第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
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 教皇宮は、いつも静かだ。
 10年前のアテナ暗殺未遂事件──と表向きなっているあの出来事から、教皇宮に勤める者たちは入り口でチェックを受け、そして滞在時間も全て予めシフト制で定められている。
 またアフロディーテが新しく開発した魔宮薔薇、その蔓を、双魚宮から教皇宮まで満遍なく延ばした。彼の小宇宙によって育った薔薇に何かあれば、すぐにアフロディーテが察知することができる。簡易であるが、監視カメラのようなものだ。それにこの魔宮薔薇は、アフロディーテが小宇宙を送ることによって瞬時に階段全てを覆うまでに大増殖して毒香を発し、いざという時の強固な足止めにもなる。
 これらの対応の全てには、建前として「より完璧にアテナを守る為、身内にも気を抜かない」というもっともらしい理由を掲げてはいるが、もちろんその真意は、教皇の正体を隠す為である。その上でも、十二宮最後の砦・双魚宮の守護者が味方である事の意味は、彼らにとってとても大きい。
 三人は、脱走者の逃亡先や聖域を利用した神官達の資金ルートを調べる傍ら、彼らや女官達を少しずつ教皇の間に呼び出した。サガによる、幻朧魔皇拳をかける為だ。術をかけられた彼らは、サガが目の前に立っても老人にしか見えては居ない。
 しかし、神官や女官と違って実際に人間が死ぬ場面によく直面する雑兵や聖闘士に対し、幻朧魔皇拳だけでは心許ない。そのため、念には念を押し、「聖戦が近付いている」「老いが激しい」などの理由を付けて教皇への謁見自体を少なくし、どうしても謁見が必要な際には、サガは翼龍の兜とともに女聖闘士のものに似た仮面も装着し、厳重に正体を隠している。
 しかし、その正体は25歳の青年であるサガであり、毎日引き籠ったままでいるのは、精神的にも肉体的にも無理がある。そのあたりは腹心である三人が気を利かせ、教皇の慰問のどさくさに紛れて外に連れ出したり、また人払いをした密談と見せかけて飲み会を催したりしてフォローしている。
 聖域の改革のため精力的に活動する反面、彼らは必死でその裏側を隠す事を余儀なくされていた。

「山羊座カプリコーンの黄金聖闘士・シュラ、教皇様からの召喚に応じて参りました」
 教皇宮に足を踏み入れてから、予め定められたルートを通り、その間に設けられた7つものチェックゲートを抜けて、教皇の間に辿り着く。既に人払いがされているので、教皇の間の前に、儀仗兵は居なかった。
 シュラは、そのまま自分で扉を開けた。
 返事は待たなくてもいいことになっている。青年の瑞々しい声は、どう聞いても老人のものには聞こえない。万がいち幻朧魔皇拳のかかっていない者が近くに潜んでいてサガの声を聞かれたら、面倒なことになりかねないからだ。
 バタン、と扉を閉めると、脇に飾られた薔薇が、風もないのに僅かに揺れた。アフロディーテの魔宮薔薇はこうして常に扉の横に飾られ、部外者が来れば毒香を発するよう、結界の役目を果たしている。
 ──“Sub rosa”.
