第8章・Am Kamin(暖炉の側で)
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「それ、全部潰しておけ。芽を取るのを忘れるなよ」
 茹でた熱々のジャガイモの皮をバケツ一杯剥かされているデスマスクは、容赦なくそう言いつけて来るトニの広い背中を、じろりと睨んだ。
「アンタは俺を労ろうって気がないのか!」
「俺は感傷に浸るガキに付き合ってるほど暇じゃねえんだよ」
 けっ、とトニは吐き捨てて、皿を二十枚ほど重ね、軽々と片手に持って厨房を横切った。あくまでも片手間にしかデスマスクの相手をしないトニに、デスマスクは小さく悪態をついて、芽を取ったジャガイモをボウルの中に放り込んだ。
 おろおろとしながら心配そうに世話を焼こうとするルイザとどう顔を合わせればいいのかわからない、それを察してくれたシュラはこうしてトニの所にデスマスクを放り込んだわけだが、ルイザと正反対に、トニは息つく暇もないほどデスマスクに用事を言いつけた。やれ野菜の皮を剥け、水を汲んで来い、食器を洗え、そこを掃除しろ。しかも、裏の暗所で育てているスプラウトの具合を見に行けと言われていやな顔をしたら、「ジメジメ沈んでるお前にはお似合いだ」とまで言われた。
「泣こうが喚こうが、毎日腹は減る」
「……知ってる、そんなこと」
 そして葬式は一日で終わらせるべきものであることも、デスマスクは既に経験している。ただ今回はそれがあまりに突然だったので、心の準備ができていなかった、と今では冷静に言い訳が頭に浮かんでいる図太さにデスマスクはもういっそ自分で呆れ、また自分が思っていたよりも足腰がしっかりしていることに驚いた。
「ボケッとしてないで、さっさとイモを潰しやがれ、クソガキ」
「うるせえな、できるまで黙ってろよ」
 デスマスクは、苛々とジャガイモの芽をほじる。既に茹でてあるイモの皮は剥きやすいが、熱々のそれの窪みに指を突っ込んで芽を取るのは結構面倒で、そしてそれをどうにかするには小宇宙を使わなければならず、そのためには心を落ち着けて集中する必要があった。つまりトニに片手間にまんまと“あやされて”いるこの状況が、デスマスクは気に入らない。それを有り難く思っていることも含めて。



「……アンタは、イタリアに帰りたいとか思わねえの」
 無事出来上がった食事を食堂に運び、雑兵たちがそれをがっついている間、二人は再び厨房に戻り、自分たちもまた食事を取ることにした。デスマスクが磨き上げた調理台をテーブルにして、向かい合って座る。
 デスマスクが潰したジャガイモは、タラモサラダになっている。たらこはなかなか手に入らない。自分の苦労が今日のメインになったことに軽く満足感を覚えつつ、デスマスクは淡いオレンジ色のペーストを口に放り込んだ。一日以上断食をした空きっ腹には尚更美味い。
「俺はお前みたいに、向こうにあまり縁がないからな」
 トニはデスマスクと同じく、イタリアの出身である。
「いい思い出も、悪い思い出もない」
「……ふうん。じゃあトニはずっとここにいるのか」
「ここというよりは」
 彼はデスマスクと同じようにタラモサラダを口に放り込み、窓の外に見える長閑に青い空を眺めながら言った。
「厨房だな」
「は?」
「俺は向こうの孤児院で育ったが、貧乏だったからな。働けるようになったら片っ端から働きに出される。俺は町中の厨房で、下働きとして働いていた」
 トニは口数の少ない男なので、自分のことを自ら話すことはない。しかし自分から話さないだけで、聞けばわりとあっさり教えてくれるようだった。暗いものが感じられない無表情に、デスマスクはどこか安心する。
「皿を洗ったり、野菜の皮を剥いたり、掃除をしたり」
 それは、彼がデスマスクたちにいつもやらせることだった。
「残り物を持って帰らせてもらえるのも魅力的だった。孤児院の大人は俺を大勢居る子供の一人としか見ていなかったし、厨房の大人たちもそうだったから、俺はあそこで思い出と言えるものはほとんどない」
「……ふうん」
「だが俺は、あの空間に惹かれた」
 山と積まれた様々な食材たちが切られ、剥かれ、煮られ、焼かれ、そして盛りつけられ、美味そうな料理になってテーブルに出されていく流れ作業の様子は、玩具屋のウィンドウで最新の玩具を眺めるよりもずっと面白かった、とトニは言う。
「そんな風に暮らしている時聖闘士候補生としてここに来ることになって、運良く生き残って聖闘士資格を取った。運が良ければ聖衣を得て聖闘士、でなかったらそのまま雑兵として生きていくものかと思っていたんだが」
 トニは20の時に脚を駄目にして、聖闘士への道は断たれた。
「まあ、お前みたいになったね」
 今度はパンを食べながら、トニはあっさりと言った。その軽さが、デスマスクには心地よく、また頼もしい。それは大人という生き物が持つ“人生経験の差”というものであるが、デスマスクがそれを素直に感じる人間は限られている。
「アンタは、聖闘士になりたかったのか?」
「いや、単に、死ぬ気で修行して取った聖闘士資格だったからな」
「……アテナに対してどうこう、っていうのは?」
