第9章・Ritter vom Steckenpferd(木馬の騎士)
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「──は」
言われた意味が理解できず、口から出てきたのは意味を為さない音だった。
「すぐに追え。逃がしてはならぬ」
「……まさか」
はは、と、シュラは乾いた、震えた笑いを漏らす。
──アイオロスが女神を殺害しようとし、逃走した。
「何を、そんな、馬鹿な」
「事実だ」
「──嘘だ!」
叫び、勢い良く立ち上がる。何もしていないのに息が切れ、シュラは大きく呼吸をした。心臓が激しく音を立てている。
「────」
玉座に座った教皇は、翼龍の兜を被っている。聖闘士の証が聖衣であるように、教皇の証がこの翼龍の兜だ。顔が見えない作りになったそれを被った教皇は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「──ならば」
「!?」
教皇は、そのまま前に進み出た。今までどんな命令を賜った時にもなかった教皇の行動に、シュラは驚き、そして何か得体の知れない気配を感じて戦いた。辛うじて一歩下がったりするようなことはなかったが、教皇はシュラのすぐ目の前まで近付いて来る。
(──……?)
目の前に立った教皇は、シュラよりもほんの少し身長が高い。そのことに、シュラは困惑する。何故と言って、シオンはこんなに、
「ならば、確かめて来るがいい」
びくつきよりも、ぞわりとした震えが、シュラの全身に響いた。目の前にある教皇の顔は、翼龍の兜の影になって真っ暗である。しかし僅かに見えるその口元は、
「──あんた、」
「確かめて来るがいい、シュラ」
そう言って、教皇は、彼の額に手を翳した。──しかしその手は、
「……あ、」
針のようななにかが、頭の芯を通り抜けた。
「……どちらが正義か」
シュラの視界を覆った手が、すっと下げられた。二百年以上を生きた老人の手、皺だらけ、枯れ木のような手だ。
「……正義?」
「そうだ。異教の正義の神、正義の為に正気すら失った神の名を持ち、悪しきもののみを斬り裂くという聖剣を持つお前なら、見極めることが出来るだろう?」
手の動きを追って下げられていた目線を上げる。兜の影になって見えない顔、僅かに見える口元は頬の肉が下がり、薄い唇は色あせて細かい皺が集まっている。
「アイオロスが逆賊だと信じられないならば、その剣で確かめて来るがいい、阿修羅」
そう言って、教皇はくるりと背を向けると、再び玉座に着いた。シュラは、呆然としたまま、教皇の言葉を聞いている。
「山羊座カプリコーンのシュラに命じる。反逆者アイオロスを追い、」
──殺せ。