第8章・Am Kamin(暖炉の側で)
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 翌日になっても、十二宮にサガの姿は見えなかった。

「さすがに、おかしくないか?」
 訝しげな表情で、シュラが言う。デスマスクも眉を顰めた。
「彼女の所へ入り浸っていたとしても、──いや、そういう関係じゃないとは言っていたけど──……いつまでもこっちに戻って来ないというのは」
「……でも、まさかサガに限って脱走なんてありえねえだろ」
「そうだが」
 しかし実際に姿が見えないのも確かだ、とシュラは首をひねった。
「爺さんが瞑想で篭ってるからいいけど、このままだとじきに騒ぎになるぞ」
 教皇は、星の動きを読むために人の立ち入りを断ち、長期の瞑想に篭ることが度々ある。その時はよほどのことでないと謁見は許されないが、黄金聖闘士、しかもサガが消えたとあれば、何よりの大事件である。
「仕方ない。もう一度探しに──」
 シュラの言葉は、最後まで発されなかった。アフロディーテが、血相を変えて駆け込んできたからである。



「──どういうことだ、アイオロス!」
「どういうことって……」
 大勢の人が詰めかける闘技場、教皇が瞑想中な為、琴座ライラの聖衣を巡っての決闘の見届け人として頂点に立っているアイオロス、そしてその彼に向かって大声で詰め寄る黄金聖闘士3人はとても目立った。
 対戦相手はイシドロスだ、と娘は言った。正しく修行を積めば勝てる相手だと。
 しかし今闘技場の中央で倒れているのは、血塗れの娘と、イシドロスではない、彼女より数段上の実力を持つ候補生だった。

「琴座ライラの聖衣は、彼に与えられることになっていたんだ。俺と戦って、そこそこいい線をいけば」
 決闘が終わった時、アイオロスは困った顔で言った。
「だが彼女が名乗り出て────どうしても決闘させてくれ、と申し出たんだ。彼女は彼より数段実力が下だから最初は許さなかったんだが、あまりに言い募るので」
「……馬鹿野郎!」
 デスマスクが怒鳴る。彼の目の前には、今にも事切れそうなほどにズタズタになった、血塗れの娘が横たわっていた。仮面の下で荒い息を吐いている彼女がいかに危険な状態かを正しく判断したデスマスクは、キッと周囲を見渡した。
「──アフロディーテ、薔薇で麻酔! シュラはサガを探して来い、早く! 野次馬どもは全員水汲んでこい、居住区の方の井戸だ、闘技場裏のは濁ってる!」
 周囲に的確な支持を飛ばし、デスマスクはアイオロスを見た。既にアフロディーテは薔薇の毒素を調整しはじめており、シュラは返事もせずに小屋を飛び出している。
「アイオロス、あんたヒーリングは?」
「……サガほどじゃないが」
「それでもいい、頼む。アフロディーテ、薔薇!」
「出来た」
 アフロディーテは、娘の胸の上に赤い薔薇を置いた。アフロディーテの小宇宙で育てたロイヤルデモンローズは五感を奪う毒薔薇だが、毒素を調整すれば麻痺のみを与え、麻酔代わりになる。しばらくすると、激しく上下していた娘の胸が落ち着き、仮面の下の荒い呼吸が整ってくるのがわかった。
 ショック死対策と、最速の脚を持つシュラによる強力なヒーリング要員の確保。素早く出来得る限りの対策を置いたデスマスクは、今度は自分の小宇宙を高め始める。
「アイオロス、アフロディーテ、ヒーリング全力で頼むぜ。積尸気に行って来る」
「……行けるのか!?」
「さあな」
 魂を引き込む積尸気の穴を空ける、それがデスマスクの積尸気冥界波だ。だがそれに自分も入っていくなど誰も考えたことがなかったし、デスマスクもやったことはない。ぎょっと目を見開いたアイオロスたちには目もくれず、デスマスクは小宇宙を研ぎ澄ましていく。血色の目が、黄金色の輝きを帯びた。
「行くぜ。……気をつけな。着いてくんじゃねえぞ」
 濃赤の中にマーブル模様を描くように流れる黄金色、その様は、蠢く溶岩にも似ていた。

