第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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「アフロディーテ! アフロディーテ、起きろ」
書類の封筒と現金を受け取ったシュラは、結局不要になったカプリコーンのパンドラボックスを担ぎ、その足で双魚宮の離宮に飛び込んだ。
デスマスクなどは「薔薇臭い」と形容するが、確かに、ものすごい薔薇の匂いである。
教皇宮まで蔓を延ばす為もあり、双魚宮の薔薇は、10年前よりも一層凄まじいことになっていた。小宇宙の篭った特殊な薔薇なので普通の生花のような面倒はさほどないが、室内の壁にまで薔薇の蔓が這って花を咲かせている様は、なかなかに異様だ。
そしてシュラは、勝手知ったる何とやらで、ずかずかと離宮の奥に入って行く。
「何だ騒がしい……」
奥の寝室のベッドの上にうつぶせで横たわったまま、アフロディーテは顔だけをシュラに向けた。まだ半分寝ている目元は、睫毛だけでも相当な重さがあるのではないかと思うほどゴージャスだ。必死にマスカラを駆使する女性達が見たら泣きそうなほど見事なその目の下にさりげなくある泣きぼくろが、非常に色っぽい。寝起きだからか若干腫れ気味の唇は、いつもよりふっくらと赤かった。相変わらず顔だけ見れば絶世の美女、と言いたい所だが、シュラは言った。
「……お前、何日髭剃ってないんだ」
「うるさい」
口周りから顎、頬にかけて、金色の無精髭が光る彼は、億劫そうに首筋を掻いた。アフロディーテは黄金聖闘士の中でも細身な方だが、その背は皆と同じく6フィート越えを果たしているし、肩は少し薄いが立派に広く、シャツから覗くごつめの鎖骨から首にかけての筋は、どこからどう見ても男性だ。
「任務で日本に行くことになった。飛行機代をせしめてきたんだが、何か食いに行かないか」
ずい、とシュラが現金の入った封筒を見せる。目の前に差し出されたそれを。アフロディーテはまじまじと見た。
「また色々言われたか?」
「ボロクソだ。むかついたから、一番高い船盛り食ってやろうと思ってな」
「……私はさっきまで、僻地の孤島に居た。アンドロメダとかいう」
アフロディーテは、忌々しそうに言った。
アンドロメダ島といえば、白銀聖闘士であるケフェウスのダイダロスが派遣され、新しい候補生を大勢育成している修行地である。アフロディーテはサガに頼まれて、アンドロメダ島に眠るという青銅聖衣の調査・確認に向かったのだという。既にダイダロスが下調べを行なってくれていたのが救いだったようだが、それでもたっぷり一週間は滞在するはめになった、とアフロディーテは呻いた。
「何もありゃしない。岩と砂しかない。水を飲むのも一苦労だ。もう二度と行きたくない」
もはや身体の一部と言っていいほど植物を周りに置いているアフロディーテは、水気や土気のない場所を好まない。コンクリートジャングルも嫌いだ。
「だから腹も減っているし、非常に魅力的なプレゼンではあるんだが……」
今回はやめておく、と言ったアフロディーテの様子があまりにも疲れていたので、シュラは残念そうにしながらも、そうか、と諦めた。常に貧乏暇なしな自分たちは、こうして倒れるまで──聖闘士の体力でそうなのだから、よほどである──働いて帰ってくる事もよくある。その時は風呂より飯よりとにかく寝たい、と思う事を身をもって知っているからだ。
「悪いが他の奴を──」
「おおい、シュラ、ここか!?」
眠気と戦うアフロディーテの言葉を遮って、良く通る、でかい声が響いてきた。同時に、どかどかと豪快な足音も近付いて来る。
「……丁度良かったじゃないか」
「……素直にそう言えないところが辛い」
眠そうな表情のままにやりと笑むアフロディーテに対し、シュラは片手で顔を覆い、はあ、と深く息をついた。その間にも、豪快な足音はどんどんこちらに近付いている。
「あー、やっぱりここか! おいシュラ、手合わせする約束だろうが!」
勢いよくドアを空けたのは、ミロである。10年の時を経て、あんなに小さかったのが嘘のように背が高い。僅かにシュラの方が高いが、殆ど変わらないくらいだ。
