第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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 城戸邸を出た二人であったが、任務はこれだけでは終わらない。サガが三日以内に帰って来いと言ったということは、三日間みっちり任務をこなして来い、ということなのだ。思ったより収穫は多くあったものの、せいぜい四時間程度の面会のみでのこのこ帰って来たとあれば、問答無用で異次元送りにされかねない。
 そしてシュラは、帰ったふりをして、夜通し城戸邸周囲を張り込んだ。
「刑事みたいだなあ」
 何が面白いのか、いちいちテレパスで“異常ありませーん、どうぞ”と刑事ごっこをしていたミロであったが、城戸邸の様子から得られるものは結局何もなく、あまりに何も起きないので、一度帰ってもいいかとごね始めた彼を、シュラは何とかなだめながら引き止める。相手が違えば頷く所だが、ミロである。シュラのことを忘れて迎えに来ず、約束の帰還時間に間に合わせるためにユーラシア大陸を光速で走り抜けるはめになりかねない。
 そして結局何の収穫もないまま、二人は丸一日と少しの張り込みを終えたのだった。



 さあ憂さ晴らしだとばかりに向かった先は、築地だった。夜ともあって少々酒の入った通行人達は、暗くなってもサングラスを取らないシュラを然程遠巻きにもしない。
 そして彼は、さっさととある店に足を踏み入れた。ここまでの道行きに全く迷う素振りがなかった辺りからして、どうも前から目を付けていたらしい。二日ぶりに靴を脱ぎ、衝立で仕切られた座敷に上がる。座布団の上にどっかと胡座をかいたシュラは、身体に合わないジャケットをとうとう脱ぎ捨て、サングラスをその上に放り投げた。
「ご注文は」
 和服を着た女性が、淑やかな微笑を浮かべて尋ねる。
 シュラは真剣極まりない顔で、外国人用の写真つき・英訳つきのメニューを見ていた。どれだけ楽しみにしていたんだ、とミロはやや呆れるが、これが彼の唯一趣味らしい趣味である。格闘技や刀剣に関してもマニア度は桁外れだが、これは聖闘士としての技を磨くにあたって辿り着いたものでもあり、実益を兼ねている辺りで完全に趣味とは言えない。しかしどちらにしても、彼は山羊座のステレオタイプとしてよく言われる天下御免のマニア体質、これと決めたらとことんまで極めようとする一徹者だった。
「……ここから」
 シュラは琥珀の眼光をきらりとさせると、メニューの上部分をぴしりと指差し、ついー、と下まで滑らせた。
「ここまで。あとはいいと言うまで任せる。二人前ずつ。日本酒も」
「畏まりました」
 剛胆な注文に女性はにっこりと微笑み、きびきびとした所作で厨房に下がって行く。そしてほどなくして、シュラご所望の、山ほど刺身が盛られた船盛りが二つ運ばれて来た。

「あ────……」
 若干微妙な手つきで箸を使い、白い飯と刺身を堪能しつつ辛口の冷酒を呷ったシュラは、低い声で長く唸った。
「この為に生きている……」
 他の座敷で同じく酒を呷っているサラリーマンたちとまったく同じ台詞を吐いたシュラを、ミロは生暖かい気持ちで見た。大人には憧れるが、こういう大人になるのは少々遠慮したい。
「おっさんくさい」
「ぶった切るぞ貴様」
 まぐろのヅケ丼をかっ込みながら言ったミロを、シュラはぎろりと睨みつけた。
「一人前に労働していれば、誰だって愚痴ぐらい出る。しかも俺たちは無償だぞ、無償。貧乏暇なしでもはや10年だが、食いたいものくらい自由に食わせろ畜生」
「聞いてる方が悲しくなるからやめようぜ……」
 酒が入って若干口が滑らかになっているシュラの杯に、ミロは日本酒を注いでやった。ミロも先程ひとくち貰ってみたのだがあまり口に合わなかったので、飲んでいるのはシュラだけだ。
「……なあ」
「何だ」
 暫く聖域の労働基準についてしょうもない愚痴を展開させていた二人だが、一瞬の沈黙のあと、ミロが切り出した。
「あの小宇宙って、あの子だよな」
 真正面に向き合ったあの少女からは、確かに小宇宙が感じられた、とミロは言った。
「おそらくな。小宇宙覚醒者であれば、あの年齢でグラード財団の総帥として采配を振るっているということも頷ける」
