第10章・Fast zu ernst(むきになって)
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デスマスクが行ってしまってから、アフロディーテはとりあえず、既にぴくりとも動かないシュラの聖衣を外させ、彼の腕を掴んで磨羯宮まで引きずった。
シュラは手を引けば何とか歩くのだが、その足取りは何とも頼りなく、フラフラとしている。二人は何の会話も交わさないまま、磨羯宮の離宮まで辿り着いた。
ずっと待っていてくれたらしい、広間に居たルイザは、昨日よりももっとひどい状態になって戻ってきたシュラを見て、今にも悲鳴を上げんかというような表情をした。しかしさすがに聖闘士資格まで得た元候補生である。彼女はすぐに表情をいくらか落ち着けると、人形のような状態のシュラに向かって、言った。
「寝なさい」
だがシュラはやはりぴくりとも動かず、棒のように突っ立ったまま俯いている。ルイザは彼が何か行動を起こすのを何秒か待ったが、彼が全く動かないことに眉を顰めると、いきなりシュラを肩に担ぎ上げた。
さすがにアフロディーテも驚いて、目を丸くした。
かなり体格の良いルイザと細身のシュラでは、ルイザのほうがウェイトがあるだろう。しかし既にシュラはルイザより背が高く、見た目的に、抱き上げられるような年齢はとっくに過ぎている。しかしルイザは軽々と、しかも片腕でシュラを担ぐと、寝室に向かってずんずん歩いた。
そして完璧にベッドメイクが施された寝台の布団を空いた方の手でめくり上げ、そこに、まるで木箱に茄子でも詰めるようなてきぱきとした仕草で、ぐんにゃりしているシュラを寝台に寝かせ、顔の半ばまで布団を被せた。
パンパン、とルイザが分厚い手で布団を叩いたとき、シュラが初めてルイザを見る。琥珀色の目はどんよりと濁っていたが、ルイザはそんな彼の目を、真っすぐに見た。
「寝なさい」
「………………」
ルイザはもう一度言ったが、シュラは目を閉じず、惚けたようにルイザを見ている。
「──寝なさい。そんな頭で色々考えたって無駄ですよ。思う存分寝て、そして起きたらあたしの作ったご飯を食べて、顔を洗うんです。全てはそれからです、いいですね」
ぼんやり顔のシュラは、しばらくそのままぼんやりしていたが、ルイザの言う“そんな頭”でもって彼女の言葉をゆっくりと理解したのだろう、ぐしゃりと目元を崩れさせると、布団を頭まで被って寝台の中に引っ込んだ。
最高にふかふかの布団は、太陽のにおいがする。その布団がぎゅっと瞑ったシュラの目から溢れたものを吸い込んだのかどうかは、シュラにしかわからない。
ルイザはそんなシュラを見、痛ましい顔で小さく息をつくと、ベッドサイドに目を遣った。
少年のベッド脇には、色々なものが置いてある。ベッドで読んでそのまま積みっぱなしの本は、読み尽くしてページが外れそうになっている格闘技関連の指南書に、お気に入りの『King Arthur』のハードカバー。壁には訓練での対戦勝敗表が誇らしげに貼られており、端にはデスマスクやアフロディーテがふざけて書き込んだ下品な悪戯書きを、シュラが上から乱暴に消した跡がある。そして訓練の時に締める革のベルトだけが一本放り投げられており、更に、どこで拾ってきたのか、何故か石がいくつか並べてあった。
いかにも少年らしいそんながらくたの山の中から、ルイザはひとつの古そうな箱をそっと手に取り、裏についている小さなネジを何回か巻く。
いま中庭で満開になっている赤い花とこの小さなマホガニーの宝石箱、これがこの少年の一番の宝物であることを、彼女は知っていた。箱の蓋を開けると、静かなメロディが流れ出す。
シュラは太陽の匂いのする布団の中で、そのメロディを聞いていた。もう顔もはっきりと思い出せなくなってきているあの人の面影が、メロディの彼方にぼんやりと見え隠れする。
ルイザがオルゴールをコトリとベッドサイドに置き、静かに部屋を出て行った気配を感じた後、シュラはいつの間にか目を閉じた。
開けた窓から、赤い花の、甘い蜜のにおいが香ったような気がした。
「ディータ坊ちゃんも疲れたでしょう。寝椅子に毛布を持ってきますから、寝たらどうです」
「いや、いいよ。それよりお腹が空いたな」
