第10章・Fast zu ernst(むきになって)
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 地面にあるのは、少年の死体と、銀色のライラ、そして月の光を浴びて一層輝くキャンサー。
 ──琴座の聖衣に宿る聖闘士達の小宇宙は、私利私欲の為に己を得ようとしたこの少年を認めなかった。なら、このキャンサーは?
「見たか?」
 不敵な笑みを浮かべて、銀髪に赤目の少年は、金色の箱に言った。
「力こそ、正義だ」
 勝てば官軍。
 なんという至言、と、デスマスクは笑いながら、赤く輝く月を一度仰ぐ。
「俺はサガに従うぜ」
 アテナのための蟲毒の壺に否応無しに放り込まれ、屠殺されるように死んでゆく子供達。彼らを神の手から救い、そして神に頼らず世界を救うのだという彼こそを自分は好ましく思うのだ、とデスマスクは宣言した。
「それが俺の正義だ。悪と呼ばれようが何だろうが、俺はサガに賭ける」
 手持ちのカードは悪くない。そして命を、未来を、運命を、全てのチップを賭けるに相応しいのはあの男だと、デスマスクは判断した。
「なあ、お前も付き合えよ」
 月光に照らされた金色の輝きが、キィン、と、星が鳴るような音を立てた。
 にやり、と少年は笑む。吊り上がった唇から、尖った八重歯がのぞく。
「アテナは何もしてくれねえぜ? そのことはアンタたちが一番よく分かってるでしょうよ、血塗れの先輩方」
 数ある神々の軍勢とその甲冑、その中で唯一、神のイーコールを受けていないという聖衣。アテナの助けを受けることなく、代々の持ち主の血に塗れ、そうすることで強化され受け継がれてきたという、人間が造り出した、人間の為の装備。
「俺は、女神アテナの為になんぞ戦わねえ」
 デスマスクは断言した。
「役立たずの神なんぞ、神じゃねえ。俺は俺の力でもって、俺の為に、人間の為に戦う」
 そして彼は、キャンサーのパンドラボックスの取っ手を、ガッと力強く掴んだ。
「なあ、アンタも人間だろう、キャンサー!」
 少年は叫び、取っ手を掴む手に力を込めた。彼の小宇宙に反応して、代々蓄積された膨大な規模の金色の小宇宙が共鳴を起こす。
「思い出せ! 人間だったら、俺の、俺たちの気持ちがわかるだろう!」
 人間であるならば、この聖域に不満を覚えなかったはずが無い。血塗れで戦う自分達に血の一滴も流してはくれないアテナに不満を覚えたことが無いとは言わせない、と、デスマスクは言った。
 デスマスクが小宇宙を高めるごとに、共鳴音が大きくなった。星が鳴るような音が騒ぐ。

「──人間は、神の戦争の為の犬じゃねえ!」

 そして少年は、掴んだ取っ手を、思い切り引いた。






「あ、……キャ、キャンサー、様……!」
 銀色のライラのパンドラボックスを担ぎ、少年の死体を引きずって現れたデスマスクに、雑兵達が道を空ける。恐れ戦いて脇に退く彼らの表情は強ばっていたが、デスマスクは彼らを一瞥すらせず、少年の死体を半ば投げるようにしてドサリと地面に放る。ひっ、と誰かの短い悲鳴が聞こえた。
「お前らが証人だ。コイツで間違いないな」
「は、はい、間違いありません」
 全くもって外傷の無い死体は、聖域では珍しい。涙のあとが残る少年の表情は、まるで泣き疲れて眠っているかのようだった。雑兵達は不思議なものを見る目で、デスマスクと、少年の死体を見比べた。
「女達の宿舎はどこだ」
「それなら向こうの建物ですが……」
 雑兵が指差すのは、集落から少し外れた所にある、漆喰と石で造られた建物。デスマスクはライラのパンドラボックスを担いだまま、ずんずんと歩き出す。