 “黄金の器”とは比べるべくもないが、一般人でも、生まれつきもしくは幼少時から、微弱ながら小宇宙に目覚めている者は居る。そしてその中でも、高レベルの知能指数を示す者たちは、幼少時からのデスマスクがそうだったように、脳の働きに小宇宙を作用させているタイプにあたる。
「ミロ。気がついたことがあるなら、全て言え」
 歯切れの悪さからミロに何か言いたい事があると察したシュラは、そう言って、大きく口を開けて白飯を頬張った。この米の美味さは、日本ならではである。他の国のものでは、どんなに工夫を凝らして炊こうとこの美味さは味わえない。
「……あの子」
 少し声を潜めて、ミロは言った。
「俺の事、“金色のちび林檎”って言ったんだ」
 ぴたり、とシュラの手が止まった。その目は見開かれていないが、どこか遠くを見ている。ミロはそんな彼の様子を伺うように見ながら、慎重そうな声色で続けた。
「……アイオロスが、俺につけたあだ名だ」
 ギリシア語で「ミロ」が果物を指すと同時に、特に林檎という意味を持つのは、パリスの審判における、不和と争いの女神、口争いや殺人など種々の災いの母・エリスが投げ入れた黄金の林檎の由来が大きい。ミロス島で発見された女神アフロディーテの像が「ミロのヴィーナス」と呼ばれるのは、ミロス島で発見されたということと同時に、パリスの審判での黄金の林檎に引っ掛けた名前でもある。
 三人の女神の争いを惹起し、トロイア戦争を引き起こした黄金の林檎。自分たちの中で最も歳下で身体も小さかったミロが、ころころと駆け回りながら悪気なく色々と小さなトラブルを引き起こす度に、アイオロスはエリスの黄金の林檎と引っ掛けて、“金色のちび林檎”と苦笑いをしながらミロを叱りつけていた。
 もう居ない彼を討伐したのがシュラである事は、聖域の人間なら誰もが知っている事だ。しかしシュラがかつて、弟のアイオリア以外で誰よりもアイオロスと仲が良かったことも知っているミロは、そっとシュラを伺った。
 だが、シュラは一瞬反応を見せただけで、しかもすぐに仕事用の厳しい表情になったので、アイオロスの名前が出た事に反応したのか、それとも沙織が彼の言葉を言ったという事に反応したのかはわからなかった。
「シュラを見て、“背が高い”とも言った」
 確かに高いが、ミロと1インチも変わりはしないし、身長だけなら、彼女が日々見慣れているはずの執事の辰巳も同じ位だったはずだ。シュラだけにわざわざ「背が高い」と指摘するのは確かに妙な事で、シュラ自身、引っかかっていた事でもあった。
「シュラが特別背が高かったのは、アイオロスが居た頃だけだ」
 シュラが反応を見せないので、ミロはいっそ思い切って、普段おおっぴらに発音も出来ないその名前をはっきりと言ってみた。しかしやはりシュラは無反応で、しかも食事を再開させ始め、箸で摘んだ刺身を醤油につけた。
「しかも“本当に”……と言ったな。まるで誰かから伝え聞いていたように」
 そう言って、醤油と山葵のついた刺身を口に放り込む。きちんと咀嚼して飲み込んでから、冷酒を呷った。
「よく分からんが、どうやら、あの娘の事はしっかり調べねばならんようだ」
「……どうするつもりだ?」
 若干不安そうな面持ちで、ミロはシュラに尋ねた。
「さあ。生かすも殺すも」
「簡単に言うな」
 淡々としているシュラに、ミロは眉をしかめ、怒りを露にした口調で言った。シュラが初めてミロと視線を合わせるが、口の中では、また刺身を咀嚼していた。そして飲み込んでから、彼は口の端を上げて、フッと笑った。
「相変わらずだな、お前は。殺す事にそんなに過敏な聖闘士なんぞ、本当に珍しい事だ」
「珍しいってことが異常なんだ」
 ミロが即答すると、シュラは「そうかもな」とこれまた平然と言って、また食事を再開し始める。

 ──ミロは、人を殺した事がない。

 それは聖闘士としてとても珍しい事、というよりも、前代未聞の事であった。そして、そんなことで聖戦になった時に大丈夫か、と誰からも散々な調子で言われている。
「聖戦は地上を守る為の戦争であり、相手もヒトではないから、全力をもって戦う事は出来る。でも同じ人間を殺す事で裁く事は出来ない」
 というのが、ミロの理屈である。
「しかもカミュはともかく、お前のような小宇宙を持った奴が不殺を守っているというのがな」
 いっそ皮肉ですらある、とまでは、さすがにシュラも言わなかった。

 ミロの小宇宙は、蠍座の名に相応しく、毒を持っている。

