第9章・Ritter vom Steckenpferd(木馬の騎士)
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娘の葬儀は、実に手慣れた運びで行なわれた。
下半身が殆ど吹っ飛んだ遺体、“普通”ならば耐えられずに何らかの反応を起こす者がいてもおかしくないが、ここの人々はまったくもって淡々としたものだった。聖域では、こんな遺体の始末も葬儀も日常茶飯事なのだ。
人々は娘の遺体を布に包み、ときどきぼたぼたと死んだ血液が漏れ出るそれを持った2、3人を先頭にして、ぞろぞろと葬列が始まる。
なんと静かな葬儀だろうか、とデスマスクは思った。
葬式につきものの泣き声、叫び、別れを語る声、そんなものは一つも聞こえなかった。真夜中の葬列は、まるでそれが彼らの儀式の礼儀なのかというほど、徹底して無言だった。誰も彼もが、息もしていないかのように沈黙している。ただ、墓地に向かってぞろぞろと無感動に歩く足音だけが、赤い月夜に響いていた。
彼らは、死に慣れている。
毎日誰かが、しかも殆どが十代か二十代の少年少女が人為的な原因で命を落とす、そんな場所で生きる彼らにとっては、誰かが屠殺されるよりも惨い有様になることも、そしてその遺体をゴミと同じように布に包んで土に埋めることも、もう何ら特別なことではないのである。
ちらり、と、デスマスクは周囲を見渡す。
斜め後ろを歩いている青年には、片腕がない。その隣の女の片脚は木の棒でできていた。前方を歩く自分たちとそう変わらない子供たちもまた、片目がなかったり、脚を引きずっていたり、はたまた顎がもがれたように丸ごと無いだとか、顔の大半が原形を留めていない傷痕がある者も居た。娘の遺体を包んだ布を持つ先頭の男は、左肩から先がごっそり無い。
こんな人々の姿も、聖域では珍しくはない。聖闘士になる為の訓練で身体のどこかを損なってなおこうして生きる彼らは、外界では奇跡の生還者と言われるだろう。好きなだけテレビで特集が組めるな、とデスマスクは音を出さないように、舌打ちの振りをした。
ひとつの国家に武力組織があったとき、通常、実際に前線に立つ戦闘員は全体のうちの半分にすら満たないものだ。いくら武力組織といえども、衛生兵,工兵,通信兵などの支援兵に加え、更に食料や物資の補給をする人間が居なければ成り立たない。
しかも聖域の場合、聖域という国家が聖闘士という武力を保持している、というのとは違う。聖域自体が武力組織そのものであるからして、聖域はアテナの軍事基地であり、また聖闘士という兵士を育てる軍学校というスタンスのほうが近い。しかし聖域においては、存在する人口の五分の三以上の人間が前線に立つ為の訓練のみを課され、そしてその大半が訓練によって命を落とすか、重度の障害者となる。こんなやり方で兵士を育てる場所は、地球上でどんな僻地を探しても存在しないだろう。
しかしそのやり方こそが、第六感をも越える神域の超感覚、小宇宙という力を目覚めさせるのに、最も効率の良い方法なのである。
一般人でも、先天的あるいは経験によって後天的に小宇宙が発動していて、常に微弱に小宇宙を纏う人間もいる。俗に“カリスマ性”とか“雰囲気がある”、“凄みがある”、そんな風に言われるのがそれだ。“黄金の器”たちはそれが桁外れに顕著な者たちを言う。
しかしその超感覚を人為的に目覚めさせるには、尋常でない体験が必要だ。一般人の中で小宇宙を纏う者たちは、大概が徳の高い聖職者やビッグネームの歌手や俳優、超人レベルのスポーツ選手である。
やりかたは違うが、そのどれもが自分を極限状態へ追いつめ、ZONE状態へと至る体験を通過する人種だ。集中力が倍増し、身体感覚の拡大、知覚神経の鋭敏化・時間の感覚の遮断などをもたらす極限状態ZONE、それこそが小宇宙の目覚めへの扉だ。
だが実際、金メダリストや格闘技の世界チャンプが青銅聖闘士にもそう及ばないように、そんなやり方ではかったるすぎる。聖闘士は、小宇宙をいつでも自在に発揮できなくてはならない。原始から世界を統べる神と対峙して尚、緊張でタイムを0.01秒遅らせるというような可能性が0.000001パーセントもあってはならない、それが聖闘士としての最低条件なのである。
