第9章・Ritter vom Steckenpferd(木馬の騎士)
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「──坊ちゃん!」
デスマスクに背負われて磨羯宮に戻ってきたシュラを見て、ルイザが悲鳴じみた声を上げる。デスマスクは山羊座の聖衣を纏ったままのシュラをベッドに下ろし、顰めた顔で彼を見た。
「何なんだよ……!」
アイオロスがアテナを殺そうと反逆し、シュラが追っ手の任を任された。冗談にしたって趣味が悪すぎると叫びたくなるようなその報告は本当らしく、今は雑兵たちが総出で、おそらく崖から落ちて結界を越えた、アイオロスの──遺体を探している。
「──くそっ!」
なぜこうも次から次に悪夢のような事態が沸き起こってくるのか、ここは魔女の釡の底か、地獄の果ての血溜まりか。デスマスクはひっきりなしに小声で悪態と舌打ちを繰り返しながら、ばりばりと頭を掻き、脳を回転させた。
アイオロスがアテナを殺害してまで成そうとした目的は何か、否そんな目的などあり得ない。ならば何者かに脅迫されていたか──
(これもあり得ねえな。アテナ以上に優先するもんなんざ、あいつにはねえ)
あるとすれば弟のアイオリアか、しかし子供とはいえ“黄金の器”であるアイオリアが雑兵ごときにどうにかされるわけはない、よって聖域内の人間である可能性は無し。外界のそれなりの武力を持った組織なら可能だが、否、アイオロスは外界にまともに出たことも無いからこの可能性も除外。ならば脅迫の線は消えた、だとすれば操られていたか嵌められたか。前者は小宇宙は個人によって特性が違うが、聖闘士の技であれば可能性はありそうだ。デスマスクは精神を操る技を持っている人間など知らない。聖闘士の中には居ないし、そんな特殊能力を持つ人間が候補生の中に居れば、直ぐさま噂になっているはずだ。
(操られてた線は保留)
それに仮にそうだとしても、それは彼を何らかの策に嵌めるための手段であろう。今その手段を明かす必要は無い、知りたいのは動機とそれを持つ人間だ。
(アイオロスを亡き者にして喜ぶ人間………………、わからん、保留)
デスマスクはここまでの思考を十秒ほどでこなすと、今度はベッドに投げ出されたシュラに目を向けた。聖衣の所々についた血痕、土、デスマスクは彼の身体の状態に目を滑らせる。
(右手が折れてやがる)
他の箇所は全くもって無傷だというのに、シュラの右手は小指を中心にひどい有様だった。聖剣を操るシュラにとって最も大事な部位である利き手、そしてそれが一撃で潰されているという現状。これが意味するものは何か。
(普通なら、アイオロスにやられたか──……)
しかし、何者をも斬り裂く聖剣を発動させたシュラの手をぶち折るなんて真似が出来るか、答えは百パーセントで否。
(発動し損なった?)
瞬きも忘れるほど極限まで集中すること、聖剣の極意を理屈では知っているデスマスクの出した結論は、それだった。シュラは何かにひどく動揺し、聖剣を発動し損なって逆に自分の手を潰してしまった。
緊張でタイムを0.01秒遅らせるというような可能性が0.000001パーセントもあってはならない聖闘士、そしてその頂点である黄金聖闘士、しかも小宇宙の闘法の基本である極限までの集中力を極意とする聖剣の使い手が、“動揺して技を発動し損なった”。
(何が、あった)
それほどの動揺を引き起こした事態とは、一体何だ。デスマスクは眉間に深い皺を寄せて、苦悶の表情をしたシュラを見た。
「……チッ」
「おいデスマスク、どこへ行く」
扉を開けて外に出て行こうとしたデスマスクを、アフロディーテが引き止める。デスマスクは振り返った。
「推理が駄目なら現場検証だ。教皇の間と、──アテナ神殿へ行く」
「待て、私も行く。ルイザ、シュラを頼むぞ」
そして二人は、磨羯宮を飛び出した。
無人の宝瓶宮、そして双魚宮を駆け抜けて、二人は教皇宮へ辿り着く。そのままずかずかと教皇の間へ入ろうとする二人の前に、番をしている雑兵が立ちはだかった。
「キャンサー、ピスケス様、教皇様は瞑想中です」
「アイオロスの件で話がある。通せ」
「なりません。誰も通すなとのご命令です」
「知るか! 退け!」
「なりませ」
突然固まった雑兵にデスマスクが怪訝な顔をしたその時、雑兵は横にそのままドサリと倒れた。脇腹に、あの娘の麻酔の時に使ったのと同じ赤い薔薇が刺さっている。
「…………お前」
