階段を踏み壊す勢いで巨蟹宮へ向かったデスマスクは、殆ど生活のにおいがしない離宮に足を踏み入れた。
十二宮の宮はそれぞれ、来訪者、もしくは侵入者が通り道とする本殿と、その本殿を通り抜けないと辿り着けないように建築された、宮の守護者とその従者たちが生活する為の場所である離宮に分かれる。
蟹座キャンサーの“黄金の器”であるデスマスクは、ここ巨蟹宮の離宮で生活するのが普通だ。しかし自分がキャンサーの黄金聖闘士だと認める気などさらさらないデスマスクは、巨蟹宮で生活することも拒んでいて、主にシュラやルイザのいる磨羯宮やアフロディーテの双魚宮をねぐらにし、また現在のようにトニの仕事を手伝いながら食事にありつくという、野良猫のような生活をしていた。母が居なくなってからの短い生活もそれとそう変わりのないものだったデスマスクのそんな様子は、それは堂に入ったものである。
母が死んだあの日も、彼はその日のうちに寝床を見つけた。母の仲間だった女で、たまに少年に食事をやり忘れる母の代わりに、ときどき料理を作ってくれた女。そして、彼女のような女は沢山居て、少年はそんな彼女らに少しずつ世話になって暮らしていた。
(……家がなくても、生きていける)
ここに来てから、何年もの間“帰るのだ”と言い続けてきたデスマスクであるが、それが真実であることもよく知っていた。帰る場所がなくても、食べるものと夜露を凌げる借宿があれば生きていけるし、自分はそれを手に入れることにそう苦労をしないタイプであることも。
だがデスマスクは、どうしても帰りたかった。──もう、どこにあるのか、どこにあったのか、名前すらもわからなくなってしまったあの場所へ。
町中の至る所に自分の為のスペースがあり、寝床や食べ物に困った事など一度もなかった、あの町。自分はいつでも特別なのだと思うことが出来る場所。あそこで自分は自分を愛してくれるものには敬意を払ったし、自分や彼らを害するものには躊躇いなく力を振るった。
そのときふとデスマスクは、トニが言った、竃の前に座る女の話を思い出した。外で戦い、愛人と遊び、そしてくたくたになって帰ってくるその場所に、赤ん坊を抱いて座っているという女。
(──ああ、)
突如、デスマスクは表情を歪めた。自分が何を求めていたのかわかったからだ。
(ああ、あそこには)
墓があった。デスマスクが、生まれて初めて形振り構わず頭を下げて回って建てた墓。笑う事も泣く事も、煙草を吸うこともしなくなった彼女が眠る墓。愛しているから泣かないで、と囁く男を必要としていない女。
──あの町には、竃の前に座る女が居た。
死者の魂がどこに行くのか、デスマスクは知りすぎるほど知っている。しかし、彼に必要な彼女は、あの場所に永遠に座っているはずだった。
男にとって、特に戦士にとって本当に大事なのは、竃の前に居る女だとトニは言った。しかし、デスマスクがいま真っ先に思い浮かべてしまうのは、あのエトナの山小屋の、火のついていない、冷えきった暖炉だった。
母の墓も、そこら中に居場所があったあの街も、全ては溶岩の下に飲み込まれてしまった。
──赤ん坊を抱いた尊い女は、デスマスクの思い浮かべる竃の前には、もう居ない。
「……っ」
もう罵る言葉も出ず、デスマスクはぐしゃりと顔を歪めて、扉を蹴り飛ばしてぶち開けた。
その部屋にあるのは、黄金色の箱である。蟹座キャンサーの黄金聖衣と、それが収められたパンドラ・ボックス。シチリアで激情に任せて窓から投げた時、取っ手を持って投げたせいで空中で中身が出て、結局投げられたのは箱だけだったというそれは、シュラによって再び箱に収められ、こうして巨蟹宮に安置されている。
パンドラボックスは、無用の時に開ければ天罰が下り目が潰れるといわれている。琴座ライラの白銀聖衣は、あの娘に勝利した少年を認めなかったという。取っ手を引いても開かなかった、ということらしい。
ならばあの時、なぜキャンサーのパンドラボックスは開いたのだろうか。しかも、窓からぶん投げる為という行為を成そうとしている時に。
「…………」
デスマスクは、キャンサーのパンドラボックスの前に立つと、箱を開ける為の取っ手にそっと手を伸ばした。
罰とは、誰が下す罰だろうか。
(──アテナ)
それしかないだろう。他に考えられるものはない。
アテナのために戦うべきとき以外に聖衣を用いれば、アテナの罰が下るのだ。ならば、アテナの為にだけは戦わないと決めた自分が、箱を開ければ?
