第10章・Fast zu ernst(むきになって)
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ムウとのテレパス会話を終えたデスマスクは、その足で、再度巨蟹宮へ向かった。
目の前にあるのは、蟹座キャンサーのパンドラボックス。
次代の聖闘士は、アテナという神の決めた運命ではなく、聖衣の意思……いや、先代の聖闘士達の残した小宇宙に宿る“遺志”によって選ばれる。
ムウから得たその情報について、キャンサーのパンドラボックスを睨むように眺めながら、デスマスクは思考を巡らせた。
しかし、最も信憑性のある新説とはいえ、それもまた、あくまで修復師たちの独自の見解の域を出ない。だがそれに確固たる裏付けを取るに絶好の機会が、いまデスマスクには与えられている。
あの、琴座の試練に勝利した少年。
元々格闘訓練はサボり放題、更に結構な期間五老峰に居たデスマスクもその実力を風の噂で知っていた位なので、闘技場に真面目に通う連中には有名人なのかもしれない。聞けばその素行くらい、すぐに知れるだろう。
(シュラなら知ってるか……)
だがさすがにあんな状態のシュラに色々と喋らせるのはどうだろうか、とそこまで考えて、デスマスクは突如、ふっと笑った。シュラを気遣うことはするくせに、先程のムウへの仕打ちは一体何だ。
(いや)
これもあくまで合理性に乗っ取った判断だな、とデスマスクはまた自分を分析する。当事者であり全てを知っているシュラを刺激するのは憚られるが、当事者から最も近い人物でありながらそれを露程も知らないムウに“いつも通り”接するのに、何の問題もない。それだけのこと。
「あ」
ピン、とパズルのピースがぴったりはまった感触に、デスマスクは実際に、小さく声を上げた。
(──罪悪感、だ)
自分は生まれつき、何かのネジが飛んでいる。そしてそのネジとは罪悪感というものに他ならない、とデスマスクは悟った。
世間で何が罪とされるのか、頭ではわかっている。そして殺人こそが、最も重い罪の一つであることも。
しかし犯してきた罪の中でおそらくそれが一番多いだろうデスマスクは、一度として“罪悪感”というものを覚えたことがない。
あの街に居た頃、女達に害を為す男達を殺し、ここ聖域でも、自分や自分が気に入っている人々に害を為す雑兵たちを殺した。理由があるからといって殺人が合法化されるわけはない、ということもまた理解しているが、それでもデスマスクは、罪悪感で胸を痛める、ということがやはり、全く、確かに、ただの一度もなかったのだった。
罪を罪と感じない、しかし個のアイデンティティが侵されることを何よりも厭い、自分の感情を最優先する。そしてムウの境遇に同情するという“他人が受けるだろう感情を理解する”ということも出来る。だから母の為に父親を、殺人の中でも最も重いとされる肉親殺しを犯したシュラに「しょうがない」という評価を下した。彼が正しいからではない。彼の感情が理解できたから。
(──はっ)
──とんだ悪党じゃねえか。
デスマスクは、にやり、と笑った。
その笑みには自嘲めいた悲壮感など微塵もなく、むしろ楽しげですらあった。
罪悪感を持たず、そして自分の感情の為に殺す。そんな自分が間違いなく悪党の資質、しかも最も質の悪い部類のそれであることを、デスマスクは悟った。そしてそれ故に、自分に本当の意味で罰を下せるものは存在しない、ということも。
何しろ、罪を罪と感じないのだ。そんなデスマスクにもし罰を与えた所で、悔い改める可能性はゼロ。罰を望んだ者たちは、気が済むどころか更にやるせない思いを抱くことになるだろう。
(上等だ)
それを悟ったデスマスクはその時、興奮──深い歓びと言ってもいい、そんなものを覚えた。
罰を与えられることがないということは、ある意味無敵だということだ。試合には負けても、勝負には絶対に負けないというその確信は、“悪党”の資質を持つものにとって、頼もしく、そして自信に繋がるカードだった。
それは絶対的な確信であり、そして力任せの勢いよりも緻密な知略を巡らすことを得意とし、情報戦こそ戦争の真髄だと思うデスマスクにとって、かなり強力なカードだった。
そしてこのカードさえ手放さずに居れば、どんな時でも大概のことに対処できる、というのもまた、彼が得た確信のひとつだった。一層、笑みが深くなる。
(ああ、上等だぜ)
胸の底から沸き上がるのは、残虐な興奮。
(“デスマスク”に相応しい)
クク、と、少年は銀髪を揺らし、赤い目を細めながら喉を鳴らした。おかしくてたまらない。こんなに愉快なのはどのぐらいぶりだろう。