アイオロスとサガという年長組が居なくなってから、ミロはよくシュラにくっついてくるようになった。
参謀職を任されているデスマスクは冗談抜きで忙しく、じゃれつく以前に捕まらない。アフロディーテはのらりくらりと躱すのが上手いので、自動的にシュラにお鉢が回ってきたというわけだ。貧乏くじとも言う。しかも親友でありいつも一緒に居たカミュが弟子を取ってシベリアに行ってしまってからというもの、それは一層ひどい。
小さい頃は身体の小ささもあってまるで駆け回る子犬のようなミロだったが、こうして大きくなってそれが変わったかというと、全くそうではなかった。すくすくと育った彼は、常に全力疾走な、人懐っこい超大型犬のような17歳になっている。
愛嬌は十二分だし素直でもある、しかし、自分と同じ大きさの大型犬におかまいなしにじゃれつかれるのは、気が乗らない時は非常に辛い。おまけに17歳という年頃のミロは、一般的なハイティーンの若者の例に漏れず、急成長した身体や体力を持て余していて、落ち着きのない事と言ったらない。
「約束って、先週「今度な」って言っただけだろう」
「今度なと言って仕事に行って帰ってきたんだから、今がその「今度」だ!」
今度こそ勝ってやるぞ! と張り切りまくっているミロに、シュラは若干うんざりした表情を返した。ミロと接する時の、彼のお決まりの表情でもある。
かわいい弟分と思っている事は認めるし、面倒を見てやる気もある。しかし時々、思いっきり首を絞めてやりたくなる時がある。それが、シュラにとってのミロだった。
しかし、そんなシュラを目の前にしても、ミロは満面の笑みである。伸びかけてはいるがまだ短い金髪も、妙にきらきらしていた。
小さい頃から、小宇宙なしの格闘で、ミロがシュラに完全に勝てた事は未だない。そして未だその打破を諦めていないミロは、何かとシュラに訓練という名の勝負を挑む。とはいっても、シュラも相当な格闘好きであるし、彼のレベルでいい勝負が出来る者など黄金聖闘士同士の他に存在しないので、シュラも大概はそれを受けるし、楽しんでも居る。
しかしミロは、いつ如何なる時も度が過ぎるのである。彼の背はシュラを越える事はなかったが、ウェイトは既にミロの方が上で、スタミナに関しても若干ミロが勝る。そんな彼の「もうひと勝負!」の繰り返しに付き合うのはかなりハードだ。
そこで、一度こてんぱんに負ければ暫く自主練に没頭して落ち着きも出るだろう、と、シュラは先月、ミロと勝負をした。「負けたら坊主頭」というその勝負にミロはしっかり負け、ただ坊主になるだけならまだしも聖剣でそれをやられるという、恐怖の散髪を体験した。
さてこれで少しはへこむだろうと思ったのだが、それもまた無駄に終わった。坊主になってもまだ金髪の根元がきらきら光る頭で勝負を挑んできたミロにシュラが唖然としていると、「自主練より組み手のほうが成果が出るし楽しいだろう」と堂々と言ってのけ、シュラは頭を抱え、周囲はそんな彼に同情の視線を送った。
もちろんミロも馬鹿ではないので、きちんと断れば諦める。しかし輝くような笑顔で「もとの用事は蹴って俺といようぜ!」と堂々と言い切られてしまうと、シュラに限らず、いつの間にかミロの言うことを聞いてしまうのである。
聖域に来たのは一番最後、実際に年齢も一番下であるので、ミロは黄金聖闘士の中でも正真正銘末っ子であるのだが、この性格により、そのポジションは完全に「我が侭放題のくせに妙に憎めない末の弟」、これに尽きた。
「ほら行こうぜ、飯食ったんだろ、なあ!」
「あ────……」
アフロディーテのベッド脇にしゃがみ込んでいるシュラの肩を引っ掴み、ミロはがっくんがっくんと揺さぶった。シュラはもはや遠い目をしている。
「ミロ、シュラは日本に行くそうだよ」
「ほお」
アフロディーテが言うと、ミロは目を丸くして頷いた。いちいち表情が豊かである。
「私は任務帰りで眠いんだ。代わりにシュラの足になってきてくれ」
「いいのか!」
やった! とミロが諸手を上げた。テレポート要員を同行させ、浮かした飛行機代で美味いものを食べて帰るというシュラの秘密を知っているからだ。そして足になる代わりにおこぼれに預かっている彼らは、シュラのそんな秘密を告げ口する事はない。
「ああ。何かご馳走してもらっておいで」
