第11章・Fürchten machen(怖がらせ)
<1>
 天気のいい、午後である。

 離宮はとても静かで、動く者は誰も居ない。
 十二宮の本殿はほぼ全て、ギリシア建築の歴史の中で最古のものであるドリス式の石柱によって建てられているが、磨羯宮は本殿だけでなく離宮ともがそうだった。高さに比して太く、柱礎となる台座を欠いて直接基壇の上に立つドリス式の柱は、素朴で重厚・男性的な風情を醸し出している。
 本殿のほうは十二宮設立当時の設計図が正式に保存されているので、壊れる度にきちんともとの通りに修復される。しかし守護者の生活の為の施設である離宮は「壊れたら守護者が適当に直して使う」ということを繰り返しているせいで、明らかに建て増しな二階だの、一般ギリシア家屋のように漆喰の壁や瓦屋根部分だのがある。骨組みや基本の作りは伝統的な小神殿なのであるが、どこも全体的にごちゃごちゃした風情をしていた。
 具体的に言えば、壊れた箇所が古代の正式なやり方ではなくセメントだの漆喰だので埋められていたり、守護者の趣味でタイルアートが施された部分があったり、厨房や風呂だけ現代的だったりするわけだ。
 そして磨羯宮の離宮もまた、例外ではない。玄関のドアは明らかに新しく、一体何があったのだと首を傾げるような大穴が漆喰と赤煉瓦で塞がれている箇所も珍しくないし、家具はと言えばセラミック家具すら置いてある。そしてそんな風情が、何とも言えない味を生み出していた。
 離宮には、機能しなくなって久しい世界遺産パルテノンのような侘しさもなければ、現役で正真正銘の神殿である本殿のような、ズンとした神々しさもない。しかし数百年、もしかしたら数千年の間、代々の守護者の生活の場として常に機能している離宮は、そういう生活感溢れる所こそが「味」であり、守護者達がそれぞれ愛着を感じているポイントだ。
 時代によっては従者が沢山居たこともあるので、離宮はどこも部屋数が多い。しかし磨羯宮は現在、守護者の一人暮らしである。
 そしてその守護者はといえば、必要最低限の部屋しか使わず、その他の部屋の手入れを全くしていない。
 窓枠には鳥が毎年勝手に巣を作っているような有様で、また離宮は全て中庭がついているのだが、かつて真っ赤な花が咲き誇っていた磨羯宮の中庭は、ただ好き放題に捻れて伸びた樹木や名前のわからない草花が茂っている。そこから伸びた手入れをしていない蔦が、離宮の壁に沿って這っていた。
 何も変わらないのは年季の入った井戸と、おそらく数百年前にあった小屋らしきものの残骸。しかしそれにもすっかり蔦が巻き付いていて、そこから張った縄にも黄緑色の若い蔦が手を伸ばしているが、ぞんざいな干し方の洗濯物がいくつか、おかまいなしにそこに翻っていた。
 そして伝統的なギリシアの邸宅と同じく離宮の中心であり、ヘスティア女神が御座すという台所と広間リビングと中庭は繋がっている。成人男性が二人手を広げても足りないほどの大きな鎧戸がついているので雨天の時は閉め切るが、中庭を眺めながら食事を取る事も出来る。
 その鎧戸の脇、中庭と広間を繋ぐテラスのような場所に置かれた大きな寝椅子、半分がちょうど太いドリス式石柱の影になって日差しを遮るその場所で転寝をするのが、守護者の気に入りだ。
 以前は飛び乗っても平気だったのだが、今は腰掛けるとギシリと悲鳴を上げるようになった寝椅子に、そろそろ買い替えるべきかという提案と長年の愛着の狭間で迷いながら、もう何年になるだろうか。
 脚を伸ばしてもまだまだ余っていたスペースは今、ぎりぎりの場所に踵が乗っている。

 暖かく乾いた風が、眠る男の頬をするりと撫でた。



《──シュラ》
「……サガ?」
 頭の中に静かに響いてきた声に、シュラはうっすらと目を開けた。
 琥珀色の目はますます鋭く、少年の頃の頬や唇の柔らかさはすっかり削げ落ち、くっきりとした面差しはシャープで男性的だ。「将来はさぞ精悍な強面になるだろう」という皆の予想は、ドンピシャリ外れなかった。
 身長はとっくに6フィートを超え、細かった身体はがっしりと力強く成長し、また極限まで鍛えられ、固く厚い頑強な骨と肉が逞しい。

 二十歳を迎えたシュラは、すっかり青年になっていた。

「……ああ、お早う」