「行くぞ」
刺さった薔薇を雑兵の服の下に詰め、手際良く証拠を隠したアフロディーテは、さっさと立ち上がるとあっという間に走って行く。デスマスクは呆気にとられつつも、彼に並走して教皇の間に向かった。
「……さて、どうするか」
「アテナ神殿へ行くんだろ?」
「馬鹿」
きょとんと返したアフロディーテに、立ち止まったデスマスクは言い捨てた。
「アテナ神殿は教皇の間の玉座の後ろからしか行けねえんだぞ」
「だから?」
「教皇に気付かれずに行くにはどうしたらいいかってことだよ!」
いらいらと、小声で怒鳴るという器用な芸当をしてみせるデスマスクに、疑問符を頭の上に飛ばしまくっていたアフロディーテは、更に首を傾げる。
「なんでそんなことをするんだ。シオン様に言えばいいだろう」
「駄目だ」
きっぱりとした言葉に、アフロディーテの表情が顰められる。
「……教皇が、何か」
「多分」
シオンと言わずに教皇と呼んだアフロディーテに、デスマスクは彼がことの深刻さを正しく把握したことを悟り、頷いた。
「なんだかんだ言って、俺らはあの爺さんに一番近く接してる。たとえ本当にアイオロスがアテナを殺しかけたとしても、あの爺さんがいきなりシュラだけに追っ手の任務を負わせると思うか?」
「……いや」
それは無いだろう、とアフロディーテは首を振った。それはシオンがアイオロスを殺せという命令を下すはずが無い、ということではない。たとえ身内であろうとも、シオンはアテナへの反逆者を抹殺することを躊躇わないだろう。……彼は聖域の長である教皇であり、また二百年以上も聖闘士をやって来た筋金入りのアテナの戦士である。
デスマスクが言ったのは、むしろ反逆者であるアイオロスを追うのに、いきなりシュラだけにそれを告げたことである。シュラよりも雑兵たちに先に追わせたという事実はあるが、黄金聖闘士の中でもサガと並ぶ者であるアイオロスが、雑兵ごとき百人そこらに捕まるわけは無い。もしアイオロスが本当に反逆者であるならば、シオンはデスマスクやアフロディーテ、そして今聖域の外に居る年少組にも一気にそれを伝えるだろう。地球の裏側まで鮮明に届くテレパス能力を持つシオンには造作も無いことだ。
シオンが教皇であり、そして二百歳を超える年齢ということからもはや彼を人間として見ることが出来ない神官や雑兵たちは、デスマスクたちのようにシオンを爺さんと陰口ですら呼ぶことは無い。だがデスマスクたちは、彼が確かに人間であり、また行動理念と感情を持つ人間であることを知っている。そしてその上で、今回のシオンの行動は明らかにおかしかった。
「教皇は、何か俺たちに知られたくないことを隠してる」
「何だ、それは」
「それを今から調べに行くんだろうが。……あー、どうすっかな……」
こんなことなら避けずに頻繁に行って構造把握しときゃ良かった、とデスマスクは頭を抱えた。ここに連れて来られた際に牢に入れられてから、シオンとアテナをとにかく避ける傾向にあるデスマスクは、アテナ神殿にも教皇宮にも、やむを得ない時以外は殆ど足を踏み入れたことがない。裏道はおろか、どこにどんな部屋や道があるのかすらよく知らなかった。
「くそ……やっぱ情報収集は怠っちゃなんねえなあ……」
「あ」
突然、アフロディーテが短く声を上げた。何だと振り向くと、デスマスクもまたアフロディーテと同じ表情をする。
「あ」
厨房の小さな窓から、ぶっとい腕が手招きをしていた。
「何があった」
どんな時も余計なことを何一つ喋らないトニは、それだけ言う。そしてデスマスクは要点だけを的確にトニに話し、手早く説明を終えた。あらゆる面でこの歳頃の少年とは思えない迅速な頭の回転の速さである。
「にしても、アンタなんでこっちに残ってんだよ。人払いされてるはずだろ」
「阿呆、俺の居場所は厨房だけだ」
フン、とトニは鼻を鳴らした。
「──で、……行くのか」
「おう。……どうしても確かめなきゃなんねえ」
「…………」
「何が、起こってるのか」
腕を組んで厨房の壁にもたれかかっているトニを、デスマスクは真っすぐに見る。そしてトニもまたじっと彼を見返していたが、数秒してから、彼はふっと目を逸らした。
「……こっち来い。まだ誰か居るかもしれんから気をつけろ」
のっそりと動き出したトニは、相変わらず脚を引きずりながら厨房を出た。気をつけろというだけあって、そんな脚なのに、一つも足音をさせていない。
