第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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《ああ、やっぱり?》
 ニコルが聖域の人間だったかもしれないとテレパスでミロに告げると、そんな返事が返ってきた。ミロは今、屋敷の中をぶらぶらと歩き回っているらしい。もちろん黒服の男達の制止はあるが、笑顔と言葉が通じないフリ、そして銃に穴を空けるまでではないが軽い脅しを駆使して、このまま屋敷中を練り歩くつもりらしかった。
《俺たちの技にも、驚いてはいたけど、小宇宙の技自体には驚いてなかったからな。それに、あのスキンヘッドや銃を向けた奴らに、呆れたみたいな顔した。あれは、小宇宙の闘法に銃や兵器で立ち向かう事の無為さを知ってる奴の反応だ》
《俺の目を見ても腰を抜かさなかった》
 そりゃすげえ、とミロが口笛を吹いた。小宇宙を抑えていても女の腰を砕くぐらいは朝飯前──というのは半分冗談だが、小宇宙を発現させたシュラの眼光は相当なもので、小宇宙への耐性が無ければ腰を抜かすというのもあながち言い過ぎではない。「気圧される」、その現象の次元違いのレベルでの現象が起こるからだ。一般人にとっての小宇宙とはそれほど凄まじく強大に感じられるのが普通なのだ。
 小宇宙を向ける、というのは、相手の生存本能に訴えかける原始的なアプローチである。獣と獣が命をかけて対峙する時の気迫、小宇宙とはそれと同等の、魂や命から直接燃え上がる感覚センシズ・エネルギーなのだ。
 そしてそんな力を向けられた時、人はどうするか。
 野生の獣ならば、生命の危険を感じて毛皮を逆立て唸り声を上げるか、尻尾を巻いて逃げ出すだろう。そして何も知らない一般人、しかも平和な先進国の人間ならば、おそらく生まれて初めて味わうその迫力に素直に腰を抜かす。だがなまじ小宇宙というものに触れている聖域の人間は、いかにそれを受け止めたり流したりするかという姿勢を取る。
 いくら頭が回っても、生命の危険に晒された時、その反応を演技で返せる人間など、殆ど居ない。そんなことが出来るのは生まれながらにして小宇宙に慣れている人間、実質、黄金聖闘士だけだ。
 そしてニコルが示した反応は、間違いなく、黄金聖闘士ではないが小宇宙を知っている者のそれだった。
「言葉にギリシャ訛りがあるな」
 いっそ直接的な質問を投げかけてやった。千の刃の小宇宙、聖剣の輝きを持つ琥珀の目、それを向けられるのはまさに、顔面に切っ先を突きつけられるのに等しい。ニコルは息を飲むこともできないまま、しかしその質問をされる事自体は予想していたらしく、きりきりと引き絞られるような緊張感の中、口を開いた。
「……私は元々ギリシャの人間で、5年ほど前に光政翁に気に入って頂き、お嬢様の教育係を任されました。光政翁は世界各国の遺跡巡りがお好きで、アンティーク収集家としても有名です。歴史深い国であるギリシャは、光政翁の大の気に入りの国で」
「ギリシャでは何を?」
「グラード財団経由の派遣職員として、塾講師をしていました。学歴、職歴、調べて頂いても結構ですよ」
 まるで面接のような、ハキハキとした受け答えだった。しかしそれだけに、予め用意されていた答えのような気がしてならない。そして学歴や職歴の証拠など、所詮書類一枚でしかない。銃に関しての規制が最も厳しい国の一つであるこの日本で、私邸のボディガード全員に拳銃、しかも公的機関のみの販売で民間には流通していないフルオート拳銃を持たせることが出来るグラード財団ともなれば、人間一人の経歴を完璧に作り上げる事ぐらい簡単だろう。
 そしてこういう所こそが、聖域の弱みでもあった。史上最強の武力組織でありながらあくまで歴史の裏の存在である聖域は、何百年単位で外界との接触を避けており、こういった一般社会で流通する手続き全般に対する直接的な力を持たない。