そしてそんな希有な能力を持った人間を、人為的に、しかもいつ戦いが起こってもいいように、できるだけ量産するにはどうしたら良いか。
……先程例に出した、一般人の中で小宇宙を纏う人間には、もうひとつ例がある。
戦争体験者である。
自らを自らの強固な意思で追いつめ訓練するスポーツ選手、舞台の上でトランス状態に陥ることで奇跡を起こすエンターテナー、瞑想という神との対話によって小宇宙という悟りを開く聖職者。しかし戦場に放り込まれた兵士たちは、問答無用で火事場の馬鹿力を発揮することを求められる。そうでなくては死ぬからだ。
このやり方こそが、短期間で聖闘士を作るのに最も適した方法である。
世界中から身体能力の高い孤児を集め、片っ端から死ぬ目に遭わせる。身体を鍛えるということが目的ではない聖闘士の訓練は、拷問よりも過酷だ。拷問はどれだけ痛めつけはしても生かすことを考えているが、聖闘士の訓練では、「死ぬのが普通」という仕打ちが与えられるからだ。
しかも殆ど全員がその仕打ちを受けるせいで、聖域では軍隊に置ける支援兵や、生活の為の非戦闘員が圧倒的に足りていない。ただでさえ物資の全てがほぼ百パーセント自給自足であるというのに、そんな無茶苦茶な人間の使い方をしていては、まともな生活が成り立つはずも無い。訓練で命からがら生き残っても、不衛生な寝床と満足でない食事、怪我からの破傷風や風邪ですら満足に治療できない環境によって命を落とすという可能性も高い。だからこそ、そういう彼らの命を救って回ったサガは、神のように感謝されていたのだ。
様々な生き物を一つ所に閉じ込め生き残ったものを使う蟲毒の壺、聖域ではそんなやり方で聖闘士を作る。
そしてそんな風に、ごく少数しか生き残らないということが前提である場所では、死は特別なことではない。そしてその場所で行なわれる葬儀は、あの黄泉比良坂の死者の列と、何ら変わらなかった。誰もが一言も言葉を発さず、ただ無機質な足音を鳴らして、墓穴に向かって歩いていく。
ふと見上げれば、赤い月。
──聖(こ)域(こ)は、地獄か。
欠けた手足や潰れた目鼻、そんな姿をした人々が、ぞろぞろと墓穴に向かって歩いてゆく様を見て、デスマスクは歯を食いしばる。
しかも、例え地獄の試練に打ち勝ったとしても、聖衣に認められねば聖闘士にはなれない。先頭の、肩から先が無い男が運ぶ布の中には、脚の無い娘が入っている。彼女はこの地獄で命を落とし、そして彼女に勝った少年は、聖衣に認められなかった。
やり切れない、とはまさにこの事であろう。デスマスクはただ歯を食いしばり、爪が食い込むほど拳を握り締め、ただ歩いた。血溜りの底のような色の目を、溶岩のように滾らせながら。
デスマスクもアフロディーテも、墓地に来るのは初めてだった。しかし彼らにとっては馴染みのある場所の一つなのだろう、全員が月の光のように平淡だった。墓地では両腕の無い男が墓守をしていて、どの辺りがまだ誰も埋まっていないか教えてくれる。区画整理すらされていない墓地は、下手に掘ると“住人”が顔を出すからだ。
人々は古びた木のスコップで墓守に言われた場所に穴を掘り、娘をそっとその中に入れた。すっかり血に染まって真っ赤になった塊が、穴の中に消えていく。
墓標が建てられる。何も彫られていない、ただの石。正式な聖闘士以外は──といっても、聖闘士の墓標は生前その本人が掘ったものであるが──、墓標に名前が刻まれることは滅多に無い。いちいち大層な墓標を作っていたら、スペースが足りなくなるからだ。
「────、」
そのとき、足音と穴を掘る音しかしない世界で声がしたのを、デスマスクとアフロディーテは聞いた。いや、声というには足りない、ただ息を飲んだような僅かな嗚咽。ほんの小さなその音だったが、しかしそれは、いかに激情の果てに発されたものであるかをすぐに察することが出来るほどのものだった。