 バン、と扉を開けると、そこは仮面の女達で溢れていた。

 黄金の輝きを纏った男が入ってきた途端、表情の無い銀色の仮面達が、一斉に扉の方を向いた。
「二日前、琴座ライラの奪取試合で死亡した女候補生の娘はどこだ」
 女達に言う。しかし誰一人として、うんともすんとも返事をしなかった。
「──俺はあの女から、娘を聖闘士にしてくれるなと頼まれた」
 堂々と、デスマスクは言った。
「そして俺は約束した」
 女達の銀色の面が、金色に輝く甲冑を纏う男を見つめている。
「俺は約束を果たしに来た」
 誰かが、僅かに身じろぎした。しかし誰一人として名乗り出る者は居らず、この娘だという女も居なかった。
 部屋の中に居る女達は、全員が仮面をつけている。
 ──隠す気か。
 いくら宿舎といえど、候補生以外に食事や身の回りを助ける女達も当然存在するのだから、全員が仮面をつけている、というのはおかしい。そしてそれは、この女達がデスマスクの探す娘を隠そうとしているからに他ならない。
(ふうん)
 地獄のような境遇で女の身で生きているだけあって、彼女達は結束が強いらしい。そしてそれは、デスマスクにとってはっきりと好ましいものだった。
 母やその仕事仲間の娼婦達も、商売敵でもありながら、こうして独自のコミュニティを作ってお互いを支え合い、そして自分が死んだときは子供を頼むと頭を下げ合っていた。おそらくあの女も、娘の為に、生前仲間達に頭を下げて回ったのだろう。
 また黄金聖闘士といえど、男だというだけでなかなか信用してもらえないのも当然であるらしい。デスマスクがここに来ても、誰一人として挨拶一つしようとはしない。
 デスマスクは目を細め、そんな女達を見渡した。どれもこれも同じような銀色の顔面、しかしその髪は黒、茶色、ブロンド、赤毛、直毛に癖っ毛と様々で、体つきや肌の色も様々だ。そうしたことに気付いてから見れば、型押しで作った仮面のほうが不自然に浮いて見える。
 全く動かない女達の間を縫って、デスマスクはゆっくりと歩く。そしてその中に、あの娘と同じ、癖の無い薄黄色のブロンドを俯かせている、小さな頭に気付いた。
 ライラのパンドラボックスを担いだまま、デスマスクは、その少女の前に立つ。
「お前か」
 体つきからして4〜5歳程度の少女は、その小さな顔に銀色の仮面をつけ、じっと俯いていた。そしてただひとり拳胼胝のない柔らかな両手が握り締めているのは、真っ白な薔薇。
「お前が、あいつの娘か」
 しゃがむと、キャンサーの黄金聖衣が星が鳴るような音を立てる。その音に反応したのだろうか、少女はその銀色の顔面を上げた。
「……仮面を取れ。お前は聖闘士にはならない。それを被る必要は無い」
 仮面のせいで見えない目をじっと見つめてそう言えば、長い沈黙の後、隣に居た女が、少女の面をゆっくりと外した。
 仮面の下から現れた少女の表情は、強ばっていた。
 涙を堪えるその様に、デスマスクは感心する。
 年に似合わずやや頬がこけている様子やその顔色の悪さを見るに、もしかしたら昨夜もその前も泣き通しだったのかもしれない。だが重要なのは、いま泣いていないということだ。この娘は強く、そして賢い。
「……さすがあいつの娘だな」
 そう呟いたデスマスクの声は小さかったが、誰一人として声を発しない部屋の中である。全員がその声を聞き届け、そして何人かが顔を上げた。
「名前は?」
 母と一輪ずつだとアフロディーテが贈った白い薔薇、彼の小宇宙のお陰で二日経っても未だ瑞々しいそれを握り締めた少女は、下唇を噛み締め、震える声で、しかしはっきりと言った。
「ユリティース」
「そうか、ユリティース」
 うん、と、デスマスクは頷く。そしてまた改めて、ユリティースの目をしっかりと見た。大きな目は薔薇の葉と同じ、柔らかいグリーン。死界の穴へ向かうときですら仮面を被っていた彼女の母も、もしかしたら同じ色の目をしていたのだろうか、とデスマスクは考える。それに、ユリティースは幼いが、相当の美人だ。もしこの娘の美貌が母譲りだったのなら、あの仮面は本当に勿体ないことをしでかしていたと言っていいだろう。
「お前の母は」
 口火を切ると、ユリティースは眉を顰めた。頬がぶるぶると震えている。

「──お前の母は、女神なんぞメじゃねえぐらいいい女だった」

 さすがに、部屋中の女がぎょっとした。キャンサーの黄金聖衣を纏った、アテナの聖闘士として至高の存在である黄金聖闘士がアテナを貶めたのである。
 しかも、パリスの審判であればアフロディーテにヘラと比べる相手に不足はなかろうが、彼が引き合いに出したのはあろうことか子持ちの、仮面を被った候補生である。まっすぐにユリティースの目を見て堂々と言ったデスマスクに対し、女達が一斉に狼狽えた。
 だがユリティースは、驚きで見開かれた目で、しかしまっすぐに赤い目を見返している。デスマスクは言った。
「お前は女神の聖闘士になんぞならなくていい。だが、母に恥じないいい女になれ」
 ユリティースは、ぐっと唇を噛み締めて、涙を堪え、──そして、こっくりと大きく頷いた。涙の溜まった緑の目が、誇らしさに輝いている。



 そしてデスマスクは、ロドリオの信用ある知り合いにユリティースを預けることを説明する。幼いが、ここで育っただけあってしっかりした性格であるらしいユリティースは、気丈な態度で頷きながらそれを聞いていた。
「明日には迎えに来てやる。荷物を纏めておけ」
 そう言って立ち上がるデスマスクに、はい、とユリティースははっきりした返事をする。
「……それが、ライラの聖衣ですか」
 デスマスクが担いだそれを見て、ユリティースが妙に大人びた口調で、しかし幼児らしい高く甘い声で言う。
「そうだ」
「それ、どうするんですか」
「持ち主が居ない聖衣は教皇宮に安置だ。ま、またそのうち争奪戦をやるだろうから、その時はまた闘技場に持って来る」
「……そうですか」
 ユリティースは、じっとライラのパンドラボックスを見つめた。
「……つよいひとが、もちぬしになってくれたら、いいな……」
 そして幼い声で、ぼそりと呟く。泣き疲れた後のような、そしてどこか夢見るような様子で言った少女に、デスマスクはフン、と鼻を鳴らした。
「強くなきゃ、手に入れられねえんだよ」
 そして彼はライラのパンドラボックスを担ぎ直すと、すたすたと宿舎を出て行く。

 金色の煌めきが持って行った銀色の輝きを、幼い少女は、いつまでも見送っていた。
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BY 餡子郎
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