 また、こういう所が、聖域と繋がりのある外界の面々にどこか見下されている原因でもある。神の力というのが相応しいほどの力を持ってはいるが、要するに力のみの野蛮な組織だと見られているわけだ。無理もない事ではある。事実なのだから。
「……そうか」
 シュラは、ひとまず引き下がった。デスマスクあたりならここでハッタリやカマかけの三つや四つ仕掛けるのだろうが、自分の力量ではこれ以上の情報を引き出せまい、と判断したからだ。サガにもそれほどには期待されているまい。
「まあいい、ではいい加減本題に入ろう。……こちらで修行中の候補生として正式に確認出来ているのは、この10人だ」

 ギリシャ・聖域、星矢。
 中国・江西省九江市・盧山五老峰、紫龍。
 ロシア連邦東シベリア、氷河。
 ソマリア沖・アンドロメダ島、瞬。
 アルジェリア・オラン、邪武。
 タンザニア・キリマンジャロ、蛮。
 フィンランド・ホルツ湖、市。
 カナダ・ロッキー山脈、檄。
 リベリア・ボミヘルス、那智。

「最後に、イタリア・シチリアのエトナ山、盟」
「…………」
 シュラが読み上げながら並べた十枚の書類を、ニコルはじっと眺めている。
「そしてこの一輝という子供だが──」
 骨張った長い指が、一枚の書類を一番上に滑らせた。
「どこに飛ばされたか、心当たりは?」
「……残念ですが」
 ストレートな問いに、ニコルはゆっくりと首を振った。
「以前もお伝えしましたが、子供達の行き先について、私どもは把握しておりません」
「ひとりも?」
「はい。この子たちについても、今どこに居るのか、たった今知りました」
《──どこまで本当やら》
 吐き捨てるようなミロの声が、頭の中に響いた。
 双方ともがテレパスの送受信をオープン状態に保つ事で、シュラとニコルの会話をミロが聞き、シュラはミロの邸内の調査報告を直ぐさま受けられる。何の機械も必要としないのにも関わらず何よりも早い情報伝達手段がある事は、自分たちの大きな強みだ──とは、情報戦こそ戦争の真髄だと言い切るイタリアーノの弁である。
「……この」
 数秒沈黙していたシュラであったが、ふと、一枚の書類を手に取る。
「シチリアで修行中の、盟という少年だが」
「…………」
「俺も会ったことがある。知人が師匠をしているのでな」
 これは本当だ。ナニーをしているデスマスクを見てやろう、とシュラはアフロディーテとともにアポなしでエトナの山小屋に突撃をかけたことがある。小さな少年相手に飯を作って勉強を教え基礎訓練をやらせ、非常に優秀なナニーっぷりを発揮していたデスマスクに二人は想像以上に大ウケし、腹を抱えて笑ったものだ。
 いきなりやって来て馬鹿笑いのしすぎで死にそうになっている二人を見てデスマスクは地元のマフィアも裸足で逃げ出すような形相をしたが、孤児の割に妙に育ちの良さそうな日本人の少年がおろおろと三人を見比べ「ししょう」、と困り果てたように呼んだので、シュラとアフロディーテはまた爆笑の渦に叩き込まれた。これも、もう2年以上も前のことになる。
「良い少年だ。素直だし、根性もある。頭も悪くない」
「……そうですか」
「だがそれだけではやっていけない世界だ。わかるか?」
 元聖域の人間なら、それは痛いほどわかっている事だろう。わかっているからこそ脱走するのだから。
「盟が五体のどこも損ねる事なく修行を積めているのは、ひとえに──師匠がいいからだ」
 思念派に乗って、ミロが爆笑する気配がした。
《口が腐るぜ、シュラ!》
 まったくだ。
 ひいひい言っているミロの言葉に深く同意しつつ、シュラは続けた。
「盟の師匠は正式な黄金聖闘士で、知略に優れたすばらしい、……すばらしい、聖闘士だ」
 ゴホ、とシュラは咳払いをした。吹き出しそうだ。
