第8章・Am Kamin(暖炉の側で)
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「──ンだと」
デスマスクは目を見開き、奇妙に表情を歪めてそう言った。あまりのことに、きちんと発音しきれていない。
「……琴座の聖衣は、継承者保留だ」
「どういうことだ」
アイオロスを睨んでも意味はないことはわかっているが、デスマスクは眉間に皺を寄せて彼を睨め付けた。アイオロスも複雑な表情で、溜め息を吐く。
あの娘との決闘に勝利したのは、あの娘よりも二つか三つ歳下の少年だった。実力が二周りも違うと誰からも言われていた娘だったが、死に物狂いで鍛錬を積んだのだろう、彼もそれなりの怪我を負わされてはいた。だからこそ、格下と思っていた相手が思いもがけない実力を見せたことで彼は加減が出来ず、むちゃくちゃに撃った大技で、娘の脚が全て吹き飛んだ。
だがとにかく勝者はどうしたって彼であり、あの娘は負けて死んだ。強い方が勝つ、力こそが絶対だと主張しているデスマスクは、あの娘を黄泉比良坂の列に送り出した後で、正面からそれを受け入れていた。
──だが、勝利したはずの彼は、琴座の聖衣を手に入れることが出来なかったという。
「琴座の聖衣は、彼を受け入れなかった」
聖衣は全て、パンドラボックスという特殊な箱に収納されている。それを開けることができるのは、その聖衣の宿星を持つ聖闘士とアリエスの修復師、……でなくばアテナだけ。そして琴座のパンドラボックスは、彼が押しても引いてもその姿を現さなかった。……彼は、琴座ライラの宿星を持つ者ではなかったのだ。
「……ふ、ざけんなよ」
デスマスクは、拳を握り締めた。震えている。“ここ”ではいつだって気に食わないことしか起こらないが、こんなに腹立たしいのはどのぐらいぶりだろうか。
「勝ったのに、なんで認められない」
「……仕方が無い。アテナの思し召しだろう」
ブツッ、と自分の頭の中で何かが弾け飛んだような音を、デスマスクは聞いた。
「──ふざけんな、ふざけんな、──ふざけんな!」
──ガァン!
デスマスクの小宇宙が膨れ上がって大きく弾け、周囲の瓦礫を一つ残らず粉砕した。物心ついたときから自分の小宇宙を緻密にコントロールできていた彼が、感情に任せて小宇宙を暴走させたのは初めてのことだった。
「うっ……」
アイオロスは、咄嗟に小宇宙を燃やして身を守った。周囲に、ズゥン、と寒気のする“なにか”が満ちる。癇癪を起こした小宇宙が、冥界への門を呼び寄せているのだ。
「……っ、やめろ、デスマスク!」
「アテナ、……何がアテナ!」
ズガン! と、デスマスクは地面を踏みつけた。石畳に盛大にヒビが入り、クレーター状の窪みが出来た。肉体派ではないと自ら宣言するデスマスクだが、このくらいは朝飯前である。
「……くそっ、くそっ、くそっ!」
デスマスクは、何度も石を踏みつける。
あの娘は弱かったから死に、少年の方が強かったので勝利し、聖衣を得た。それは当然の成り行きで、デスマスクは正面からそれを受け入れた。むしろ、あの娘が負わせた怪我の上から、あの少年が琴座の聖衣を纏うのを見たいとも思った。
だがそれは、叶わないのだという。アテナが彼に宿星を与えていなかったから。
「なんのために!」
ならば何の為にあの娘は死んだのかと、叶うことなら喉が破けて血が吹き出る位に、デスマスクは叫びたかった。自分の歯を全てむしり取って手当り次第に投げつけてやりたい、そんな激情が、彼の脳天から爪先までを激流のように駆け巡っていた。
「……デスマスク」
アイオロスは名を呼んだが、それ以上の言葉を発することは出来なかった。アテナに向かって呪いの言葉を吐く少年、いつもならばその頭を殴りつけている所だが、今、彼はすぐさま拳を振り上げることが出来ない。