 このラテン語は、直訳で“薔薇の元で”、意味は“秘密”である。古代や中世に置いては、薔薇は秘密の象徴として用いられた。薔薇の元で行なわれるのは、秘密の逢瀬、密談だと相場が決まっており、英語では“Under the rose”、秘密を意味する慣用句として辞書にも載っている。
 そして、毒薔薇によって守られた秘密を彼らがこうして共有して、もう、10年になる。



「──? なんだ、アンタか」
 テレパスで話した時は違ったのに、と、シュラは執務室の大きな椅子に腰掛けた黒髪の青年を見て言った。机の上には、様々な書類やら帳簿やらが広げられている。
 25歳になったサガは、すっかり働き盛りの大人の男である。むしろ常にオーバーワークのために時々浮かぶ隈や、既に眉間に常駐している縦皺が、何もしていなくても「ご苦労様」と言いたくなるような、若干気の毒な感じの貫禄を彼に与えている。
「何か文句があるのか」
「いや、別に」
 なんせ、どちらもサガなのだ。最初はどう受け止めて良いのか混乱したものだが、今では三人ともが、頻繁にプラチナブロンドになったり黒髪になったりするこの上司を正しく理解し、上手く付き合っている。というより、そうでなければ、この特殊かつ危うい状況でここまで精力的で順調な改革活動を行えるはずがない。
 そしてシュラは、いきなり喧嘩腰な発言をした黒髪のサガに、どうも今回の任務は厄介なものであるらしい、と察知した。サガがどちらの状態かで、下してくる任務がどういった系統なものなのかが大体わかるのだ。
 プラチナブロンドの時のサガが下すのは聖域の施設の改装だとか、インフラストラクチャー整備、聖域に住まう者たちへの福利厚生に関わる、主に内務。難しいものでも潜入調査くらいだ。そして黒髪の時のサガが口にするのは、暗殺などの物騒で攻撃的な任務が多い。
 しかし、暗殺や粛清の任務の際はにやにやと好戦的な笑みを浮かべているのが常なのにこうしてひどく不機嫌そうであるという事は、それがサガにとって相当忌々しいものであるということだ。
「本当はデスマスクにやらせたいのだが──」
 サガは、いらいらと言った。
 そのサガの発言から、シュラはその内容が調査任務である事を知る。
 とにかく機転が利いて要領がよく、またその特殊な能力によって証拠の残らない死因を作れるデスマスクは、潜入調査や、その上での暗殺にとても向いている。
 暗殺といえば、どんな科学捜査でも検出できない小宇宙による毒薔薇を操るアフロディーテもエキスパートであるが、サガがデスマスク、と名指ししたという事は、やはりその任務は暗殺ではなく捜査であろう。
(面倒だな)
 自分に向かない任務を任せられるらしいその予感に、仕事とはいえ、シュラも少し憂鬱になる。
 斬撃という、どこまでも物理的で証拠の残る力を持つシュラは、規模の大きい、例えばいち組織の殲滅などに向いている。人とは思えぬ力で人間をきっちり5センチ間隔の細切れにし、あるいは建物ごと1ミリのずれもなく真っ二つにしたりできる彼の力は、聖域に対してよからぬ企みを持つ組織や団体に対する見せしめや威嚇にうってつけだ。もちろん繊細な任務も出来ないわけではないのだが、あまり適材適所とはいえない。
「お前は使い勝手が悪い」
 さっきは万能だと言ったくせに、ひどい言い草である。
 別人格と斬り捨ててしまえばそれまでであるが、一つの肉体の中にいる彼らは記憶も全て共有していて、その点で間違いなく同一人物だ。とどのつまり、気分で言う事が全然変わる性格、それが極端だというだけの話だ、とシュラ達は理解している。要するに躁鬱かと思うが、どちらも躁とも鬱とも言えないので、難しい所だ。
 ともかく、そんな性質の人間の言葉にいちいち振り回されていては始まらない──ということをここ10年で否が応にも学習したシュラは、淡々と言った。
「そんな事を言われても、あいつにnanny役を任せたのはアンタだろうが」
「仕方が無いだろう。コーマの聖衣はエトナにあるのだ」
 眉間の皺を全く和らげる事なく、サガは言った。
 デスマスクは三年ほど前から、弟子を二人持っている。
