第9章・Ritter vom Steckenpferd(木馬の騎士)
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「ぐあ……!」
 凄まじいスピードで崖を駆け下りて突進してきたシュラを、アイオロスは間一髪で避けた。しかし通常の手刀では考えられないロングレンジの間合いを誇る聖剣相手では、“間一髪”は避けたうちに入らない。アイオロスは、剥き出しの肩が斬り裂かれた痛みに呻き声を上げた。
「言え、アイオロス。何故こんなことをした」
「……言えない」
 途端、斬撃が飛ぶ。

 拷問じみた、いや拷問そのものだ、とシュラは自覚してそれを行なった。アイオロスは必ず口を割ると思ったからだ。
 小宇宙を通わせて纏った時は羽根にように軽い聖衣も、パンドラボックスに入ったままでは、ただの重たい箱である。小宇宙に目覚めていない普通の人間ならば重量挙げの選手ぐらいしか持ち上げることは出来ないだろうそれを背負い、おまけに前には赤ん坊を抱いたアイオロスは、なんとか直撃を躱すのが精一杯だ。
「言え、アイオロス!」
 だが時間が経つに連れ、シュラは焦った。子供の言い訳のようなことしか言えず、ただ犬のようにアテナに従うアイオロスにここまでの仕打ちに耐える意味などないし、そんな意思が保つはずもない。そう思っていたというのに、アイオロスは血だらけになっても、迷う素振りすら見せなかった。
「……ッ、何故、」
 彼は今、いつものとおり、本当に殺す気で技を出している。アイオロスが死んでいないのはシュラが本気を出していないからではなく、アイオロスの力量に寄るものだ。ハンデなしの生身の格闘試合で、アイオロスはシュラと最も拮抗した実力を誇る。
 シュラは表情を歪め、いかに自分が甘かったのかを痛感しつつあった。
 本気で殺気を纏い、しかし殺す直前、それを紙一重で覆すという技、それは相手がかならず「まいった」と言うという確信があったからこそ出来た芸当だったのだ、と気付いたからだ。始めから殺す目的で向かう勅令か、相手が必ず降参する練習試合であればいい。だが決して譲らず歯向かう相手を殺さずにおく術など、シュラには考えもつかなかった。
「赤ん坊、……アテナを置け、アイオロス」
「……?」
「さすがにそれでは戦えないだろう」
 全く反撃して来ないアイオロスに、シュラは殺気を収めぬまま言った。
「……俺は“それ”を取り戻さねばならんし、赤ん坊を殺す趣味もない」
 シュラの真っすぐな言葉に、アイオロスは彼と視線を合わせたまま、緊張を緩めないながらも慎重に移動し、アテナをそっと岩陰に置いた。
「聖衣を纏え」
「それはできない」
 先程とは別人のようなアイオロスの強い口調に、シュラは眉を顰める。さっきは子供の言い訳ほどの反論もよくよく出来ずに目を逸らしたはずのアイオロスは今、まっすぐにシュラを見て、はっきりと発言した。
「何故だ」
「…………」
「聖闘士の私闘は禁止だとでも言うつもりか? お前はもう聖闘士じゃない、……逆賊アイオロス」
「違う!」
「なら説明しろ、全部だ!」
「できない!」
「何故だ、……なら何故戦わない!?」
 せめて、とシュラは怒鳴った。譲れぬものがあるというなら、デスマスクのように、その為に抗えばいいではないか。しかしアイオロスは聖衣を身につけるどころか反撃すらろくにしない。
「戦わない」
 アイオロスの声は、強かった。誰にも譲れぬ程に。
「────ッ!」
 シュラは何も言うことが出来ず、意味なく大きく息を吸い込んで止めると、何度目になるのかもうわからない斬撃を再び繰り出した。既に満身創痍、避けるのが遅れた上に背中は岩壁であることを把握したアイオロスは、直撃を覚悟して歯を食いしばる。

 だがその剣は、何も斬り裂くことはなかった。

「……シュ、ラ」
 聖剣を振り下ろしたはずのシュラは、アイオロスの背後の岩壁に、手刀を当てて俯いていた。岩は斬り裂かれているどころか、ヒビ一つ入っていない。
「……なんで」
 絞り出すように呟いて、シュラは岩に当てた手を握り締めた。その手を観て、アイオロスはシュラの小指が潰れていることと、薬指の爪が飛んでなくなっていることに気付く。
 斬撃の特性のある小宇宙、剣を持った千人の暴徒のような力を持ったシュラは、刀匠が名剣を鍛えるように小宇宙を高めて研ぎ澄ますことでそれを一本の剣にすることに成功し、千人力の剣、しかもデュランダルのような相手を選ばぬ魔剣ではなく、斬りたいものだけを斬るというエクスカリバーのような聖剣を持つ戦士になった。
 しかし今、彼の手にあるのは聖剣でもなく、制御のきかないデュランダルでもない。岩を斬ることが出来ずに盛大に刃こぼれした剣は、あの日彼が最初に手にしたペティナイフよりも切れ味のない、無様ななまくらだった。
「……どうして」
 途方に暮れた情けない声で、シュラは呟いた。赤い月が煌煌と輝き、カプリコーンの聖衣がきらきらとそれを反射している。
「────俺は、ただ」
 アイオロスの声も、どこか泣きそうだった。
「俺はただ、友達と殺しあいなんかしたくないだけだ」
 皆が仲間であればいい。そして皆でアテナを守っていければいい、それがアイオロスの持つたった一つの願いだった。正義とも呼べぬ程の、ただ子供じみた祈り。ずっとずっと、皆が仲良しで居られますように。アテナを守って、世界が平和になりますように。
「お前は俺の友達だよ、シュラ」
 アイオロスは、何よりも友人というものに感謝していた。何も出来ない自分を助け、秘密を打ち明けられる彼らを傷つけるようなことだけは、絶対にしたくない。
 彼に正義というものがあるとしたら、それが唯一の彼の正義だった。どんなめにあっても、絶対に譲れないもの。
「この子はアテナで、俺は皆と一緒にアテナを守りたい」
 それだけなのだ、とアイオロスは今にも泣きそうな、しかしこれだけは譲れないという強い声で言った。
「…………」
 そんな彼に、シュラは琥珀色の目を揺らし、そしてそれを防ぐ為に一度ぎゅっと目を瞑った。
「……なら、ッ」
「…………?」
「俺を、友だと、思うならっ……!」
 呼吸が出来ていないのではないか、喉が引き攣れて血が出るのではないかと思うほど、絞り出したような声である。
「話してくれても、いいだろう……!?」
「…………シュラ、」
「友とはそういうものだと、安心して秘密を打ち明けられるのが友達だと、俺に教えてくれたのはお前だろう、アイオロス……!」
 悲痛なシュラの声に、アイオロスは更に表情を歪める。
 アイオロスとて、もちろんシュラにこんな思いをさせたいわけではない。
 だが彼は、。他の何を曲げても譲れぬ程に、それが大事だったのだ。
「……アイオロス」
「…………」
「どうして、言ってくれないんだ……」
「…………」
「……ッ、どうして……!」