「そういう聖闘士が師匠につくことで、初めてまともな聖闘士の修行が行なえる。だが脱走者達が用意した修行地では、修行などとは言えない──虐待どころではない、毎日が死ぬ目との戦いという生活を余儀なくされるだろう。既に90人がそれで死んでいるようにな」
 これも、本当である。いくつか探り当てた違法の修行地では、アウシュビッツもかくやというほどひどい扱いを受けている子供も居た。地下室に丸裸ですし詰めにされ、既に死体になっている隣の子供を抱きしめてじっと動かない子供は、シュラが抱き上げようとすると、奇声を発して大暴れした。子供は8つにもなっておらず、汚物まみれで、信じられないほど軽かった。
 あの時は、さすがのシュラもまともに食事を取る気が失せた。
「……一輝という子供も、そういう所に送られた可能性は高い」
 淡々とその時の話をして、シュラはニコルを見る。
 彼は白い顔を若干青くして、拳を握り締めていた。そして、──やはり、とシュラは再三確信する。
 10年前以前の聖域では、ここまでではないにしろ、似たような事態が常に起こっていた。
 ギリシャは、平和な国だ。きちんと警察が機能する、まっとうに働けば食うに困らない先進国だ。そんな所で塾講師をしていたのなら、今の話に抱くのは、想像もつかない次元のものに対しての嫌悪感と、そして漠然とした同情のはずだ。
 しかし、ニコルは拳を握り締めるという反応を示した。それは、彼がかつて聖域の人間で、似たような光景に強い憤りとトラウマとも呼べる恐れを感じてきたからだ。……聖域の人間であったなら、誰もが抱く感情である。
 そして、トラウマと化した傷を隠せる者など、居ない。だからこそトラウマなのだから。
「……知りません」
 青ざめた顔で拳を握り締めながら、ニコルは言った。
 もしニコルが一輝の居場所を知っているとしたら、彼は一輝を見殺しにしたことになる。わかりきったことであるが、「居場所を教えれば、まともな師匠の所にやってやる」とシュラは告げたのだ。だが彼は、知らないと言った。少なからず同じような目に遭って出来た傷から血を流しながら、知らないと言った。
(──どういうことだか)
 シュラは、内心首を傾げた。本当に知らないならまだしも、ニコルがもし一輝の居場所を知っていて言わないのだとしたら、それは自分の傷を広げてまで隠し通さねばならない理由があることになる。
 だが考えた所で、自分にそんな事はわかるまい、とシュラはそれ以上の追求を投げた。なんといっても、シュラも生まれつきネジがぶっ飛んでいる。実の父親を原形を留めないほど素手でミンチにしたことがトラウマにも何もならないどころか、むしろあの男が生きていた頃を思い返す方が虫酸が走る位だ。そして嫌悪感はあるものの、恐怖を感じた事は、当時から今に至るまで、一度たりとて無い。

 ──そしてこの件に限らず、シュラは、恐怖というものを感じた事が無い。

 デスマスクに罪悪感というものが欠けているように、シュラには恐怖心というものが欠損していた。彼にとって戦慄の震えは興奮に繋がる感情であって、身を縮めるようなものではないのである。
 あらゆるものに恐怖を感じないからこそ、シュラは肉親殺しをやってのけ、神を疑い、また正義をとことん疑った。13年前のあの日でさえ、シュラは強い困惑を感じこそすれ、恐ろしいとは感じなかった。
 この「怖いもの知らず」という性質は、まさに戦闘神としての阿修羅に通ずる特攻まがいのバーサーカーにもなり得るものだ。しかし幸運というべきか、シュラは基本的にマイペース極まる性格だった。すなわち、地獄の最前線に突っ込む時も、食料を買いに街に繰り出す時も、彼の心に変化は無い。
 ──“安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火もおのずから涼し”。
