第9章・Ritter vom Steckenpferd(木馬の騎士)
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「おい、大丈夫か、大丈夫か、君!」
「…………」
ぼんやりとしか覚醒していない意識では、状況を把握しようという意思が働くまでにも時間がかかる。アイオロスは、やっとのことで、仰向けに倒れた自分の傍らに誰かが居ることを把握した。
「……だ、れ」
「よかった、意識が戻ったな!?」
応急処置を会得していて良かった、と、その人物はホッとしたように笑みを浮かべた。立派な髭ときちんと整えられた髪は、灰色。着ているものは肩がかっちりとした形をしていて、アイオロスは彼が高級そうなスーツを纏った初老の男だということに気付く。
スーツ、である。
「ここは、……外界、」
「外界?」
男は、きょとんとした。
アイオロスは、なぜだか笑いたいような気持ちになる。それは自分がやろうとしたことを成し遂げたという達成感と、いかに自分が世界の中で特別な場所に居たのかということを、改めて、滑稽なほどに新鮮に自覚したからでもあった。
「──っ、あ、……アテナは!?」
そしてアイオロスは、自分の手の中に小さな温もりがないことに気付き、青ざめる。だが男は彼の心配を察し、にっこりと笑み、しっかりした声で、諭すように言った。
「ああ、赤ちゃんは無事だよ。ほら」
男の腕の中には、確かにアテナが居た。目の前に居るのに全く気付かなかったという事実に、アイオロスは自分がどのくらいの状態なのかを、不思議と冷静に悟った。
「君がしっかり抱えていたからね」
「…………」
多分、アイオロスは崖から落ちた時、そのまま偶然森の結界を越えたのだろう。アテナを潰すまいと自分がクッションになる体勢をとったことまでは覚えている、とアイオロスが言うと、光政は自分が発見した時はアイオロスの心臓は止まっていたのだ、ということを話した。歴史深い遺跡が好きだという光政は、連れと離れて少し外れたこの土地をひとり散策していた所、そんなアイオロスを発見し、慌てて蘇生の為の処置を行なったらしい。
「なに、私が居ないとわかればすぐに人が来る。こんなときばかりは心強いものだ」
男は城戸光政といって、グラード財団という大きな会社の代表であるらしい。男はアイオロスを安心させようと、そんな自己紹介をした。もちろんアイオロスにはグラード財団が世間でどのぐらい凄い組織なのかなどわからなかったが、それでも、光政が子供好きで裕福であることくらいは見極めることが出来た。
「アテナというのかい? 勇ましい名前だね」
おおよしよし、と、男は優しげに言う。いかにも子供好きそうなその様子を、アイオロスは冷静に見遣る。
当然、光政はこの赤ん坊を、アテナという名の赤ん坊だと思っている。そしてアイオロスがこのまま黙っていれば、この赤ん坊はそうやって育てられるのだろう。普通の子供、もしかしたら聖域の存在すら知らぬ、普通の、──人間として。
あれほど赤かった月が冴え冴えと青いことに、アイオロスは気付いた。こんなにも、あの場所は特別で、そしてそこに生きる自分たちはそれに左右されている。あの場所では、月の色すらも変わるのだ。得体の知れない、誰にも説明できない力によって。
「……アテナ、です」
そして、アイオロスは言った。
「その子は、アテナです」
今さら何だ、と、アイオロスはそんな気持ちだった。
普通の人間として、アテナを育てる。ならば聖闘士はどうなるのか、聖域はどうなるのか、……友人たちは、弟たちはどうなるのか。アイオロスにとって何よりも大事な友は泣き、苦しみ、そしてそれは全てアテナありき、そしてアテナのための聖域ありきだ。
いくらこの赤ん坊が見た目普通の赤ん坊でも、いやむしろ本当に女官が捨てていった赤ん坊だったとしても構うものか、アイオロスはそういう気持ちだった。今さらなかったことになどしてたまるものか、と。
「女神、アテナです」
アイオロスは、断言してみせた。
この赤ん坊は、地上の平和を守る為に人間の姿を借りて降臨した女神アテナなのだと。
アイオロスたちが皆で守る為に降臨した、そのための女神なのだと。
光政は最初、驚きと、困惑が混じった、きょとんとした顔をしていた。無理もない。