そして再び沈黙が場を支配しようとした時、アフロディーテがそれを破った。彼は粗末で小さな墓標の前に、そっと跪く。優雅なブロンドが、夜風に吹かれてふんわりと靡く。真っ赤な月光と沈黙の世や身の中、アフロディーテの金髪だけが春の陽光のように柔らかく輝いているのを、人々が食い入るように見つめているのがわかった。
アフロディーテは、貴婦人にミンネを捧げる騎士のように、素晴らしく跪いている。
「──きみは、私が初めて花を贈った女性だよ」
それは、手向けの言葉だった。
無感動だった人々の表情が歪むのが、デスマスクには見えた。無名の墓に女主人にするように敬意を払って跪く、そんな光景を見たことが無かったからだろう。
「君は白いばらの似合う、すてきな女性だった」
葬式では、陳腐なほどの定番の言葉。しかしここは死んだ時ですら花を贈られることの無い、その花を入れる棺すら与えられない聖域だ。
うう、と、初めて、誰かのうめき声がした。
「きっと他の色も似合うだろう。……もっと沢山贈りたかったのだけど」
アフロディーテの身体から、ふわりと小宇宙が立ちのぼる。激しさの無い柔らかな黄金の輝きは、生き物たちにやさしい春の陽光に似ていた。
「──せめて、」
そう言って、彼はその両の手のひらで、娘が、聖闘士のなり損ないたちが埋まる墓土を静かに押した。まるで彼ら全てを抱きしめるように。
「せめて」
柔らかな金色の小宇宙が、墓地全体に染み渡る。恵みの雨を吸い込むように、墓土が温かな色を帯びた。
墓標の下の土から、無垢な緑の芽が伸びた。無数の墓標から、湿った墓土から、芽が、茎が、葉が伸びてゆく。人々は目を見張り、それを見ていた。蕾が膨らみ、花が咲く。
「きみには、白い花を」
立てられたばかりの墓標に絡み付いた美しく瑞々しい蔓には、白い小さな薔薇が咲いていた。
無名の人々が眠る墓地が、あっという間に色とりどりの花園と化す。全てを飲み込む夜闇の中、血のように赤い満月の元、それでも力強く伸びる葉、瑞々しく咲き誇る花々。
──誰かが、泣いた。
そしてそれを皮切りに、人々から次々に嗚咽が溢れ出す。声を上げて泣く者も居た。
男四人掛かりで暴行されても泣かなかったが、娘が聖闘士にならなくても良いと言われたとき初めて涙を流した彼女のように、人々は泣いた。聖闘士になり損なって死んだ人々、自分たちと同じ名も無き者たちのの墓に、花が咲く。全てを飲み込む夜闇の中、血のように赤い月光を跳ね返し、色とりどりの花が咲く。
慟哭が聞こえた。女の叫び声が聞こえた。涙ながらに思い出を語る声が聞こえる。子供が、泣いている。
生者が、死者を悼んで、嘆いている。
まともな状態になった葬儀の様、聖域において異様なその様子に、デスマスクは表情を歪める。
──葬儀とは、死者に別れを告げる為の儀式だ。
葬式は、一日で終わるものだ。しかしその日丸一日を、彼女がいなくて寂しくて泣くということに費やし、彼女が死んだ事への悲しみの為に食事を取らずひたすら泣く、それが葬式のあり方だ。
しかしほとんど毎週葬式が行われる聖域の人々は、まるで自分が埋葬されるような顔をして、葬列に加わる。いずれ自分もそうなることを受け入れるように。死は、屠殺される豚のように命を落とす日は日常の延長で、何ら特別なことではないのだというように。
──そんなことが、あってたまるか。
デスマスクはぎりぎりと歯を食いしばり、爪が食い込むほど拳を握り締める。
名前の代わりに咲いた白い花の美しさだけが、やっと心を慰めた。
「何だ……?」
密やかになら声を出すことが躊躇われなくなった葬儀の途中、デスマスクは遠くに橙色の光がちらちらと動くのを見つけた。松明の光である。アフロディーテも振り向いた。
「……シュラ? アイオロス?」
松明を持ってうろつく雑兵たちの僅かな声を聞き取った二人は、怪訝そうな顔を見合わせるとそっと静かに葬儀を離れ、彼らのもとへ向かった。
「おい、何してる。シュラとアイオロスがどうした?」
適当な雑兵を捕まえて尋ねると、彼は「あ、キャンサーの……」と小さくうろたえてから、しかし気を取り直して報告を始めた。
──みるみる、二人の表情が硬直する。
一時間後、デスマスクは、血だらけの岩場で気絶したシュラを発見した。