そう言って肩を竦めてみせれば、ルイザはまだ苦笑の域は出ないまでも、それでも笑みを浮かべ、厨房に向かった。既に下ごしらえがしてあったのだろう、すぐにいい匂いが漂ってくる。
そっと近付いてテーブルの上の布巾をめくると、皿の上には、彼らの大好物であるナッツとはちみつのケーキがあった。
「つまみ食いは駄目ですよ」
振り向かないまま言ったルイザに、背中に目でもついてるんだろうか、と、アフロディーテは苦笑を浮かべる。
「しないよ。でもシュラが起きてきたら、食べてもいい?」
「ええ、もちろん」
鍋の中をゆっくりと掻き回しながら、ルイザは返事をした。
「いくらでも」
「いいの?」
「いいですとも。いいに決まってます、そのくらい」
僅かに震えた声だった。
やはり双魚宮でなくこちらに戻って来させて正解だった、とアフロディーテはしみじみ思う。
女官でありながらかつてはかなりの実力の候補生であったという彼女は、聖闘士が何たるかということをとてもよく知っている。だからこそ彼女はデスマスクやシュラの目をまっすぐに見、そして時にはこうして子供扱いすることすら出来る。
ミロたち年少組は、“黄金の器”としての強大な小宇宙を持っているとはいえど、それ以外ではまるっきり子供だから、年相応に扱うのは難しくない。しかし、実際に何人もの人間を葬り、自在に殺気を纏うことの出来るデスマスクやシュラに対してこういう態度をとれる人間は、実質、トニかルイザくらいしか居なかった。
そしてそんな人材はこの十二宮ではとても貴重で、そして彼らにとって有り難い存在だった。
アフロディーテは黙って椅子に座ると、てきぱきと食事の用意をしている彼女の後ろ姿を眺め、温かい料理が出てくるのを大人しく待った。
ふと目を覚ますと、風が頬に当たっているのがわかった。
かなり深く眠っていたらしい、夢を見た記憶も無い。手の甲で目を擦ると、目やにがぽろりと落ちた感触がした。
寝台の上に身を起こしたシュラは、ぼんやりと部屋の中を眺めた。ベッドサイドには読んでそのままの本、椅子の背にはかけられた訓練着、壁にはデスマスク達の悪戯書きのついた対戦結果表が貼られている。気まぐれに塗ってみたが、ガラスにまでへたくそにペンキがはみ出した水色の枠の窓は開いていて、中庭で咲く赤い花の匂いが、僅かな風とともに部屋に流れ込んできている。冷たく湿った朝露の気配が、自分が丸々一晩眠っていたのだということを知らせた。
「坊ちゃん! もうすぐ朝ご飯が出来ますからね!」
ゴンゴンゴン、というパワフルなノックとともに、声が響いてきた。声の主の足音は、シュラの返事を待たずに再び厨房の方へ歩いていく。シュラが滅多に二度寝をしない、朝に強い性質だと知っているからだ。
風が少し強く吹き込めば、朝露の匂いと一緒に、パンを焼く香ばしい匂いも流れて来る。
シュラはそっと寝台を降りると、中庭に繋がるドアを開けた。
宮にそれぞれある守護者の生活の為の離宮は、もとは古代アテナイの邸宅の作りにのっとって作られたもので、中庭がついている。そしてそこには必ず池やあるいは井戸などの水場があって、磨羯宮には井戸があった。シュラは起きたらこの井戸で顔を洗い、中庭で軽く身体を動かすのが日課だ。
井戸の周り、いや中庭じゅうには、甘い芳香を放つ赤い花がみっしりと咲き誇っている。
(──夢、)
生活感に溢れ、穏やかで、静かな、なにもかもが“いつも通り”の光景。冷たい井戸水で顔を洗い、酸素が多そうな早朝の冷たい大気ですっきりした心地を味わいながら、シュラはどこか現実味のない、夢心地の気分だった。
(……いや、夢じゃ、ない)
そのはずだ、と、シュラは井戸水に濡れた自分の手をじっと見つめる。潰れた右手の小指には添え木が宛てられ包帯が巻いてあり、今もずくんずくんと脈打つ痛みを発している。シュラは顔を顰めて、頭を振った。
「ああ、やっと起きてきた」
中庭を通って広間の方に入ろうとすれば、その前にあるテラスのような場所に、アフロディーテが居た。小さめのリンゴを齧りながら、赤い花の植え込みの前にしゃがんでいる。シエスタの時間にシュラがよく昼寝をする古い寝椅子には、くしゃくしゃの毛布。どうやらそこで寝たらしい。
「よく寝てたな。おかげでケーキを一晩お預けされるはめになったぞ」
