第10章・Fast zu ernst(むきになって)
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綽々とした笑みを浮かべる黒髪のサガに見送られ、三人は教皇の間を出た。
「……シュラ」
アフロディーテが、まずそう言った。シュラは俯き、既に一言も発さないばかりか、こうしてここに出てくるのも、アフロディーテに引きずられるようだった。聖衣というものは、小宇宙を通す事により羽根のように軽くなり、そしてパーツが擦れ合う度に星が鳴るような音を奏でるようになる。しかしシュラが足を進めた時は、ガチャン、と投げ捨てられた鍋のような音を出した。
生まれながらにして小宇宙に目覚め、常に微弱に小宇宙を纏う“黄金の器”が纏う聖衣がそんな状態を見せるという事は、シュラがいかに散漫な精神状態であるかという事を知らせた。
デスマスクはそんなシュラを見てぎゅっと眉根を寄せ、拳を握る。いくら考えても、何を言っていいのか皆目見当もつかなかった。
しかし彼はいつまでもこうしていても仕方が無い、という結論に直ぐさま達した。それはサガが言ったように小宇宙によってその脳をかなりのスピードで回転させているからでもあるが、これは彼の性格でもある──というのは、彼自身がつい最近自覚した事でもあった。
(俺は、思ったより頑丈だ)
最も大事なものから引き離され、そして何年もかかって成そうとしたものがとっくになくなってしまっていても、自分はこうして誰よりも冷静にものを考えることが出来ている事に、デスマスクは気付いた。たとえ感情的になっても、頭のどこかでは冷静にものを考えている。
彼はふいに、自分の状態をゲームに置き換えるという発想を浮かべる。自分の手の中には、様々なカードがある。情報という名の様々なカードは、他の者たちのカードに様々な影響をもたらす。
──この手札を、どう生かすか。
デスマスクはシュラのことを、生まれつきいくつかのネジがぶっ飛んだ奴だと思っていたのだが、どうやら自分もそうであったらしい、と彼は非情に冷静な、客観的な視点でもって自覚した。
デスマスクは、再度頭脳を回転させ始める。常に適度に冷却された脳は、素早く思考を発展させ、構築してゆく。
「……アフロディーテ、シュラを頼む」
「わかった」
アフロディーテは、何も聞かずに頷いた。
彼はいつも、何も言わない。常に受け身の姿勢であり、自分から動くという事のあまりない彼は、年少組の一部にとても薄情な奴だと思われている。確かにそれはそれで真実ではあるのだが、デスマスクが考えるに、アフロディーテという少年は、どこまでも平等な性格をしていた。
例えば彼は、誰かに何かをしてもらった時は、後で必ずそれを返す。常にあるがままであり、受動的で、しかしそんな自分に働きかけてきたものに対してはそれ相応の返し方をする、それがアフロディーテという少年のあり方だった。
それは地面に根を張り、水や光を受けた分だけ美しく咲き、そして無遠慮に自分を摘もうとする者には容赦なく棘を刺す花々にとてもよく似た佇まいであるように思えた。
そういうアフロディーテが常にしんがりに居るからこそ、それが時に非情とも異常とも言えるような行動であっても、彼らは自分がこれと思った事を遠慮なく行なうことが出来た。例えば、友人を殺してしまったことが明らかになり、相当危ない状態だろうシュラを置いていく事とか。
「行ってこい」
そうアフロディーテに送られ、デスマスクは真っすぐ前を見、走り出した。
──見極めなくてはならない。
巨蟹宮付近まで降りたデスマスクは、すう、と大きく息を吸い、意識を集中した。
彼がいくら超能力に長けていて、相手もかなりのレベルでそうであるとは言っても、──チベットまでのテレパスはなかなか骨だ。
《──ムウ》
《デスマスクですか? めずらしいですね》
どうかしましたか、と言うムウの思念は、ごくごく“いつもどおり”だった。
《オメーに聞きたい事があんだよ。聖衣の事で》
やっぱり自分は頭のネジが何本か生まれつきねえんだな、とデスマスクは改めて思った。誰よりも師匠を慕っていたこの少年は、その師が既に死んでいる事など露程も知らない。だがデスマスクは完璧に、そして異常なほど冷静に、“いつも通り”を装ってみせた。
《聖衣のことなら、シオンに聞けばいいじゃないですか。なんでわざわざわたしに聞くんです》
《爺さん、瞑想で引き籠ってんだよ! 瞑想中に入ったら便所掃除一ヶ月どころじゃねえって、お前も知ってんだろ》
デスマスクがそう言えば、ムウは、はは、と小さく笑った。
彼が受けているアリエスの試練は、チベットの秘境・ジャミールという土地にあるアリエス代々の工房にて、師が出した課題のものを作り上げる事である。唯一聖衣の修復を請け負うアリエスは、時に戦闘能力よりも修復師としての能力を重要視される。
