第8章・Am Kamin(暖炉の側で)
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 アフロディーテは薔薇の繁みの中にひっくり返りながら、ゆっくりと雲が流れる空をぼんやりと眺めていた。年単位をかけて自らの小宇宙によって育てたバラ園は、自分が消耗した時にこうして身を置く事によって、緩やかではあるが回復の効果も得られる。
 あの後、長距離の往復テレポートの上に徹夜をしたアフロディーテと、とうとう一言も話さずろくに立ち上がる事すらしなくなったデスマスクをここ聖域まで連れて戻ったのは、シュラである。
 シュラは既に聖衣を賜っている正式な黄金聖闘士なのでまだマシであるが、それでも、教皇の許可無しに自分の守護宮を離れ、しかも聖域の外に無断で出るのはそれなりの処罰を与えられる罪である。だから一刻も早く聖域に戻らねばならなかったわけだが、アフロディーテは指一本動かすのも億劫、デスマスクはもちろん問題外の状態だった。そして、シュラは超能力が一切使えないため、テレポートで一気に、という手段は使えない。──が、シュラは二人を連れて、ギリシアまで約丸一日で到着することに成功した。
 まずエトナからメッシーナを駆け抜け、そして長靴の爪先であるレッジョディカラブリアから踵にあたるサレンティナ半島、そしてアルバニアからアテネまで。シュラはこの道程を、デスマスクとアフロディーテの二人を背負い、ノンストップで走ったのである。さすがにメッシナ海峡とオトラント海峡、途中二回の海越えはアフロディーテがなんとかテレポートを使ったが、それでも大したものである。
 デスマスクとアフロディーテは、小宇宙の性質上、肉体そのものの力よりも小宇宙による超常的な能力を主としているが、シュラはそうではない。だがアフロディーテは、超能力が全く使えないにもかかわらず、シュラをイタリアまで連れて行った。サガなら帰りのテレポートも全員まとめて苦もなく出来ただろうからベストな人選はサガだったが、居なかったのだから仕方が無い。だがシュラなら必ずどうにかするだろう、という確信がアフロディーテにはあった。
 超能力が一切使えないという黄金聖闘士として決して小さくないハンデを、シュラは凄まじいほどの基礎能力をつけることでカバーし、実際、誰よりも早く聖衣を得た。
 つまり体力・持久力・また単純な足の速さなどの基礎能力においてかなりのレベルを誇る彼こそがこういう時一番頼りになるという事を、アフロディーテは知っていた。結局最後にものを言うのは、こういう原始的な能力なのだ。背は高いが頼りない細身だという評価を受けるシュラだが、その細身の身体にはほとんど脂肪がついていない。体質もあるだろうが、長距離種目の陸上選手にも似た身体は、かなりの持久力を持っている証なのだ。
 しかしいくら体力があっても、デスマスクが持っていた、ろくに町の名前も書いていない世界地図のみでシチリアからアテネまでを迷わず真っすぐ走り抜けたシュラの方向感覚がなければ、こうはいかなかっただろう。どうやら超能力が使えない分、知らない土地でも人目につかない道を選んで正しい方向に向かえる地理的な勘は十分に鍛えてあるらしい。途中に山があろうが湖があろうが、シュラは一切道に迷う素振りを見せなかった。本人は広大なピレネー山脈を走り回った賜物だと言っているが、大移動の習性がある動物などについているらしい、まだ科学では解明されていない凄まじい精度の方向把握能力、シュラにもきっとその類いのものが搭載されているに違いない、とアフロディーテは勝手に確信している。