「ケーキ?」
「ルイザが焼いてくれたんだ。いくら食べてもいいそうだよ」
「……豪勢だな」
ぼそりと呟くようにそう返せば、アフロディーテはにやっと笑った。
「そうだとも。さあ、まずは朝食を食べよう」
パンに卵、チーズとヨーグルト。
ルイザの作る定番の朝食のメニューはシンプルだが、卵の焼き加減は毎度絶品だ。生すぎず、固すぎず、黄身を割るととろりと流れるが、皿に広がってしまうまでではない。
シュラはアフロディーテと向かい合い、そんな朝食を黙々と食べた。
目の前にあるテラコッタの赤い器の中には、ギリシャ伝統のヨーグルトが入っている。紀元前にギリシャの羊飼い達が作り出し、昔ながらのテラコッタの器に入れたヨーグルトは脂肪分が高く濃厚で、ギリシャ全体の名産品でもある。
だがほぼ自給自足の生活の聖域で、数少ない家畜から搾った乳で作られるそれは、聖域では貴重品だ。しかし生産者は自分のより良い暮らしを求め、十二宮の神官や黄金聖闘士たちにそれを譲り渡す。この聖域で、元候補生でない者のほうが少ない。彼らは十二宮こそ聖域の最高位カーストであり、またそこに僅かでも恩を売っておけば、あらゆる時に保身に役立つことを知っているのだ。
「……この聖域で」
このくらいのものを毎日食べられる人間はどのぐらい居るのだろう、とシュラは呟いた。
先日サガを探しに“下”に降りた時、シュラは初めてそこに住む人々の暮らしを見た。闘技場にはほぼ毎日足を運んではいたが、生活区域に踏み入ったのはその時が初めてだった。
闘技場では極限まで気を張り、何が何でも倒れるものかと漲る表情をしていた候補生達も、そこでは違った表情を浮かべていた。リラックスして誰かと話したり笑ったりしている者も居れば、疲れきったように座り込んでいる者、あるいは暮らしの為に何らかの用事をこなす者たち。
だがその全ては総じて豊かとはいえない背景の上に成り立っていて、どれもこれもが“やっと”という有様だった。
シュラは、ここに来てから生活に困ったことなどない。中庭には白い洗濯物が翻り、寝台の布団はいつだってふかふかだ。食事の時間になればルイザたちが暖かいものを出してくれるし、時にはケーキすら焼いてくれる。
だが“下”でこんな暮らしをしている者など、間違いなく、誰一人としていないだろう。
聖域に来る前も、生活面ならば十分すぎるほどの境遇に居たシュラは、そのことに呆然とするようなショックを受けていた。
「確かに、ここの生活は聖域の中では一番贅沢なものですけれどね」
前掛けで手を拭きながら、ルイザが慎重な口調で言った。
「でも坊ちゃんがたは、黄金聖闘士です」
「黄金聖闘士だから何だというんだ。関係ないだろう?」
「……いいえ、関係あります」
むっと顔を顰めて反論したシュラに、元候補生のルイザは、はにかむような、泣きそうなような表情を浮かべて、ゆっくりと首を振った。黄金聖闘士がこんなことを言っているということを“下”の者たちが聞けば、きっと自分と同じ顔をするだろう、と思いながら。
「聖闘士というのは、アテナの為に、地上の平和の為に戦う者たちです。そして黄金聖闘士というのは、アテナのおわすアテナ神殿を直接守る、最も屈強な聖闘士」
アテナのおわす、という言葉に、シュラはぴくりと肩を震わせた。
──もう、アテナ神殿に、アテナは居ないのだ。
「そんな重い役目を担ってるんです。卵やケーキぐらい好きに食べたって誰も怒りませんよ」
「……でも」
しかしその強大な小宇宙が生まれ持ったものであることも事実である、ということを、全員が深く理解している。中には、生まれ持ったその力で辛い目に遭った者も居るのだ。もちろんシュラに限らず、“黄金の器”たちも毎日の厳しい鍛錬を欠かしたことはない。だが事実というのは残酷なもので、生まれ持った元々の潜在能力はまちまちだ。同じだけ努力しても、同じだけの結果が出るとは限らない。
そんな内容をシュラがぼそぼそと話せば、ルイザは厳しい表情でもう一度首を振った。
「そんな甘っちょろいやり方じゃ、アタシたちは聖闘士にはなれません」
「…………」
「それこそ、坊ちゃん達みたいに特別な力を持って生まれてないんですからね。足りない分は努力して補わなけりゃいけません。ただそれだけのこと。坊ちゃん達は気にしなくて結構」