「──積尸気冥界波!」



 母が死んだ時、デスマスクは一昨日泣いたのと同じくらい、もしかしたらもっと泣いた。彼女は自分が死ぬことを少し前から自覚していたし、デスマスクも彼女にどうしようもなく死が近付いていることを、持って生まれた特別な感覚で察知していた。だからこそお互いに来るべき日に向けての準備ができたし、自分が居なくなった後のために拙いながらも色々と手回しをした母を、デスマスクはあの時、とても尊敬した。
 だが彼女と暮らした町はもうないのだと突然告げられた時、デスマスクは目の前が真っ暗になった。ずっと帰りたいと思っていた場所がもうないと知ったときの絶望感と虚無感は、あれからというもの、デスマスクの胸の底にずっしりと沈んだままだ。
「くそっ!」
 どんよりと重たく、寒いわけでもないのにぞくぞくと寒気のする空間は、厄介な風邪をひいて怠さ極まる症状を得ているときの感覚にどこか似ていた。そしてごつごつと岩だらけの、いや岩しかない景色の中、遠くなのか近くなのかわからない向こうに、どこかエトナを思い出す平べったい山があり、大勢の人影が、列をなしてその山へ向かっていた。
「……黄泉比良坂」
 死者が冥界に行くための入り口、それが黄泉比良坂である。ここ積尸気は、現世と冥界を繋ぐインターバル・ゾーンであり、俗にいう臨死体験とはこの積尸気の段階で魂が現世に戻って来れたことを言う。ただし、そんなことは滅多にないが。
「……おい、……おい!」
 ぞろぞろと黄泉比良坂に向かう人の列に目当ての姿を見つけたデスマスクは、急いで彼女に駆け寄った。方向感覚や距離感が奇妙に歪んだこの空間では目標に向かって真っすぐ走ることさえ思うようにいかなかったが、自分の小宇宙はこの空間に最も馴染んでいるはずだ、と固く意識することで、なんとか彼女の側まで走り寄ることに成功した。
「おいコラ、しっかりしろ、この馬鹿!」
 全く反応しない彼女に業を煮やして、腕を思い切り引く。彼女は、黄泉の世界でもなお、銀色の仮面を被っていた。
「あ……」
 ぼんやりとしていた彼女が、ハッと気を取り戻した。霧散するようだった小宇宙がきちんと覚醒したことを確認し、デスマスクはそっと息をつく。
「言いたいことは山ほどあるが、……おいアフロディーテ、見つけたぞ! 聞こえるか!?」
 この状態でテレパスが使えるかどうかわからなかったが、デスマスクは目一杯小宇宙を高めて思念を飛ばした。一番始めの頃練習したように、実際に声を張り上げて。
《──ああ、なんとか、……聞こえる》
「ヒーリングは!?」
《損傷が、ひどい。手は尽くす、──が》
「デスマスク様」
 アフロディーテが返してくる思念を必死に手繰るデスマスクを、静かな声が呼んだ。
「ありがとうございます。ですがもう手遅れです」
「うるせえ馬鹿! ああ、今戻ってもショック死するかもしれねえ、なんとか引き止めるから、早く──」
「もうダメなんです、デスマスク様」
「黙れ! ここに来れば全員そういう気分になるだけだ!」
「いいえ」