 兎も角。

 二人を背負って聖域まで辿り着いたシュラはそのまま十二宮を駆け上り、自宮の磨羯宮で二人を自分の寝室の床に放り出した。アフロディーテはそこいらの記憶が曖昧なのだが、ベッドに倒れ込むようにして爆睡したシュラは、数時間後、山羊座の聖衣を纏って教皇のところにきちんと報告に向かったと目覚めた時にルイザから聞き、その時点で未だろくに動けなかったアフロディーテは、彼の体力にほとほと感服した。
 目覚めたときデスマスクが居なかったのでどこに行ったのかと聞けば、料理長のトニに預けたという返事が返ってきた。それを教えてくれたルイザは、デスマスクの様子があまりに普段と違うので、こちらもまた見た事もないほど心配していた。
 そしてアフロディーテもまたきちんと自分の身体を癒すため、這うようにして磨羯宮から双魚宮まで何とか戻り、今に至る。

「やあ、アフロディーテ」
 がさがさと薔薇の繁みを掻き分けてきたのは、アイオロスだった。試練を受けている年少組を本人に見つからぬよう見回るという任務を遂行していた彼だが、シュラが急にいなくなったという報告を受け、教皇命令でトンボ帰りしてきたらしい。要するに、本当に大事になる一歩手前だった、というわけだ。
 アイオロスは容赦なくちくちく刺さる棘をなんとか回避しつつ、アフロディーテに声をかける。
「元気になったか?」
「それなりだ。明日には本調子に戻れるだろう」
 それを聞いて、アイオロスはにっこりと笑った。しかしアフロディーテは反して無表情のまま、にこにこと笑むアイオロスに尋ねた。
「……デスマスクに会いに行くつもりか」
「ああ、うん。きっと沈んでいるだろうからひとこと元気づけて──」
「やめておけ」
 思いのほか強い口調だったので、アイオロスは驚いたようだった。鮮やかなブルーグリーンの目が丸くなる。
「どうせ“試練はまた受けられる、君こそキャンサーなのだから落ち込むな”とかなんとか言うつもりなのだろう?」
「…………」
 図星だった。そしてまさかそれがいけない事だとは露程にも思っていなかったアイオロスは、絶句してぽかんと口を開けている。アフロディーテは相変わらず無表情だが、水色の目をまっすぐにアイオロスに向けていた。
「あなたは何も知らない」
「なに、」
「あなたはデスマスクのことを何も知らないし、デスマスクの味方をすることが出来ない」
「何を言う。俺たちは仲間だ。俺はいつだってデスマスクやお前達の味方だ」
「聖闘士としてか」
 アフロディーテの声は、先程よりも強い。そして生い茂る薔薇の中、棘にも不思議と傷つけられず横たわるアフロディーテは、知らなければ十人中十人が人ならざるものだと思うだろう程美しく、また神秘的だった。そんな姿にやや気圧されながら、アイオロスはゆっくりと頷く。
「もちろんだ」
「デスマスクは聖闘士ではないよ、アイオロス」
「──ばかな!」
 静かに告げられた言葉に、アイオロスは悲しげに太い眉をひそめて声を上げた。
「馬鹿を言え、デスマスクこそキャンサーに相応しいと俺は思っているぞ」
「デスマスクはそれを望んでいない。ここに来た時から今まで、ずっと」
「だが」
 デスマスクがここにやって来た時、彼が聖闘士になる事に反発したせいで牢に入っていた事を、アイオロスは知っている。しかしデスマスクはそれを了承し、今まで一緒に修行をしてきたではないか、とアイオロスは苦々しい気持ちで居た。裏切られたような、おいていかれたような気持ちだった。
「……だが、彼はキャンサーだ」
「本人があんなに嫌がっているのに?」