 寝起きだからか余計に低い声で返事をして、シュラは腹筋の力だけで上半身を起こすと、寝椅子から下りた。寝起きの良さは相変わらずである。寝椅子の古い脚がギシリと気の毒な悲鳴を上げるのを聞いて、「やはり変え時か」という毎度の考えがシュラの頭を過る。
「何だ、仕事か」
 超能力が不得手であるシュラは、テレパスは出来るものの、それほど得意でもないので、初心者がするように、実際に声を出してやり取りをする。端から見れば見えない誰かを相手に会話をしている風なので相当不気味だが、その方が格段に楽なのだ。もちろん必要とあらば、シュラも思念だけで会話出来る。しかし他の者よりも集中力、すなわち小宇宙を使うせいで起こる会話後の軽い頭痛を出来るだけ味わいたくないので、シュラはやはり声に出してテレパスを行なうのが癖だった。
 中庭の井戸まで行くと、水を汲んで顔を洗う。顔に触れると、少し髭が伸びかけているのがわかった。シュラは欠伸を噛み殺しながら側に干された洗濯物で顔を拭いたが、伸びかけた髭にタオルの繊維が引っかかって、僅かに顔を顰める。面倒なので剃らないで行こうかと思っていたのだが、髭にタオルの繊維でもついていたら間抜け極まりない。後で鏡の前に行かなければなるまい、とシュラは面倒臭そうに頭を掻き、広間を通って台所へ向かう。
《ああ、頼みたい》
「了解」
 返事をしつつ、テーブルの上にあったバタールを引っ掴み、冷蔵庫──という名の、扉の着いた石の棚を開ける。もちろんコンセントなどついていないが、棚の天井にガムテープで貼付けた小さな氷の欠片が充分な役割を果たしている。しかしそろそろ効果が切れそうなので、ひとつ上の宮の守護者が今度シベリアから帰って来たら、また欠片を貰って来なければならない。
 丸のままのバタールの端を口にくわえ、冷蔵庫の下段にあった籠から片手で卵を四つ、もう片方の手でベーコンの塊を掴んで取り出すと、足で冷蔵庫の扉を閉める。あまり格好はつかないが、どうせ誰も見ていない。シュラは卵を調理台に置いて、空いた手でキャンプ用の固形燃料を塗った小さめの薪を台所の竃に放り込むと、パチンと指を鳴らして火をつけた。
 小宇宙を操る聖闘士の様々な隠し芸は、こうして不便な生活の助けにもなる。おかげで電話も冷蔵庫も然程必要ない。というより、そうでなければ、昇降するだけでも軽く登山の規模となる十二宮で暮らす事などできない。
 だが炎に関しては未だ固形燃料と薪の世話にならざるを得ないため、氷の聖闘士が居るのに炎の聖闘士はいないのか、とシュラはもう何度思ったか知れない事を考えながら、ベーコンの塊に人差し指を沿わせると、ほんの僅かに小宇宙を集中し、手際よく三枚削いだ。幅は、おそらく定規で測ってもきっちり3ミリ。大きなベーコンの塊から、まるで付箋が剥がれるようにぺろりと肉が削げる様はとても不思議だった。どんなに良く研いだ包丁でも、こうはいくまい。
 しかしシュラは何でもないようにそれをやってのけると、炎の上に鉄のフライパンをガンと置いて、オリーブオイルを少し流し込む。良い香りが広がった。
《帰ってきたばかりなのに、すまないな》
《──忙しいのはお互い様だ》
 口がバタールで塞がっているシュラは、思念だけで返事をした。
 火加減を調節しながら、ベーコンをフライパンの上に並べる。肉が焼ける小さな音とともに、ベーコンの何とも言えず食欲を誘う香りが充満してきた。順調にフライド・ベーコンになった肉の旨味と塩分がオリーブオイルに染み出してきた頃、卵を四つともフライパンの上に割って落とす。焼けたフライパンの上で、ジュウッ、と卵が大きな音を立てた。すかさず、熱されたオイルが白身を泡立てて震えているのを見ながら、水差しの水を少量フライパンの淵から流し込んで蓋をする。
 そして油と水が盛大に弾き合っている音を聞きながらもう一度冷蔵庫を開け、未だバタールを銜えたまま取り出したのは、マヨネーズとクリームチーズ、クランチ入りのピーナッツバター。そしてもう片方の手には、既に井戸で洗ったレタス、トマト、それにセロリ。
 このセロリは、聖域で採れたものだ。葉、茎、根、実、種などほぼ全ての部分を食用にでき、古代ローマ・ギリシャにおいては整腸剤、強壮剤、香料として利用されたこの野菜は、今でもこうして作られており、聖域で口にする機会は多い。
