第9章・Ritter vom Steckenpferd(木馬の騎士)
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「……何やってんだ、あんた」
居住区を離れた結界の森近く、居住区からも道からも離れた、人目を避けたい者たちがひっそりと潜むポイント。ごつごつと巨岩がそびえ立つが故に、死角の多いその狭間。
赤く大きな月を背負ったシュラは、パンドラボックスを背負ったアイオロスに向かって、震えた声をかけた。
「……シュラが、追手か」
ぼそりと呟いたアイオロスに、シュラは沈黙することで返事をする。
「……そうか。……速いな、さすが黄金聖闘士いちの俊足」
「馬鹿か」
ぎりりと歯を鳴らし、シュラは吐き捨てた。
「……何なんだ」
拳を握り締める。カチャリ、と聖衣が音を立てた。
「何なんだよ、反逆って、おまえ、」
「シュラ」
「何考えてんだ! 俺は」
「……シュラ!」
アイオロスが、声を張り上げる。シュラは耳を澄ました。ひとことも逃してやるまいと。
息を切らしたアイオロスは、剥き出しの上半身に所々怪我を負っている。一応追っ手は出したらしいのでそれかとも思ったが、シュラは彼が両手で必死に守るようにして抱いているものを見て、驚愕に目を見開いた。
「おい、それ、……アテナ!?」
よく見覚えのあるお包みとそれから覘く亜麻色の柔らかそうな髪を見て、シュラはひっくり返った声を出した。アイオロスはアテナを殺害しようとし、失敗して逃走したのだ、シュラはそう聞いている。半ば呆然としたままそう言えば、アイオロスは激しく、しかし重々しく首を振った。
「違う! 俺はアテナを殺そうとなどしていない!」
「じゃあ人質として攫って逃げようと?」
「違う!」
「なら何だというんだ、説明しろ!」
当然のことを言ったが、アイオロスは沈黙した。
アイオロスの怪我は、単に赤ん坊に傷を付けないように、しかも追っ手に気付かれないよう静かに岩場を通り抜けようとした結果のようだ。いつも大雑把にしか赤ん坊を扱わないから、いざ細やかに扱おうと思った時にこうなるのだ。とシュラは思考の彼方でぼんやり思う。
「シュラ、……俺はアテナを安全な所に連れて行く」
「どういう意味だ」
「……ここは、危険だ。一刻も早く」
「だから、意味が分からん」
「…………話せない」
要領を得ないアイオロスの言葉にただでさえ苛ついていたシュラは、その言葉に琴線を弾かれた。
「──馬鹿を言え」
「シュラ?」
「どこだよ、安全な所って」
ぎろりと睨みつけてそう言えば、アイオロスは怯んだようだった。
「外界か? 生まれも育ちもこの聖域で、外界に数えるほどしか出たことがないアンタが、聖域全部を敵に回しても安全で居られる場所にツテがあるのか?」
「…………」
アイオロスは、反論しなかった。いや、気まずそうに顔を逸らしたことで、反論しなかったのではなく反論できないのだということが確定したその瞬間、シュラはこめかみでブツンという音がしたのを遠く聞いた。
「──何も出来んくせに、でかい事ばかり言うな!」
「ッ……」
怒鳴りつけられたアイオロスは、ひどく傷ついた顔をする。何も出来ない、その言葉は、アイオロスの中にずっと積もり続けていたことだった。自分は力ない人々の片端から話を聞いて回ることも出来ず、故郷を失った少年に声をかけてやることも出来ず、あの娘を助けることも出来ないのだと。
だからアイオロスは、友人たちが居てくれることに感謝した。何も出来ない自分の為に、友人たちが手を貸してくれる。それがいかに有り難く尊いことかと、アイオロスは心から感謝していた。
しかし今、その友人の助けは望めない。自分一人でどうにかしなければならないのだ。
「……話せ、アイオロス。なんでこんなことをした」
「言え、ない」
「アイオロス!」
冷静になろうと何とか努力したのを無駄にして、再びシュラが叫ぶ。しかしアイオロスは、それでも口を割らなかった。
「アンタは、心からアテナを崇拝してるわけじゃない」
押し殺した声で、唸るようにシュラが言う。アイオロスはまたも心を突かれて、びくりとした。
「アンタは聖域で生まれて、育った。だからアテナを大事にしている、それだけだ」
いっそ見つからなかったと言って戻ろうか、という考えが、シュラの頭を過らなかったわけではない。罰は受けるだろうが、代わりの効かない黄金聖闘士がドラコンを適応されることはない。ここに連れて来られた時、手当り次第に呪いをかけて殺したデスマスクが、今でも“黄金の器”として生きているように。
しかしシュラは、どうしても気になった。
──どちらが正義か、確かめて来い
(正義)
強い言葉だ、と思う。戸惑うほどに。デスマスクたちの発する言葉に時折篭る、何か、絶対に譲れないもの。野良犬のように生きるシュラは、無性に、どうしてもそれに憧れてやまない。だから彼は、正義の神の名前を名乗った。魔道に堕ちても最初の正義を捨てられなかった阿修羅、自分の憧れる姿の究極かと思った異教の神の名前を。
だがアイオロスは、自分と同じだと思っていた。彼は自分をアテナのために戦う聖闘士なのだと常に言い、アテナに不敬と取れる行動を諌めもする。しかしそれは、年長者の言うことは聞かなければいけません、と小さい子供に諭すのと似たようなものであることに、シュラは気付いている。そしてそれは彼がアテナを信奉しているからではなく、ただ彼が聖域に生まれ、黄金聖闘士であったからだ。何もわからぬ子犬のうちから主人が決まっていた彼は、素直すぎるほどにそれを受け入れて生きている。
彼はアテナを主人と決め、それに従っている。犬が主人に従うように。そして犬は主人の命令が正義かどうかなどは考えない、ただ従うだけだ。
そんなアイオロスが、アテナを攫ってまで某かの正義を掲げて逃げたなどと、シュラにはどうしても信じられなかった。
──しかしそれだけに、どうしてもシュラは気になった。自分と同じように、自分だけの掛け替えのない正義を持たぬ彼が、どんな正義を手に入れたというのかと。
しかしいざ彼が口にしたのは、子供の言い訳のように穴だらけの言葉ばかりで、シュラに一つも言い返すことが出来ずに俯いているだけだった。
シュラは、失望した。どちらが正義も何も、この男はやはり始めから、そんなものを掲げたことなどないのだと。……自分と同じように。
「……言わないなら、言わせてやる」
シュラは、静かに小宇宙を高めた。
「──逆賊アイオロス! 教皇の命により、きさまを討つ!」