 帰依した武田信玄も師事したという師快川禅師が織田信長軍の兵火に遭い、燃え上がる火中にありながら微動だにせずこれを唱え、末期の一句としたという禅道の極意。いかなる時も無心、静寂の心を持ってすれば切り抜けられない事は無い、ということ。
 かつて童虎が指摘した通り、シュラはこれを生来の「恐怖心が無い」という、いいとも悪いとも言えないがとにかく希有な質によって成し得、また、だからこそ聖剣という技を駆使することが出来るのだった。
(……この件はこれまでか)
 今回シュラに与えられた任務の一つは、神官達の隠し修行地である可能性の高い、一輝という子供の行き先を調べ上げること。
 だがシュラ自身もサガも、まさか今簡単にわかるとは思っていない。しかしこのニコルという男がグラード財団にあるということだけでも、自分にしては及第点の収穫だろう、とシュラは自分の中での任務リストのひとつに、完了のチェックを入れた。
 さて、あとはもう一つの用件だけだ。
《おい、ミロ》
《なに?》
《話は大体終わった。あとは多少時間を稼ぐから、引き続き邸内の調査。何かあれば言え》
《え? テレパス切るのか?》
《……頭が痛い》
 ミロには隠し修行地の調査の任務しか教えていないので、これから先の話を聞かれたくない──というのもあったが、頭痛がするのは本当である。超能力が不得手なシュラは、長くテレパスを行なっていると、軽い頭痛に悩まされる。
《相変わらずだなあ。わかった》
 シュラの体質を知っているミロは、軽く笑って、こちらに送ってきていた思念派を切った。くわんくわんと鐘が鳴るような頭痛の元が消えていき、シュラは思わず眉を顰め、こめかみをぐりぐりと軽く揉む。
「……どうかしましたか?」
「何でも無い。偏頭痛持ちでな」
 嘘である。虫歯一本無い。
 飲み物でもお持ちしましょうか、と儀礼的に言うニコルにノーサンキューの返事を返し、シュラは今一度彼に向き直る。
「いつもこちらに寄越してくれている援助についてだが」
 グラード財団の、聖域に対する真意を探ること。もう一つの任務に、シュラは取りかかった。



 ──さて、どうするかな。
 シュラとのテレパスを切ったミロは、くるりと辺りを見回した。最初はミロにじっとしていてくれとしきりに言ってきた男達も、ミロがニコニコ笑いながら、いわゆる「ワタシニホンゴワカリマセン」な姿勢を貫き、また行動もただ歩き回っているだけで何をするわけでもないので、もう諦めたようだった。
(城みたいな家だなあ)
 ミロの実家は皆が長生きのうえにそれぞれの世代できょうだいが多い大家族なので、家も大きい。しかし実家は隅々まで生活感に溢れ、家の中を行き交うのは全員が家族だ。
 しかしここは、まるで美術館のように静かで、埃一つ落ちておらず、また黒服の男達の他には人間が居ない。それは、ミロが知る「人が生活している」という意味での「家」として、大変異質で異様な光景だった。
(あ、そんな場合じゃない。手伝い手伝い)
 子供の頃から自分がよそ見をしやすい質だと知っているミロは、慌てて気を取り直す。
 この性格に対して一番いちいち言ってくるのが、シュラだった。シュラはミロと正反対に、その聖剣の性質と同じく、一つの事に対して脇目も振らずに集中するタイプなので、ミロの散漫ぶりが目に余るのだろう。
 ミロに格闘技の修練をつけてくれたのはシュラである。その流れで今も手合わせをねだっているわけだが、毎度毎度遅刻してくる度に、シュラは欠かさずミロを叱りつける。叱りつけるだけでなく小突かれ蹴られ、かつてはしこたま尻を叩かれたこともある。
 そしてそれでも未だ劇的な改善を見せないミロのよそ見は、治らない上にあまりに内容が豪快なので、大概の者はもう「そういうもの」として諦めてしまっている場合が殆どだ。だがシュラだけは、未だにこのことについていちいち言及する。