 いや、正しくは、凄まじい反発性がある。つまり、他の小宇宙と触れ合うと拒絶反応を起こすのだ。
 しかし、小宇宙というものは基本的に他人の小宇宙と反発するものである。波長が違うからだ。だから、ヒーリングとは、相手の小宇宙の波長に合わせて同調することで小宇宙を分け与えることをいう。
 そしてミロは、この小宇宙の反発性が、まさに猛毒と言えるレベルで激しいのである。
 ミロはこの小宇宙を練れるだけ練って凝縮し、もの凄い濃度の猛毒の弾丸のようになったそれを、ピンポイントで、しかも超能力によって追尾能力を付加し、百発百中120パーセントの命中率で身体に撃ち込む。身体の奥までねじ込まれた猛毒の小宇宙が凄まじい反応現象を生み、それが肉体のみならず小宇宙や魂にまで響き、この世のものならぬほどの激痛を生む、それがスカーレット・ニードルの蠍の毒の正体だ。
 そしてそんな猛毒の小宇宙を持つミロは、“黄金の器”であるが故に自分からどうしても溢れる小宇宙で周りに被害を与えないよう、常時小宇宙の波長を調節している。誰にあわせるのでもないが、誰にでも無害な、言うなれば“平均”とも言えるポイントが存在し、そこに合わせていれば大丈夫なのだということを、彼は物心ついたときから感覚で理解しており、そして誰かに触れるときは、瞬時に相手に対して自分の波長を変えることが出来る。
 我が侭な末っ子気質だと言われるミロであるが、そういう、生き物の本質としてのレベルで、彼は他人の気配を正しくつかみ取り、それに合わせる事に関してはエキスパートと言っていい。そのため、人によって千差万別の小宇宙に合わせなくてはならないヒーリングにおいても、ミロは随一の実力を誇る。具体的なことを言えば、小宇宙が大変に不安定な一般人、特に子供に対してヒーリングを行なえる聖闘士はとても稀少だが、ミロはその一人である。
 他人をことごとく拒絶する猛毒の小宇宙、その持ち主がこれほどまで人懐っこい笑顔とヒーリングの実力の持ち主だというのは、もはや奇跡と言っていい。そしてそんな彼を育てたのは、彼をどこまでも深く広く愛し育てた、ミロス島の実家の、沢山の家族の存在が大きい。
 もし彼が家族や他人から迫害され、それによって他人を拒絶するような子供だったとしたら。所構わず猛毒をまき散らし、周りの者を毒の小宇宙の霧で激痛の中死に至らしめていた、ということも充分にあり得る。だが彼の家族は、ミロがそんな小宇宙を持って生まれたとは微塵も知らないまま彼を育て、そして彼は今、こんなにも温かな笑顔の、黄金聖闘士いち気さくで、人懐っこくて子供に慕われる聖闘士になった。
 そしてそんな環境で育まれた彼は、持って生まれたその小宇宙の性質とは真逆のスタンスである「不殺」の誓いをたてたのだった。
 そしてそれはおそらく、家族の存在と同時に、唯一絶対の不殺を守りつつ相手を倒すことが出来る氷の闘法を操る親友・カミュの存在も大きいだろう。彼もまた、氷の棺の中に眠らせる事はあっても、その場で相手の息を確実に止めた事はない。
 自分の小宇宙が猛毒の性質を持っていると自覚してショックを受けたミロが、しっかりと自分の力を把握してその力の使い道を決めることが出来たのは、カミュという不殺が可能な力を持つ親友の支えがあったからに他ならない。
 幼少の頃はとにかく明るいミロにカミュが引っ張られている印象が強かったが、今となってはカミュも弟子二人を立派に育てている一人前の聖闘士であり、こうして親友を支えられる、確固たる信念と精神を確立させていた。
「どんな理由があっても、力任せで人殺しなんかしたら、俺は家族に会わせる顔がない」
 ふん、と鼻息も荒く、ミロはシュラよりも大きなひとくちで、飯をかっ込んだ。
「そうか」
「……やっぱり、否定しないんだな」
 困惑したような表情で、ミロは言った。
 ミロの小宇宙に負けず劣らず、「他者を殺す」ということに特化した小宇宙を持ち、そして実際にその手で殺めた人間の数も既に両手両足では足りないシュラであるが、しかし彼はミロの主張を否定した事はない。そのことが、ミロにはいつも不思議だった。
 これだけ厳しい性格をしたシュラなので、不殺の誓いは強烈に唾棄されるだろうと当然思っていたからだ。しかし、ミロが最初その誓いを公言したとき、「甘いのではないか」と一度言ったことがあるだけで、それですら、彼はもう二度と言わなかった。
「否定して欲しいのか」