アフロディーテが言うと、ミロは大喜びで離宮を出て行った。プロテクターのついた訓練服を、街に出られる服に着替える為だ。
「そうそう、もちろん私にも土産を忘れるなよ、シュラ」
「…………」
「じゃ、行ってらっしゃい。おやすみ」
これから待ち受ける大型犬との散歩の大変さに気が遠くなっているシュラを尻目に、アフロディーテは勝手な事を言ってさっさとベッドに潜り込み、あっという間に寝息をたて始めた。
交通費はちょろまかしたが、スーツは本当に合わなくなっているので、揃えねばならない。シュラはミロを連れて、アテネまで出た。
「……アルデバランを誘おうと思っていたのに」
持参のシャツの上から、まだしつけ糸がついたままのジャケットを羽織りながら、シュラは試着室越しにぶつくさ文句を言った。
元々大柄だったアルデバランは予想通りの巨漢に育ったが、その穏やかな質はちっとも変わらず、むしろ年月を経るごとに懐が広くなっており、誰に対しても人当たりが良い。シュラは昔からそんな彼の事を気に入っていたが、自分が教えた居合の知識でアルデバランが技を完成させたことをきっかけに、一層彼を目にかけている。
「あっ、またシュラのアルデバラン贔屓が始まった。……というかそもそも本人の前で言うなよな」
自分にはまだ縁のないスーツのトルソーやマネキンをきょろきょろと物色していたミロは、唇を尖らせた。
ジーンズにTシャツ、古着のレザージャケットを着たミロは、髪が短い事でいっそう街中に溶け込んでいるものの、その妙に愛嬌のある仕草によってどうしても人目を惹き、特に女性の視線を自然に集めている。彼女達が刺激されているのは、主に母性本能と言うやつだ。
「お前がアルデバランくらい落ち着きがあって、聞き分けがよくて、謙虚で、無駄に声がでかくなけりゃな」
鏡を見ながら、シュラは淡々と言った。スラックスに脚を通す。
「何だよ、邪険にしてさ。俺だって可愛い後輩なんだから、もうちょっと優しくしてくれたっていいだろ」
軽く眉を顰め「ちぇっ」とか何とか言っているミロに、試着室脇で待機している女性店員が表情を蕩けさせているが、シュラは生憎と男で、しかも散々ミロに苦労させられている。「自分で可愛いと言う奴が可愛いわけあるか」と冷徹に評価する声が試着室から響いたと同時に、シュラは試着室のカーテンをシャッと開けて姿を見せ、絨毯敷きの個室から出て革靴に足を突っ込んだ。
「……ああ、裾、大丈夫でいらっしゃいますね」
他の候補のスーツを持って待機していた女性店員が、まったく床に着かないシングルカットの裾を見て、惚れ惚れとした様子で言った。
「良かったです。また裾が足りなかったら、他がございませんでしたから」
「けえっ」
女性店員が言い、ミロが舌を出した。
店員がわざわざそのことを確認したのは、これの前に試着したスラックスの裾が足りなかったからである。他はピッタリだったものの長さが足りないという事態に、彼女は店中の在庫を探しまわって、今彼が着ているものを見つけて来たのだ。
マネキンが着ていたものの裾を下ろしてやっと合った濃いグレーのパンツを見て、店員はホッと息を吐いた。
背が高く、生来肉がつきにくい体質を改善するため、極限まで食べて極限まで鍛えるという事を繰り返したシュラは、非常に引き締まっている。正確に測った事などないが、体脂肪率は間違いなく一桁台だろう。ウェストから尻までのラインはシャープで、そしてテレポートが使えない故に鍛えられた俊足を発揮する脚は文句なしに長い。しかも胸囲と肩幅があるので余計にその長さが強調される上、センタープリーツが綺麗に入った新品のスラックスは、その長さをまた強調していた。ここまですると嫌味ですらある。
「ジャケットのほうも、それで?」
「ああ……。まあ、こんなものだろう」
こちらは、胸囲のせいでワンサイズ上のものだ。身体にピッタリ合っているとは言い難いが、封筒の中の金額と相談した結果、仕方が無い。
そもそも、格闘家だとしてもかなりのレベルで鍛え上げている聖闘士に既製品で間に合わせようという事自体に無理があるのだ。シュラに限らず、胸囲や腕、太腿などのせいで、S・M・Lの単純な基準で服を選べる者など、聖闘士には滅多に居ない。聖闘士達が用もないのに聖衣を着用していたり、訓練服や昔ながらのキトンをよく着ているのは、聖域内だからという理由と同時に、単に市販品で合う服がなかなかない、という理由も大きいのだ。