 「きゃはっ」


 突然耳に届いたのは、甘く高い声だった。

 アイオロスがはっと目線を動かすと、岩陰から小さな手がちらちらと揺れている。
「きゃはは」
「────あ、」
 岩陰から聞こえる声に、なぜかどっと疲れと痛み、そしてそれがもたらす眠気が押し寄せて、何を言おうとしたのか、アイオロスはその瞬間に忘れてしまう。しかしすぐ、彼は息を飲む。
 シュラが目を見開いて、岩陰で揺れる手を凝視していた。
「笑った」
 ぼそり、とシュラは呟いた。
「──笑いやがった」
 ゆらり、とシュラが岩陰に身を向ける。限界まで見開いた目は瞬き一つせず、月の光を受けて赤く見えた。殺気が湯気のように立ちのぼるのが見えるようだった。
 アイオロスはぞっとして、シュラを見上げる。
「笑った、──俺が、おまえが、こんな時に」
「おい、シュラ!」
 あれは赤ん坊だ、という言葉を口に出すのを、アイオロスは躊躇った。アイオロスはあれを守りたいと、たった今シュラに言った。

 ──あれは女神だから、と。

「きゃは、きゃは、きゃははは」

 ──ぞくっ、

 と、シュラの背筋に薄ら寒いものが登った。
「笑うのか」
 瞬きすらしない琥珀の目が、赤い。
「俺たちを笑うのか、──女神!
 潰れた右手を、シュラは振りかぶった。オレンジを剥く為の小さなペティナイフ、それしか手に出来なくても、それでも殺意は芽生える。許せない、我慢ならない、譲れない、──そんな衝動が、少年にナイフを握らせ、父親すらも殺すのだ。

──ザシュッ!

「────あ、」
「ッ……!」
 刃物が小さいほど、斬りつけたその感触は近くなる。手にしたナイフに、その感触はひどく生々しく感じられた。
「アイオロス、」
「……シュラ」
 ばっくりと割れた背中の傷から、おびただしい量の血液が溢れ出す。真っ赤なものの中に白いものがちらりと見えたとき、シュラはかつての光景を思い出す。汚物意外の何者でもない血と肉、あの時それらがシュラにもたらしたのは、苛立ちと、虫酸が走るような嫌悪感と、どこか知らない所へ突き抜けたような爽快感。
 しかしいまシュラにあるのは、ただただ、強い困惑だった。
「……どうして、」
 何故だ、とシュラは震えた声で呟く。なぜアイオロスが反逆者と呼ばれているのか、なぜアテナがここに居るのか、なぜアテナは自分を笑ったのか、なぜアイオロスは血だらけなのか、──何故自分は、彼を斬ったのか。
「どうして、どうして、どうして、どう」
「……シュラ、」
 カラン、と音を立てて落ちたのは、山羊座の聖衣のヘッドパーツだった。恐怖しているかのように表情を歪め、ナイフを落とした両手で頭を抱えるようにして同じ言葉を繰り返す歳下の友人を、アイオロスは朦朧とする意識の中、ぼんやりと見遣った。
「シュラ、……おれは、ただ、」
 立ち上がろうとしたアイオロスの身体が、ゆらり、と揺れる。

「ただ、──皆が、」

 世界が平和になりますように。
 皆が仲良く、楽しく暮らせますように。
 ──アテナを守ることで、それが成せるというのなら。

「おれは、」

 傾いだ身体を、地面が受け止めることはなかった。
 居住区を離れた結界の森近く、居住区からも道からも離れた、人目を避けたい者たちがひっそりと潜むポイント。ごつごつと巨岩がそびえ立つが故に、死角の多いその狭間。
 暗くて見えない岩陰の向こうは、崖だった。

「アイ、オロスッ──!」
 突如闇の中に消えた友人に、シュラは叫んだ。
「あ、あ、」
 見開いた目から、熱いものが溢れ出す。月が照らす岩場は、赤い。

「あ、あああああああああああああ!」






 その数時間後、デスマスクが、気を失って倒れたシュラを発見した。
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BY 餡子郎
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