彼がかつてデスマスクに教えたように、ギリシアにおいて、料理を作る炉は、建物の中心に作られる。ここ教皇宮でもそれは例外ではなく、トニの厨房は、他の宮と同じく生活の為の離宮のほぼ中央に位置している。しかし厨房が行なう仕事が裏方であることもまた事実であり、美しく盛られた料理を運び出す廊下の他に、出たゴミや汚れ物を運ぶ、人目につかない廊下も繋げられている。
トニが案内したのは、その廊下だった。どんな抜け道を教えてくれるのかと思いきや、散々厨房を手伝わされているデスマスクが最もよく知る廊下を案内され、彼は怪訝な顔をする。しかしトニは、ちっとも音を立てない脚を引きずって、迷わずその廊下を行った。
「ここを見ろ」
そして奥まったその場所で、トニは窓を指差した。
「生ゴミの窓じゃねーか。それがどうした」
「いいから見ろ」
そこは、いつも厨房で出た生ゴミを捨てている窓だった。もちろんその為に作られた窓ではないのだが、下は獣しか住んでいない森である。外界風に言うならば百パーセントオーガニックの素材から出た生ゴミをそこに捨てたとて、獣たちと木々が喜ぶだけで何の害もないし、わざわざ雑兵に頼んでゴミを下に持って行かせる手間も省ける、というのがトニの言い分である。
デスマスクも何度かゴミを捨てさせられたことのあるその窓に、一番左側にトニ、次にデスマスク、右にアフロディーテと、3人は詰まるようにして身を乗り出した。見えるのは、崖の側面だ。何とか視線を上にやると、教皇の間本殿脇の白い柱が僅かに見える。
「いいか」
そう言って、トニはポケットから茶色く変色したリンゴの芯を取り出した。極限まで齧られている特徴的な食べ方は、まさしく料理長トニのものだ。
そして彼は左手にそれを持つと、窓から身を乗り出し、右側、教皇の間のある崖に向かって、思いっきりぶん投げた。
──バリバリバリバリッ!
二人は、唖然とした。
トニが投げたリンゴの芯は、崖に施されていた強固な結界によって、一瞬にして灰と化した。シン、と妙な沈黙が広がる。
「おら、どっちから行くんだ」
「ふざけんな!」
淡々と聞いてくるトニに、デスマスクは怒鳴った。──小声で。
「どうしろってんだ! 死ぬだろ! 普通に死ぬだろ!」
「阿呆」
ゴン、と拳骨が振ってきた。いつ如何なるときも容赦のない料理長の拳に、デスマスクはうっかり窓から落ちそうになり、アフロディーテがそれを慌てて支えた。
「お前は今まで何を見てきたんだ。“普通死ぬ”とこを死なないのが聖闘士だろうが」
「……それだってなア!」
女神アテナの神殿であり、そしてアテナを守る軍事要塞である十二宮は、パルテノン神殿が丘の上に建つように、岩山にぐるりと緩く巻き付くように建設されている。そしてその階段は宮を含めると万里の長城より長く、そして地上からアテナ神殿までの標高は、オリンポス山の2,917メートルを軽く越え、ゆうに5000メートル超である。
教皇の間とアテナ神殿へたどり着くまでには黄金聖闘士が守護する十二の宮を通り抜けなければならないとされているが、当然、それ以外のルートでの侵入者も想定されている。せこい発想だが、宮の屋根を越える、また宮を無視して山の岩肌を登るなどということである。
そしてそれを防ぐのが、この強固な結界だった。代々の教皇が毎度強化して行くというこの結界は、相当な威力を誇る。たとえ聖衣を着込んだ黄金聖闘士であろうと、この岩山を登って行くのは無理だろう。百メートルも登らず息絶えるのがオチだ。
「だから何だ」
実に淡々と、トニは言った。
「普通死ぬところを死なないようにする、これが聖闘士の最低条件だ。“ここ”じゃあ、歩けるようになった次にすることだ。違うか」
「…………」
二人は目を見張り、そしてごくりと唾を飲み込んだ。
もげた手足、潰れた目鼻、彼らの身体はその結果であり、そしてそれを生き抜いた者が聖闘士資格を得ることが出来る。トニもまた、かつて聖闘士資格を持った一人である。
「お前ら“黄金の器”と違って、俺たちは生まれつき小宇宙に目覚めちゃ居ねえ。それをこういう目に遭うことで、否が応でも目覚めさせる。死ぬか生きるか二つに一つ」
「…………」
「いつまでも甘ったれてんじゃねえぞ、坊主」
がしっ、と、トニの分厚く大きな手が、デスマスクの頭をわし掴んだ。
「知りたいことがあるんだろう。やりたいことがあるんなら、腹括って根性出せ」
「……聖闘士だからか」
「ヌルいな」
トニは、目を逸らさない。
「男だからだ」