 ──なりたくないなら、ならせなきゃいいじゃないか。

 あの日、スペインからやって来た黒髪の少年が言った言葉を、アイオロスは思い出す。しかしアイオロスは、その言葉の意味をわかってはいいても、未だにそれに同意する事が出来なかった──というよりは、まるで理屈は理解できても実際のニュアンスが掴めない外国のことわざのように、それは彼の頭の中で上滑りをしたままだった。
「私は、友人が死ぬほど嫌がっていることを無理にやらせたくない」
 “友人”というその言葉に、アイオロスはちくりと胸に棘が刺さるのを感じた。アイオロスは以前、友人というものはお互いに秘密を守り合える間柄だ、とシュラに教えたが、その点、確かにアイオロスはデスマスクのことを何も知らない。
「……だが、デスマスクはキャンサーだ」
 アイオロスは、もう一度言った。それしか言えなかったからだ。
「……わかった」
 長い間の後、アフロディーテは静かに言った。
「だがどちらにしろ、デスマスクはあなたの言葉を聞ける状態ではない。今はそっとしておいてやってくれ。頼む」
「…………」
 アフロディーテは、please、と重々しく言った。地に頭をつけるのも厭わないようなその声に、アイオロスは奇妙に顔を歪め、そのまま無言で薔薇の繁みから姿を消した。



 だが、アフロディーテにああ言われたものの、アイオロスはどうしてもデスマスクの様子が気になった。彼が聖闘士になりたがっていないとしても、アイオロスは彼を仲間だと認識しているのだ。だからこそ、彼はデスマスクの反発に戸惑っていた。
 そして言葉はかけないまでも姿ぐらい、と思ったアイオロスは彼がいるという教皇の間の厨房付近までやって来たのだが、先程から彼は廊下を行ったり来たりしているだけだった。
 というのも、アイオロスは、料理長のトニがとても苦手だった。厳格で無口な彼は、雑兵や青銅聖闘士よりは強いというものの、その小宇宙は黄金聖闘士に及ばないというのに、どうやっても勝てない、言葉では言い表せないものを持っている。理由はと聞かれればこんな所だが、何を考えているかわからないから、とも言い表せるかもしれない。ともかく、アイオロスはトニが全面的に苦手だった。
「あれ、アイオロス」
 迷った犬のようにうろうろしていたアイオロスに声をかけたのは、シュラだった。聖衣を纏っている所からして、教皇への報告帰りであるらしい。他の聖衣と比べて身体のラインに沿うような胴部分のデザインをした山羊座の聖衣は、細身のシュラによく似合っていた。彼がもっと肉付きのいい体型をしていたら、ちょっと格好のつかない仕上がりになっていたと思われる。山羊座の聖衣を身に纏ったシュラは、岩山の尖った崖に佇む野生の山羊のように、しなやかな力強さを持っていた。
「どうしたんだ、こんな所でうろうろして」
「いやその、……デスマスクはどうしているかな、と思って」
「ああ、厨房に入り辛かったのか? アイオロスはトニが苦手だからな」
 あっさり見抜かれて、アイオロスは「はは……」と乾いた笑いを零した。シュラが平然としているのが救いだ。
「デスマスクなら夕飯の仕込みの手伝いをしてる。あいつ、料理の手伝いは鍛錬より真面目にやるからな」
「……鍛錬より」
「好きなんだろ、料理」
 実際上手いしなあ、とシュラが暢気に言っている時、アイオロスは僅かに目を見開き、彼の言葉を反芻していた。
(──好きだから、熱心)
 それは、アイオロスが考えた事もないことだった。少しだけ、目の鱗が落ちたような気がする。
「まあでも、……しばらく放っておいてくれ。多分それが一番いい」
「……そうか。シュラがそう言うならそうしよう」
「うん」
 アフロディーテと同じことを言われたが、アイオロスは今度は素直に頷いた。黄金聖衣を纏った目の前の少年は、秘密を共有した友人である。友人の言うことは信用できる。
「……サガが居れば一番いいんだけど」
 静かに言ったシュラの言葉に、アイオロスはぴくりと肩を震わせた。
「……サガ?」
「ああ。デスマスクはトニと同じくらいサガに懐いてるからさ」
 それはアイオロスも知っている。そして、デスマスクが聖闘士になる鍛錬を受けるようにしたのはサガであることも。だが具体的にどういう経緯でそうなったのか、アイオロスは知らない。
「サガはどこに居るんだ? 誰に聞いても知らないって言うんだけど」
「“下”に居るんだと思うが」
 サガが“下”の人々に強引に押し切られて一晩帰って来ないことも、稀にだが、ないこともない。
「サガは、俺と違って人気者だからな」
「どうしたんだ、あんた」
 シュラは目を見開いて、驚いた声を上げた。
「吃驚した。あんたがそんなこと言うなんて。……何かあったのか?」
 アイオロスは、力なく微笑んだ。



