスクはフンと鼻で嗤った。
「そのくらい、弱み握った事にも何もならねえよ。あいつはそれをちゃんと自覚してて、何年もかけてそれをフォローしてるからな。あの薔薇で」
「薔薇で戦う事は知ってますけど」
 彼の薔薇が鉄を貫通したのを盟はその目で見た事があるし、絶対に体験したくないが、猛毒を発する事も出来ると聞いている。
「あいつの小宇宙は、薔薇に限らず植物全般と非常に波長が合う特性を持っている。よって武器に転じたり手足のように操ったりできるわけだが、植物なんて弱いものだからな。アフロディーテが出来る限り強化しちゃいるが、自分の拳に小宇宙を込めるのとはわけが違う。薔薇一輪に込められる小宇宙の量なんてたかが知れてる」
「……つまり、小宇宙の絶対量が少ないので、小宇宙を小出しにして攻撃回数を増やしてるってことですか? 威力のほどは毒とかの特殊能力を付加することでフォロー……」
「半分正解」
 くるり、と、デスマスクの手でもう一度ペンが回る。
「それもあるが、あいつの本当に怖い所は、双魚宮の薔薇園だ」
「薔薇園?」
 聖域に行った事のない盟に、デスマスクは、アフロディーテが自分の宮で沢山の薔薇を育てている事を教えた。
「自分で使う薔薇はやっぱり自分で育ててるんですね。で、それの何が怖いんですか? 小宇宙を込めてなければただの薔薇なんでしょう?」
「阿呆、ただの薔薇なだけあるか。あいつの薔薇園の薔薇は全部小宇宙が目一杯込められてる。だから怖いんだよ」
「……え?」
 盟は、目を丸くした。
「え、全部、ですか? でも小宇宙の量が少ないのに、ええと、その薔薇園がどれだけの規模のものかは知りませんけど、それに全部小宇宙を行き渡らせられるんですか?」
「いいや、無理だね。だがあいつが聖域に来て、小宇宙の使い方を覚えて、もう14年になる」
 直接の答えになっていない言葉だったが、盟は黙ってそれを受け止め、その意味を考えた。そして答えに辿り着き、盟はさあっと表情を変える。
「……まさか」
「そうだ。あいつの薔薇園には、14年分のあいつの小宇宙がドップリ込められてるんだ。黄金聖闘士の小宇宙14年分だぞ?」
 考えただけでも恐ろしいわ、とデスマスクは半目で肩を竦めた。
「いざ実戦、という時のために、あいつはああしてコツコツ貯蓄をしてるわけだ。十二宮最後の砦、しんがりとしてはこれ以上ない対応だよ。そしてそうして整えられてる双魚宮は、完全に奴のホームグラウンドだ。本人が『仁』と『勇』のエキスパートな上、14年間の貯蓄分の小宇宙が後ろに控えてるわけだからな。あいつと双魚宮で戦うのだけは勘弁だぜ」
「……史上最悪のアウェー状態ですね」
「その通りだ。頼もしいったらねえよ」
 デスマスクはおどけたような仕草でひらひらと手を振ったが、盟は本気でぞっとした。
「さて、『智』の話に戻るぞ。俺は『智』を基本にして、『仁』の才能がある場合は『智』と『仁』、ない場合は『智』と『勇』を鍛えるのが最も効率的で理想だと考えている。今までの奴らは『勇』が小宇宙の基礎だと考えていたが、俺に言わせりゃ『智』こそが小宇宙の根本的な所を強化する力、すなわち基礎だ」
 強い声だった。ここが講義の肝らしい。
「アフロディーテは双魚宮というホームグラウンドによって『智』の欠如を完璧にフォローしてるが、そんな手段が取れる奴は限られてる。だから『智』を中心に修行を行なうのがやっぱり理想的なのさ」
「うーん、なるほど……」
「……で、ここで最初の疑問について答えよう。なぜ雑兵上がりの料理長が、黄金聖闘士の師匠たり得るのか」
 言われて、盟ははっと顔を上げる。
「教皇に選ばれる条件は、仁・智・勇に優れている事。……つまり、この位置に居る事が望まれる」
 デスマスクはペンのキャップを取り、三角形の中央に点を書いた。そして、一瞬だけ迷ってから、素早く“P”と書く。Pope、Papas、の“P”だ。サガもシオンも“S”だから“S”と書いてもよかったが、あえて──なんとなく、そう書いた。
「仁・智・勇の力を完璧なバランスで習得している事。教皇たるとされるこの条件は、聖闘士、小宇宙の闘法を操る戦士としての高みでもある」
 盟は、真剣に聞いている。
「そして教皇は、黄金聖闘士の中から選ばれる。よってその小宇宙の絶対量も凄まじいため、“黄金の器”意外の人間がそれと張る量の小宇宙を得る事は難しい。だが、仁・智・勇のバランスの良さについては、素質と努力次第で対等なレベルを得る事が可能だ」
「……ええと」
「つまり、100:100:100 と 10:10:10 、ということだ。規模は違うが比率は同じ」
 言いながら、ホワイトボードの端にその数字を書く。
「そしてこのバランスこそが、まさに小宇宙の黄金比だ。規模が小さくとも、このバランスが取れていることは大きな強みになる。実際、トニは運悪く聖衣との縁がなかっただけで、現役の雑兵30人を息一つ荒げず昏倒させたことがあるくらいの実力者だ」