しかしアイオロスは、自分でも驚くぐらい整然と、光政に全てを説明することが出来た。聖域という場所のこと、その赤ん坊が女神アテナだということ、その箱の中身が聖衣でどういうものであるかということ、聖闘士のこと。
外界で暮らす者にとっては空想物語としか思われないだろう事実を、アイオロスは淡々と説明した。
「……そうか」
光政は、重々しく、それだけ言った。あっさり信じてもらえたのが以外だったが、アイオロスは驚かなかった。驚く力がなかったからだ。
「信じられない話だが、君とこの子を見ればわかる」
これでも人を見る目には長けているつもりだ、と光政は言うが、アイオロスは実に冷静に、彼が爛々とした目で腕の中の赤ん坊を見つめているのを観察していた。
聖域の外の人間は、神を目の前にしてこんなふうに興奮するものなのか、それともこの赤ん坊が某かの得体の知れない力でも使ったのか、アイオロスは知らない。しかしそんなことはもう、どうでもいいことだった。彼がこの赤ん坊を、アテナとして育ててくれるのならば。
とにかく、眠い。
「君も、よく頑張った。まだ少年だというのに」
「…………」
朦朧としながら、アイオロスは光政の言葉を聞いていた。
少年、だなどと言われたのはどのぐらいぶりだろうか。毎日誰かが人為的な原因で命を落とし、埋められていくあの場所。幼い子供に死ぬような訓練を課すあの聖域で、外界の同じ年頃の子供のように扱われることなど滅多にない。
そんな場所に生まれ、物心つくかつかないかの頃から小宇宙が発現し、黄金聖闘士であり、その中でも年長で、身体の発育は驚異的に早く、小さな弟を抱え、そしてついには次代の教皇と指名されたアイオロスは、子供扱いされることなど殆ど無かった。彼はいつだって誰かの上の立場であり、また教皇ともなれば聖域全体の長であり、つまりは世界を守る為の代表である。
だがアイオロスはいま、14歳だった。
「……おれは、なにも、できないんです」
既によく回らない舌で、アイオロスは言った。目線が全く動かない彼を、光政が焦燥感の溢れる表情で覗き込んでいる。眼球を動かすことも出来ないアイオロスは、また続けた。
「おれはなにも、できない」
「いいや、君は立派な少年だ」
アテナを見せつけるようにして、光政が言う。アテナを自分に託したではないか、そう言いたいのだろう。しかしアイオロスが言いたいのは、そうではなかった。
「──なにも、」
動かせない目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。ずっと年長の黄金聖闘士としてやってきたアイオロスは、弟のアイオリアが泣き喚くのを観た記憶は沢山あるが、自分が泣いた記憶などなかった。彼はいま、初めて涙を零したのである。……子供のように。
「おれは、」
黄金の短剣を振りかざしていた彼、翼龍の兜の下の髪は黒く、目は血のように赤かった。
自分は力ない人々の片端から話を聞いて回ることも出来ず、故郷を失った少年に声をかけてやることも出来ず、あの娘を助けることも出来ない。そして友人があんな風になっていることに気付くことも出来ず、そして彼が罰されないように逃げることを選択したばかりに、もう一人の友に隠し事をするはめになり、そして彼を傷つけた。
「おれは、なにも、できなかった……!」
ぼろぼろと、鮮やかな青緑色の目から涙が零れ落ちる。
自分は、何も出来なかった。
誰も救えず、最も大事な友を傷つけ、逃げることしか出来なかった。
(ただ、おれは)
世界が平和になりますように、皆が仲良く、楽しく暮らせますように。
子供じみたその願いだけが、14歳になるアイオロスの望みだった。そしてそれの何がいけなかったのか、アイオロスには未だ見当もつかない。
ぼろぼろと泣く少年に、光政は悲痛に表情を歪め、しかし感動で誇らしげに言った。
「いいや、君は命をかけてアテナを守った、立派な聖闘士だ」
励ますように言う言葉には、だからもう少し頑張ってくれ、という意味も含まれていた。しかしアイオロスは既にただひたすら眠いだけで、それに気付く気力もない。ただそれならば、それだけは守らねば、と思った。
人馬宮に彫ったあの詩は、誰かが見つけてくれるだろうか。
アテナを守らんとする少年たちは、力を合わせて、自分の代わりにそれを成してくれるだろうか。
「──君は英雄だ、アイオロス」
涙すら流さなくなった少年に向かって、光政は厳かにそう告げた。