「──次の教皇として指名された」
 場所を変え、そう切り出した時のシュラの表情が面白くて、アイオロスは場にそぐわないながらも吹き出しそうになった。
「……は? 教皇?」
「そう。シオン様の跡を継ぐ」
「あんたが?」
「俺が」
 端的な質問にこれまた端的に答えてやれば、シュラは目線をぐるりと回してから、ふっと息をついた。喉に詰まりかけた食べ物を何とか飲み込んだような仕草だった。
「アテナが降臨したら、教皇も代替わりするのが通例だそうだ」
「ふぅん」
「……まさか俺が選ばれるなんて」
 そう言って、アイオロスは俯いた。自分の墓をアイオリアたちに見せた後、サガとともにシオンに呼び出され、次の教皇として指名された時、アイオロスは心底驚いた。驚き過ぎて上手く言葉が出ず、「は?」などと間の抜けた声を出してしまった位だ。
「次の教皇なら、絶対にサガだろうと思っていた」
「なんで」
「何でって、サガはアテナへ忠誠が誰より高いし、それに、誰よりも慕われている。“下”の人たちにだって、……今だって、デスマスクは俺じゃなくてサガを頼ろうとしているだろう」
 こんな様で、教皇として皆をまとめきれるものだろうか。アイオロスがそう続けると、シュラは困ったように自分の頬を軽く掻いた。
「まあ……それはあるかもしれないけど……」
 シュラは眉間に皺を寄せて、うん、と短く唸った。
「でも、あんたが無能ってわけでもないだろう?」
「しかしなあ……」
「おいおい、しっかりしろよ!」
 シュラは、力強くアイオロスの背を叩いた。聖衣と聖衣がぶつかって、キイン、と、聖衣独特の、星が鳴るような美しい音が響く。
「何も今日からやれって言われたわけじゃないだろ。それにそんな頼りになるサガだっているんだし。サガはああいう奴だから、あんたをちゃんと助けてくれるさ」
「うん、まあ、シオン様もそういう風にサガに言ってくれてたんだが……だがなあ」
「なんだ、もしかしてサガと喧嘩でもしたのか?」
「そういうわけじゃないけど」
 じゃあ問題ないじゃないか、とシュラは力強く言いきった。アイオロスはまだ不安が抜けきったわけではなかったが、シュラがあまりにもきっぱりと言うので、つい苦笑めいた笑顔を浮かべた。
「しかし、急だな。まだ発表してないよな? 新教皇指名」
 シュラは、まだやや驚きが抜けきっていないようだった。
「ああ、誰かに報告したのはシュラが初めてだな」
「……そうなのか?」
「全員への触れはアイオリアたちが皆試練から帰って来た時にするそうだ。……それまで言うなよ。……俺も心の準備をしたいしな」
 秘密だ、とアイオロスが眉尻を下げて笑むと、シュラは笑い返した。
「わかった。それまで誰にも言わない」
「そうしてくれ。……いやあ、しかしシュラもすっかりお兄さんというか、頼りになるようになったなあ」
「何言ってんだ。あんた俺よりよっつも年上だろ。そっちこそしっかりしてくれよ」
 やや早口で言ったシュラの顔は、少しだけ赤い。アイオロスは腕を伸ばすと、他よりは随分高いがまだ自分よりは低い、ヘッドパーツに覆われていない部分の黒髪の頭を、ぐりぐりと撫でた。
「……ガキ扱いするなよな!」
 苦々しい表情でアイオロスを睨み上げ先程と矛盾した台詞を吐くシュラに、アイオロスは今度こそ朗らかに笑った。
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BY 餡子郎
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