《お前が何でもやってくれるものだから──》
 サガは、言葉を区切った。「何でも」の前に「何も聞かずに」という言葉を挟むべきかと迷ったからだ。
 あの日サガの正義のためにその剣を振るうと約束したシュラは、どんな命令だろうが、先程のように「了解」と返事をする。それは忠実な軍人・猟犬のようで、上司にとっては非常に勝手が良い。また、正義の神の名を持って聖剣を振るい、「お前の正義を見極める」と宣言した彼が唯々諾々と自分の言うことを聞くことは、サガの自信や安心にも繋がっていた。
《……つい、色々頼んでしまう》
《俺はそんなに万能じゃないぞ》
 シュラはマヨネーズとバターとチーズをテーブルに置くと、口に銜えたバタールを、口元から10センチ程度の所で切り落とす。銜えていた方は、ひとくち齧ってテーブルへ。
 切り落とした大きい方のバタールに縦半分の切り込みを入れ、今度はレタスを千切り、開いたパンに突っ込む。パンをテーブルに置いたら、次にトマトをきっちり1センチ間隔でスライスして、セロリを縦半分にした。セロリは中心線をずれる事なく真っ二つになり、トマトは果肉が漏れる事なくスライスされている。シュラに限っては、包丁もまた無用の長物だ。
「……いや、万能かな」
《は?》
「何でもない」
 見事に切られた食材をやや満足げに見て言ったシュラにサガが不思議そうな声を出したが、シュラは構わず、縦半分に切って二つになったセロリのうち、片方の窪みにバターナイフでピーナッツバターを詰め込み、もう一本に同じようにクリームチーズを詰めると、片手の指に二本とも挟んで、端から交互にばりばり食べ始めた。セロリの独特の青みとともに広がるピーナッツの香ばしさ、チーズのねっとりとした濃厚さが、味覚と同時に嗅覚も刺激する。
《もしかして、食事中か》
「食事中で料理中だ」
 また聖剣で料理をしているのか、と、サガが呆れた声を上げた。
「手は洗ってる」
 そういう問題ではない、という突っ込みは、もう既に全員が放棄している。
 デスマスクの悪党ぶりやアフロディーテの自由さが派手なので見逃しがちだが、シュラもよくよくまともではない。デスマスクの言葉を借りれば、「ネジがぶっ飛んでいる」。少なくとも、つい昨日謀反者を十五人斬ったその剣で食べ物を切って口に運ぶ神経は、間違いなく普通ではない。そして文句を言いつつも、彼がそうして作ったものを口にしたことがある自分たちも、また。
 そしてシュラは油と水が喧嘩する音がやや小さくなったのを見計らい、フライパンに被せた蓋を開けた。水気がなくなったフライパンの中には、蒸気によってやや柔らかくなったフライド・ベーコンと、油の熱と蒸気で火が通り、程よく半熟の目玉焼きになった卵が四つ。
 丸々一本セロリを食べ終わったシュラはフライパンを持ち上げて、開いたバタールの上に構える。緑のレタスと赤いトマトの上に、脂で光る薫製肉と、濃い黄身をした四つ目の卵が乗せられた。
 シンプルながらも色彩鮮やかなその上に、シュラは更にマヨネーズを太く一直線に絞り出してバタールを閉じ、はみ出た卵を指で中に押し込んでからかぶりついた。
「で、どこに行けと?」
《日本だ》
 また冷蔵庫を開けたシュラは、牛乳を取り出した。ヨーグルトが切れているのを忘れていた事に気付く。レーズンもない。舌打ちしながら扉を閉めた。
 出来たてのバタールサンドをがしがしと豪快に食べながら、咀嚼したものを牛乳で流し込む。齧ったサンドの断面は、半熟の黄身が脂まみれのベーコンと歯ごたえのあるレタスにかかり、トマトの真っ赤な果肉から溢れる黄緑色の中身がマヨネーズと混ざって蕩けて光っていた。
「日本。珍しいな」
《ああ、少々気になることがあってな……。詳しい事はこちらに来てから話す》
「日本食食ってきていいか?」
 間髪入れずに言ったシュラの台詞は、「経費で」という言葉が省略されている。
「旬のサシミが食いたい。あと、サケ。日本酒」
《…………》
 サガは溜め息とともに、相変わらずのシュラの食い道楽っぷりに呆れた。
 シュラは任務を与えて聖域から出すと、必ず何かしら名物だの旬のものだのを食べ、時に土産を抱えて帰って来る。聖剣で粛清任務を果たした帰り、同じくその聖剣で肉や魚を捌いたものを勧められるのは、飼い猫がぐちゃぐちゃになった獲物を見せびらかしにきてウッとなる感覚に似ているような気がする。