「ではこれで。あとネクタイだな、選んでくれ」
「よろしいので?」
「頼む」
ただ目を合わせてそう言っただけである。微笑みすらしていない。
しかし頼まれた店員は、頬を紅潮させ、嬉々としてネクタイ売り場へ小走りに駆けて行った。
ミロのような愛想など微塵もないし、そもそも鋭すぎる顔立ちが強面すぎるせいで、端正ではあるものの、シュラは女性から声をかけられる事はとても少ない。しかし一対一になった時の打率は8割を超えるという事を、ミロは「あいつ、刺されて死ねばいいと思う」という妬みの混じった評価とともに、アフロディーテから教えてもらった。
しかも口説き文句を一切使わず、まさに目で殺すようにする手腕を使うというのも聞いてはいたが、先程の様子を見るにどうやら信憑性の高い情報のようだ。
「……口説くなよな〜」
「口説いてない」
「何を。わざと目合わせたくせに」
「違うな」
半目になって指差してくるミロに、シュラは悪そうな顔でフンと笑った。
「ああいうのは、“靡いた”と言うんだ」
刺されて死ねばいいと思う、とミロは生暖かい笑みを浮かべながら思う。
そしてシュラは女性店員が気合を入れて選んできたネクタイを締めると、支払いを済ませて店を出た。
「俺も行く!」
「ふざけるなよ」
輝くような笑顔で言ったミロに、シュラは苦虫を噛み潰したような顔で応じた。
あの後、空港でユーロを日本円に換金し、そのまま飛行機には乗らず、人気のない通路から、二人はミロのテレポートで日本まで飛んだ。
テレポートは、同行者が一人増えるごとに、二倍四倍と疲れるものだ。しかし黄金聖闘士であり、また超能力が割と得意な方であるミロは、ギリシャから日本までひとっ飛びしても、然程疲れた様子は見せていない。
いきなり姿を消したり現したりするテレポートを行なう際は、一般人の目につかない場所でというのは、鉄則である。しかしミロは日本に行った事がないので、東京の人気のない路地を正確に選んで転移などという事はさすがに出来ない。そんな事が出来るのはシャカくらいだ。
だから着いたのが東京ではなく山梨と埼玉の境目、関東山地・秩父の山奥でも、シュラはむしろちゃんと人気のない場所であっただけ上等だ、と頷いた。これが新宿だの浅草だののど真ん中だったら、目も当てられないことになる。
二人はその脚力で、県境にもなっている山の中を東に駆け、奥多摩方面から東京都に入った。そして青梅を越えて立川、そろそろ人目が多くなってきた辺りで、電車に乗り込む。
人気のない道を選んで人ならざる脚力で全力疾走するのと、マフィア映画に出てくるような強面と海外ホームドラマにアイドル出演していそうな少年がJRに乗るのとどちらが注目を浴びるかという事については難しい所だが、シュラはその手段をとった事をいたく後悔した。
「お前は17にもなって、静かに電車にも乗れんのか!」
滅多に乗らない電車、しかも日本のものにはしゃぐミロを、シュラは常にセーブするはめになった。まず最初に自分が切符を買いたいとはしゃぎ、ホームではきょろきょろと視線を彷徨わせ、座席から見える景色に興奮しという有様だ。
「ただでさえお前は目立つのだから、少しは大人しくしていろ!」
シュラは常にそう言ったが、ミロもまた、「シュラには言われたくない」と応じた。
目元が鋭すぎる事を本人も自覚しているので、シュラは街中に出る時、サングラスを愛用する。その心掛けは彼のあきらかに一般人でない眼光を遮断する事に確かに成功しているが、彼の容姿で鋭いのは眼光だけではない。長身なだけでなく格闘家並みにガタイの良い外国人、さらにブラックスーツにサングラスと来れば、もう目つきが鋭いとか鋭くないとかいう次元の問題ではないのだ。
はしゃぐミロに向けられる多くの視線は主に観光客の外国人に向けられる、しかもどこか暖かいものだ。そしてシュラには確かに注目は集まっていない、集まっていないが、それはむしろ「目を背けられている」と言った方が正しい。
ミロだって、シュラが衿を正す為にジャケットに手をかける度、周りの人間がビクッとするのを見て、「拳銃なんか持ってないぞ!」と言ってやりたくなるのを堪えていたのだ。