シオンはその両方を持っていたからこそ、教皇であったのだろう。
《それで、聞きたいこととは?》
《──“聖衣の意思”についてだ》
聖衣には意思があり、持ち主を選ぶ。
それは疑いも無く誰もに信じられていることで、そして琴座ライラの聖衣も、それを原因として、試合の雌雄が決したにもかかわらず持ち主は保留のままとなった。
《率直に聞く。聖(・)衣(・)の(・)意(・)思(・)っ(・)て(・)の(・)は(・)、ア(・)テ(・)ナ(・)の(・)意(・)思(・)か(・)?(・)》
デスマスクは、先日の琴座ライラを巡る試合についての顛末を、簡単にムウに説明した。アテナが彼に宿星を与えていなかったから、勝者の少年に聖衣は与えられなかったということを。ムウはそれを、とても神妙な様子で聞いた後、言った。
《……聖衣にアテナの意思が宿っているかどうかについては、誰にもわかりません。神の意思がわかれば、何もかも苦労がないのですから》
ごもっとも、な答えだ。デスマスクは落胆と納得を同時に味わい、軽く肩を落とした。しかしここは聖域、「そうに違いないにきまっているでしょう」と返って来ないだけ上等でもある。ムウもまた、シャカやデスマスクのように自覚はしていないだろうが、その頭脳に小宇宙で働きかける術を感覚的に多少知っている。
《ですが、聖衣に意思がある、というのは本当です》
ムウは、がんとした確信を込めて言った。デスマスクが目を細める。
《……それは、誰(・)の(・)意思だ?》
《これは、修復師が聖衣を扱う上で確信することなのですが》
聖衣の修復には、小宇宙が篭った血、すなわち聖闘士の血を使うのだ、とムウは言った。
《……血?》
《ええ、小宇宙に目覚めたその時、小宇宙はその血にやどり、身体をめぐるのです》
《へえ……》
初めて聞くそれに、デスマスクは非常に興味深そうに相槌を打った。小宇宙というものを、そのようなごく物理的な観点で見ることが出来るという事実。
《オリハルコン、ガマニオン、スターダストサンド。これらの合金で出来た聖衣の重さは相当なものですが、小宇宙を流すことで、羽根のような軽さでまとうことが出来ます。そして、同時にこの合金こそが攻撃的小宇宙を防御するにもっとも効果的だと私たちの祖先が見出したまではいいのですが──》
《……待て》
流暢に説明しだしたムウの言葉を、デスマスクは遮った。
《話の腰折って悪いな。……今、祖先って言ったな》
《ええ。アリエスの一族です》
《聖衣は、……おまえ達が開発したものなのか?》
《そのように聞いています》
セブンセンシズが当たり前の感覚の一つである神は、攻撃的小宇宙を防御する装備・神衣を誰もが装着している。そして小宇宙による戦闘に備えるため、自分の兵士に神衣に似せた甲冑を与えた最初の神はポセイドンである、というのは、聖闘士であれば誰もが習うことだ。それからポセイドンが与えた鱗衣に倣い、他の軍勢も自分の兵士に甲冑を与え始めた。
《聖衣は、……アテナが与えたものじゃ、なかったのか?》
《ちがいます》
きっぱりとした答えに、デスマスクは、ぞくりと背筋に登るものを感じた。強力な手札が自分の手に回って来るかもしれない、その興奮。
《アテナは、武器を持つことを嫌います。防御の為の甲冑はその限りではないのかもしれませんが、生身で戦うことを最も良しとすることは確か。だから聖衣とは、私たちの祖先が開発し、アテナの許しを得て作り始めたものだと聞いています》
聖衣を開発した一族、その自負と誇りから来るものだろう、ムウの言葉はいちいちきっぱりとしていた。
《ああ、そうですね、ここでさっきの血の話にもつながります》
《? どういうことだ?》
《他の軍勢の甲冑……、例えばハーデス軍の冥衣などは、ハーデスの血、……いえ“イーコール”を用いて作られているそうです》
“イーコール”とは神の血、いや厳密に言うとそれは「血」ではなく、彼らの身体に流れる体液のことである。
神話においては、トロイアの王子にしてローマ建国の祖である英雄アイネイアスと、こちらもアレスをも傷つけて敗退させた英雄ディオメデスが戦った時、女神アフロディーテがイーコールを流す記述が見られる。
イーコールは“不死の血”とも呼ばれ、この体液のお陰で神は不老不死であるとも言われている。
《用いられるのはごく僅かであるそうですが、何しろイーコールです。その効果は絶大》
《だが聖衣はそうじゃねえ……》
《そうです。聖衣には、アテナの血……イーコールは使用されていません。そしてその代わり、聖衣は代々の聖闘士達、彼らの小宇宙が溶け出した血を使って強化されてきました。しかしいくら屈強な聖闘士達の小宇宙の宿る血とはいえ、しょせんは人間のもの。イーコールと違って、修復の際にはかなりの量の血が必要になります》