 ひとりは日本人、ひとりはイタリア出身の少年だ。そしてその二人はイタリア・シチリア島のエトナ山、あの日シュラがアフロディーテに手を引かれて向かったあの小屋で暮らし、デスマスクに師事している。
 黄金、白銀、青銅のどれにも属さないという髪の毛座コーマの聖衣がエトナに眠っているということが判明してから、サガはそれを手中に収める事を決めた。魔神テュポンを封じ込めるまでの力を秘めたコーマの聖衣、そしてその装着者を後々味方に引き込むことが出来れば、と考えたのである。コーマの聖衣が本当にエトナに安置されているのかどうかについては、既にデスマスクが現地で確認している。
 そしてサガがスターヒルにて星見を行なった結果、候補生志願者としてやってきた盟という日本人の少年に、その宿星が認められたのだ。
 更に、コーマの候補者はエトナにて修行するのが最良、と星見の結果でも文献でもはっきりと書かれていた為、自動的に、師匠にはデスマスクが選ばれた。そのおかげで、サガが教皇になってから、彼の参謀として、そして有能な諜報員として非常に多忙だったデスマスクは更に多忙になることになり、シチリア・エトナと聖域をテレポートで毎月、いや毎週、下手をすれば毎日往復している。
 あのデスマスクが子供の教育など出来るのかと最初は全員が不安がったが、なんだかんだで面倒見の良い彼は文句を絶やさないながらも、同時に世話を焼く事も欠かさず、実に順調に弟子を育てていて、その意外な様を、こうして時々『Nanny』と称してからかっている。
「日本に行けと言われたが」
 居ないものは仕様がない。シュラは軽くため息をつき、用件を話すよう促した。
「東京だ。グラード財団の動向を探ってこい」
 ここ何十年かで急成長し、世界でもトップの業績を誇る巨大コングロマリットの名である。最初金融業を行なっていたが、まず最初の十年で業務関係のある会社を合併という名目で吸収を繰り返し、そして大きくなった会社の事業部を子会社化し、また次いで企業の買収などによって全く異なる業種に多数参入し、現在までの地位を築いた。
 そしてこのグラード財団を身一つで興した城戸光政という男の商才は、最早天才というにも言葉が足りないほどであろう。もしかしたら、ある程度の小宇宙に目覚めていたという可能性も充分考えられる、というか、事実そうなのだろう。デスマスクがそうしたように、小宇宙という力の行き先は、戦いだけではない。スポーツ、芸能、また政治など、それぞれの分野で飛び抜けて才能ある者たちというのは、小宇宙に目覚めたからこそのその活躍ぶりなのだ。持って生まれた商才を目覚めた小宇宙によってフル回転させ、それによって成功した者がいても何ら不思議ではない。
 そしていま世間で注目されているのが、グラード財団がここ10年ほど、手当り次第と言っていいような忙しなさで様々な異業種を買収・吸収している事だ。
 ひとくちに買収・吸収と言っても、どういう場合であっても異業種参入というものは決して簡単ではなく、下手をすれば吸収した会社が足枷に転じて結局収益が悪化する、ということも全く珍しくはない。しかし城戸光政は、今までよりも更に凄まじい才をまるで爆発させるかのように発揮して新規企業を非常に上手く吸収し続け、これ以上ないシナジー効果を得て財団を巨大化させた。
 城戸光政は二年前にこの世を去ったが、生前彼が残したチームによって、今もそれは続けられている。
「……グラード財団というと」
「そうだ。候補生志望として100人もの子供を提供してきた組織でもある」
「ああ……、覚えている」
 機嫌の悪そうな顔のまま言ったサガに、シュラは頷いた。
 サガの言う通り、3年ほど前、グラード財団は初めて聖域にアプローチをかけてきた。──自らが経営する孤児院の子供100名を候補生志願者として提供するという、異例の行動によって。
 聖闘士の訓練における子供の死亡率は、10年前の場合30パーセント以上にも登る。これは、外界で最も子供の死亡率が高い、アフガニスタンやアフリカ系後進国などをも上回った数字だ。現在は上下水道の整備、また配給ルートが整ったことによる衛生面での劇的な改善により、感染症などの死因が払拭されて20パーセント以下にまで下がったが、それでもまだまだ第三世界レベルを脱しきれていない。