──五十歩百歩。どっちもどっちである。
ともかく、乗り換えの駅のホームで「これ以上騒いだらここから徒歩」とシュラに軽く説教されたミロはいくらか大人しくなり、二人は東急東横線で、日本の高級住宅街の代表格である田園調布まで辿り着く。
そしてこれから城戸邸まで徒歩、というところで、シュラはミロに、この辺りで適当に時間を潰しておくようにと言った。が、そこで、ミロがまた駄々をこね始めたのである。「自分も行く」と。
「俺そういう仕事した事ないからさ、見学したいんだよ」
ミロはあからさまに目を輝かせている。
ミロを始め、年少組の黄金聖闘士たちも、もちろん任務を与えられて仕事をこなしている。しかしこういう、相手が企業などの社会的組織でしかも武力を必要としない任務には、シュラとデスマスク、アフロディーテが担当することになっている。そういう任務が、聖域の運営に深く関わるもの、すなわち彼らの最大の秘密に関わってくるものだからである。
建前としては、まだ17歳の彼らにスーツを着せて企業訪問に向かわせるのはさすがに無理があるから、という理由を掲げている。しかし建前といえど、これもまた事実である。
だからこそ、ミロはシュラ達のこういう任務にいたく興味を持っている、ということらしい。17歳という年齢は、大人に憧れる時期でもある。スーツを着てすいすい電車に乗り、書類に目を通しながら世界最大のコングロマリット企業に出向く先輩の姿に憧れを持ってしまうのも、仕方のない話だろう。
とはいっても、シュラ自身は、身体に微妙に合わない安スーツを着て交通費節約に電車を乗り継ぎ、取ってつけた内容の書類に目を通すという、何とも貧乏臭い自分の風体に、仕事といえどうんざりしているのだが。だからこそ、飛行機代をちょろまかして美味いものを食うぐらいは大目に見て頂きたい、というのがシュラの主張だ。
「なあ、いいだろ、何だったら手伝うからさ」
「お前が俺の何を手伝う」
シュラはうんざりと言ってやったが、ミロはやはりへこたれなかった。
「何だって手伝うさ!」
煌めく笑顔である。
シュラにしてみれば大人しく外で待っていてくれるのが一番の手伝いであるのだが、この様子だとそんな理屈は通じないだろう。
「……小遣いをやるから、どこかで待っ」
「いやだ」
鞭では駄目かと飴も持ち出してみたが、無駄に終わった。語尾に被せる勢いで即答したミロに、シュラは頭を抱える。犬だって「待て」が出来るのに、なぜこいつはそれが出来ないのかと。
そして同時に、ここまでテンションが上がってしまったミロを街中に放り出すのは危険かも、とも考えた。いくらなんでも一般人と喧嘩を始めるような真似はしないだろうが、無駄に正義感の強いミロの事である。街のチンピラまがいに真っ正面から注意喚起を試み、悪気なく大騒動を起こすなどという展開は十分すぎるほどあり得る話だ。
そしてそういう色々な想像に背筋が冷たくなったシュラは、この世の苦労を全部背負い込んだような顔をしてため息をつき、とうとう言った。
「……わかった」
ミロは、太陽のように輝く笑顔を見せた。
幸いにも、今回の任務は自分たちの最大の秘密に直接関わるものではない。会話を聞かれるぐらいは構わないだろう、とシュラはい(・)つ(・)も(・)通(・)り(・)に、結局折れたのだった。
「いいか、余計な事はするなよ」
「うむ」
連れて行く以上しっかりと言い聞かせておかねばならない、と、シュラは封筒の中身の書類をミロに見せながら、今回やることについて説明した。全くもって難しい内容ではないので、説明するのも理解するのも簡単だ。ミロは、ふんふんと興味深そうに聞いている。
しかしどこか楽しそうな様子の彼に不安が募るシュラは、噛んで砕くように、ゆっくり、しかも繰り返し言う。
「ともかく、大人しくしていろ。いいというまで喋るな。そして勝手に出歩くな、物を壊すな、無闇にきょろきょろするな、それから」
言い方は違うが何度も同じことを繰り返すシュラに、ミロは不満げに眉を寄せた。
「それぐらいわかってる。……まったく、シュラは俺をなんだと思ってるんだ」
「犬」
「いぬ!?」
即答したシュラにショックを受けたミロが叫んだとき、そこはもう、グラード財団の本部であり城戸光政の私邸の正門前だった。