一滴にも満たないイーコールで強大な力を持つ、他の軍勢の甲冑。それに対抗する為に、一つの聖衣に一体何人分の聖闘士達の血が流れたのだろうか。
《そうやって、聖衣は、代々の聖闘士達の血で修復され、あるいはより強く、と改良されてきました。ですから聖衣に宿るという意思は、血を流した代々の聖闘士達の“意思”……いえこの場合“遺志”、それなのではないか、というのが、我々修復師の見解です》
そしてそれにはちゃんと根拠があるのだ、とムウは話しだした。
《小宇宙というものは、誰の小宇宙であっても、基本的に、本人の肉体にしか馴染まないものです》
だからこそヒーリングに小宇宙を用いる場合は、相手の小宇宙の波長に自分の小宇宙を慎重に同化させることが必要となる。そうでなくては逆効果にもなり得るからだ。
それを踏まえると、小宇宙の宿る血を凄まじい量浴びて作られた聖衣は、すなわち、それだけの小宇宙が蓄積されている、ということになる。そしてそれを身に纏うには、聖衣に込められた過去の聖闘士達の小宇宙に同調しなければならない。
《肉体を離れて何かに宿らせた小宇宙は、ある程度の──なんといいますか、形状記憶のような性質を持ちます》
《……例えばカミュの小宇宙を込めると凍気に耐性のある聖衣になる、って感じか?》
《実際にはそこまで単純なものではありませんが、そのような感じです》
ムウが頷くのが、思念の微妙な揺れでわかった。
《つまり、代々のその聖衣の持ち主なり、その聖衣の為に大量の血を流したかつての聖闘士たちの小宇宙が持つ特性。これがつまり、“聖衣の意思”と呼ばれるものだと、我々は認識しています》
どんな聖闘士だって、自分が纏って戦った聖衣ですから、相応しい人間に譲りたいと思うものでしょう? とムウは少し柔らかい調子で言った。
《わたしはその、琴座ライラの聖衣の試合に勝った人のことは存じ上げないので何とも言えませんが、その方はもしかしたらそういった面であまり相応しくない方だった、ということではないでしょうか? 例えばものすごく素行が悪いとか》
戦闘に強いこととそういう所は別ですからね、というムウの言葉を、デスマスクはいつの間にか更にフル回転し始めた脳でもって聞いていた。
聖衣の意思の正体、それは先代の聖闘士達の、“この聖衣に相応しい持ち主を求める”──という意思のことだった。まだ少し想像の域を出ていないが、多量の血、小宇宙が込められたその聖衣を纏うには、普通のヒーリングのような要領では足りないのだ。持ち主にならんとする者は、その聖衣が持つ“持ち主として相応しい”という条件をクリアしていなければならない。そしてその条件をクリアし聖衣に認めらたとき、おそらく、聖衣に込められた小宇宙の方が、持ち主の小宇宙と同調する“形状記憶作用”を起こすのだろう。
《……しかし、どうしていきなりこのようなことを? あなたもまだ蟹座キャンサーの聖衣を得ていないのですか?》
《ああ、まあな》
まったく動揺しない自分を、デスマスクは客観的な視点で見る。ムウのことが嫌いなわけでも、彼に同情しないわけでもない。だが彼は、どこまでも冷静だった。感情を深く理解し、その為にマグマのような怒りを抱き抗うことと、墓土のように冷たく湿った冷静さ。相反するだろうはずのそれであるがしかし、彼の中で、それは普通に両立し得るものだった。どこのネジがすっぽ抜けてこうなったんだろうか、とデスマスクはやはり冷静に、しみじみと思う。
《もしや、あなたも試練が手詰まりなのですか?》
《“も”ってことは、お前は手詰まりなのかよ》
笑ってさえみせた。
《……確かに今少し手間取っていますが……》
少しむすくれたように、ムウは言った。
《しかし、わたしは必ず試練をやり遂げてみせます。そしてシオンに認めてもらって、アリエスの黄金聖闘士になるのですから!》
彼が聖闘士として某かの思想を持ってアテナの闘士になろうとしているのではないことは、誰もが知っていることだ。戦闘よりも修復師としての技の方に興味が深いのだと自ら公言する彼は、もともと職人気質が強いのだろう。そしてそんな彼はただ、師であるシオンを尊敬し、彼に認められる為に聖闘士になろうとしている。
《ふうん。ま、がんばりな》
だったらムウは聖闘士になれるのだろうか、とデスマスクは考える。
──ムウの師は、もういないのだ。どこにも。
《あなたこそ。わたしの話は参考になりましたか?》
《……ああ、おおいにな。ありがとよ、ムウ》
笑みの篭った声で礼を言う。赤い目は、底冷えのするような光をたたえて月を見ていた。
《いいえ、どういたしまして》
お互い頑張りましょうね、とにこやかな声を返してきたムウにもう一度礼を言って、デスマスクはテレパスの思念を切った。