「でも」
「坊ちゃんがたがすべきことはね」
ルイザは、シュラの琥珀の目を真っすぐに見た。
「“下”なんか見ずに、ひたすら上を目指すことです。せっかく凄い力を持って生まれたんですから、それをいかに多くの為に役立てるか──、いえ、いかに地上の平和の為に使うか、ということを考えること」
「地上」
シュラは、眉を顰めた。
「人間じゃなく?」
「きみは優しいな」
遠慮の欠片もなく、焼きたてのパンにヨークルトをたっぷりつけて食べていたアフロディーテが言った。シュラは奇妙に表情を歪める。
「何だ、気持ち悪いことを言うな」
「褒めているのに、失礼だな。……デスマスクも言っていただろう。軍隊は領地を守る為のもので、市民を守る為のものじゃない。アテナの軍隊である聖闘士だって同じさ」
「……でも」
しかし、例えば目の前で無力なものが死にそうになっている時、軍人、戦士としての任務を全うして彼らを見捨てることが出来るだろうか。──人間として。
「仕方のないことですよ」
ルイザが言った。その声があまりに淡々としているので、シュラは驚いて目を見開く。
「目の前のものに気を取られて大きな問題を見過ごして、結果もっと多くのものを失ってしまったら、それこそ本末転倒です」
「環境破壊が進んでいるそうだよ」
突然、アフロディーテが言った。あまりにも唐突だったので、シュラがぽかんと口を開ける。しかし相変わらず遠慮なく食事を続けながら、アフロディーテは言った。
「森林伐採とか、砂漠化とか、温暖化とか、色々ね。これは全部人間のせいだ。人間が自然を破壊し、そして結果的に人間も存続の危機にさらされている。自分で自分の首を絞めてるのさ」
「……だから?」
「環境破壊によっていま困っている人間を助けても、根本的な解決にはならない。でもたとえば──」
アフロディーテは左手をくるりと回して、手の中に薔薇を一輪出現させてみせた。
「もし私が、ニューヨークの街をジャングルにしてしまったらどうなるかな」
突拍子もないたとえ話──ともいえない。アフロディーテが本気を出せば、それは不可能なことではなかった。“黄金の器”とは、そのくらいの力を持っているのだ。
「そこに住む多くの人々は、大変なことになるだろう。大人も子供も老人も、皆ね。でもそのジャングルは多くの酸素を作り出し、地球にとってはおおいに助かることになるだろう。そして地球の寿命が延びることは、人類全体の存続にも繋がる」
植物に作用し、時に特別な力さえ宿すことが出来る、アフロディーテの小宇宙。彼の力の背景には彼の生まれも強く関わっているが、そのせいだろうか、彼の視点は独特だ。
聞きようによっては、命の重さを知らない子供独特の発言とも取れるが、彼はそうではない。アフロディーテは実際に人間を殺したこともあるし、そして先程言ったように、大量の殺戮さえ行なうことも出来る。そして同時に、友人達に純粋な好意を持っている。
「極端かもしれないけど、つまりはそういうことだろう?」
「お前はもしさっきのことを任務として言い渡されたら、それをすることができるか?」
「できるよ」
デスマスクが言ったように脳に小宇宙を働かせることによって精神年齢の成長が著しいとはいえ、ここでさらりと断言できる人間は、大人でもなかなか居ないだろう。
シュラは、渋々とした気持ちで理解した。アフロディーテの言うことは悪いことではなく、そして褒められたものでもない。ただ視点と、視野の規模が違うということなのだ。──戦わない人々と。
「……ディータ坊ちゃんはちょっと特別みたいですけれどね」
苦笑しながら、ルイザが言う。
「一人ずつに対する情なんてものは、戦士が持つべきものじゃありません。戦う相手が国どころか世界、いえ神という聖闘士なら尚更。そういう細かいものは、それこそ戦わない、戦えない人たちが持つべきものです」
だから、それがたまたまなかったというのは、もう、運が悪かったとしか言えないのだ、とルイザは言った。シュラは唇を噛み締める。
「じゃあ聖闘士は、人間じゃないのか」
「人間ですよ」
ルイザは淡々としている。残酷なほどに。
「いくら小宇宙を燃やそうが、技を磨こうが、聖闘士も生身の人間です」
「じゃあ」