 そしてそんな場所に子供を差し出して来るという行為は、神へ生け贄を捧げる行為に等しい。さらにそれが一気に百人とも来れば、異常という他ない。
 聖域の存在を知る外界の団体は、全てが百年単位の歴史を持つ旧家やそれに似た組織である。そのため、ここ数十年で急成長を遂げたグラード財団はもちろん今まで一切関係がなかった。だが社会的地位を上り詰める事によって聖域の存在をうっすらと知る、というのは自然な流れであり、また自分も聖域と関係を持ちたいと思うのも当然だろう。
「忌々しい。未だ半分近くの子供の行き先がわからん」
 サガは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
 彼が忌々しいと吐き捨てたのは、そのグラード財団が、教皇であるサガたちではなく、外界に潜伏している脱走者たちからのルートで接触を図ってきた事による。
 サガたちは10年前から上下水道の工事や補給ルートの確保に力を入れてはいたが、同時に、神官達と外界の癒着についても目を光らせていた。しかしこれが、大変難しい案件だった。
 ただ神官を頸にしたり、あるいは殺してしまえばいいとかいう、簡単な話ではないのだ。そんなことをしたら外部に逃がされた候補生崩れが今どうしているのか、またどういった活動をしているのかがわからなくなってしまう。
 よってサガたちは、神官達が逃げ出さぬよう、こちらが癒着に気付いているという事を気付かれないように、その上で少しずつ尋問せねばならなかった。そして尋問の後はあの最初の男のように“ドラコン”の刑を下す。これもただ殺すのではなく、もっともらしい罪状を用意しなければならなかった。
 こうして神官達の資金ルートを少しずつ暴き、そして暴いた先へデスマスクを派遣する事で、サガは神官達にばれないよう、その資金ルートを自分たちのものにした。
 教皇の使者としてやって来た本物の黄金聖闘士に今までの神官達との癒着を指摘された取引相手は、縮み上がった。最初はふてぶてしい態度を取る者も多少居たが、それこそ黄金聖闘士の力をデモンストレーションしてやればいい。雑兵崩れの脱走者達による小宇宙の闘法だけでも人間技ではないと思っているのである。黄金聖闘士のそれは最早比べ物にならず、彼らにとってはまさに神の所業だ。彼らは直ぐさま腰を抜かしてひれ伏し、今まで関係を持ってきた神官たちを簡単に裏切った。
 そして脅すだけでなく、更に聖域との正式な契約を囁けば、彼らはデスマスクの指示通り、神官達と今まで通りの関係であるように見せかけ、サガたち教皇側に彼らの情報を流すようになった。
 そのようにしてひたすら慎重に神官達との駆け引きを続けてきたのであるが、どうしても完璧にとはいかない。教皇が自分たちのやっていることに気付き調査を進めていることを察知し抜け出した神官の何人かは、外界に潜んで逃亡生活を続けていた。これがまた厄介で、小宇宙に目覚めた候補生や雑兵崩れであればまだ探しようもあるのだが、小宇宙など微塵も発現していない神官達を一般人の中から探すのは不可能に近い。
 そしてそういう者たちが、外界でまた同じように金を得ようと、グラード財団に誘いをかけたのだ。彼らは勝手にグラード財団と契約を結び、金を受け取り、各地の修行地に適当に100人の子供達を散らばせ、また逃げた。殆ど詐欺である。
 いきなりやってきた子供たちに驚いた各地の責任者達からの問い合わせによって、サガはそのとんでもない事態を知った。
 手当り次第に集められ、最低の環境の中、否応無しに地獄のような修行を課せられ死んでいく子供達の数を減らすことは、サガが教皇として名乗りを上げた際のマニュフェストの一つである。
 だからサガは、新しい候補生スカウトの際、非常に慎重な適性テストメニューを実施させ、少数精鋭の候補生達を集めた。最初に選り抜いただけあって、怪我によるリタイアは出たものの、彼らの死亡率は2パーセント以下。生き残った者は現在白銀聖闘士として資格・聖衣とも得て任務を任せられるようになっている。
 基本的な身体能力だけでなく、動物を操れる、またサトリの法などの特殊技能の片鱗を持つ者を積極的に集めた結果、現在の白銀聖闘士達は、まだ大半が14、15歳程度ながら、非常に有能だ。