 彼女の声は静かで、きっぱりとしていた。この風邪の怠さのような空間にあって、彼女の声だけが清廉だった。
「脚が全部吹っ飛びました。もう無理です」
「……うるせえ」
「その代わり、私の願いを聞いて下さい」
「黙れ!」
 数え切れないほどの人間が歩いているというのに、ここは砂嵐のような不気味な音がひっきりなしに聞こえるだけだ。ズルズルと脚の裏を岩に擦って歩く音、何万もの人々の気怠い足音がこの空間の全てだった。デスマスクの怒鳴り声は、そんな、どんよりと響く足音の中にあっさりと消えていく。
 デスマスクはぎりりと歯を鳴らして、目の前の女を見る。女はとても冷静で、そして自分は死ぬのだと言い切った。──デスマスクとて、わかっているのだ。ろくな医療施設もないこの場所で太腿から下が全部無くなった女が、生きていられるかどうかぐらいは。
「私は聖闘士になれませんでした」
 死んだことよりも、女にはそのことが重要だった。
「でも私はどうしても、あの子を聖闘士にしたくありません」
「…………」
「どうか」
「……わかった」
 苦虫を噛み潰した顔で、デスマスクは言った。
「ロドリオの知り合いに頼んでやる。アガタっていう、お前くらいの娘が看板娘をしてるタヴェルナだ。教皇の間で料理長をしてる男の修業時代の同期がやってる店で、ちょうどアガタの姉貴が嫁に出たところだから大丈夫だろう。店主も女将も、豪快で気がいい奴らだ」
「…………」
「もし渋ったら、俺が頭下げてやる」
 デスマスクの母は、死ぬ前に、仲間の女たちや、町中の人間に、どうか自分の息子を頼む、と頭を下げて回った。そのおかげで、彼女が居なくなり家が無くなってもデスマスクはあの町で気ままな猫のように不自由なく暮らせたし、だからこそ彼女の墓を作る時、デスマスクは町中の誰も彼もに、迷いなく頭を下げた。
「……黄金聖闘士に頭下げられちゃ、まさか断らねえだろう」
 この時初めて、デスマスクは自分のことを黄金聖闘士だと自称した。死ぬほど忌々しいはずの発言だったが、彼女の、竃の前で愛おしげに赤子を抱く女の為なら、そうしてやってもいいような気がした。
「ありがとう、ございます……」
 女は、泣いていた。銀色の仮面の隙間から、ぽたぽたと雫が落ちる。男四人掛かりで暴行されても泣かなかった彼女は、この時初めて涙を流した。
 デスマスクの掴んだ彼女の腕が、ぐいと向こうに引っ張られる。
 娘のことで未練を残していたからこそ、初めてここにやってきたデスマスクは、ぐずぐずと列に留まる彼女を見つけることが出来た。しかし解決案を示してやったことで魂の状態の小宇宙が軽くなり、彼女は亡者の列に引っ張られている。
 しかしこうしなければ、彼女はここで娘を想って彷徨い、転生も出来ずに永遠にここをうろつくことになってしまうだろう。
「……馬鹿野郎」
「…………」
「くそったれ! 生きてる時に言え、……畜生が!」
 デスマスクは、唇を噛み締めて呻いた。娘は、ありがとう、ありがとうと仮面の下で繰り返している。アフロディーテのテレパスが、亡者の足音の隙間から僅かに聞こえた。