 しかしミロは、普段端的にしか喋らない彼が、リズムの良さが特徴であるスペイン語で流れるように言葉を紡いで叱りつけてくるのが、何となく好きだったりする。
 ミロが聖域にやってきたごく小さい頃、彼は兄貴分の先輩として、デスマスク、アフロディーテと共にミロや彼と同年の年少組の面倒を見てくれた。
 デスマスクは食事だの寝床だのの実質的な面倒はわりとこまめに見てくれるが、全てにおいてまず拳骨が出る上、精神的に深い所まで関わるのは御免だと突き放す。アフロディーテは何もない時はいつもにこにこしているし、そのきれいな顔のおかげで普段は一番優しげだが、いざ自分が被害を被りそうだと判断するとあっさり見捨てるという、したたかな薄情さを持っていた。
 そしてシュラはといえば、自分から進んで寄って来てくれたりはしないし、甲斐甲斐しく何から何まで面倒を見る事はないけれども、最後までじっと話を聞いてくれる、という質の持ち主だった。
 彼はあの頃から無愛想で第一印象の悪さは他に類を見なかったが、実のところは一番温厚で滅多にキレたりしなかった。そして、今もその質はさほど変わっていない。
 例えばかつて、年少組の誰かが泣いているとき、くだらねえことで泣くなと叱咤して頭をスパンと叩くのがデスマスク。どうしたんだ、とは聞くが最後まで付き合ってはくれず、適当に慰めて去っていくのがアフロディーテ。そして何も言わないが、泣き止むまで隣にいるのがシュラだった。
 かつて赤ん坊のアテナに顔だけで泣き喚かれたことが尾を引いているのだろうか、彼は特に子供や歳下の者に泣かれるのが大変苦手だ。いつだったか、候補生の子供にいきなり泣かれて硬直しているのを見た時は、いっそシュラの方が気の毒になってきた位だ。
 彼は困ったような呆れたような表情をして、何もしないままじっとそこに立つ。そんなに途方に暮れる位なら放っておけば良いのに、それでもじっと側にいるのをやめない所が不器用かつ「いい奴」だよな、とミロは思う。
 そしてそんなシュラだからこそちょっかいを出したくなるのだが、シュラは多分自覚が無いだろう。

(……ん?)
 気を取り直した側からまた思考がずれて行っているミロであったが、一応、言われた通りに小宇宙の気配を探ることも忘れてはいない。
 そして、彼はふわりと、小さいが小宇宙らしい気配を感じた。
(どこだ……)
 意識を集中し、居場所を突き止める。小宇宙の主は、廊下の奥の部屋の中に居るらしかった。
《シュラ》
《うっ……何だ》
 いきなり思念派を送ったので、頭痛を再発させてしまったらしい。すまん、と謝りつつ、ミロは続けた。
《南側の端の部屋に、小宇宙》
《どういう感じだ?》
《大きさは然程でもないな。中途半端に覚醒した一般人──にしては整然としてるような……》
 とりあえずわかることを全て羅列して報告したミロに、ふむ、とシュラは頷く。
《実は、引き延ばすのもそろそろ限界でな……》
 苦々しそうに、シュラは言った。さもありなん、彼が世間話で時間を稼ぐのには無理があろう、とミロは苦笑して頷く。
《時間がなくてすまんが、出来るだけ探っておけ》
《力ずくでも?》
《喧嘩を売ったといえない範囲であれば構わない。一応取引先だからな》
 つまり先程のように、人間に危害は加えてはならないが目の前のものを壊したりして脅すのはアリ、ということだろう。さらりと堅気にあるまじき発言を返されたことにミロは半目になりつつ、了解の返事をした。

 小宇宙自体は微弱なので、ミロもあまり重大に考えては居なかった。
 聖闘士をやっていると、……いや聖域にずっと身を置いていると、戦闘以外の普段の生活においても、まず小宇宙でものを判断する癖がつく。だが小宇宙は生物としての根本的な「格」そのものであり、実際、小宇宙によってその価値は大概の場合正しく測れるものなのだ。
 しかし部屋に近付くにつれて増える黒服の数に、ミロは疑問符を浮かべる。
(何を、守ってる?)