 そして、この一斉白銀聖闘士育成を実施する前に白銀聖闘士になった琴座ライラのオルフェとケフェウスのダイダロス、二人とも弱冠16歳ではあるが、オルフェには若年の白銀聖闘士達のリーダーとしての役目を、そしてダイダロスは聖域が所有する修行地の代表であるアンドロメダ島に派遣し、新たにまた選り抜いた候補生達の育成を任せている。こちらの育成状況も、最初からある程度の見込みのある候補生であることと、そしてダイダロスが教育者として非常に優秀であることから、リタイア数は極端に低い。聖域に置ける中堅聖闘士として、彼らはとてもよく働いてくれている。
 そうして新たな聖闘士の育成にも熱心で細やかに気を配っているサガなので、聖域の名を笠に着て事実上の人身売買が起きたその事態に、何もしないわけがない。各地に飛ばされた子供達を出来るだけ取り戻してこい、と、どちらのサガともが同じく命じ、デスマスク達三人だけでなく、他の黄金聖闘士もその任務に奔走した。
 だが、聖域からきちんと聖闘士や聖闘士資格保持者が派遣されている正規の修行地ならまだしも、神官達が取引先に聖闘士崩れを派遣する為に独自に作った違法の修行地の中には、修行地とは名ばかりで、そのまま人身売買の商品として売り出されてしまう場すらあった。
 サガは全力でそのルートを探し出し、そこに売られた子供達を見つけられるだけ見つけて取り返してきたものの、そういった場所に送られたらしい子供の行き先のいくつかは未だ不明のままだ。今も引き続き調査は進めているが、めぼしい情報はつかめていない。
 何人かは適性テストを受けて合格した為そのまま候補生として訓練を受けているものの、20人にも満たない数である。しかも、救い出したはいいが適性のない子供は、神官達から奪ったルートで様々な施設に預けた。グラード財団に送り返したらまた何をされるかわからない、と考えたからだが、この費用もなかなか馬鹿にならないばかりか、取引先を仲介した事で借りを作ることにもなってしまった。
 資金、労働力と時間のロス、また取引先との関係の上でも損にしかならない、「無駄な手間」としか言いようのないこの一件は、ただでさえ聖域の改革で忙しいサガたちを非常に疲れさせた。
「だが、グラード財団とはもう話がついたんじゃないのか?」
 当時の苦労を思い出したのと単純な疑問を込めて、シュラが若干眉を顰めながら言った。
 行方のわかる子供達を全て回収し終わった頃、サガはもちろんグラード財団に使いを出した。救い出して施設に預けた子供達に関しては、死んだ、と伝えてある。無駄かもしれないが、城戸光政の罪悪感を煽り、また負い目を感じさせる事でこちらが優位に立つ為と、もし行方がわかった場合、口止めの為に子供達をまたグラード財団の施設に引き込もうとするかもしれない、それを防ぐためだ。いくら世界一の巨大企業といえども、100人の年端も行かない子供を人身売買してその大半が死んだとなれば、大スキャンダルどころでは済まない。
 そしてその際、神官達が教皇の意に反する者であったとは知らなかった、そして修行地がそこまで命に関わる場所だとは知らなかったという弁明を受け、これから正式に関係を結ぶ事として、いわゆる示談が成立した。
 だが城戸光政が百人もの子供達を取引の材料としたこと、事実上の人身売買を行なった事は事実である。そのため黒髪のサガは城戸光政を殺害することも提案したが、世界トップの超巨大企業であるグラード財団の代表が突然いなくなってしまえば、世界経済全てが混乱しかねない。それに城戸光政は既に老い先が短く、実際、二年前に既に病によって他界している。
「話がついた──そう、そのつもりだったとも。しかしあの集団は、やはりどうもきな臭い」
「今のはジョークか」
「黙れ」
 皮肉ったシュラを、サガはぎろりと睨みつけた。
 きな臭いと言えば、彼らもまた、十分すぎるほどきな臭い。
 現在こうして聖域を治め、数々の実績・功績を上げているとはいえ、シオン教皇を暗殺して成り代わり、アイオロスを陥れて追放した上でそうであることもまた事実なのだ。良く言えば神であるアテナの元での絶対君主国家廃絶を謳い、人間という単位でのアナキズムを主張した革命者だが、しかし同時に、正真正銘のテロリストでもある。
