第10章・Fast zu ernst(むきになって)
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「──心は、決まったか?」
 玉座に座した彼は、目前に横並びになった三人を見渡した。
 三人とも、黄金聖衣と、足下まで届く白いマントを装着している。三人とはいえ、黄金聖闘士が揃っている様は壮観である。有無を言わせないその輝きに、サガは理由のない笑みを浮かべた。
「あんたや俺には、力がある」
 デスマスクが言った。刺々しく、しかし毒と同時に華もあるデザインのキャンサーに白い優雅なマントはどこか皮肉げな組み合わせで、しかし不思議に似合っていた。
「力のある方が勝ち、そして勝った方だけが我を通すことが出来る。……あんたが教えてくれた事だ、サガ。力こそ正義だと」
 あの時の林檎の甘酸っぱさ、そして指先のちっぽけな海と長靴。デスマスクはそんな記憶を反芻しつつ、膝をついて頭を垂れた。白いマントが赤い絨毯に見事に広がる。黄金の甲冑が触れ合い、星が鳴るような音が響いた。
「そしてあんたは女神をその力で排し、その力を見せつけた。……蟹座キャンサーの黄金聖闘士・デスマスクは、教皇となった貴方に従おう」
 そしてちらりと顔を上げ、唇を釣り上げて微笑んでみせる。細まった赤い目は黄金色にぎらぎらと輝いており凶悪だった。悪魔の笑みに、サガもまた唇を釣り上げる。
 悪魔は代価と引き換えに、あらゆる望みを叶える存在だ。その望みが何であろうとも、代価さえ払えば手を貸す事に躊躇いなどしない。それは神と真っ向から対立する存在のあり方であり、そして人間そのもののあり方だ。
 悪魔の取引、しかしそれは人間が人間とするものと何ら変わりはしない。金を払わない相手にパンを与える者が、この世にどれだけ存在するだろうか。
 それが悪だというのなら、自分は悪で構わない。サガもデスマスクも、その一点こそがお互いを同志と認める意思の要だった。地獄の底の血溜まりの色、ぎらぎらと光るお互いの赤い目を見合わせながら、彼らは笑った。
「──俺は」
 次に口を開いたのは、捻れた二本の角が雄々しく天を向いた山羊座の黄金聖衣を纏ったシュラである。野生の山羊そのもののしなやかなラインを描くカプリコーンの聖衣を覆う白は、厳しく、凛とした空気を作り出している。
「俺は正義の神・阿修羅の名を持ち、悪しきもののみを斬り裂くとされる聖剣を持つ、山羊座カプリコーンの黄金聖闘士だ」
 シュラの声は堂々としていて、どこにも怯むような所などなかった。絶壁に立つ野生の獣を思わせる琥珀色の目は、まっすぐにサガを射抜いている。その様にサガは少し目を見開き、そして歓喜と感心を滲ませた深い笑みを浮かべた。
「そしてお前は教皇となり、地上を統べ、神に抗うことを正義とすると言った」
 シュラの目が、ますます鋭くなる。触れなば斬れん銘刀の輝きを宿した黄金の輝きはただひたすらに鋭く、強い。
「……見極めろと言ったな、サガ。いいだろう、俺はお前が正義であるか、お前の側で見届けよう。お前の言う正義の為に、この剣を振るうとしよう」
 ──だが、と、シュラは一層鋭くサガを見た。
「俺は、実力もないのにでかい事を言うやつが嫌いだ」
 その声は、あらゆるものにどこまでも厳しかった。自分自身にでさえ。
「お前は、……そして俺は、こうして大口を叩いた。ならば何としてでも全うする事だ」
「もちろんだ」
 サガは、鷹揚に頷いた。
 シュラは一度ぎゅっと瞑目してから、柔らかさの欠片もない所作で膝をついた。キィン、と星の鳴る音ですら鋭く、つめたい。
「……山羊座カプリコーンの黄金聖闘士・シュラは、教皇の剣となろう。……しかし」
 顔を上げたシュラは、ぎらりと輝く目でサガを見た。
「阿修羅の刃は、常にお前の首にも突きつけられているのだと知れ、サガ」
「……良かろう」
 フン、とサガは鼻を鳴らし、不敵に笑んだ。するとシュラはやっとその目を伏せ、静かに頭を垂れる。するりと鞘に納まった刃は、嘘のように静かだった。本物の銘刀は、剥き身であれば何者をも斬り裂き、しかし鞘に納まる時は完全に静寂を守る。きっぱりと迷いのないその佇まいこそが折れぬ証であると体現した少年を前に、サガは素直に感嘆した。
