第9章・Ritter vom Steckenpferd(木馬の騎士)
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「……は?」
予想だにしないシュラの反応に、デスマスクは眉をひそめて彼を見る。シュラは青い顔で冷や汗を流しながら、目を見開き、まるで化け物と対峙したかのような表情で、玉座の教皇を凝視している。
「……兜を取れ」
「シュラ?」
「兜を取れ!」
凄まじい剣幕で、シュラが怒鳴った。教皇の間に彼の声が反響して、頭をぐらぐらさせる。教皇は黙ってシュラを見返していたが、やがてゆっくりと兜に両手をかけ、──そして外した。
シュラは、いよいよ真っ青になっていた。震えてすら居る。
しかし二人には、見慣れたしわくちゃの顔の何がどうそこまでの反応を起こさせるものかさっぱりわからず、眉をひそめて頭の周りに疑問符を飛ばしていた。
「誰だ、おまえ……!」
「どうしたんだ、シュラ」
こちらも訝しげな表情で、アフロディーテがシュラの腕をとる。シュラは教皇から目を逸らし、アフロディーテとデスマスクを交互に何度か見て、絶望したように眉を下げた。
「……見え、ない、……のか?」
「え……?」
「──成る程、成る程」
そう言ったのは、教皇である。その声は非常に満足そうで、晴れ晴れとすらしているように聞こえた。
「それでデスマスク、おまえは私に何の用だ」
「? 報告はいいのかよ」
「もう十分だ」
意味はわからなかったが、デスマスクはそれを一旦保留にして、シュラの様子を見た。彼は、呆然としたようにまた教皇を凝視している。彼の腕をとっているアフロディーテにアイコンタクトを送ると、彼もまた目線を返してきた。とりあえずシュラはアフロディーテに任せておけば大丈夫だと判断したデスマスクは、いよいよ正面切って教皇に向き直った。
「聞きたいことは色々あるが、まず──……」
デスマスクは、一度すっと息を吸った。
「アテナに会わせてくれよ」
「ならん。こ度のことがあった故、アテナにはこの教皇が全て取り次ぐこととすると達しを下したはずだが」
「へえ、そうかい。あんまり手のかかる赤ん坊だって聞いてたから、手伝ってやろうと思ったのによ。なんせ女官が一人も居やしねえ」
「何が言いたい?」
教皇の声は、堂々としていた。こちらが詰問する側だと思っていたデスマスクだが、そのあまりの腹の据わりように、不覚にも少し気圧されかける。しかしすぐに気を立て直し、いっそ不敵に笑ってみせた。
「そう言ってくれるんなら、単刀直入に聞こうか」
「…………」
「なぜ警護の雑兵や女官を、一人残らず追い出した?」
「教皇の私一人でアテナをお守りするのと、もはや何をするかわからぬ雑兵や女官をうろつかせるのとどちらが安全か、わからぬではあるまい」
「フン。じゃあ“外”に居るちびどもを呼び戻せばいいだろう。なんせ今十二宮はガラガラだ。心細いだろう?」
「もう事件は解決しつつある。いま試練を中断し、正式に黄金聖闘士となる機会を先延ばしにするのは得策ではない。アテナを確実に守ろうとすればこその判断だ」
よく言う、とデスマスクはフンと小さく鼻を鳴らした。
「……じゃあもう一つ。アイオロスがアテナを殺そうとした動機はなんだ? あの聖域生まれ聖域育ちで骨の髄からアテナ信奉が染み付いてる奴が」
「私の知る所ではない」
「へえ」
デスマスクは真っすぐに教皇を見たまま、瞼をすっと半分下げた。
「じゃあ、なんでアイオロスを“殺せ”と命令した?」
「……何?」
初めて教皇が即答しなかったその時、赤い目がぎらりと光った。
「アテナに忠誠厚き黄金聖闘士がアテナを殺しかけた──この大事件の動機を探らないまま“ドラコン”を発動させたのは何故だ?」
普通考えれば、この場合、生け捕りにして尋問というのが当然の流れだろう、とデスマスクは言う。まずアイオロスという男の人柄を考えてアテナ殺害未遂というのは考えられない罪状だし、それが真実であるならば、彼を唆した黒幕の存在を疑いその駆逐に努めるべきだ、とも。
「なのに何故、問答無用でアイオロスを殺そうとした?」
「…………」
無言の教皇を、デスマスクは睨みつけた。
「……何か、戻(・)っ(・)て(・)き(・)て(・)口(・)に(・)さ(・)れ(・)ち(・)ゃ(・)困(・)る(・)こ(・)と(・)でもあったのかい」
アイオロスを殺せという命令を下したということは、既に動機が明らかになっていてもう彼は敵以外の何者でもなく用済みということだ。しかしそうでないなら、何も言わせないまま殺せという命令を下したならば、それは──
「アイオロスを殺して、……何の口封じをしたかったんだ?」
「ばかなことを」
「じゃあ次の質問だ。どうしてあの時、“崖”と言った?」
ぴくり、と、ローブの裾から見える教皇の指が動いた気がした。
「何の話だ」
「昨日、俺とアフロディーテがアテナ神殿でアンタに見つかったとき、アンタは俺たちに言った」
──もしや、崖を伝ってきたのか?