「そうじゃないが」
「それがお前なりの正義なんだろう。ならば、そうすればいい」
 あっさりとシュラはそう言って、ゆったりと酒を飲んだ。実はもう飯も船盛りも5杯近くであり、さわさわと店中の注目を浴び始めている所だ。そろそろお開きも近いかもしれない。
「ただし、お前が殺さなかった事で、何か取り返しのつかないことが起こるかもしれない、という事は覚悟しておけ」
「……そんなへまはしない」
 ミロは、今日二度目の台詞を返した。
 14発の地獄の激痛を相手に与え、降伏か死かを選ばせるスカーレット・ニードルは、まず降伏という選択肢があり得ない聖闘士の戦いに於いては非常に慈悲深くもあり、そしてその覚悟をも挫き、発狂するかもしれないような激痛を与える点で、この上なく残虐な拷問技でもある。
 しかしミロは、この技を完成させた。殺さず、しかしどんな決意をもくじくような地獄の激痛を与えるその技を。
 どんな目にあわせたとしても最後には生きている事こそが重要なのだと、彼は悩み抜いた末で決意したのだ。
 氷の棺を作っても決して死体を作らない親友、彼の隣に並び、そして故郷の家族に向ける顔を失わない為に、ミロは聖戦の日が来るまで、15発目・必殺のアンタレスを撃たない事を誓ったのである。
 ギリシアの濃い青空の色をした目は、まっすぐにシュラを見ている。シュラはその迷いのない目を見て、どこか満足そうに微笑んだ。
「だと、いいがな」
 揶揄するような台詞だったが、その声はとても穏やかで、本気でそう思っている事がわかるものだった。
 そしてミロは、その手で人を殺め続けているくせに、決して自分を否定しないままそこに居るシュラを、複雑な気持ちで見る。
 いくら手合わせをしても、彼の心はよくわからない。アイオロスのことを持ち出してすら、彼は揺らがない。彼は、ミロの決意を「それがお前の正義なら」と言って否定しない。……ならば、と、ミロは酒の匂いが漂う喧噪の中、ぼそりと尋ねてみた。
「……シュラの正義って、何だ?」
 ぴたり、と、初めてシュラの動きが目に見えて止まった。
 そして彼は、ミロを見て、とても困ったような表情をした。子供に泣かれ、しかし何をしていいのかわからず、ただ立ち尽くすしか出来なくなっている時と、とてもよく似た表情だった。
 しかしこの時、彼は自分のほうがどこか泣きそうな気配を漂わせていた。
 シュラはただひたすら困り果てたような顔のまま奇妙な笑みを浮かべると、黙ったまま、とうとう静かに箸を置いた。






「やあ、お帰り」
 日付が変わる前にミロのテレポートで帰還したシュラは、教皇の間に向かう途中、双魚宮の入り口に立っていたアフロディーテに遭遇した。たっぷり寝て髭も剃った彼は、月光を浴びて美しい佇まいを無駄に演出している。
 そして、お帰り、という言葉とともに手を突き出した彼に、シュラは黙って下げていたビニール袋を手渡した。
「何だこれは?」
「牛丼」
 ビニール袋の中には、発泡スチロールで出来た丼型の容器が二つ入っていた。
 土産を買ってこい、というアフロディーテの言葉を、シュラとて忘れていたわけではない。しかしあの店での飲み食いがやや予算を過ぎてしまって土産が買えなくなり、築地が第一号店であるという日本の牛丼チェーン店で急遽間に合わせたのである。安くて早いという売り出し文句は真実で、シュラはあの巨大チェーン店に非常に感謝した。
「刺身を食うのではなかったのか?」
「いいだろう、別に。お前だって肉の方が好きじゃないか」
「まあ、そうだが……」
 何とか誤摩化しつつ、シュラは丼を一つだけ持つと、「報告があるから」と階段を昇った。牛丼は美味いが、その値段と自分がどこで何を食べて来たかがばれれば、毒薔薇を口に突っ込まれかねない。食べ物の怨みは恐ろしいのである。



 サガは未だ黒髪だった。
 シュラは帰還期限ギリギリであった事をネチネチといびられながら、全ての報告をすます。達成結果に関しては特に文句を言われなかったので、彼の期待していたボーダーラインはクリアできていたということなのだろう。
「……ニコルという男については、聖域で聞き込みをした方が情報が集まるだろう。一緒に修行をした奴が居るかもしれん。奴の年齢は?」
「本人は30歳だと言っていた。真偽のほどはわからんが、一応、外見とは一致する」
 そうか、とサガは頷いた。
「そして、サオリ……か」