──俺は、やっぱり“デスマスク”だったのだ。
いっそ誇らしい気持ちで、少年は胸を張り、笑みを浮かべて、赤く輝く月を挑戦的に見た。
《──デスマスク》
「……サガ?」
ピリッ、という気配とともに頭の中に響いてきた思念に、デスマスクは思わず教皇宮の方向に目線を向けた。
《何だ? ……今度は何を見せようって?》
笑みを含んだ声で言ったデスマスクに、サガは少し驚いたようだった。しかし彼もまたすぐ笑みを、しかもにやりと面白そうな笑みを浮かべた事に、デスマスクも気付いた。
《ああ、そうだ。ひとつ頼みたいことがある。……教皇としてな》
《さっそく“オシゴト”する気か? 張り切ってんな》
《意欲がある所を見てもらおうと思ってな》
笑いを含ませながらそんな会話を交わす彼らは、どこからどう見ても悪党である。そしてデスマスクは、そんな会話を楽しんだ。そういう風に話を振ってくるサガを、素直に好ましいと思う。誰だって、話す相手は話題が合って、ノリが良い奴の方がいいに決まっている。
《脱走者討伐を頼みたい》
《討伐》
《候補生が、琴座ライラの白銀聖衣を奪って逃走した》
その言葉に、デスマスクは目を見開く。
《そうだ。先日試合に勝利した、しかし聖衣に認められなかったあの少年だ》
デスマスクが聞くより先に、サガは言った。
《おそらくそ奴は、琴座ライラの聖衣を得た状態で外界に逃げることを求められていたはずだ。小宇宙の闘法を会得した脱走兵を駒として使う奴らにとって、聖衣を持った正式な聖闘士を手のうちに引き込むのはかなりの箔付けになる》
《で、試合に勝ったまではいいが聖衣に認められなかったというアクシデントが起こり、仕方なく“聖衣を奪って逃げた脱走者”になった……ってとこか》
《十中八九それだろう。だが奴らの真の誤算は、教皇の玉座に着いているのがあの惚け老人ではないということだ》
クックッ、と、サガは楽しげに笑った。
《お前は、やむを得ない事情でイタリアでの試練が受けられなくなった、ということにしてある》
《…………》
《だからこの脱走者討伐をその試練とする、と言って、自分達の息のかかった聖闘士資格保持者を討伐──スカウト送迎に向かわせようとする神官どもを止めた。あの慌てた面、お前にも見せてやりたかったぞ》
悪党め、と、デスマスクは心の中で呟く。自分が相当な悪党であることは先程自覚した所であるが、この男はまた違うスタンスでもって、相当な悪党だ。だが自分の掲げる正義のために迷いなく悪党になるその姿勢は、デスマスクにとって、間違いなく好感の持てるものだった。彼こそが正しいと思ったわけではない。ただデスマスクの性格と感情が、彼の性格と感情を、好ましいと言っていた。気が合う、と言ってもいい。
《……で? 殺すのか?》
《それはお前に任せよう》
あっさりと、サガは言った。
《討伐を成して戻れば、おまえは正式に蟹座キャンサーだ。教皇である私が、そう認める》
それは、まさに教皇が任務を言い渡すときの、重々しい口調だった。
《討伐を成して戻るか、それとも他の道を取るか、全てお前に任せよう。先程言った通り──わたしの正義がおまえ達の正義だというならば、》
力を貸してもらいたい。
もう一度、サガはそう言った。
「…………」
サガの思念が途切れた後、デスマスクはふいにキャンサーのパンドラボックスを担ぎ上げ、階段を駆け下りた。
デスマスクも候補生の身といえど、“黄金の器”と白銀聖闘士候補生では比べ物にならない。デスマスクはすぐに、琴座ライラのパンドラボックスを担ぎ、森で身を潜める少年を見つけることが出来た。
「ひっ……!」
小宇宙を発し、赤い目を金色に光らせて近寄れば、彼は面白いほど恐れ戦き、腰を抜かすのではないかというほど怯えた。年齢はデスマスクより少年の方がいくらか上であろうが、彼も候補生である。“黄金の器”がどれほどの力を持ち、そしてここ聖域に来てから、何人もの雑兵を指一本まともに動かさずに殺したという得体の知れない力を持ったデスマスクのことは、嫌というほど知っているのだろう。しかもデスマスクは、黄金色に輝くキャンサーのパンドラボックスを担いでいる。ここ聖域でこの黄金の輝きは、神の威光にも等しかった。
「……おいおい、そんなに怖がらなくたっていいじゃねえか」
「は、話が違う……!」
それはおそらく、神官が寄越す迎えとここで落ち合うはずだったのに、ということだろう。真っ向からそうなのかと問うてみれば、彼は怯えきった顔で絶句した。ここまでわかりやすいといっそ拍子抜けだ。
「……おまえは」
怯えきっている少年に対して、デスマスクは静かに、慎重な口調で言った。
「──お前は、なんで聖闘士になりたかったんだ?」