 ずんずんと廊下を進むミロを、先程まで諦めて彼を放っておいていた黒服の男達が、慌てて止めようとする。しかし彼が銃も効かない超人であることを知った彼らは為す術もなく、化け物を見るような表情で、英語による制止の言葉をかけてくるだけだ。
(情けない)
 喧嘩を売るな、と言われているので、もしこの男達が身体を張って止めに来れば、ミロも足を止めざるを得なくなる。
 しかし完全に腰が引けている彼らは、誰一人としてそうしようとしない。金持ちならもっと根性のあるボディガードやSPを雇ったらどうだ、とミロは呆れつつ、ずんずんと奥に進んだ。
「なっ、なんだ貴様! こちらに入ってくるな!」
 さて目的の部屋が見えてきた、と思ったその時、ミロの前に飛び出してきたのは、辰巳だった。
 ネクタイがなくなった彼は、やはり青い顔で、冷や汗をだらだら流している。──が、彼は震えながらも足を踏ん張り、ミロの前に立ちはだかった。
(へえ)
 ミロは青い目を少し見開き、少し辰巳を見直した。性格に多少問題はあるが、根性はあるらしい。
「この先に、何があるんだ?」
「き、きさまには関係ない! さっさと戻れ!」
 辰巳は大きく腕を広げて、サッカーのゴールキーパーのごとくミロの行く手を阻んだ。ミロが少し悪戯心を起こしてひょいと首を傾げれば、弾かれたようにサッとそちらの方へ巨体を動かす。
 このまま辰巳に立ちはだかられていると、ミロは前に進めない。しかしここまでして守るもの、しかも小宇宙を発しているものがあるというだけでも収穫だ。少し粘ってみて、駄目なようなら戻るとするか──とミロが考えたその時、奥にある扉が、すっと開いた。

「やめなさい、辰巳」

 響いた声は、甘く、高かった。
 ドレスのようなワンピースの裾が、揺れる。

「お、お嬢様! 出てきてはなりません、お戻り下さい!」
「黙りなさい。私がすることは私が決めます」
 部屋から出てきたのは、幼い少女だった。
 灰褐色の髪に灰色の目、明らかに日本人ではないその少女は、呆気にとられるほど美しかった。
 アフロディーテも、初めて見た時は、なんという絶世の美少女かと思ったが──結局少女でもなかったわけだが──、あの泣きぼくろやどこか悪戯っぽい笑みのせいか、美形にありがちな近寄り難さはあまりない。ちなみにそれだけではなく、デスマスクにマウントをとって殴り掛かり、さらに噛み付き、堂々と素っ裸で共同浴場に入る様を散々見ているミロは、もうアフロディーテをただの同性の同僚としか見れない。むしろ誰よりも男らしいのではないかと思う位だ。人間は顔で判断できない、ということを、ミロはアフロディーテからつくづく学んだ。
 だが同じ美形でも、目の前の少女は、ひやりとするような美貌を持っていた。色こそ日本人とかけ離れてはいるが、胸くらいまでの長さの髪の質は欧米人には先ず無い重たいストレートで、しかもたっぷりと量がある、すばらしい髪だった。そしてこの歳頃であれば誰でも肌は美しいものだが、少女の肌はそれ以上に白く透明感があり、冷気すら発しているように見えた。名工が作り上げた人形が、名品過ぎて命を持ち動きだした、と言っても信じる位の凄みのある美しさが、少女にはあった。
 彼女は辰巳やミロの胸下くらいまでしか身長がないが、少し場所が離れているせいか、見上げてくるような様子はなく、真っすぐにミロを見ている。
「……もしかして」
 しかし、どういうわけだか美形がインフレを起こしまくっている聖域、特に十二宮で長らく暮らしているミロは、普通より美形に免疫がある。それに、ミロは必要以上にそう思っては居ないが、彼自身もアポロンもかくやという美形である。
「サオリちゃんかな」
「さおりちゃん!?」
