第8章・Am Kamin(暖炉の側で)
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島の名前はシチリア島といって、長靴が爪先で蹴っ飛ばしているような位置にある場所だった。南の方、というデスマスクの言葉は嘘ではなかったのだ。
そしていま、目の前に真っ暗な闇の塊みたいにそびえている山は、エトナ山だ。魔神テュポンを封じ込めた山だというのはシュラも知っている。
エトナは、活火山である。そして、封じられたテュポンの蠢きだともいわれる噴火は、わりと間隔が狭い。
「町の一角は、溶岩にやられて壊滅状態だったそうだ」
ぐったりとしたアフロディーテは、神妙に言った。
「新しい町に住んでいる人たちに、しらみつぶしに色々聞いて回った。誰がどこに引っ越していったのかは、もうわからない。──1年も経っていれば、尚更」
「…………」
「全体の被害はあまり多くなかったらしい。死亡者も随分少なかったと」
だから、それほど長くは話題にはならなかった。噴火から半年以上経ち、地中海の裏側、中国で初めて自由に動けるようになったデスマスクの耳には、そのニュースは届かなかったのである。
デスマスクはその山の、奥まった所にある小屋の中に居た。
限界だったらしいアフロディーテは、小屋の前に繁った草の上にひっくり返っている。シュラは魚座の聖衣をそっと床に下ろすと、火のついていない真っ暗な暖炉の前に座り込んでいるデスマスクの背中を見た。
シュラは困って、眉を寄せた。頭を下げさせようにも、とてもぶん殴る気など起きなかったからだ。
冷たい牢の中でさえふてぶてしかったその姿は、今にも闇に溶けてしまいそうに頼りない。
「……デスマスク」
長い長い沈黙の後、シュラはやっとの事で声をかけたが、デスマスクは返事をしないどころか、ぴくりとも動かなかった。
「……デスマスク」
もう一度呼ぶ。もしかしたら、“この名前”では駄目なのかもしれない。しかしシュラは、彼の呼び名を、これしか知らなかった。
──結局、デスマスクは夜が開け始めるまで、一度も身動きしなかった。
ぼんやりと太陽が昇り始め、淡い光が充満してくると、小屋の全体像がはっきり見えてきた。デスマスクが座っている前にある暖炉は小さく、薪すら入っていない。がらんとした暖炉は、何だかとても冷たそうに見えた。
シュラはずっとデスマスクの後ろ姿を見ていたが、ふと目線を動かすと、小屋の端に蟹座の黄金聖衣がまるで打ち捨てたようにして転がしてある事に気付く。パンドラボックスはなく剥き出しであることを訝しく思い更に視線を滑らせると、派手に割れた窓の向こうに、薮に突っ込んで斜めになっている金色の箱が見えた。
「……ンだよ」
ふと聞こえた本当に小さな声は、震えていた。あんまり小さい声なので、すきま風の音かと思ったぐらいだ。
「何だよ……もうねえとか、意味がわかんねえし、一年も前って、……」
まるで熱に浮かされたような、上滑りした声だった。シュラは黙って聞いている。何をどうやってそうなったのか、妙な癖のついた銀髪が、朝日に反射して光っているのが何か虚しかった。
「……墓が、」
少し間を空けて言った言葉は濡れていて、シュラは眉を寄せた。
「墓、探したんだ、俺が神父と、色んな奴らに頼んでやってもらって、俺いっぱい頭下げて、だって、」
嘘のように弱々しい肩が、震え始めた。
「あそこにあるんだ、あそこに、墓、つくって、俺が、あそこに、」
うー、と唸る声は、完全に泣いていた。
溶岩にやられた土地は、作物を育てたりすることが出来なくなる。だから固く覆われてしまった地面を何とか均して、新たに建築をする。
「──なんで、ビルなんか、建ってんだよ……!」
声変わり終盤の少年の声は、喉が破れてしまいそうなほどに引きつっていて、ヒィ、と弱々しい笛のような音も出した。
「……デスマスク」