 そして最初はそれに閉口したものだが、今では慣れてしまっているのが恐ろしい。むしろ、本当は二十代半ばでありながら正体を隠しているため老人扱いされ肉を口にする機会が少ないサガには、正直有り難いおすそ分けだ。
 それに、聖闘士は給料はおろか、はっきりした報酬を得る事がない。聖闘士に限らず、聖域の全ての人々の生活は自給自足と神官が取り仕切る配給によって成り立っている。この現状にデスマスクなど文句たらたらだが、サガは未だ彼らに給料らしいものを支払えては居ない。
《……ああ、構わない。だが程々にな》
 なので、その代わりに、アフロディーテの新しい薔薇の苗の仕入れや巨蟹宮の台所の改装などの要求は聞いてやったし、シュラの毎度の食べ歩きに関しても黙認している。いや、帳簿を見て「やっても大丈夫」と勝手に判断しデザイナーズのオーダーキッチンを購入したデスマスクや、薔薇の苗の領収書をいきなり突き出してくるアフロディーテに比べれば、事前に許可を得るシュラは随分ましな方だ、とサガは思う事にしていた。
「了解」
 シュラは思念を切断すると、最後のひとくちを口に突っ込んで咀嚼し、牛乳を全部飲み干した。そして最初に切り落とした、歯形がついたほうのバタールの切れ端にピーナッツバターとストロベリージャムを塗りたくり、それを食べながら、髭を剃る為に洗面所に向かった。






「料理長」
 カプリコーンのパンドラボックスを左肩に背負い、無人の宝瓶宮と反応のない双魚宮を抜けてきたシュラは、厨房の窓に頭を突っ込んで声を張り上げた。昔は身体全部通り抜けられた窓だが、今は肩が通らない。
「チョコレートが食いたい」
「開口一番それか」
 窓から突き出している黒髪の頭に、トニは全く変わらない迫力の眼光をぎろりと浴びせた。あれから十年だが、その丸太のような腕もノコギリでも切れなさそうな首も、全く変わっては居ない。ただ少し髪が薄くなったような気がするが、以前指摘したら無言で皿を下げられたので、二度と言わない事にしている。
「できればホットチョコレート」
「朝っぱらから甘ったるいもん食いやがって」
「叶うならチュロスも」
「贅沢言うな」
 そう言いつつ、トニは小さめのマグに牛乳を注ぎ、床下の保冷蔵から板のミルクチョコレートを出して三分の一ほど割って入れると、手早く湯煎にかけた。
「だいたいてめえ、飯食ったんじゃねえのか」
「食った」
 40センチのバタール丸々1本、玉子4個、セロリ一本、トマト3個、レタス4分の1玉にベーコン3枚、更にマヨネーズにピーナツバターにジャム、牛乳500cc、そのあとオレンジジュースも飲んだ。
「が、足りん」
 さらりと言ったシュラに、トニ料理長は呆れ返って半目になった。
 聖闘士は、総じて健啖家である場合が多い。そのカロリー消費の割合がどのぐらいなのかなど誰も知らないが、小宇宙を燃やすという行為は、かなりの燃焼を伴うらしい。
 もちろん、逆に何日も食べずに過ごすという事も、小宇宙によって可能となる。しかしそうしない場合、何もしていない状態で常に小宇宙を身体に纏う“黄金の器”たる黄金聖闘士は、基本的に燃費が悪い。コントロールが下手で小宇宙を身体に留め置く術をよく分かっていなかった頃など、一日に5食6食でも足りないと喚くのは珍しくなかった。だからシュラの食事量も、黄金聖闘士であるということを鑑みれば、何ら特別な事ではないのだ。
「聖域の金欠はお前らが原因じゃねえのか、とたまに思う」
 食器を仕舞いつつ、抜かりなくチョコレートをかき混ぜながらトニが言った。否定できないのが辛い所だ、とシュラは眉を寄せ、困ったような笑みを作る。
 以前は顔一杯に広がっていた笑顔は、もうそこにない。そして、くっきりした濃い眉と唇が薄い口元が僅かに歪むだけのその笑みは、かつてのシュラにはなかった表情だった。
 トニはそんなシュラに、出来上がったホットチョコレートを突き出した。ありがとう、とシュラはそれを受け取り、厨房に突っ込んでいた首を戻し、壁にもたれ、熱々のチョコレートを少しずつ飲む。十年前から使っているカップは、以前これを両手で持っていたとは思えないほど小さかった。