 辰巳が、悲鳴と言って差し支えない、完全にひっくり返った声を上げた。青いスキンヘッドがますます青く、倒れそうになっている。
 真っ青になっている辰巳を放置し、ミロは沙織に近寄ると、目線をあわせる為にしゃがんだ。それはミロが聖域で候補生達と接する時にいつもやる行動だったが、沙織は目線が自分より下になったミロを見下ろし、目を細めて微笑した。
 ませた子だな、とミロは微笑む。生意気とも言えるが、所詮は子供。真の子供好きにとって、大概の生意気は可愛らしさの範疇である。
「はじめまして、レディ。きみが美人すぎるから、挨拶するのを忘れてた」
「あら。貴方も素敵よ」
 ミロがまるで騎士のような態度をとってやれば、当然という様子で、沙織は形のいい鼻をつんと上げる。その仕草はいかにもで、お伽噺に出てくる小生意気なティンカー・ベルのようだった。たいへん愛らしい。
「わたしは城戸沙織です」
 小さいながらも凛とした様子で、沙織は言った。
「あなた、ギリシャから来た方ね。お名前は?」
「俺は、ミロだ」
「ミロ?」
 沙織は、目を細めてくすりと笑った。
「……あなたが、金色の、ちび林檎?」
「えっ──」
 ミロは、目を丸くした。
 確かにミロという単語には、ギリシア語で果実、とくに林檎という意味がある。
 しかし、ミロが驚いたのは、この10歳くらいの少女がギリシア語の単語を知っていたからではない。彼女は、“金色のちび林檎”と言った。その呼び方は、かつて──
「ねえあなた、──」
 沙織は、灰色の目を細めた。ミロが首を傾げる。
「……何?」
 僅かに困惑の残った顔でミロが微笑み首を傾げると、沙織は笑みを深くした。
「聖闘士なんでしょう?」
「お嬢様ッ!」
 凄まじい怒声だった。さすがにミロも驚いて、ばっと後ろを振り向く。先程までの落ち着いた表情が嘘のような険しい顔をしたニコルが、大股で近付いてくるのが視界に入った。後ろにはシュラも居る。
「お嬢様! 部屋から出てはなりませんと、あれほど申し上げたでしょう!」
「だって」
「言い訳は結構!」
 ぴしゃりと遮られて、沙織が眉を寄せた。辰巳がおろおろしている。
「聖闘士のことを知っているのか?」
 やや呆気にとられたような声でそう言ったのは、ニコルのうしろに続いていたシュラである。彼は長身から沙織を見下ろし、人形のような少女をまじまじと見た。
 いきなり現れた見知らぬ顔に、沙織は大きな灰色の目をくるりと丸くする。そしてその子猫にそっくりなどんぐり目の大きさに、シュラはぎくりとした。子供が自分を見てこういう顔をする時、その直後に来るのは大概の場合、力の限りの大泣きだからだ。
 だが沙織はシュラの予想に反して、上から下までまじまじとシュラを見た。
「まあ、本当に背が高いのね」
「は……?」
「お嬢様、いい加減になさいませ」
 ニコルの声は、既に震えていた。その尋常でない声に沙織もさすがにまずいと思ったのか、ばつの悪そうな顔をする。
「申し訳ありません。お伽噺を信じておられるのです」
 聖闘士の存在は、世界中に知られてはいる。しかしそれは半ば都市伝説のようなもので、メン・イン・ブラックと同列に扱われていると言えばわかりやすいだろうか。聖闘士の存在は時に陰謀史観の中心的存在として語られたりしており、世間一般ではお伽噺にしか過ぎないが、実はそちらの方が真実に近い、というのを知っているのは、それこそ教皇達だけだ。
「違うわよ! 聖闘士はギリシャの聖域に居て、十二宮とアテナ神殿を守ってるのよ!」
「……だそうだが?」
 ニコルは額に手のひらを当てて、盛大に重いため息をついた。泣きたい、という感じである。