「うるせえ!」
叫ぶが、上手く大声が出せずにへにゃりと曲がった声。その情けない声に一番絶望した本人は、そのまま項垂れてまた黙り込んでしまう。
「っ、デスマスク!」
「うるせえよ! 俺は、」
振り返った泣き顔は、俺はそんな名前じゃない、と言っていた。しかしそれを言ったらいよいよ取り返しがつかなくなる事をギリギリで自覚したのか、彼は声を詰まらせ、ただぐしゃりと顔を歪めて俯いた。
「……ここに、」
デスマスクの膝の下には、擦り切れた世界地図が広げられていた。
「ここに、帰るんだ、俺は、ここに、……」
震える指が、小さな長靴を指す。しかしその小さなスペースには、町の名前などひとつも書かれてはいない。
「ここに、」
名前のわからない町を、爪が黒く汚れた指が指し続ける。小さな青い海の上に、ぼたぼたと水滴が落ちた。
「デスマスク」
シュラは床に膝をつくと、固い声で呼びかけた。同年であるが、シュラに比べて、デスマスクは頭一つ分近く背が低い。しかしそんなことをものともせずに彼は図太く、ずる賢くて、シュラが勝る分を他の分で全く問題なく挽回して、いつもシュラと拮抗した場所でにやにや笑っていた。同じ場所のくせにまるで自分が勝っているとでも言うようにふてぶてしい態度は度々シュラの神経を逆撫でしたが、毎度思っても見ないやり方で意表をついて来る彼とやり合うのは楽しかった。
「デスマスク、帰ろう」
「……帰、る、」
途端、デスマスクの気配が変わり、シュラは直ぐさま自分の失言に気がついた。デスマスクが帰るという時に意味する場所は、一つしかない。そしてその場所は、もうどこにもありはしないのだ。
「どこにだ、帰るってどこにだ、俺の場所は、墓は、俺が頭下げて回って建てた墓は、俺の、あれは、もうどこにも、っ──!」
「わかった、悪かった、わかった、……デスマスク!」
どんどん支離滅裂になっていく言葉の羅列に、シュラは思わず声を荒げ、デスマスクの肩を両手で掴んで揺さぶった。
「泣くな、デスマスク、馬鹿!」
つくづく自分は誰かを泣き止ませるのが下手だ、とシュラは忌々しく思った。だが赤ん坊がどうやったら泣き止むかなど既に永遠の謎だし、目の前の馬鹿の呼び名もわかりはしない。そしてケーキをやろうが花をやろうが、きっと彼らは泣き止みはしないのだろう。しかしシュラが持っていて彼らに与えられるのは、それしかないのだ。
こっちが泣きたい、とシュラはぎりぎりと歯を鳴らした。
「……行こう、デスマスク」
自然に口をついて出た言葉だったが、自分にしてはそれなりにいい言葉を選べた、とシュラは思う。
「行こう」
「…………」
デスマスクは一瞬涙を止めたが、赤い目からすぐまたぼろぼろ涙が溢れだした。
「……うぅ、」
「行こう。なあ」
「う────……」
シュラの枝のような腕をぎりぎり掴んで、デスマスクは呻き泣いている。力の強い指が、肉どころか骨に食い込んで痛かったが、シュラは彼を振り払わなかった。
そしてふと気配を感じて横を見ると、ふわふわのブロンドに葉っぱや土をひっ絡め、目の下に隈を作ったアフロディーテが立っていた。これ以上なく疲れているだろうに、倒れ込んだもののどうやら一睡もしなかったらしい。
「……デスマスク。私たちと行こう」
そしてアフロディーテも、同じ事を言った。それ以上上手い言葉はやはり思いつかなかったようだ。
「行こう、デスマスク」
「一緒に行こう」
拙い言葉で、二人は何度も呼びかけた。持っているものを全て差し出して、どうにかこうにか、なんとかならないか、と懸命に努力した。
「あ────────」
しかしデスマスクはシュラの腕をぎりぎり掴み、とうとう声を上げて泣き出した。
「ああ────────……」
ゴン、と、デスマスクが床に額をぶつけた音が鈍く響いた。
埃だらけの床に突っ伏して嘆く彼に、二人はもう、何の言葉もかけてやることが出来なかった。