「なぜ直ぐさま“崖”と言った? 見た目登りやすい屋根や木の側じゃなく、断崖絶壁の崖だと、なぜそう言った?」
「…………」
「まるで登ったことがあるみたいな口ぶりじゃねえか。この聖域の教皇、唯一誰にも咎められることなく自由に教皇宮とアテナ神殿を行き来できるはずのアンタが、ええ? 妙な話だぜ」
ぎろり。
デスマスクは、いよいよ本当に教皇を睨みつけた。
「……ふ」
小さな笑いが、教皇の口の端に浮かんだ。ぎりぎりと締め付けるような視線を送っていたデスマスクは、予想外の反応に表情を歪ませる。
「はははははは」
笑う声はいかにも愉快そうで、教皇は一頻り、喉を反らして無防備に笑った。3人はごくりと唾を飲み込みながら、玉座に座る教皇を凝視した。そしてふと、教皇は笑うのをやめ、まっすぐに3人を見た。
「興味深い、──やはり実に興味深いな、お前は」
デスマスクは、ぎくりと身を強ばらせる。すっと細められた教皇の目が、自分と同じ赤色であるような気がしたからだ。そしてなぜかその目の光に射抜かれた瞬間、頭の奥にツキンと鋭い痛みが走る。
(……何だ、これは)
「生まれつき小宇宙に目覚めし“黄金の器”、お前はその力を非常に有効に活用しているよ、デスマスク。他と違ってな」
吊り上がった口元から、白い歯が見えた。
(──白い、歯?)
そんなはずはない。あの老人の歯は、二百年以上の時を経て黄ばみ、痩せて尖っていたはずだ。滅多に笑わないあの老人が珍しくも微笑む時、それを見たことがあるではないか。──では今見たものは、なんだ?
「“黄金の器”は生まれつき巨大な小宇宙をその身に宿し、そしてそういう子供たちに“小宇宙の闘法”を叩き込むことで聖闘士の最高峰・黄金聖闘士とする」
教皇は、大仰に玉座から立ち上がると、ゆっくり、ゆっくりと歩を進めた。
「しかし小宇宙がもたらすのは、そういう力技だけではないことは意外に知られていない」
ゆっくりと近付いて来る教皇に、3人の髪の生え際には、汗が浮かんでいる。
「小宇宙の目覚めである、ZONE。これが引き起こす現象はなんだ?」
それは凄まじい集中力の倍増、身体感覚の拡大、知覚神経の鋭敏化、時間の感覚の遮断。
「そう、そして小宇宙が引き起こすのは、そういった現象の、常人では考えられぬ程のレベルのものだ。小宇宙の闘法とはそういう現象を利用し、相手が一動く間に百を動き、音速だの光速だの言われる動きを可能にすることをいい、ZONEの深度が深ければ深いほど巨大な小宇宙を発揮できる」
「…………」
「だがこのようなことを誰かから教えられたことがあるか? ないだろう。ここは、誰も彼もがただ“小宇宙を燃やせ”と言って崖から子供を突き落とすような奴らばかりだ。理論を無視して力技に徹することが小宇宙への近道だと思っている阿呆の、なんと多いことか」
教皇は両手を挙げて、嘆くようなポーズをしてみせた。
「小宇宙によって得られるのは、ただ巨大な力を有し、速く動くことだけではないというのに。……なあデスマスク、お前のように」
にい、と、白い歯が覗く口元が笑う。
「お前は、小宇宙が闘法にのみ適応されるものではないことを知っている。まずそこに気付いたのが、元々お前の頭の出来がいい証拠だがな」
「……そりゃ、どうも」
デスマスクはなんとか軽口を叩いてみたが、その表情は強ばり、また背中は既に冷や汗が洪水のように流れていた。
「常軌を逸した集中力と身体感覚の拡大、知覚神経の鋭敏化、時間の感覚の遮断。お前はそれを頭に、自分の内側で循環させることを体得している。活性化した脳をもって、凄まじい集中力により、他が一考える間に百を考える」
別に図星を指されて困ることではないが、言い当てられて、デスマスクは眉を顰めた。教皇の言う通り、デスマスクは小宇宙を脳に働かせる事により、凄まじい思考の回転が可能になることに気付いていた。
最初は単に、自分の小宇宙の特性が、燃やせば燃やすほど巨大な積尸気の穴を作るという、気軽に外に発することが出来ないものであることに寄る。しかし生まれつき巨大な小宇宙を持つ“黄金の器”は、ある程度定期的に小宇宙を発散させないとおかしくなってしまう所がある。他の“黄金の器”たちはそれを小宇宙の闘法の修行によって発散している。しかし格闘訓練よりも図書室に篭ることのほうに興味が高かったデスマスクは、修行に半分程度にしか顔を出さない。それは小宇宙を発散しなければ不調をきたす“黄金の器”たちにとっては、一般的な意味以上に「閉じこもってばかりで非健康的」であったが、デスマスクが不調をきたすことは無かった。
