第10章・Fast zu ernst(むきになって)
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 ──ふう、

 小さなそんな息とともに、アルデバランは持ち上げていたものを、そっと地面に下ろした。
 それは大きな石──いや岩で、アルデバランがここに来る途中で見つけて来たものだ。大きさだけでも大人五人程度で手が周るくらい、その重さは既に人力ではとても手に負えないだろう。しかしアルデバランは、これを今日で丸々3日間、持ち上げ続けてみせたのだった。
 力そのものがその小宇宙になるという原始的な能力を持つアルデバランに与えられたこの試練を、彼は見事果たして見せたのだ。
 そして彼が纏うのは、雄々しい二本の雄牛の角がついた、タウラスの黄金聖衣。
「…………」
 あとは聖域に帰ればいいだけなのだが、アルデバランはゆっくりと息を整えながら、下ろした岩を見た。そしておもむろに気合を入れてもう一度その岩を抱えると、慎重に山を下りた。

 アルデバランがやって来たのは、山の麓、街から少し外れた寂しい場所だった。
(……ああ、)
 ピイ──……と、名前のわからない鳥の声が響く。家や物も原色の色彩が多いこの国の空はいま、薄く雲が張ったぼんやりとした水色だった。
 アルデバランは目を細めてそんな空を暫く見つめると、ある場所にまた岩を下ろす。
 彼はその岩を見つめ、この歳にしては随分大きく分厚い手で、そっと、壊れ物でも触るかのように撫でた。──そしておもむろに小宇宙を集中させると、岩に指を滑らせる。彼が小宇宙を込めた指先は、まるでバターに切れ目でも入れるかのように、岩にその軌跡を刻んで行く。
 それは、いくつかの名前だった。
 アルデバランはじっと集中して、無言で、その作業を続けた。十人では済まない人間の名前を、彼はその指先で、黙々と巨岩に彫っていく。
 そして長い時間をかけて、彼は三十人程度の名前を彫り終わった。かつてここで暮らした、あの人達の名前。今だって、こうして全員の名前を間違えずに刻むことが出来る。
 その時、アルデバランは初めて笑みを浮かべた。
「字が書けるようになったんです、シスター」
 一番最初に書いた女性の名前にそっと触れながら、アルデバランは静かに呟く。他の子供より身体が大きく力自慢で、率先して重いものを運ぼうとする自分を褒め、そして悪いことをしたときは容赦なく叱った人。もう少し大きくなったら字をお勉強しましょうね、と言ったこの人の言葉は守られなかったけれど、自分は違う場所ですっかり字を書けるようになった。しかも、ポルトガル語とギリシア語の両方を。
 また遊ぼうね、一緒にやろうぜ、そんな言葉をどれぐらい交わしただろうか。そしてその全ては守られなかった。守れなかった。
「俺は、強くなった」
 アルデバランは一瞬笑みを消し、しかしすぐにまた笑んだ。今度は、苦笑。
 自分は、こんなに強くなった。きっと突進してくる戦車だって押し戻せるし、もしかしたら砲弾だって受け止められるかもしれない。
「でもやっぱり、きっと守れないときは守れない」
 いくら力があっても駄目なときは駄目なのだということを、アルデバランは深く感じていた。
 あの時彼らを守れなかったことを、アルデバランはずっと後悔し、そして自分を責め、神を呪った。だがいつの間にか、それが全部無駄なことであると、ふっと悟った。
「誰だって、死ぬときは死ぬ」