それは試合の前日、あの娘にも投げかけた質問だった。
あの娘は、母として、自分の幼い娘に聖闘士の残酷な試練の道を与えない為だ、と言った。それはデスマスクにとってとても説得力のある、そして好ましい答えだった。
「答えろ」
デスマスクは瞬き一つせず、少年を見つめた。真っ赤な目が金色の光を帯び、闇の中でぎらぎら光っている。少年はそれをまさに化け物を見るような表情で見遣り、ごくりと唾を飲み込んだ。
「お、俺は」
つっかえつっかえ、少年は話しだす。デスマスクは、じっとそれを聞いていた。
「こんな、こんな場所で一生を終えるなんて」
少年は涙目になりながら、必死の形相だ。
「こんな恐ろしい場所で、アテナだか聖戦だかわけのわからないことに命を賭けるなんて」
「…………」
「俺は、必死になって生き残った! ここで!」
泣き叫ぶような声だった。
「何度も死ぬと思いながら、それでも生き残って、力をつけて、試合に勝って、……そんな俺が、どうして認められない! どうして外の世界で不自由無く暮らしてはいけないんだ!? どうして」
うっ、と少年が嘔吐く。大粒の涙が零れ落ちれば、彼の顔はまるっきり、無力な子供の泣き顔にしか見えなかった。だが彼もまた、外の世界に行けば大人達に保護されてしかるべき年齢の、おそらく20にも満たない少年なのだろう。
「どうして世界で俺だけが、こんなめにあわなくちゃいけないんだ……!」
「…………」
少年の悲痛な叫びを、真っ暗な森が吸い込んで行く。赤い月は大きく、ざわざわと風が吹いた。
「なあ、見逃してくれ、俺はただ」
「お前の言うことはわかる」
デスマスクは、平淡な声で言った。
「ここが犬のく(・)そ(・)溜(・)め(・)みてえな場所だってことも、お前が外の世界で不自由無く暮らしてえってことも、何で自分だけがこんな目に遭うんだって思うことも」
自分もさんざん思ったからな、とまでは言わなかった。
しかし全面的に同意する言葉を吐いたデスマスクに、少年はきょとんとしつつも、しかし希望があるのかと、震えた指先を伸ばす。
「でもな」
デスマスクは首を傾けて顎を上げると、金色に光る赤い目で、縋ろうとする少年を見下ろした。
「お前に負けたあいつも、そう思ってた」
きっとそうだろう。だって、誰(・)だ(・)っ(・)て(・)そ(・)う(・)思(・)う(・)に(・)決(・)ま(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)。
「でもあいつは、ひたすら娘の為に聖闘士になろうとしてた」
「そんなのっ……!」
少年は、くしゃりと表情を崩した。あきらかに実力が下だった対戦相手を殺したこと、そしてそれがよりにもよってそんな事情を持っていたということに罪悪感を覚えているのだろう。デスマスクが持たない、その感情を。
「俺はお前が悪いとは思ってねえよ。自分の為に自分の力を使おうとするのは当たり前のことだ。俺だってそうだ」
「じゃあ、」
少年が、泣きながら手を伸ばす。救いを求めるように、縋るように。しかし赤い目は、どこまでも冷徹だった。
「でも俺、お前のこと別に好きじゃねえし」
「な」
さらりとそう言ったデスマスクに、少年は絶句し、信じられない、というような目で彼を見た。そして次に、今の言葉が聞き間違いではないのかと考え、でなければ何か言葉の裏の意味があるのではないかと考える。しかしデスマスクが発したそれが本当に言葉通りの意味しか無いと察したその時、少年は、化け物を見る目でデスマスクを見た。
そして人差し指を少年に向け小宇宙を高めて行くデスマスクに、少年は喉が破れんばかりの声で叫ぶ。
「そんな、……そんな! どうして俺が殺されなくちゃならないんだ! どうして、俺は何もしてない、何も悪いことなんかしてないのにどうして」
「そんなもん」
泣き喚く少年を、デスマスクは眉一つ動かさずに見た。彼の気持ちはよく分かるし、同情もする。だが彼の答えは、存在は、デスマスクの興味を引かなかった。そして、
「お前が、俺より、弱いからだ」
それはこの場所に来た時、初めて自分の心に染み込んだ言葉だった。林檎の甘酸っぱい味が蘇る。
「あいつはお前より弱かったから死んだ。お前は悪くない」
「ひ、ひい……」
「そしてお前は、俺より弱かった」
それだけの話だ、とデスマスクが言い終わったとき、少年の身体が、ドサリと地に伏した。積尸気の穴が閉じる。
「俺は悪者か?」
琴座ライラのパンドラボックスと少年の死体を前に、フン、と、デスマスクは鼻を鳴らして笑う。
「なあ、……キャンサー」
肩に担いだ金色の箱を、デスマスクは乱暴に地面に下ろした。