(しかし、物持ちが良いな、俺は……)
 カップといい寝椅子といい、壊れそうでなかなか壊れず、結局ずっとこうして使っている。そしてそういうものが側にある事で、シュラは自分の変化をこまめに自覚した。
「……美味い」
 カップの底に柔らかいチョコレートの塊が残ったホットチョコレートは、スペイン人にはお馴染みの飲み物で、シュラの好物である。これにチュロスがあればスペインの朝食の代表メニューとして完璧なのだが、一人暮らしで揚げ物はやりにくいので、滅多に口にする機会がない。
「……チョコレートなんざ、前は聖域じゃありえんかったがな」
 むしろ砂糖でさえ貴重品だった、とトニはぼそりと呟いた。
 十年前のあの日から、サガが着手したのはとにかく資金の確保と、聖域内での生活基盤の整備だった。
 聖域での死亡率は相変わらず外界の比ではないが、少なくとも、餓死という死因はもう皆無と言っていい。“下”の者たちの食料は毎日きっちりと量が決められて配給が行なわれ、自給自足の為の畑の土壌には、アフロディーテが長年小宇宙を送り続けたバラ園の土が少しずつ撒かれている。一瞬にして墓場を花園にしてしまえる小宇宙の恩恵を受けた畑は非常に優秀で、未だ不作の年はない。そして新設した牧場には、牛、羊、山羊、鶏などの家畜が飼われている。
 しかし、家畜の買い付けの際、仕入れる牛の種類について真剣に討論するサガとデスマスクは、正直珍妙極まりなかった、とシュラは回想する。どうやら乳牛が種類ごとで飼育方法が異なるため維持費がどうこうという話だったようだが、シュラとアフロディーテは蚊帳の外だったのでよく知らない。
 その他にも、サガの強い主張によって、聖域は様々な整備が行われた。

 そして最も大規模な整備が、聖域全てに引かれた水道である。

 以前は元々ある泉の水や、所々に掘ってある井戸水を使用していた。しかし泉の水は聖域中の人々が入浴し、また洗濯をし、その上で飲んだりするので、病気とその二次感染の一番の原因にもなっていた場所だった。井戸はいくらか無事であるが、激しい戦闘訓練の煽りを食らって内部が壊れ、濁った水しか汲めないものもある。そして問題なのは、そういう問題のある井戸もまた、背に腹は代えられぬとばかりに使用してしまっている事だ。
 一人“下”に何度も出向いていたサガは、この水回りの整備こそまずやるべきだと強く主張した。そして何とか溜まった資金を使い、大規模な水道整備を決行したのである。
 普通なら専門家を大勢集めて行なわなければならない大工事であるが、しかし、聖域でそのような事は出来ない。その為、彼らは自分たちで全ての設計と計画を行なわなければならなかった。
 サガが前から調べていた、過去の聖域とアテナイに実際に存在した水路の文献、またそれに目を通したデスマスクが、水道に関して優秀な歴史を持つローマの数々の水道を参考に足りない所をフォローした。
 主に参考にしたのは紀元前312年着工、ローマ最古のアッピア水道。アッピア水道の全長は約16km、水の温度上昇や蒸発を防ぐため、ほとんどの水路が地下を通るようになっている。ローマ水道というと水道橋が有名だが、実は基本的には地下水道で構築されている。どうしても通せない場所に水道橋を築き、水を通しているのである。
 そしてアフロディーテが井戸から小宇宙を込めた薔薇の根を伸ばし、大地に染み込む水を手繰ることで、彼らは聖域の地下を通る水脈を見つけることが出来た。それだけでなく、サガが調べ上げた数百年前の地下水路が見つかり、それによって工事は当初の予定より大幅に楽なものとなった。
 地下で発見した水源とそこから伸びる水路を整備・補強し、浄水槽に繋ぐ。さらにそこから、ローマ水路を参考にして最も資金をかけて作ったサイフォン式水路を通し、貯水槽へ。そしてそれを新たに作った共同水槽に繋いだ他、現在もあちこちに水道の端末を設置している。
 そしてもちろん、下水に関しても抜かりはない。万が一故障した場合、衛生面で最も被害をもたらす下水設備こそしっかりしていなくてはならないからだ。ヨーロッパにおけるかつてのペストやコレラなどの伝染病の蔓延も、し尿の処理を失敗した挙げ句の大惨事である。