 詩人ハインリッヒ・ハイネは「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」という言葉を唱え、彼の親友であるドイツの革命家、思想家カール・マルクスもそれに同意している。
 逆境、苦境、救いのない場に追いやられた人間は、とかく誘惑に走りやすい。そして肉体的なアプローチでの誘惑が薬物や酒という放蕩であり、精神的なアプローチでの誘惑が宗教である。宗教という『教典』があれば、自分の頭で考えて結論を摸索しなくても良くなるからだ。人間は宗教という名の麻薬に走り、思考することを放棄する。そしてそれは驚くほどに簡単で、洗脳という名の依存性は薬物中毒に引けを取らず強い。酒や薬に依存するように、人々は神に依存する。なくては生きられぬようになる。
 そしてサガは、シュラにその誘惑を施したつもりだった。
 アイオロスをその手で殺し、そして己に確固たる主張や考えなど何もないのだと指摘したその時、シュラはサガの思惑通りに狼狽えた。そしてそこにお前のせいではないと手を差し伸べ、またその先の道を示してやろうと微笑んでやれば、正義に迷った阿修羅の刃が己のものになるだろうとサガは考えたのである。正義を見失ったのなら、わたしが示してやろうとサガは彼に言った。
 しかしシュラは、その手を振り払った。
 彼は未だ自分の正義を持っていないのにも関わらず、こうして堂々とそれを撥ね付けたのだ。そればかりか、花を捨て、小さな音楽さえも葬り去って、こうして自分の前に立っている。
 己に対する異様なまでの厳しさとそれに耐え得る精神力、それは聖剣という能力を持つ彼を体現するものであり、……そして神話にある本物の阿修羅よりも凄まじいものだった。己を見失いただ戦いを繰り返すだけの鬼と成り果てた阿修羅と違い、この少年は、地獄の底に堕ちてなお、あえて自分を更に追いつめる事により、正気を失わずに真っすぐに立っている。
 全ての甘さを振り払い、ただ一本の刃のみを携えた孤剣の出で立ちは、まさに彼こそが折れぬ刃そのものであると言わざるを得ない気迫を放っていた。
 そしてそれは、正直な所、サガの期待以上だった。手に入れるならば見境のない鬼に堕としこみ、魔剣デュランダルとしてしか手に入れられぬだろうと思っていたそれが、聖剣としての輝きを失わぬまま己の手に入ったのだ。ならば自分の首を落としかねぬとしても、むしろ望む所だ、とサガは押さえ切れぬ笑みで唇を釣り上げる。
「……お前は? アフロディーテ」
 サガは、たった一人立ち尽くしたままの彼をちらりと見た。
 このアフロディーテという少年は、見た目の華やかさとは裏腹に、常にひっそりとした佇まいを崩さず、だからこそ全く読めない所があった。しかし、ただそこに咲く花が何を考えているのか知る事が出来るものなど、誰もいない。
「私は私の役目を常にわかっているんだよ、サガ」
 豊かな睫毛を、アフロディーテは優雅に伏せた。華やかな魚座の黄金聖衣に空気を含んだ白いマントがふわりと沿う様は何とも絵になる。
「私の守護する双魚宮は、教皇宮を除いて十二宮最後の砦。つまり私は殿しんがりだ」
 殿は、仲間を逃がして先に進ませ、自分は最後尾に残って迫り来る敵と戦いながら退却するという、戦争の中でもっとも難しい役目である。
 十二宮で敵を迎え撃つ以上、黄金聖闘士たちの戦いは、守る為の戦いしか好まぬというアテナのスタンス通りに防戦一方である。通常に殿には頭脳と武力、また極限状態で逃がす主を裏切らない忠誠心が必要になる為に軍の中でも最も信頼を置けるとされる者がなるが、十二宮の戦いに置いてもそれは同じである。主を守る最後の砦には、絶対に裏切らない強い殿こそが必要になる。
「アテナが既に居ない以上、私が守るのは貴方ということになる」
「そうだな」
「そして私の立ち位置は、常にこの二人の後ろだ」
 サガは若干緊張を覚える。それを知ってか、アフロディーテはサガを見た。おそらく二秒にも満たない時間だろう、しかしサガも“黄金の器”である。緊張によりどうしても高まる小宇宙の効果により、その二秒がひどく長く感じられた。