デスマスクは、自分が知らず知らずの内に小宇宙を使っていた。最初はちんぷんかんぷんもいい所だったラテン語とギリシア語で書かれた教皇宮の蔵書を半年かからず全て読み終わった時、彼はそのことに気付いたのである。
ろくに口もきけなかったはずのアフロディーテが驚くほど早く人間らしい所作を身につけ、既に大人を言い負かすほどの口をきけるようになっているのも、学ぼうとするうちに自然と小宇宙を発揮していたからに他ならない。
「その凄まじい脳の回転の速さで多大な知識を得ることは、急激な精神年齢の発達にも繋がろう。……お前の知能指数を測ったら、さぞ素晴らしい結果が出るだろうな」
ふふ、と教皇は笑う。
「訓練を殆どさぼっているようだが、ふふ、それもそうだろう。お前は戦士よりも参謀向きだ」
すとん、と自分の胸に何かが落ちた感覚に、デスマスクは既視感を覚えた。自分と同じフィールドで話が出来る人間と出会ったあの時の感覚。甘酸っぱい林檎の味が、舌の上に蘇ったような気がした。
「……その優秀な頭脳で、見てみるか、デスマスク」
「何を」
「わたしは、真実だの正義だの──……、偽善ぶった言葉は使わぬ」
教皇は、踵を返し、広間の右側にある重々しい幕に向かった。何をするのか、と三人はその視線を追う。
「私が示すのは、ただの事実だ。それを正義と見るのか悪と見るのか、そんなものは個人ずつの価値観に寄るものに過ぎん」
「……そうだな」
「ああ、そうとも。そうだろう?」
吊り上がった口元、赤く光る目。そして彼は、濃赤色の飾り幕を掴み、勢いよく捲り上げた。
「なっ……」
重たい濃赤色の幕の裏に転がっていたのは、一人の男だった。
既に痣と傷だらけのその様は、何らかの私刑、拷問を加えられたことを示している。“下”の人々とは比べ物にならないほどいつも美しく整えられた神官の衣装は見る影もなく、血と吐瀉物で汚れ、ずたずたになっていた。
「これは罪人だ」
教皇は、神官の腹をぞんざいに蹴り飛ばした。ひゅっ、と息を吸い込む音が聞こえたが、咳き込む体力はもう無いらしい。死にかけている。
呆然としている3人に、教皇は振り返った。
「聖域は、外界から隠された神の──アテナの領域だ。地上を守る聖闘士を育成する為の神の地、アテナの軍勢の本拠地、アテナを守る軍事要塞十二宮と、真実のアテナの聖地・アテナ神殿。パルテノンなど、外界の者がアテナ神殿に似せて作ったはりぼてだ」
「…………」
「だがそれだけに、この地は外界の援助を一切受けることができない地だ。完全な自給自足のために衣食住が不便な僻地だというだけならいいが、大怪我人が毎日出る環境な割に医者の一人もいはしない。何とか助かっても、水道すら整わず、汚れを落とす泉の水を飲む不衛生さの上、満足でない衣食住で衰弱死が関の山。しかもその大半が15年も生きていない子供ばかり」
先程宣言した通り、教皇の言葉は全て事実だった。
「だが、聖域のことを知る人間もいくらか存在する。いくつかの国のトップ、更に数百年単位から聖域に縁がある旧家──多くは昔聖闘士を輩出した家だが──そんな所だ。そして彼らは、定期的に聖域に布施を収めている」
「食いもんとか布とかだろ?」
「ははは」
笑い声は朗らかで、それが逆に不気味だった。
そして教皇は足下に転がる男の胸ぐらをいきなり掴み、吊り上げた。うう、と小さな呻きが聞こえる。
「もう一度聞くぞ」
にやにやと笑いながら、教皇は言った。
「先月の布施は?」
「…………」
「言え」
「…………はっぴゃく、まん」
──8,000,000ユーロ。
「な」
男が言ったかなりの額の数字に、デスマスクは目を見開いた。それなりの企業の資本金を遥かに超えるレベルのその金が、毎月やりとりされている、と男は言った。そしてそれだけの金を得ておきながら、“下”の人間たちの生活水準は開発途上の第三世界レベルと見合わせても低い。ということは、その金はどこに消えているのか。
「……見返りは何だ」