「……“黄金の器”と違って、“下”の候補生は生き残るってことだけで精一杯だ」
 つまりは考えたことすらなかった、ということだ。さすがのトニもここ聖域で、しかも教皇宮のど真ん中でそれを言うのはばつが悪かったらしく、その時だけ僅かに声が顰められていた。
ひきになった俺は、また厨房に入ることになった」
 そしてその時、俺はとても“しっくりきた”のだ、とトニはずっしりと言う。
「“しっくりきた”?」
「そうだ。厨房こそが俺の居場所だということが、どうしようもなくわかった。たまたまシオン教皇に目をかけられて教皇宮の厨房に居るが、俺は厨房であればどこでもいいんだよ」
「…………」
「厨房ある所に俺ありだ」
 そう言って、トニはにやりと笑う。その笑みは自信が満ち溢れていて、デスマスクはそれがとても羨ましく思えた。
 そしてタラモサラダを半分ほど食べ終わり、トニは席を立った。スープのお代わりを注ぎに炉へ向かった彼は、火の加減を見ながら鍋を掻き回す。
「……俺は学がねえが」
 トニが自分から話しだすのは、とても珍しいことだ。デスマスクは兎のように素早く顔を上げ、食事の手を止めて、トニの大きな背中を見た。
「炉は、ヘスティア女神の管轄だ」
 ヘスティアは家庭の守護神であり、家を建てることを発明した女神であり、強固な家庭守護の力を司る女神である。生まれた子供を育てるかどうかが親の胸先三寸だった古代ギリシアでは、新生児は家の炉端に連れて行く、つまりヘスティアと引き合わされることを儀式とし、家族として承認された。
 聖域の人間たちも、新しく家を建てた時にはヘスティアに祈りを捧げる。常に聖戦を控え、アテナ以外の神は敵である聖域でアテナ以外の神に祈りを捧げるのはとても珍しいことだが、ヘスティアに限ってはその限りではない。
 ヘスティアはあらゆる意味で他の神とは一線を画す。まず誰よりも穏やかだとされるその性格故に誰かに立腹して罰を下したという話は一度としてなく、また、始終世界を飛び回っている他の神々とは違い、自分の聖所である炉から決して離れないとされる。
 そしてその不動性こそが、家庭の守護神の性質である。いつでも必ずそこにいてくれる、いつ帰っても必ず迎えてくれるという絶大な安心感を与える存在。
「炉ってのは、“家”の中心だ」
 トニは、どこか得意げに言った。
 ギリシアの家は、王宮であれ一般市民の家であれ、団欒の場となる広間を中心に建てられ、広間の中央には炉が設けられ、よって炉は家庭生活のシンボルであり、そこに燃える炎はギリシア人にとって非常に神聖なものとされる。ギリシャでは「家庭」という言葉に「かまどの傍らにいるもの」という意味があり、その流れで、今ではギリシアに限らずどこの国でも、炉や釜戸、暖炉などは家族や帰るべき家の象徴とされている。
「これを聞いた時、俺はその炉がある厨房こそが俺の場所なのだと確信したのさ。そして炉はどこの家にも必ずある。だから俺ァ、どこに行ったって居場所に困らねえんだよ」
「……ふうん」
 スープを注いで戻って来たトニの表情は穏やかで、厳つい顔が機嫌良く緩んでいた。デスマスクは下あごを突出して、もう一度スプーンを手に取る。
「……でも、家庭の女神がアテナと同じ処女神ってのがよくわかんねーよな」
「相変わらずクソ生意気なチビだな。毛も生えんうちから処女嫌いか」
「フン」
 呆れ返ったトニの言葉を鼻息で吹き飛ばし、デスマスクはスープを飲んだ。鶏のダシがよく出ていて、旨味を閉じ込めた油が、滑らかに喉を滑って落ちていく。
「……ヘスティアは、人間の男たちから最も敬われている女神のひとりだね。間違いなく」
「処女神なのに?」
「男と女とくりゃ全部そっちってわけじゃねえんだよ」
 これだからガキは、とトニは盛大に鼻で嗤った。突風のような豪快な鼻息が、デスマスクの前髪を吹き上げる。
「──要するにだ。昔のギリシャ人は結婚と恋愛を別に考えていた」
「つまり愛人と女房ってことだろ」
「声がでけえ、馬鹿」
 今の女どもの耳には間違っても乗せちゃならん話だぞ、とトニは声をひそめ、デスマスクの頭を軽くひっぱたいた。
「外で遊ぶ女と、家で帰りを待つ女」
 トニは、ひそひそ声で言う。
「外に女を作らないできた男も居るがね。……大概の男は、あわよくば両方欲しいと思う。……そして外の女は男を必要としているが、竃の前に居る女は、男を必要としちゃいないのさ」
「意味が分からねえ」
 デスマスクが眉を顰めると、トニは薄く笑った。
「だが男にとって、……特に戦士にとって本当に大事なのは、竃の前に居る女さ」
「男を必要としていない女のほうが?」
 納得いかない顔でデスマスクが尋ねると、トニは深く頷き、そしてそれきり話さなかった。
 彼の背後では、炉の上の鍋がコトコトと穏やかな音を立てている。温かな炎に抱かれ、鍋の中で篭って聞こえる小さな音は、どこか心臓の鼓動にも似ていた。
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BY 餡子郎
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