(正義とは)
 よくよくあやふやなものだ、と、正義の神の名を持つ青年は、皮肉っぽく口の端を吊り上げた。あの日から、サガの掲げた正義を見守り、そして見極めると言ったものの、正義というものを考えれば考えるほど、それがいかにあやふやで正体のないものかという事を実感するばかりであった。
 そしてその上で、シュラはサガを正義だと、今ははっきりと思っていた。

 ──どれだけ、救えたか。
 ──どんなに、与えたか。

 ここ10年の間、様々な経験を経てシュラが導き出した正義は、それに尽きた。
 結局の所、シュラが重く見るのはやはり結果だった。そしてサガは、最初に掲げた思想とマニュフェスト、公約を有言実行で申し分なく実行し、多くの命を確かに救い、人々に多くのものを与えている。
 サガという男が行なう正義は、シュラにとって、間違いなく正義だった。
「いいさ。俺にとっての正義はこちらだ」
「ふん」
 肩を竦め、笑ってすらみせて断言したシュラに、サガはしかめっ面のまま鼻を鳴らし、椅子にどっしりと背を預けた。
「……で? グラード財団の何がきな臭いと?」
「何も要求して来ない」
 サガは、端的に言った。機嫌のいい時はまるで舞台上の役者のようにべらべらと喋るくせに、機嫌の悪い時は始終こんな具合である。
 だが彼の言葉を説明するとつまり、100人もの子供を人身売買という生け贄に捧げてくるまでの事をしておきながら、グラード財団は聖域に対して何の要求もして来ないのだという。
 最初は、知らなかったとはいえ神官経由で教皇の手を盛大に煩わせた事で遠慮をしているのかと思っていたのだが、あの出来事からすでに三年、しかも城戸光政がこの世を去った事で、グラード財団も色々とてんてこ舞いであるに違いない。そうなれば聖域の超人的な力を借りたいと申し出てくるのが普通の流れだというのに、彼らはあの時の詫び料、示談金と称して定期的な献金を淡々としてくるばかりで、全くもって、聖域に何も要求しては来ない。
「……確かに、妙だな」
 シュラが唸る。
「城戸光政が死んだ後、グラード財団を引き継いだのは、城戸沙織という娘だ」
「サオリ……女か?」
「今年で10歳になる孫娘だそうだ。名義上だけの話で、実際の経営は城戸光政が生前残したチームが行なっている」
 サガは頬杖をつき、反対の手の指で、椅子の肘掛けを忙しなくトントンと叩いた。
「そうか。それで?」
 シュラがそう言った途端、サガの眉間の皺が二倍になった。
「ええい、これだからお前は使い勝手が悪いのだ。一与えたら一にしかならん。少しは自分で考えろ、脳味噌を回転させろ。十とは言わんからせめて二か三ぐらいにはしてみせろ」
「苦手でね」
 蛙の面に小便。
 まさにそんな風情で、シュラはまた肩を竦めてみせた。
「ああ、ああ、知っているとも。お前は馬鹿の一つ覚えのように、ぶった斬るしか脳がない」
「返す言葉もない」
 またもけろりとしたものである。こういう時のサガにまともに反応していては、こちらの精神衛生上よくない。シュラは既にそのことを熟知しており、そして単に言われ慣れてしまって本気で堪えてもいない。
 聖闘士、しかも黄金聖闘士と来ればまともな神経ではやっていけない。よって、自分たちの頭のネジが生まれつきどこかしらぶっ飛んでいるのは、強大な力を持つことに耐える為の自然の摂理なのだ、とシュラは自覚している。
 何事も、ただ沢山のネジを締めて補強すれば良いというものではない。暴れまくる中身を仕舞う入れ物をネジでガチガチに固めていては、壊れた時にむしろ悲惨なことになる。ネジを緩めて衝撃を逃がすようにしていた方が、却って順調に保てる事もあるのだ。
 その辺り、サガは人間としてまっとうにきちんとネジが締められていたからこそ、今こういうことになっているのではなかろうか、と、シュラはデスマスクやアフロディーテというネジがぶっ飛んでいる者同士で話したことがあるが、あながち外れては居ない分析だと思う。
「では聞くが、その馬鹿の一つ覚えが、役に立たなかったことがあるか?」