デスマスクが積尸気に行っている間、アイオロスはアフロディーテとともに、あの娘のヒーリングに奮闘した。自らの小宇宙を相手の小宇宙に同調させることで生命エネルギーを与え、劇的に回復力を促すヒーリング。アイオロスは決してそれが下手ではないが、サガは比べ物にならない。普通は、どうしても自分の波長が強すぎて相手の波長に合わせきることは難しい。だがサガは、相手の小宇宙に自分の小宇宙を寸分違わず合わせるのが、とても上手かった。まるで自分の波長など最初からないかのように。
生きているのが不思議な位の重症だったので、サガが居れば助かっていた、とは断言し難い。だがとにかくサガは結局見つからず、娘は息を引き取った。
(俺は結局、何をしたというのだろう)
当たり散らすデスマスクをスローモーションのように捉えながら、アイオロスは考えていた。自分がサガのようにヒーリングが上手かったら、あの娘は助かっていたのだろうか。
「……くそったれが!」
「デスマスク!」
地面を蹴るのをやめない彼に、アイオロスはとうとう怒鳴る。しかしデスマスクは怯むどころか、ギッと彼を睨み返した。その目は血溜まりの底のように赤黒く、そして“黄金の器”たる小宇宙が現れて、荒れ狂う溶岩のようにぐらぐら煮立っていた。
「──地獄に堕ちろ!」
ズガン! と最後に大きく地面を蹴り、デスマスクは踵を返した。蟹座キャンサーの“黄金の器”である彼であるが、荒々しい足取りで無人の十二宮を登っていくその後ろ姿はどう見ても守護者ではなく、むしろアテナを攻伐せんとするならず者のようだった。
デスマスクが十二宮を登ってしまったのを見届けた後、アイオロスは墓場にやって来た。
目の前には、自分の名前が刻まれた墓標がある。アテナのためにこの命を捧げるという誓いの証、ここに骨を埋めるという決意の墓標。
あらためて考えてみたが、アイオロスはここに自分が埋められることを考えても、さほど恐ろしい気はしなかった。むしろ最後はここに埋められるのだな、と、自分の最終的な行く末が定まって安心した気持ちですら居た。
だがそこにアテナに対する絶対的な気持ちがあるかと聞かれると、アイオロスは即答することが出来ない。何故と言って、聖域で生まれ聖域で育ったアイオロスにとってアテナとは、太陽や月のように、世界に当たり前に存在するものだったからだ。
太陽や月を、偉大だと思う。日々感謝し、心から敬う。しかしその存在意義について深く考えたこともないし、いざ考えようかと構えても、どこから手を付けていいのかわからない。
神はどこに居るのかと、シュラは誰かに聞いたという。しかしアイオロスに言わせれば、アテナならそこの揺りかごで眠っているではないか、という答えしか返せない。アイオロスにとってアテナは太陽や月のように当たり前に存在するもので、あの赤ん坊がアテナではないかもしれないなんて、アイオロスは考えたことすらなかったし、今も変わらず、そんな疑いを持つことの意味が分からない。あれがアテナだと言っているのに、何故反論するのか。
それにあの赤ん坊は手がかかるがかわいいし、守ってやろうと思うのに何の躊躇いもない存在だ。守ってやりたいと思わせるかわいい赤ん坊が守るべきアテナである、この完璧な現状の、何が疑わしいというのだろうか。
──こんな風に、アイオロスという少年は、ひたすらに素直だった。
いつまでも墓場に居るわけにもいかないので、アイオロスは己の守護する人馬宮に戻った。デスマスクと顔を合わせ辛いなあと少し気が重かったのだが、幸いなことに彼は離宮に居て、本殿をそっと通り抜けたアイオロスと会うことは無かった。
聖衣を脱いで、丁寧にパンドラボックスに仕舞う。下に着ていた服に血が付いていることに気付き、それも脱いだ。あの娘の血である。