「でも聖闘士は神と戦わなけりゃいけないんです。言ったでしょう。足りない分は努力して補わなけりゃいけません。人間の身で神様と戦うには、そのくらいは割り切らないとやっていけないんですよ」
カチャン、とルイザはコーヒーのカップをテーブルに置いた。これもまた、ヨーグルト以上に聖域ではかなりの貴重品だ。
「聖闘士っていうのは、そのくらいきつい役目を負わなけりゃならない。そしてその最たるものが黄金聖闘士。……ケーキくらいの贅沢、許して貰ったって罰は当たりませんよ」
「努力しているっていうなら、“下”の候補生だって同じじゃないか!」
シュラは、起きてから一番大きい声を出す。しかしルイザは、今度は表情を崩さなかった。
「いいえ、候補生は候補生。聖闘士になれなかった──結果を残せなかったなら、意味はありません。戦えないということは、あなた方に守られる存在になるということなのですから」
「……俺達が?」
「そうです」
ルイザは頷いた。
「聖闘士は地上を守る存在で、その結果人間は守られます。何もしていないのに、命を守ってもらえるのです。あなたがたに」
「それは仕方のないことだ。戦えないんだから」
「そうですね。でも贅沢言える権利はありません。守ってもらってるんですから」
シュラは、ルイザが目の前に並べたカップを見た。カップはふたつで、ルイザの分はない。シュラはいつもルイザはいいのかと聞くのだが、彼女はいつも、ケーキもコーヒーも口にすることはなかった。
彼女は一度として、彼らとお茶を飲んだことはない。
そしてその行為が持っていた意味を、シュラは今、初めて理解した。
食事の後、シュラの様子がすっかり落ち着いているとみたアフロディーテは、デスマスクの様子を見に行く、と階段を駆け下りて行った。
「じゃああたしも行ってきますから、洗濯物は籠の中に入れておくんですよ」
そして朝食で使った食器を素晴らしく手早く片付けたルイザもまた、そう言って磨羯宮を出て行った。がっしがっしとあっという間に階段を昇って行く逞しいルイザの後ろ姿を見送ってから、シュラは離宮に戻る。
ルイザの仕事は、ただシュラの世話を焼くだけではない。聖闘士資格まで取得し、聖衣まであと一歩というかなり優秀な候補生だった彼女は、女官としても重要な立場に居た。お嬢さん育ちの他の女官は一つの宮を渡るだけでも精一杯な十二宮の階段をその強靭な足腰で自在に昇降でき、各々の宮に居る黄金聖闘士たちの様子をその目で実際によく見ているからだ。
そんなルイザは、教皇宮に居る女官長よりも実際の仕事は多い。「磨羯宮が上の方の宮で良かったですよ」とは、彼女がよく言う台詞だ。そしてそういう立場になりつつある彼女が今もなお磨羯宮の従者としての仕事も行なっているのは、ひとえに彼女の希望だが、シュラの希望でもある。
離宮に戻ったシュラは、中庭の、アフロディーテが寝ていた寝椅子に身を預け、赤い花を一つぷちりと摘み取り、口に銜えた。透明な蜜の甘さが、すうっと口の中に広がる。
(──俺は、もっと色んなことを考えなくちゃいけない)
真っ赤に咲き誇る中庭を眺めながら、シュラはそう思った。
今までは、ただ技を磨き、出されたものを何の疑いも無く食べ、飲んでいた。与えられたものを、何も考えずに享受していた。
しかし彼は今、自分の居る聖域という場所がどういう所なのか、そして自分に与えられた黄金聖闘士という立場がどういうものなのか、初めて、深く知ることになった。そしてそのために今、何が起こっているのかも。
(サガは)
どれぐらい前から、どのぐらいのことを考えてきたのだろう、とシュラは想像する。あんな行動を起こすまで、そしてあんな言葉を言えるまでには、どれぐらいのことを考え抜かねばならないのだろうか。
サガはいつも誰かの言うことを黙って聞いて、よく考えてから、そしてやっと控えめに話しだす。今回はそれが覆されたと思っていたが、きっとそうではない。彼はずっと前から、この聖域の人々、神官や、教皇や、仲間達、“下”の人々、……そして、アテナの考えまでも彼は考えに考え抜いて、あの行動をとるに至ったのだ。
サガは、正義だろうか。
シュラはぎゅっと拳を握り締め、彼が言った言葉を反芻する。
阿修羅の名を持つお前なら見極められるだろう、と彼は言った。
(──見極めなくては、ならない)