 しかしそうして話題を流そうとしたニコルに、沙織は怒った子猫よろしく食って掛かり、彼の努力を台無しにした。ちょっとした都市伝説マニアなら「聖域」という単語も出てくるかもしれないが、「十二宮」「アテナ神殿」ともなれば話は別である。
「こんな子供に聖闘士のことを教えているのか」
「…………」
 シュラは、ぎろりと琥珀色の目線を向けた。本人としては殆ど「ただ見ただけ」なのだが、一般人には十二分にしておつりが来るほど脅しになる。
 ニコルは死刑宣告を言い渡された罪人のような顔をして、暗い声で言った。
「……お嬢様はグラード財団総帥でいらっしゃいます。財団の主だったことはご存知です」
「実際に経営を行なっているのは、生前光政氏が残したチームだろう」
 なのに、口の軽い子供にこんなトップシークレットを教えているのか、というシュラの厳しい声に、ニコルはますます苦しげな顔をし、しかし腹を決めたように、もう一度息をついた。
「……いいえ、経営を行なっておられるのは、正真正銘、お嬢様です」
「はあ?」
 素っ頓狂な声を上げたのは、ミロだった。晴天を閉じ込めたように鮮やかな青い目が、これ以上なく真ん丸になっている。
「お嬢様は……ご幼少のみぎりから、光政翁の後継者として教育を受けていらっしゃいます。通学していらっしゃらないということはお話ししましたが、それは安全面での理由だけでなく、お嬢様の学力に年齢通りの教育では間に合わないからです」
 ニコル曰く、沙織は既に大学院レベルの内容を、家庭教師──いや特別に雇った大学教授陣から学んでいる、ということだった。ミロは呆気にとられ、目だけでなく口までポカンと開けている。
「……ではつまり、グラード財団を実際に経営しているのは」
「もちろん光政翁の残したチームは、おおいに力になってくれております。……しかし、彼らに指示をしているのは沙織お嬢様です」
 思わずミロとシュラが沙織を見ると、彼女は少し得意げな表情で、フリルのたくさんついた胸元を反らした。
「ですが、いくら実際にこうして経営をこなし有能であるといえど、お嬢様が10歳の少女であることもまた事実ですから、舐められて過度な攻撃を受けない為にも、お嬢様は名前だけの後継者、ということにしてあります。……あなた方も、このことはどうかご内密に」
 いつになく真剣な目で言ったニコルに、シュラとミロはビジネス的な固い口調で了解の返事をした。
「……さあ、もういいでしょう。予定されていた用件は終わったはずです」
 ニコルは沙織の前に立って沙織を後ろに押し下げ、彼女を隠すようにした。ニコルの影から、不満げな灰色の目がちらりと覗いている。
「お帰りを」
 この上なくはっきりとした意思表示に、シュラは肩を竦め、胸のポケットに引っ掛けていたサングラスをかけた。これ以上情報を引き出すには、それこそ本当に暴力を使わないと無理だろう。
 そして、未だしゃがんでいるミロに顎で立ち上がるように指示する。
「今日は邪魔したな。……では、また」
 また、と念を押すようにずっしりと言って踵を返したシュラに、ニコルの表情がまた険しくなる。
 ミロは思わぬ展開に半ば呆気にとられていたものの、さっさと歩き出したシュラの背中を慌てて追う。しかし最後に、彼はくるりと振り返った。
「さようなら、サオリちゃん。また、いつか」
 笑顔でそう言ってひらひらと手を振るミロを、ヘルメス像のような男の身体の影から、沙織はじっと見続けていた。
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BY 餡子郎
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