 ふふんと好戦的に笑ってやれば、サガは半目になった。
「役立たずならさっさと殺している。使い勝手が悪いと言っているのだ。──ああ、もういい」
 サガは傍らに積まれた膨大な書類の中から、紐で封がされた茶封筒を取り出した。受け取って確認すると、その中身は現在修行中の、グラード財団提供の候補生達の資料だった。
「……SEIYA、HYOGA、SHIRYU、SYUN……」
「それを持って行け。……面会理由としては少々苦しいが」
 つまり、「そちら様から預かっているお子様の様子をご報告に参りました」というわけだ。確かに、売り飛ばした子供の様子を伝えるというのは無理があるが、「何もご注文を受けておりませんが、何かお力になれませんか」と悪徳セールスまがいの用件で向かうよりは遥かにましだ。
「それと、……IKKI、という子供の資料があるだろう」
 指示されて探せば、確かに、幼いながらも根性のありそうな面構えをした少年の資料がある。
「おそらく神官どもの用意した修行地に飛ばされたのだろうが、その行き先は未だ不明のままだ。……もう三年経つからな。命がある可能性は低いが……その修行地を見つけ出す事自体は意義がある」
「その調査も兼ねろと」
「そういうことだ。では、行け。三日以内に帰って来い」
「わかった」
 シュラは頷いて、それから右手を差し出した。サガが眉を顰める。
「何だその手は」
「飛行機代」
 サガは、頭を抱えて突っ伏した。シュラはテレポートが使えない。そしてギリシャから日本への往復の飛行機代を一瞬にして弾き出す。頭痛がしてきた。
「あとスーツ代。グラード財団相手でこの任務内容なら、私服も聖衣もまずいだろう」
「スーツなら一昨年買ってやっただろうが! 任務用に!」
「もう入らない」
「お前はどこまででかくなる気なんだ……」
「安心しろ、もう止まった」
 元々背が高かったシュラだが、18歳あたりまでじわじわと身長は伸び続け、今では186センチになっている。しかしそれよりも、鍛えに鍛えた挙げ句の体格変化の方が顕著だ。昔の華奢さが嘘のようである。全体を見るとスラリとしているのだが、胸などは厚い。
「ああわかった、それは出してやる。しかし飛行機代は……くそ、もう走って行け。ギリシャからシチリアまで一日で行けたんだろう?」
「途中の海越えはアフロディーテのテレポートを使ったんだが」
「泳げ」
 凄い事をけろりと言ったが、シュラもまたあっさりと頷く。
「ここから日本までならまずユーラシア大陸を東へ一直線に横切って、韓国の釜山辺りから日本海を泳いで福岡辺りで挙がって、東京まで徒歩だな。どうしてもというなら構わんが、なんせ地球を半周近い距離だ、辿り着くだけで一週間はかかるぞ」
 テレポートが使えない身で世界中に出向くだけあって、シュラはやたら地理に強い。
「飛行機なら、一番安い便のエコノミーでも、往復で1300ユーロ位か?」
「…………」
「税抜きで」
「税金」
 サガが大嫌いな言葉である。むしろ徴収したいくらいだというのに。
 机に突っ伏した己の前に飄々と立っているシュラを、サガは凄い目でぎろりと睨んだ。
「……これだから! お前は! 使い勝手が悪いというのだ!」
「好きでテレポートができないわけじゃないんだが」
 こればかりはシュラもムッとして、苦い表情をした。努力次第で何とかなるのなら惜しまないし、実際シュラも散々努力はしてみた。しかし押しても引いても才能の欠片も見当たらなかったのだから、こればかりはどうしようもない。
「俺はどっちでもいいんだ。時間を取るか金を取るか、さっさと決めてくれ」
「くっ……」
 サガは思い切り気が乗らない風な動作で、机の下の金庫を乱暴に開け、中から紙幣をいくらか取り出して封筒に詰めた。
「時は金なりだな、サガ」
「黙れ」
 シュラの胸元に怨念を込めて封筒を叩き付けたサガは、「さっさと行ってしまえ」と彼を執務室から追い出した。
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BY 餡子郎
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