自分の名前は、自分で名乗った名前だ。
それはシュラの誇りであり、また自立したことの証でもあった。
始めは、阿修羅の神話に強い興味を覚えたこと。そしてそれを考えるうちに、デスマスクやサガのような、自分だけの正義を持っているのがとても羨ましく感じられた。ただ与えられたものを享受して生きるシュラには、そんなものはなかったから。
だがシュラは今、その自分だけの譲れない正義がどんなものなのか、そろそろ考えなければならない局面に来ている。
自分だけの正義を持ち、魔道に堕ちても戦い続けた異教の神、その名を名乗ることの重さを、シュラは今、改めて感じていた。
──思う存分寝て、そして起きたらあたしの作ったご飯を食べて、顔を洗うんです
全てはそれからですよ、と言ったルイザを思い出す。
そうだ、もう思う存分眠ったし、ルイザの朝食も食べたし、顔も洗った。だからもう、自分は目の前にあるものを真っ向から考えて行かねばならないのだ、とシュラはもう一度拳を握る。
そして、自分の耳で聞き、自分の目で見た様々な情報を反芻し、整理した。今までやって来なかった作業だが、たっぷりの睡眠と食事、そして冷たい井戸水で顔を洗った効果だろうか、頭の回転は頗る良好だ。
そして瞑想にも近い思考の海の波は、いつの間にか小宇宙を生み出し、シュラの脳にはたらきかけていた。デスマスクが発見したという小宇宙による脳の活性化、シュラもまたこの時、真剣に集中する事によって、自然にそれを行なっていた。
(俺は、聖闘士だ)
──自分の四軒上に居るのがアテナでもサガでも、自分が聖闘士であることに変わりはない。それはシュラが辿り着いた初めての独自の結論、その後ろ髪だった。
聖闘士とは、人間でありながら神と同じ視点を持って戦わねばならない。地上の平和を守る為に、──結果的に、人間を救う為に。
サガは、聖闘士という存在を否定しているわけではない。彼が改革しようとしているのは、その聖闘士を育てる方法についてだ。アテナは聖域という蟲毒の壺に手当たり次第に子供を放り込むという方法で聖闘士を作るが、サガは違う方法、もしくは壺の底で死んで行く者たちを何とか救おうとしている。すなわち、女神アテナに代わって地上を管理しようとしている。
──彼は、神になろうとしているのだ。
(でかいな)
なんというスケールの大きい宣言だろうか、だが彼にはそれだけの実力があるだろうことも、シュラは知っている。
(疲れる……)
考えるということはとても疲れることだ、と、シュラは思わず止めていた息を吐いた。元々シュラは考えることが苦手なのだ。戦うのが好きなのは、戦うこと以外を何も考えなくて済むので、とても楽だからだ──というのは、童虎にも言ったことだ。
(……駄目だ。頭を使え)
もう子供ではないのだ、とシュラは自戒する。
自分はもう思う存分眠り、食べた。ただ与えられたものをこなすだけの時間は終わったのだ。
シュラはそう思って、再び思考に集中しようとした。
──その時だった。
「おい、コラ、やめろって、おい!」
下から聞こえてきたのは、デスマスクの声だった。いつもなら誰かが磨羯宮に入っただけですぐに気付くのに、慣れない小宇宙の使い方をしていたせいで今まで気付けなかったらしい。シュラは小さく舌打ちすると、すぐに小宇宙を探った。磨羯宮を抜け、この離宮に向かってきているのは、デスマスクとアフロディーテ、そしてもう一人。
──バン!
「シュラ……っ!」
ドアを壊さんばかりの勢いで開け放った彼の顔を見て、シュラは自分の頭の回転がいかに鈍いかを再確認した。やはり自分は、まだ甘いと。
「シュラ」
今日までずっと夕陽に向かって走ってきたのだろう彼は、真っ青な顔色で、そしてぶるぶる震える声でそう言った。
思う存分、眠り、食べ、顔を洗って目を覚ました。
だからもう、甘ったれる時間は終わりなのだ。自分は目の前にある様々なものを考え抜き、そして正義の神の名を名乗るに相応しい確固たる考えを持って全てに立ち向かわなければならない。
「お前が兄さんを殺したのか、シュラ……!」
ものすごい目でシュラを睨んでそう言ったアイオリアを目の前にして、シュラは思わず、銜えた花を唇で潰した。
甘い蜜は、もうすっかり無くなっている。
苦みが、口の中に広がった。