 それが彼が得た、残酷で、あっけない真実だった。いくら小宇宙を燃やしても、力があっても、きっと神でさえ、どうしようもないときはどうしようもないのだと。
「だから俺は、後悔だけはしたくない」
 どうしようもないときは、仕方が無い。しかし本当にそうだったかということも、誰にもわからない。だからその時自分が頑張っていればどうにかなったのではないだろうかと思わないように、アルデバランは精一杯の努力をすることを決めた。
「──“人に優しくしなさい”」
 自分達が、神への祈りよりももっと頻繁に言わされた言葉を、アルデバランは口にした。
「“悪いことをしたときはちゃんと謝って、何かしてもらったときは心からありがとうと言いなさい”」
 それはシスターが口を酸っぱくしてアルデバラン達に教え込んだ、独自の言葉だった。叱られるときも、褒められるときも、何かを諭すときも、自分達はこの言葉を言わされた。
「ちゃんと守っています」
 アルデバランは、自分がこの言葉を一度として破ったことがないことに、最近気付いた。そしてそれは、誰にケチを付けられようもないとても誇らしいことなのだ、とも。
「新しい仲間は、とてもいい奴らです」
 同い年の、しかも自分のように特別な力を持っている同い年の仲間達とは、既に毎日遠慮なく取っ組み合えるようになっている。年長の二人はとても尊敬できる存在だし、そして2、3年上の三人は個性豊かで、特に一人にはとても世話になった。
 力を得たのだと思えば今度はその力に振り回されて泣きべそをかいているアルデバランに、彼は色々してくれた。彼が恐ろしい料理長にアルデバランの修行を付けてくれるように頼み込んでくれたおかげで、もうすっかりジャガイモの皮むきは完璧にできるようになっている。そして彼から貰った居合の本のおかげで、持て余していた力の使い道も決まった。
 彼は、自分がやって嬉しいことはお前にもやってやりたいのだ、と言った。
 そしてアルデバランは、彼の言葉で、毎日シスターに言われていたあの言葉を思い出したのだ。そしてそれが真理であることも。
 彼は誰かが落ち込んだ時、赤い花と甘いケーキをくれる。それは彼の宝物で、しかし彼はそれを誰かに与えるのを惜しまなかった。大事な花を摘むことも、自分の分のケーキが減ることも構わず、躊躇い無くそれをやる。
 本人は、また花は咲くしケーキはまた食べられるというのだが、あの躊躇いのなさにアルデバランは最初、とても驚いた。しかも彼は全く見返りというものを期待していない。考えたことすらないかもしれない。実際アルデバランは彼に何一つ返していないが、彼は花が咲けば、ケーキが焼ければ、彼は必ずアルデバランを誘ってくれた。
 照れくさいので言ったことはないが、彼のそういうところを、アルデバランは実はとても尊敬している。
「……守れなくて、ごめんなさい」
 ぼそりと呟いた言葉は、ずっと言いたくて、しかし怖くて言えなかった言葉。
「でも俺、とても楽しかったです」
 だがアルデバランは今、なにひとつ後悔していなかった。あの時は、あのようにしかならなかった。そしてそれまで、自分達はやれることを精一杯やって、とても幸せだった。
「俺は、あなた達が大好きでした」
 突き詰めれば結局それが真実で、そしてそれはとても尊く何よりも大事なことなのだ、とアルデバランは既に結論を出していた。
「──さようなら」
 そしてくるりと踵を返し、アルデバランは、新しい自分の居場所へ戻るべく、駆け出した。自分の預かる、ギリシア・聖域黄金十二宮、金牛宮へ。
 金色に煌めく軌跡だけが、その場に僅かに残った。