デスマスクは、ごくりと唾を飲みこんで、取っ手を握った。
「デスマスク」
突然かけられた声に、デスマスクは心臓が口から出るかと思った。
「巨蟹宮に居るなんて珍しいな。なにしてんだお前」
「……っるせーよ……」
バクバクいっている心臓を押さえつつ、デスマスクは戸口で暢気に立っているシュラに、力尽きたような声でそう返した。
「つーかお前の方こそ、なんでこんなとこ」
「いや、こっちからお前の小宇宙を感じてな」
「は? わざわざ俺を捜しにきたわけ?」
「いや、教皇に呼ばれたから。ついでに寄っただけ」
聖衣着てるだろ、とシュラは白いマントをひらひらと振った。
「爺さんにか? 瞑想中じゃなかったのかよ」
「さあ」
シュラは首を傾げた。実に暢気なその様子に、デスマスクは「こいつほんとにマイペースだな」とため息をつく。ちびたちはもちろん、アイオロスやサガですら教皇の呼び出しとなると背筋を伸ばすというのに、シュラはそういうところが全くない。教皇の勅令にもルイザの昼食の呼び出しにも、返す返事のテンションはだいたい同じだ。むしろトニに呼び出された時のほうが緊張感がある。
自分が猫ならシュラは犬だ、とデスマスクは思う。きまったねぐらに住み、きまった人間から貰った飯を食うことを好む。密かに人見知りが激しいのでなれるまでに時間はかかるが、信用した人間の言うことには、たとえそれに疑問を持ってもきちんと従う。気まぐれで自分勝手な猫は、自分が嫌だと思ったことは絶対にしないが、犬はそれを嫌だと思うのと実際に従うことは別だ。殺気を持って居ながらにして絶対に殺さないという芸当が出来るように。
だがシュラという犬は、いまのところ主人らしいものを持っていない。アイオロスに特に懐いている、と言えないこともないが、彼はシュラの対等な友人であって主人ではない。彼もまたデスマスクと同じ野良であり、だからこそこうして行動を共にしているのだ。
──しかし。と、デスマスクは、シュラが纏う山羊座の聖衣をまじまじと眺めた。
アテナのための戦い、そのために作られたという聖衣。アテナの為という目的以外に用いれば罰が下るというそれを、あの赤ん坊をただの赤ん坊だと言い切り、ユビキタスをこきおろしたシュラが纏えているのは何故か。
「それでな、……おい、どうした」
じっと黙り込んだデスマスクをいぶかしみ、シュラが再び首を傾げる。聖衣がカチャリと僅かな音を立てた。
「いや……なんでもねえ。ああ、なんだって?」
「遺体の損傷が激しいから、すぐ埋葬してしまうそうだ。もう準備をしてる」
「そうか、わかった」
すぐ行く、とデスマスクは頷く。
「俺も出来れば行きたかったんだけどな」
サガを呼びにかけずり回っていた為に彼女の死に目に会えなかったシュラは、残念そうに言った。
「じゃ、俺も行く。悪いが俺の分も別れを言っといてくれ」
「りょーかい。……しっかし、何だってんだろうな、もう夜中近いってのに」
「さあなあ。それほど重大な用件なんだろう」
そう言いながらも、シュラはやはりマイペースな仕草で踵を返すと、教皇宮に向かって走って行った。
第8章・Am Kamin(暖炉の側で) 終