 そのため、サガはあらゆる古代下水を研究し、また念には念を押す為に、水路学の権威と言われる教授が在籍する大学までデスマスクを派遣し、指示を仰いだ。デスマスクは当時14歳程度だったが、その機転により、聖域の存在をばらすことなく細かいアドバイスを受ける事に成功した。
 老教授はサガが独学で引いた水路図面にいたく感心し、またそれを理解しきった上で高度な質問を浴びせて来るデスマスク少年に是非大学に通うよう強く勧めたが──今でも、「あそこで大学に入ってりゃ、史上初の大卒聖闘士だった」と彼らの間で笑い話にされている。
 そして結局、一番頑丈かつ闘技場から遠く、故障の原因の少ない水路を数本選んで更に補強し、それのみで全てを賄えるように設計・整備し直すことにした。
 着工から完成までは、丸3年の月日を要した。しかし十代の少年数人、実質二人で計画したという事を考えれば、驚異的と言っても足りないくらいの速度である。いや、いっそお伽噺のような話だ。外界で口にすれば、間違いなく信じてもらえはしないだろう。
 また速度だけでなく完成度に関しても申し分なく、作り上げた水路は相当な働きをこなしている。下水を含めた水路を完成させてから今年で6年になるが、一度たりとも問題が発生した事はない。
 それに関しては、シュラの業績も実は大きい。シュラは設計には全くもってノータッチだが、どんな精密機械よりも正確に巨大な岩石を切り出せるシュラは工事の現場においての要であり、最初の数年はひたすら地下工事に明け暮れていた。
 このようにして、現在、聖域の“下”においては、水回りに関してもう完璧と言っていい設備が整っていた。
 そして清潔な水がいつでも使えるようになってからというもの、病人の数は半数近く激減した。また病人を抱えずに済んだ事により、労働力が増える。訓練で身体に障害を出して候補生から外れた人員に、自給自足の為の作業や管理の仕事を割り振った。
 医療関係のフォローに関しては、未だ何も対処は出来ていない。そのためいざ大怪我や素人の手に負えない病気が発生した時を考えるとゾッとするが、しかし病気の大きな原因となるものを完璧に防ぎ、また食料を始めとする補給ルートを確固たるものにした事で、聖域は十年前と比べると、荒んだ雰囲気は劇的に改善されている。

「……教皇は」
 ぼそり、とトニが呟いた。
「よくやっている、本当に」
「…………」
 料理長の重々しい評価に、シュラは黙ってチョコレートを飲む。
 窓から見える厨房には、大きな肉の塊がいくつかぶら下がっていた。壁に取り付けられた戸棚には調味料がずらりと並んでいて、塩とオリーブオイルと素材の味のみで何とか味の変化を付けていたトニの料理も、すっかり多彩な味わいを持つようになっている。壁際に積んであるのは、コーヒー豆の麻袋。そして先程からトニが磨いているのは、しっかりした銀色の調理具。
 どれもこれも、10年前はあり得なかった品だ。
「トニ」
「なんだ」
「これから出張。土産持って帰って来るから、料理してくれよ」
 チョコレートを飲みながら、シュラは笑む。今度のそれは、好きなものを口にしている時の率直な表情。こちらは十年前から変わらない表情を見て、料理長は湯煎に使った鍋を手早く磨いてフックに掛けた。
「……ああ。……気が向きゃあ、チュロスも作ってやる」
 そう言ってやると、シュラは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、フッと小さく笑った。その笑みがどんなものだったのかは、トニにはちょうど死角になってわからなかった。
「砂糖とシナモン多めで頼む」
 シュラはカップの底にへばりついたチョコレートの塊をきゅっと指で掬い、子供のように、指ごと深く口に突っ込んで舐めた。
「ご馳走さん」
 トニの方を見ないままそう言って、シュラは教皇の間へ向かう。ひらりと手を振った手のひらは太陽の光の逆光になって、まるで眩しく輝いたように見えた。
 もう誰も通れない窓枠に、チョコレートのカップがポツンと残されていた。
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BY 餡子郎
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