 サガは暫く、頬杖をついた手で口元を覆い、真剣な表情で空を見つめた。脳に小宇宙を働かせているときの表情である。
「アイオロス」
 ぼそり、と呟いた。
「……生きているのか?」
「馬鹿を言え」
 さすがにこれには表情を顰め、シュラはやや大きい声を出した。
「アイオロスは、俺が殺した。お前が証明した事だ」
「そうだ。だが、こうなってはデスマスクの言葉が気にかかる」
 デスマスクは、未だアイオロスの死亡を確信していなかった。彼が言うに、あそこまで生命力、小宇宙の強い人間が一日そこらで死界の穴に落ちるはずがなく、そしてあの後何度も黄泉比良坂に行ってみたが、アイオロスの姿はなかった、ということらしい。
「……そもそも、幻朧魔皇拳の解除条件である“死”がどの程度のものを指すのかが未だ不明だからな。心臓が止まった事を指すのか、それとも小宇宙が潰えた時か、脳が死んだ時か、魂が肉体から離れた時か……。お前、その時のアイオロスがどの状態だったか、明言できるか?」
 シュラは、眉を顰めた。どうとも言えないからだ。
「一度、徹底的に試した方がいいかもしれんな。実験用の人間を適当に揃えておけ」
「わかった」
「お前のそういう所は、使い勝手が良いよ」
 殺害する事が前提の人体実験、その為の人員を揃えろという命令に淡々と答えるシュラに、サガはニヤリと、試すような笑みを浮かべた。
「……だが、それがお前の正義なのだろう?」
 しかしシュラは、やはり淡々としていた。いや、口調や表情こそ変わらないが、その琥珀の目には、金色の刃の輝きが宿っている。ひやりと首筋に切っ先を当てられたような感覚。目の前の阿修羅に、サガはフンと不敵に笑ってみせた。
「そうだ」
「ならばそうすればいい。俺はそれに力を貸す」
 彼がすっと目を閉じると、刃の輝きも失せる。鞘に刃を仕舞った阿修羅は、ただ彼の前に、静かに佇んだ。
「……報告は以上か」
「ああ。……あ、それと、これ」
「は?」
 ドン、と執務机の上に置かれたビニール袋に、サガは奇妙に顔を歪めた。
「何だこれは」
「土産だ。牛丼」
「牛丼というと、牛肉のバラ肉や切り落とし肉をコマ切れにして、玉ねぎとともに甘辛く煮込んだ具材を、丼に盛った飯のうえにかけた日本の庶民料理……」
「そうだ。肉に飢えているだろうと思って」
 やけに説明的な解説を口にしたサガに、シュラは頷いた。デスマスクやトニが色々と気を効かせてはいるが、実際は25歳でありながらシュラ達三人以外には完全に老人扱いされているサガは、肉や魚と言った動物性タンパク質を豪快に摂取できる機会が少ない。
「まあ否定はせんが、…………まだ温かいな」
「テレポートで帰って来たから──………………あっ」
 しまった、と思った時には、もう遅かった。
「……テレポート」
「あー、いや、そのだな」
 ミロの事に関しては、「日本に向かった自分を面白半分で追いかけてきて仕事を手伝い、張り込みに飽きて途中で帰った」ということにして報告をしていた。若干どころでなく苦しい言い訳だが、ミロであるので結構説得力があったのに、それも今や台無しである。
「1300ユーロを牛丼に」
「いや牛丼は」
「言い訳はいらん!」
 ギンッ、と、真っ赤な目が金色に輝いた。シュラの背中に冷や汗が流れる。恐怖心というネジが飛んでいるシュラであるが、これはやばい。
「その様子だと、初犯ではないな……? “奴”はこれを知っているのか」
 奴、というのは、プラチナブロンドのサガの事である。
「……一応、許可は取ったんだが」
「奴が許可しても、わたしは許可した覚えはない!」
「どっちもアンタだろうが!」
「一緒にするな、この穀潰し!」
「穀潰し!?」
 さすがに心外だったシュラは、叫んだ。交通費と称して金を出させ飯を食って来たのは確かに事実だが、給料らしい給料も貰えず、すなわちほぼ無償でここまで働いているのだから、そのくらいは大目に見て欲しい。
「1300ユーロを大目に見れるか!」
 しかし、こちらもなかなかまっとうな反論である。
 そしてシュラが初めてさっと目を逸らした瞬間、星々が砕けるような音が、教皇宮に響き渡った。
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BY 餡子郎
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