 テレポートと徒歩を繰り返し、アルデバランは出掛けたときよりも若干短い時間で、聖域に戻ることができた。
 しかし戻ってきた彼を待っていたのは、仲間達の穏やかな出迎えの言葉ではなかった。
(──どうなっているんだ)
 常人とは比べ物にならないが、それでも黄金聖闘士としては鈍足なアルデバランは、それでも、全速力で階段を駆け上がった。

 アイオロスが反逆し、アテナを殺そうとして逃げたという。
 そしてシュラが討伐に向かい、彼を倒したのだという。

 何の冗談だ、と言えるものなら言いたかった。
 しかし雑兵達がいつもより多くうろつき、厳戒体勢に入った聖域の様子はそれが冗談などではないことを証明しており、誰もが口を開けばその話しかしない。
 白羊宮に、まだムウは帰ってきていなかった。そして金牛宮を抜け、それから先は全てが無人。がらんとした巨大要塞に、アルデバランはなにかぞっとするものを覚えた。



「──なんだ、……これ」
 磨羯宮を抜け、わかりにくい裏手に回って離宮に入ったアルデバランは、目の前の光景に、唖然とした。

 ──真っ赤な、中庭。

 玄関先で声を張り上げても出て来なかった守護者を探してここまで辿り着いたアルデバランは、植えてあった赤い花が無惨に飛び散った中庭に、呆然と立ち尽くした。
 最初は彼がとにかく手当り次第に植えたからだろう、綺麗に、とはいかないが、まるで自然のままそう咲いているかのようだった赤い花の低木は、一つ残らず引っこ抜かれ、満開だった花が地面に飛び散っている。
「何だよ、これ」
 飛び散り、千切られたことで咽せるほど濃厚になった蜜の匂いが、中庭じゅうに、いや離宮じゅうに充満している。
 真っ赤な花が地面が見えなくなるほど飛び散った様は壮絶で、一見して、血塗れなのかと見まごうたほどだ。
「何だよ、……おい、デスマスク!」
 アルデバランは、中庭とリビングの間にいつも置いてある寝椅子の上にデスマスクが腰掛けていることに気付き、彼に声を飛ばした。しかし彼はアルデバランに答えることなく、真っ赤な庭をじっと見つめているだけだ。
「難儀な奴」
 聞き取れるか聞き取れないかぐらいの小さな声で、ぼそり、と彼が言ったと思ったその時、アルデバランは奇妙な音を聞いた。
 ガリ、ガリ、と、何かを削るような音がする。
「──シュラ!」
 真っ赤な庭の、無惨に引っこ抜かれて放り投げられた木の影で、この宮の主はしゃがみ込んでいた。赤の群れの中に、黒い頭が見える。
「おい、シュラ」
 シュラは、中庭にしゃがみ込んで手を動かしていた。アルデバランの呼びかけにも答えず、血塗れのような赤い花の中で、彼は一抱えほどの石に、何かを掘っている。

 ──墓石だ。

 直感で、アルデバランはそう思った。つい先程自分も同じことをしてきたからかもしれない。しかし彼が掘っているのは、実に奇妙な墓石だった。
「シュラ!」
 あんなに大切にしていた花を残らず引っこ抜き、鬼気迫る様子で奇妙な墓石を掘り続けるシュラに、アルデバランは怒鳴った。気でも違ったのか、と不安になったからだ。
 だがシュラはやはり返事をせず、そして掘り終わった石を抱えておもむろに立ち上がった。そしていくつも転がっている赤い花の木を一株乱暴に掴み、突然ずんずん歩き出す。
 アルデバランは、慌てて彼を追いかけた。デスマスクの様子を横目でうかがったが、彼は寝椅子から動く様子はない。その視線でさえ、既にシュラの方を向いては居なかった。ただ、真っ赤な庭をずっと眺めている。
 デスマスクには何も期待できないと瞬時に悟ったアルデバランは、眉を顰め、とにかくシュラを追った。彼が歩く度に、葉が、花が、バラバラと落ちてゆく。
 シュラが向かったのは、彼の寝室だった。
 そして彼は、枕元にあるマホガニーの小箱をがっと掴み、今度は外へ向かって歩き出す。
「シュラ!?」
 アルデバランは、青くなった。赤い花や甘いケーキ、だがそれ以上に彼が大事にしているのが、あの小箱だった。あの小箱が一体どういうものなのかは知らないが、彼がときどき、じっと静かにあの小箱が奏でるメロディに聞き入っていることを、アルデバランは知っていた。
「シュラ!」
 だがアルデバランの制止を振り切って、シュラは凄まじい早さで歩いてゆく。彼の歩いた後に血痕のように落ちる赤い花を踏まないように気をつけながら、アルデバランは彼を追った。

 アルデバランは何度も彼を止め、途中で肩を掴みさえしたが、それはことごとく振り切られ、彼は言葉一つ発さなかった。
 シュラはとうとう十二宮を下りきって、そのまま迷いなくある場所へ向かった。

 ──墓場だ。

 誰もが殆ど近寄りたがらないその場所に、シュラは迷いなく足を踏み入れ、そして持っていたものを全て地面に置くと、素手でざくざくと地面を掘り始めた。
「何やってるんだよ、おい、シュラっ……!」
 しゃがみ込んで一心不乱に墓土を掘る後ろ姿に手をかけるが、それは鋭く振り払われた。振り返ってすらくれないシュラに、アルデバランはくしゃりと表情を歪める。
 素手でも、聖闘士の腕力である。あっという間に人ひとり入れる位の穴が掘られた。
「──やめっ……!」
 泥まみれになったシュラが花と小箱を振り上げたので、アルデバランは思わず、彼にタックルを食らわせた。細身のシュラはアルデバランの体当たりに盛大に蹌踉け、ひっくり返る。花が地面に叩き付けられ、小箱が草むらに飛ぶ。
「何やってんだよ!」
 アルデバランは、半ば涙声で叫ぶ。
 あんなに大切にしていたものたちに、彼は一体何をしているのだ。
「わけわかんないよ! 何むきになってんだよ、馬鹿野郎!」
 アルデバランは、初めて彼に罵声を飛ばした。しかしシュラはやはりアルデバランを振り返ることはない。
「シュラ!」
 なおアルデバランを振り切り、シュラは花と小箱を掴み上げる。アルデバランは慌てて再度彼にしがみついたが、もうシュラはびくともしない。シュラの胴にしがみついたアルデバランが見上げた先には、シュラの細長い腕が振りかぶった、マホガニーの小箱が見えた。

──ガシャッ!