例のリストを思い出した。母とお互いに意見を出し合って決めた、いい男の条件リスト。あのリストにはトニのいう条件は載っていなかったが、これはもしかすると、是非リストに追加すべき新たなる項目かもしれない。
「さあ、これ以上ガタガタ抜かすケツの穴の小さい男はここに居るか?」
「いや、居ねえ」
デスマスクは、にやりと不敵な笑みを浮かべてみせた。おそらく、アフロディーテも同じような顔をしているだろう。
「上等だ」
トニもまた、同じように笑った。
「いいか、結界ってのは、要するに本人から離れても機能している小宇宙だ」
トニは、そう説明した。他でそういうことが出来る聖闘士は知らないが、結界は何らかの方法でそこに小宇宙を溜め、触れるなり何らかの条件なりで発動するようにしたものをいうのだと。
「しかし、大昔から何代もの教皇が小宇宙を重ね塗りしてきた結界だ。どんな効果が出るやらわかったもんじゃねえ」
「……色んな特性の小宇宙が混ざって、起きる現象がランダムになってるってことか?」
「その通り」
「そりゃすげえ、泣きそう」
ははは、と半目になったデスマスクは乾いた笑いを漏らした。
「ここの下の所は凍気、その横の岩が突き出てる所は炎。そしてあの右側の鳥の嘴みたいな出っ張りがあるだろう、あそこはおそらく衝撃波だ」
「何で知ってんの」
「この高さだ、風に流されてゴミが真っすぐ飛ばないときもある」
「……不燃ゴミ処理するのに試しただろ」
百パーセントオーガニックの生ゴミならまだしも、そうでないものを毎日窓から投げ捨てるのはあまりよろしくない。だがたとえ岩であろうと、代々の教皇が蓄積させた小宇宙ならば、一瞬にして灰と化してしまえるだろう。例えばだめになったフライパンとか。
「有効活用だろう」
悪びれない料理長は、無駄に男らしい。
「しかし幸いなことに、あの辺りは異次元追放やらテレキネシス系の現象が起きるところがない」
なるほど、と二人は頷く。僅かな小宇宙でも厄介なそれが無いのは、非常に助かる。
「そしてどんな特性のある小宇宙だろうと、小宇宙は小宇宙だ。対抗できるのは?」
「小宇宙」
「正解。じゃあ行きな」
そう言って、トニが差し出したごつい手ひらの上に、デスマスクはパン! と音を立てて手のひらを落とす。そしてお互いの手首をしっかりと掴んだのを確認し、トニは反対の手で窓の渕をしっかりと掴み、デスマスクをぶら下げた。
真下は断崖絶壁、昼間でも雲が張って下は見えないのに、深夜の今となっては、何もかもを飲み込んでしまいそうな真っ暗な闇が広がっていた。そこにデスマスクは、トニの腕一本でぶら下がっている。しかし、その目に動揺は見えない。
「カウントダウン三つ、Uno、で手を離せ。Mi sono spiegato?」
「Ho capito」
「Bravo!」
トニの太い腕の筋肉が盛り上がり、ぶぅん、とデスマスクを振り上げる。
「Tre」
空中ブランコの要領でデスマスクはタイミングを計り、そして同時に小宇宙を繊細にコントロールした。
「Due」
手のひらの汗が引く。赤い目に混ざる黄金色。極限までの集中力がZONE状態に突入し、周囲の景色がスローモーションになったその時、デスマスクは声を聞いた。
「──大丈夫だ」
おそらく一秒にも満たない時間、聞こえるのがあり得ないひとことは、トニの声だった。ZONE状態が生み出す時間の感覚が遮断された世界だからこそ可能な現象だが、それはトニもまたZONE状態に入っていることの証だった。
「癪だが、“黄金の器”はやはり格が違う。……大丈夫だ、お前なら」
厳つい手が、最後にぐっとデスマスクの手を握る。
──心強いとは、こういうことか。こんな風に声をかけて貰えるなら何でも出来そうな気になるのに、何故あの人々はそれが出来なかったのか。
(……ああ、)
俺は恵まれているからか、と、デスマスクは悟った。生まれながらにして小宇宙を纏い、この地獄でもひとりで抗うことができる自分。牢に入れられても帰る所が無くなっても、それでも湧き出るこの力は、誰もが持っているものではない、特別なものなのだ。
(俺には、力がある)
──その力で、何が出来るだろうか。
「Uno!」
力強い一振り、温かな小宇宙を持つ大きな手を、少年は躊躇い無く離した。
Annotate:
Hai capito? =「わかったか?」
Ho capito. =「了解」
Brava! =「素晴らしい!(この場合「上等だ!」という感じ)」 もちろん全部イタリア語。