 その頃、シュラは全速力で聖域中を駆け回っていた。
「……くそっ!」
 シチリアからアテネまでを一日で駆け抜けるシュラの脚にかかれば、聖域はそう広くない。しかしサガの姿はどこにもなく、シュラは焦りを押さえながら、回った所をもう一度順番に見て回っていた。同時に小宇宙も探ってみるが、今の所それらしき気配は感じられない。
 あの娘の怪我は下半身がほぼ吹き飛ばされているという相当なものだったが、よほど鍛えたのだろう、強靭な生命エネルギー、すなわち小宇宙によって、まだ命を繋いでいた。普通ならば即死の重症、むしろあの状態で生きているのが不思議な位だ。
 しかしアフロディーテにアイオロス、デスマスクや自分に加え、ヒーリングの達人であるサガが一斉に力を使えば、後々の生活はとても苦労するだろうが、万に一つも生きていられるかもしれない。それが幸せかどうか断言することは出来ないが、少なくとも、まだ四つにもなっていないという彼女の娘は、母が生きていて喜ぶだろう。
「────! いた!」
 必死に小宇宙を研ぎ澄ませていたシュラは、結界の森の反対側、南の方角にサガの僅かな小宇宙を感じ、直ぐさま身を翻した。

「サガ!」
 全速力で走り、小さく見えた金色の人影に向かって、シュラは叫んだ。
 サガはジェミニの聖衣を纏い、白いマントと白金色の髪を靡かせて、聖域に背を向けてぼんやりと突っ立っていた。
「おい、サガ!」
 間近まで駆け寄って呼んでも、サガは振り向かない。焦っているシュラはそれに苛つき、「サガ!」と怒声に近い勢いでもう一度声を張り上げた。すると、二秒ほどの間を空けて、サガがゆっくりと振り向く。
「……サ、っ!?」
 面と向かって怒鳴りつけようとしたシュラは、思わず息を飲んだ。
「……サガ?」
 高台になった場所に佇んでいるせいで、彼の髪はマントとともに盛大に流れていて、彼の顔の下半分を覆い隠していた。唯一見える目は、まっすぐにシュラを見ている。……しかし鮮やかなはずのブルーグレーの目は、全くもって輝きを有していなかった。
 シュラはそんなサガにごくりと唾を飲み込んだが、すぐに我を取り戻し、サガに詰め寄る。
「サガ、すぐに来てくれ! あの娘が危ない!」
「……誰が」
 いつもはゆったりと穏やかながらもよく通る声は、鈍く潰れて低かった。
「琴座の試練を受けたあの娘だ! 一刻も早くヒーリングが必要だ、……サガ!?」
 必死に状況を説明するシュラの横をフラリと通り抜けようとしたサガに驚いて、シュラは彼の肩を力任せに掴む。シュラは思わずぞっとする。彼の小宇宙は幽霊のように仄昏くぼんやりとしているのに、その肩は何故かびくともしなかった。
「……サガ、来てくれ、あの娘が死んでしまう」
「…………」
「……あの娘は母親なんだ! 早くしないと手遅れになる!」
「母なら死んだ」
 ぼそりと言った声は、やはり暗い。そして意味不明なその返答に、シュラはサガの顔を見た。サガはやはりまっすぐにシュラを見ているが、底の知れない真っ暗な穴のような目をしていた。
「母は死んだ。ひとりで孤独に、死んだのだ」
「何を、」
「死んだのだ」
「……サガ! しっかりしてくれ、あの娘が死んでしまう!」
 シュラはサガの肩を揺さぶろうとするが、やはりサガの身体はびくともしない。真っ暗な目だけが、ただじっとシュラを見つめていた。
「誰が死ぬ? 弟か」
「……弟?」
「私の弟が死ぬ。……死んだ」
 サガは、ふらりと視線を彷徨わせた。
「死んだ。母が死んで弟が死んだ。死んだ死んだ死んだ死んだ」
「…………」
 狂ったオルゴールのように「死んだ」と繰り返すサガに、シュラはさすがにただごとではない、と顔色を青くした。
「死んだのだ。皆、神の祭壇の上で息絶えている」
「なんの話だ、サガ」
「あれの弟は生きているのに、私の弟は死んだのだ」
「サガ!」
「最後の賭けだ」
 もう、サガの目はシュラを見ていない。
「アテナは、私たちを救うだろうか」
「……アテナが何だというんだ、くそったれが!」
 とうとうシュラは激昂し、サガの横っ面を殴り倒した。しかしサガは少しよろめいただけで倒れない。不気味だった。
「──アテナを侮辱したな」
 乱れた髪の向こうから、ぼそりと呟く声がした。
「シュラ」
 突然名を呼ばれて、シュラはびくりとした。この得体の知れないものは、何だ。
「罰が下る……」


 ──これは、誰だ。


 サガはふらりと背を向けて、十二宮の方角に向かって歩き出した。青くなって棒立ちになっているシュラは、呆然とそれを見送ることしか出来ない。

「……シュラ」
 呼ばれて、はっとした。サガの姿は、もう見えない。そこに立ってシュラの名を呼んだのは、アフロディーテだった。白い薔薇を持っている。
「だめだった」
 アフロディーテの静かな言葉に、シュラは鎮魂のための沈黙を返した。そして、もう一度、サガが消えた方向に目を向ける。

(……潮のにおいがした)
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BY 餡子郎
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