 墓穴に思い切り当たった小箱が、そんな音を立てた。リン……と僅かなオルゴールの単音が響き、アルデバランは泣きたくなる。
 蓋が外れ、オルゴールの部品が飛び散った小箱を見つめ、シュラはぎりりと唇を噛んだ。そして唇を噛み締めたまま、もう片方の手に持っていた赤い花の低木も、穴の中に叩き付けるように放り込む。
 ざくざくと土をかけていくシュラに、アルデバランはとうとう泣いた。
「何してんだよう……」
 だがシュラはやはりアルデバランを振り返らず、一心不乱に土をかけていく。そして小箱も、花も、すっかり全てが見えなくなると、彼はその上に墓石を置いた。

 ──黄金聖闘士 山羊座 シュラ

 墓標には、彼が掘った、彼の名前が刻まれていた。

「……シュラ」
 自分の作った自分の墓の前に立つシュラの後ろ姿を呆然と見ていたアルデバランは、背後から聞こえた声に、ハッと振り返った。
「何をしてる」
 険しい顔で言ったアイオリアの頬には、涙の跡がある。ああ、とアルデバランは思った。彼の兄、アイオロス。シュラが討伐したのだという逆賊の弟、アイオリア。
「この、人殺し!」
 憤りと悲しみとを込めた、アイオリアの怒鳴り声が響く。
 その痛々しい慟哭に、こっちが泣きたい、とアルデバランが頭を掻きむしりたい気持ちになっていると、その背後からアフロディーテが現れた。女の子と間違うような綺麗な顔には傷や打ち身の跡があり、服は泥まみれだった。見ればアイオリアもそれは同じで、今まで彼らがやり合っていたことを暗に知らせている。
「──ああ、くそ」
 アフロディーテは疲れきった様子で、シュラに向かって一直線に飛びかかったアイオリアの後ろ姿にそう悪態をつき、舌打ちした。
「お前が兄さんを、兄さんを殺したんだ!」
 彼の頭を地に着けんとでもしているのだろうか、背の高いシュラの襟首を両手で掴んだアイオリアは、凄まじい力でそれを引っ張っている。
 しかしシュラは、ぞっとするような冷たい目で、アイオリアを見返していた。
 琥珀色の目は、まるで触れれば切れる銘刀のような輝きを放っている。その刃の上に落ちた花びらは、きっと音も無く別れていくだろう。凄まじい切れ味、ただ見ているだけでも恐ろしいような刃の輝きが、シュラの目に宿っていた。
「だから、何だ」
 シュラが、初めて口を開いた。
 声変わりが終わろうとしている声は低く、冷たく、固い。
「そうだ、俺は人殺しだ。だがそれが何だ。聖闘士は皆人殺しだ」
「なっ……」
 アイオリアは、濃い緑色の目を見開いている。しかしすぐにその目を燃え上がらせると、更にシュラの襟首を引いた。
「馬鹿を言うな! 聖闘士は邪悪と戦うアテナの戦士だ! ──兄さんみたいに」
「アイオロスは逆賊だ」
「違う!」
 アイオリアの目には、涙が浮かんでいた。
「どうして! どうして兄さんを殺したんだ、シュラ!」
「……甘ったれるなよ」
 感情のままに喚き散らすアイオリアとは正反対に、シュラの声はとにかく淡々としている。
「アイオロスは聖闘士だった」
 シュラは、震え上がるほど厳しい声で言った。
「アイオロスは聖闘士で、そして俺も聖闘士だ。だから俺は奴を殺したんだ」
 琥珀色の目が、刃のように輝いている。ひくっ、とアイオリアがしゃくり上げる音がした。
「そしてお前も聖闘士になったんだろう、アイオリア」
 シュラの言う通り、夕陽に向かって走り続け、アイオリアは正式に獅子座レオの聖衣を得た。黄金聖闘士になったのだ。
「だったら、“どうして”などと口にするな」
 シュラの眉間に、深い皺が寄った。
「全ては聖闘士だからだ。聖闘士がどういうものなのか、まだわかっていないのか」
「何……」
「俺は言い訳などしないぞ、アイオリア。……するものか」
 強い声だった。どうやっても折れないような、強靭な、譲らない声だった。
「教皇に命令されたから、あいつが逆賊だったから、アテナの御意思だ、仕方なかった、……そういう甘ったれた言い訳など、俺は絶対にしないからな」
「…………」
「全ては俺が聖闘士だからだ。いや、俺が、俺は聖闘士だと自ら名乗りを上げているからだ
 なんて厳しい声だろうか、とアルデバランは思った。こんなに厳しい人間を、アルデバランは見たことが無い。
「俺はこのシュラという正義の神の名を自ら名乗り、山羊座カプリコーンの黄金聖闘士としてあるということを自ら決めた。全ては俺の意思だ。教皇のせいでも、神のせいでも、ましてやアイオロスのせいでもない!」
 ガッ! と、シュラは、呆然としているアイオリアの胸ぐらを掴み返した。
「──俺は、俺が聖闘士である為に、俺の意思であいつを殺した!」
「ッ……」
 アイオリアは歯を食いしばり、涙の浮かんだ目でシュラを見た。
「俺を人殺しと言うのも、恨むのも、好きにするがいい。殺したければかかってこい。だがそうなったら、俺はお前も逆賊として容赦なく斬り捨てるぞ」
 その言葉が脅しなどではないことを、その場に居る全員が直ぐさま理解する。
 彼の身体から立ちのぼる殺気は、正真正銘本物だった。
「お前の兄は、俺が殺した! もうこの世には居ない! ──お前も聖闘士なら、いつまでも甘ったれるな!」
 シュラは、大声でそう言い放った。谷底に突き落とすように残酷な言葉を。
「う……」
 ぐしゃりと顔を歪めたアイオリアを、ドン、とシュラは突き飛ばす。柔らかい土の上に転がったアイオリアは、そのまま膝をついて踞った。
 シュラはそんなアイオリアを冷めきった目で見下ろすと、もう用は終わったとばかりに、ふいと顔を逸らす。
「行くぞ」
 アフロディーテがふっと小さく息をつき、草を踏みしめて歩いてゆくシュラを追っていなくなる。アルデバランは二人の気配が消えていくのを感じながら、目の前にあるものを呆然と見た。
 シュラの作ったシュラの墓の中には、彼の赤い花と、マホガニーの小箱が埋まっている。彼が最も大事にしていた宝物。