しかもドラクマ貨、ドラフメスではなく、ユーロ。ギリシャが欧州連合EUの経済連盟に加入し、移行期間を経てドラクマからユーロへの切り替えが行われたのはつい最近のことであり、まだ世間ではドラクマ貨も使用されている。なのに彼はユーロという単位を使った──ということは、その巨額のやり取りが外界の世情、しかも国際的なレベルなものに密接していることも知れる。デスマスクが回転の速い頭でそこまで察したことをその表情と発された質問で見抜いた教皇は、更に唇の端を吊り上げた。
「お前は本当に話が早くて助かるよ。……見返りは武力だ。外界の人間が動くと都合の悪いことに、世間的に存在しないはずの幻の地の人間、しかも小宇宙という超常的な力を持った人間を使いたい輩は山ほど居る。それこそ金に糸目をつけずにな」
「待て」
デスマスクが眉を顰め、教皇の言葉を遮った。
「神官たちで小宇宙の闘法を会得してる奴なんか居るのか? “下”の連中を使ってるにしたって、あんな場所でひとりいい暮らししてたらどうしても目立つ──」
「脱走兵だ」
教皇は、端的に答えた。
「聖域の地獄のような暮らしに絶えかねて脱走を企てる人間は、少なくはない」
「だが脱走は重罪、というか“ドラコン”──ああ、そうか」
脱走者へ追っ手を出すのは教皇の権限を一時委託された神官、そして神官が脱走者へ派遣するのは聖闘士。しかしいまここ聖域には、聖衣を保持した正式な聖闘士は黄金聖闘士以外に存在しないので、聖衣を持たない、しかし小宇宙の闘法は会得した聖闘士資格保持者が向かう。
「神官たちが出していたのは追っ手じゃなくて……スカウトマンか」
「そうだ。おそらく神官と癒着した聖闘士資格保持者が“下”に居る」
そして毎日原形を留めぬ死体が出ることも珍しくないこの地、代替えの死体などいくらでも用意できる。神官たちはそうして聖域から出ることを望む聖闘士のなり損ないたちをスカウトし──もしくは脱走の段階から計画的なものなのかもしれないが、そういった者たちを自分たちの手駒としていた。
「神官たちは全員がグル、“下”に居る手駒どもについてはまだわからん。なにしろ“これ”は下っ端だからな、これ以上の情報は知らんらしい。……さて、デスマスク」
「……何だよ」
にっこりと微笑まれ、デスマスクはまだ冷や汗が止まらなかったが、出来るだけ淡々と返事をするように努めた。
「どう思う? こ奴らにはどのような罰が相応しいか」
「まっ、て……!」
血反吐を吐きながら、男が呻いて身じろいだ。
「“下”の奴らを、かん、りしているのは、」
「…………」
「ミルトスだ、神官長も」
「成る程。他には?」
「し、らない、これで、ぜん、ぶ、……だから、」
「そうか。ならば用済みだな」
気味が悪いほど、優しい声だった。
──ゴキン。
鈍い音が響き、ドサリと男が床に落ちる。デスマスクは、自然に積尸気の穴が開く気配を感じた。
「……なん、だ」
ことあるごとに頭の中心を痛める針のような痛み、それがその時、消えた。
「はは、考えるまでもない。“ドラコン”だ。ははははははは」
教皇は、……彼は、喉を反らせてげらげらと笑っている。
ローブが捲れて露になった、男の胸ぐらを掴んで離した手。その手の皮膚は瑞々しく、すらりと美しい指は力強そうな肉がついているのがわかった。
「おまえ、……誰だ」
その口元には、顔には、皺など一つもない。瑞々しい肌は白く、これ以上無いほど整った顔立ち。その美しい姿は、獰猛な獣のように野性的に輝く黒い髪と、全てを噛み殺して頂点に立つかのような、ぎらぎら光る赤い目で構成されていた。
「誰?」
男は、笑っている。
「たった今術を解いてやったというのに、わからぬのか?」
男の足下には、たった今事切れた死体。
自信に溢れ、王者のように尊大で、勇者のように好戦的なその表情は、まるで敬虔な神父のようにひたすら優しく清廉で、そしてどこか弱さも見える美しい笑顔とは、──同じ顔であるにも関わらず、全く別のものだった。
「……サガ?」
Annotate:
ギリシャが通貨をドラクマからユーロに切り替えたのは2001年1月1日ですが、当サイトの聖闘士星矢は連載当時の昭和の設定よりも新しめの時代で進行する話、ていうかある意味パラレルワールドとかそういう感じでお願いします。ご都合主義ですみません。