 デスマスクとシュラが頭を垂れた今現在の状況に置いても、彼は最後の砦である。彼自身が言う通り、いかなる意味でも常に二人の後ろに立っている彼は、デスマスクとシュラにとって信頼の置ける殿でもある。彼がサガに従わないと言えば、今跪いている二人がどういう形であれ揺れるのは確実だ。
「つまり私は常にこの二人の戦いを後ろに立って見守り、また二人が万がいち倒れ臥した時の最後の砦として戦わねばならない」
 跪いたままのデスマスクとシュラもまた、アフロディーテの言葉をじっと聞いていた。
 地面に根を張り、水や光を受けた分だけ美しく咲き、そして無遠慮に自分を摘もうとする者には容赦なく棘を刺す花々にとてもよく似た、この全てに平等な少年は、じっと状況を眺め、そして最後になって、がんとした姿勢でふさわしい評価を返す。
 そしてそれは、次々と手を考えて先を読もうと動くデスマスクや、とにかく目の前のものへ斬り込んでいくシュラにとって、心強いことであった。馴れ合いをしないアフロディーテはあからさまに彼らを助ける事はしないが、絶対にその後ろに立ち続け、彼らの全てを見届けるだろう。そしてもし彼らが倒れてしまったとき、彼は二人の行動を自分なりに評価し、評価次第では、彼らの代わりに目的を果たそうとするだろう。
 何が正しくて何がよくなかったのか、どうしてその行動をとらなければならなかったのか、そういうものを、アフロディーテは冷徹とも言える平等さで見極める。
 そういうアフロディーテが常に殿に居るからこそ、それが時に非情とも異常とも言えるような行動であっても、彼らは自分がこれと思った事を遠慮なく行なうことが出来るのだ。
「……私は、この立場を動くつもりはない」
 どんなに劣勢でも、どんなに理不尽でも、どんなことがあってもその場を預かり水際で仲間を救う事が本懐である殿、アフロディーテのがんとした声は、その役目に相応しい力強さを持っていた。
「言っただろう、二人とも。誰が悪で何が正義でも、私は途中で抜けるような付き合いの悪いことなどしないとも。──共犯さ、どこまでもね」
 にやりと笑ったアフロディーテは、ふわりと跪いた。舞い上がる白いマントは、さながら花びらが広がるようであった。
「魚座ピスケスの黄金聖闘士・アフロディーテは、貴方の座す玉座の目前、双魚宮をこれからも守り続けよう」
 広がるのは、薔薇の香り。優雅で軽やかな芳香と花びらを持ちながら地中深くに頑として根を張るその佇まいは、強いからこその美しさである。そして彼が操るのは儚くか弱い花々ではなく、猛毒を放ち心臓を刺す魔宮の華だ。

「我ら三人、いま目前に御座す教皇の御為、尽力致します」

 誰の口から出た言葉だったのか。
 いやそれは声ではなく、三人の身体から立ちのぼる黄金の小宇宙が示した意思が、そこにいる全員の小宇宙に共鳴した結果聞こえたものであったのだろう。声に出さずとも一丸となったそれに、サガは、押さえ切れぬというような笑いを浮かべた。
「……ふふ」
 目の前に跪く三人の少年こそが自分の駒であり、腹心の部下であり、また仲間である。そしてその頼もしさは期待以上であるようだ。これが笑わずにいられようか、とサガはますます唇の端を釣り上げる。
「よく言った」
 玉座から立ち上がっても、三人は下げた頭を上げる事はない。旋毛を見せる事の意味を、戦士として最高峰の力を持つ三人が知らぬはずはない。
「おまえ達はくだらぬ木馬の騎士である事をやめた、本物の革命の士だ」
 恐ろしく頭の回る悪魔と、決して折れぬ聖剣、そして毒を持った美の華。この三つが自分の『力』となったことに、革命を起こした男は素晴らしい高揚を覚える。
「ついて来るが良い、わたしの、私の同志達。すばらしい世界を見せてやろう」
 腕を、広げる。
 玉座の背後にあるアテナ神殿は既に廃墟。そして、星の丘には老人の死体が転がっている。無力な者たちが居なくなった今、玉座に座すのは力ある者、すなわち己だ。

「このわたしこそが、教皇! ──地上を統べる、真の力ある者よ!」
第10章・Fast zu ernst(むきになって) 終
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BY 餡子郎
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