「すげ……」
 盟は、目も口も真ん丸にした。
「仁・知・勇のバランスのよさは、相当な強みになる。パワーに欠ける分をテクニックで補っている、と言いかえてもいいな。で、図で表すとだな……」
 デスマスクは数字の上に、同じように、『仁』『知』『勇』と書き入れる。ただし、今度は辺を書き入れず、その代わり、中央点から『仁』『知』『勇』の三点に向かって放射線状に一本ずつ線を伸ばした。三脚を真上から見たような図形が出来上がる。
「いいか、まず対象者がこれ」
 赤いペンを取り出し、その先で中央点を示すと、軽くその周りを囲った。
「まず教皇の場合は、三つの要素がマックス値。よって、巨大な正三角形になる」
 仁・智・勇の三点に向かって伸びた全ての放射線の先を、赤い線で結ぶ。さきほどまで説明に使っていた三角形と同じものが出来上がった。
「そして今度は料理長だ。一つ一つの値は小さいが、こちらも正三角形になる」
 そして中央点からの距離が教皇の五分の一程度の位置にそれぞれ点を打ち、頂点を結ぶ。教皇の三角形をそのまま小さくした正三角形ができた。
「この三角形の面積の大きさが、パワーの大きさ。そしてこの三角形の3つの角が近似値……正三角形に近ければ近いほどバランスがいい、ということになるわけだ」
「はー、なるほど!」
「わかったか? じゃあ問題だ。アフロディーテの三角形を書いてみな」
 素早く投げて寄越された赤ペンを、盟は何とか受け取った。そして教師に指されて黒板に向かう生徒そのままに、椅子から立ってホワイトボードの前に立つ。
「えーと、アフロディーテさんは、『仁』と『勇』がマックス……で、『智』がこのへん……でいいのかな」
 いわば実力を図に現すのであるから、非常に緊張しつつ、盟は赤い点を三つ打つ。『智』の点は料理長を僅かに超えるくらいの位置に打ったが、デスマスクは何も言わなかった。これでいいらしい。
 そしてその三点を結ぶと、『仁』『勇』の角がそれぞれ約40度、『智』の角が100度くらいの平べったい二等辺三角形が完成する。
「正解」
 煙を吐き出しながら言った師匠に、盟はホッと息をついた。
「理想は教皇のような正三角形だが、基本はこういう二等辺三角形を目指して修行するのが望ましい。アフロディーテは『仁』『勇』の角が同等、バランスよく鍛えられてる」
「じゃ、『智』を鍛えれば教皇も目指せるってことですか?」
「理屈の上ではな」
 ということは、やはりそう簡単な事ではないのだろう。ふむ、と盟は頷いて、三角形を見た。
「じゃあ次。シュラ」
「はい。えーと、『仁』があまり高くない……」
「高すぎる」
 アフロディーテと同じように、料理長を少し超えた所の『仁』に点を打とうとした盟を、デスマスクが止めた。
「コイツの『仁』は、……この辺だな」
 そして、持っていた黒ペンで点を打った。中央点からほんの僅かに出ただけのその位置は、限りなくゼロに近い。黄金聖闘士としてあんまりな位置だ、ということは、盟にもわかる。
 だが盟は、シュラとデスマスクが、コミュニケーションといえば罵詈雑言という悪友と言うに相応しい仲であることを知っている。だから「またまたあ」、などと茶化そうとしたのだが、デスマスクは真顔だった。
「どんだけですかシュラさん……」
 親近感は湧きますけど、と、超能力が未だ魔法にしか見えない盟は温い声で言った。
「いや、コイツの『仁』はマジでこんなもんだ。……ただし、こっち2点がずば抜けてる」
 デスマスクは、『智』と『勇』を結ぶ見えない線状からそれぞれ少しはみ出た位置に点を打った。そして最後に3点を結ぶと、『智』『勇』の辺が教皇より大きく、それぞれの角が30度以下な、アフロディーテより平べったい大きな三角形が完成した。
「『仁』の才能が絶望的にないことは、コイツも早くから自覚してたからな。そしてそれをフォローする為に、この二つを徹底的に磨いたわけだ」
 才能、先天的な素質である『仁』をどうにかすることはできないので、シュラはどうやっても教皇からは遠い男だ。しかし『智』『勇』の力は教皇よりもずば抜けており、接近戦を得意とするスペシャリストとしては、まさに至高の位置に居ることになる。
「一徹の専門家ってことですね」
「そうなるな。だからシュラを倒すには、強力な『仁』の技で、近付く隙も与えず一気に畳み掛けるのがベストだ。RPGでもいるだろ、体力も物理攻撃力もスピードもすげえけど、大型魔法であっさり即死するようなキャラ」
「シュラさんを倒す予定はありません師匠……」
 仮にも友人の殺し方をさらりと解説しないで欲しい、と盟は思った。つくづく、変な意味で遠慮のなさ過ぎる友人関係である。
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BY 餡子郎
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