 ──俺はそれが、すごく嬉しいんだ

 ただ満たされた笑顔を浮かべてそう言った彼を思い出し、アルデバランはまた泣いた。自分がして嬉しいことだからお前にもやると、惜しげもなく、自分の宝をお裾分けしてくれた彼。この花は甘いのだとどこか誇らしげに教えてくれた、そして一人で静かにオルゴールを聞いていた、黒髪の、三つ年上の少年。
 彼は、聖闘士になるという。地上の為に戦う戦士になるという。だがそれは、ここまでしなくてはいけないものなのだろうか。花と小さな音楽さえ持たせては貰えない、そして命を賭して戦場に赴く、それが聖闘士だというのだろうか。
 アルデバランは、踞って泣くアイオリアの向こうを見た。
 シュラの墓から十数メートル離れたそこには、もう一つの墓がある。聖闘士の視力を用いれば、その墓標にはアイオロスの名前がやや不器用に掘られているのを確認することが出来た。

 ──これでは、どっちが死んだのかわからない。

 アルデバランは地面に座り込んだまま、二つの、遺体のない墓を暫く眺めた。
「う……」
「……アイオリア」
 呻くように泣くアイオリアの姿もまた、アルデバランが初めて見るものだった。彼はどちらかというと泣き虫で、その上すぐ癇癪を起こして手が出るので、よくムウやシャカと喧嘩になり、そしてアイオロスに怒られていた。
 彼はいつも泣きたい時に大泣きし、笑いたい時はいっぱいに笑っていた。泣いたときは彼の兄が叱り、時には頭を撫でてくれ、そして笑う時には一緒に笑っていてくれたから。
 ──だが、彼の兄は、もう居ない。
「くそっ……くそぉ……」
 だから、こんな風に踞り、歯を食いしばって泣く彼の姿を見るのは、初めてだった。というより、彼自身、そんな風に泣くのはきっと初めてだろう。
「畜生……!」
 アイオリアは、兄の墓と彼を倒した男の墓を上目遣いに睨みつけ、歯を鳴らし、低く唸る。土を掴み、下からねめつける緑の目。
 その様は、谷底から這い登ろうとしている獅子のようにも見えた。
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BY 餡子郎
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