そしてアイオロスは、宮から見える景色をぼんやりと眺めた。夕陽はもう殆ど沈もうとしていて、西の果てが僅かに橙色に光っているだけだ。アイオリアは今頃、あの夕陽を目指して走っているのだろうか。
「…………」
どうすればいいのだろうか、とアイオロスは思案した。弟たちはまだ小さいので、これだ、と自分の考えを主張することは出来ないだろう。年長の自分でさえよくよく出来ないのだから。
しかしデスマスクたちは、アイオロスには考えの及ばぬ所で理論や思想を積み上げて、今やどうしても譲れぬものを持っている。残念ながら彼の秘密を知らないままのアイオロスにはその全貌を掴むことができないが、彼の主張にアテナを疑うことは必須で含まれているらしい。
(どうしたものか)
アテナの存在を疑うことについて、アイオロスはそのこと自体を非難することは出来ない。もちろん聖闘士としてらしからぬことだというのはわかっているが、あの赤ん坊はアテナだと言われなければ本当に普通の赤ん坊で、そしてアイオロスにはアテナの存在を立証することなど出来ないのだから、アテナを疑う者を罰する資格はないと思う。ただ、聖闘士として、そういうことを考えるのは良くないよ、と注意はするが、それだけだ。
アイオロスは、ため息をついて俯いた。
(ただ俺は、皆でアテナを守りたいだけだ)
突き詰めればその一言に尽きる、とアイオロスは自分の中で結論を出した。
あのかわいい赤ん坊を守りたいと思い、アテナであるという赤ん坊を守るべきだと思う。そして教皇としてどう考えても頼りない自分を、皆が助けてくれれば良いなと思う。皆で助け合って、この聖域とアテナを守っていければ良いと思う。しかし言葉にするのは思ったよりも簡単だったが、実行するのはなかなか難しいのかもしれない、と、先程のデスマスクを思い出しながら、アイオロスはもう一度ため息をつく。
彼は、聖闘士ではないという。だがアイオロスは、彼が仲間であれば良いと思う。
アイオロスは、ふと、パンドラボックスの取っ手を引いた。パンドラボックスはあっさりと開き、矢を番えたケンタウルスが姿を現す。
アイオロスはその番えた矢をそっと手に取ると、この間アイオリアとミロが暴れて壊した壁の前に立った。そして僅かに思案すると、黄金の鏃を、崩れた壁に突き立てる。
(──ここを、訪れし)
少年たちよ、と、アイオロスはどこか気取った文字を彫り込んでいく。
(君たちに)
──アテナを、託す。
皆で、アテナを守りたい。
壁に刻んだ厳めしい文章は、その願いを込めたまじない、祈りだった。まだなにもわかってはいないだろう弟たち、そして、自分にはわからぬ譲れぬものを持っているあの口の悪い3人組も、できるならば一緒に、皆で仲良く助け合って、アテナを守ってくれますようにと。
──そして、彼も。
最後に自分の名前を彫ったアイオロスは、腰に手を当てて、少し首を傾げた姿勢で壁に刻んだ詩の出来を眺めた。
なかなか、いいのではないか。自分の墓標を作った時に散々失敗してはやり直した甲斐あって、石に文字を刻むのはもう慣れたものだ。おかげで、自分にしてはそれなりに綺麗に彫ることが出来たように思う。
アイオロスは満足した。これなら願いも叶うかもしれない。
「──おおい、そこの!」
宮から声を張り上げると、通りがかった雑兵が振り向く。アイオロスが人好きのする笑みを浮かべて「悪いがこの壁を塗り込めて修理しておいてくれ」と頼むと、雑兵は兜の下で小さく笑み、了解の返事を返した。
「さあて、アテナの顔でも見に行こうかな」
シオンの跡を継ぐ、次代の教皇。情けないことに全くもって自信はないが、きっと皆が助けてくれる。アイオロスは壁の文字を見ながらそう確信すると、大きく息を吸い込んで、また吐いた。
「……それにしても、もう夏だって言うのに、日暮れになると急に冷える」
アイオロスは上に何も着ていない身をぶるっと震わせると、アテナ神殿に向かって、階段を昇り始めた。