第8章・Am Kamin(暖炉の側で)
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アイオリアが旅立った、次の日。
「坊ちゃん、そこの洗濯物を取って下さいな」
「……いつまで俺は“坊ちゃん”なんだ」
「坊ちゃんは坊ちゃんです」
せっかく名前を決めたというのにいつまでも治らない呼び名に、シュラは唇を尖らせる。しかしぶつくさ言いながらもちゃんと言われた通りに洗濯物の籠を抱えると、てきぱきと洗濯物を干すルイザの背後に立った。どちらが従者かわからない。
「……料理長とルイザはどっちが偉いんだ?」
「何の話ですか」
黄金聖闘士って意外に立場が低いよな、とシュラはぼんやり考えた。
十二宮にはそれぞれ守護者や従者が生活するための離宮があるが、断崖絶壁に建てられている故に外に洗濯物が干せない磨羯宮の中庭には、こうしてよく、あまり多くない洗濯物が翻っている。もちろん、全てシュラのものである。シーツも、黄金聖衣を纏う時に身につけるマントも、真っ白に洗い上がっていた。
最近では他の宮にも出入りして皆の世話を焼いていて負担が大きいからというのもあるが、他の女官と違って、ルイザはこうして家事を手伝わせる。身の周りの世話を焼かれるのを嫌って全て自分でやってしまうという者が居た事はあるらしいが、女官が主である聖闘士、しかも黄金聖闘士に手伝いを要請するなど、はっきり言って前代未聞の事だ。
その事態に神官や女官の一部は異議を唱えたのだが、シオンも童虎もむしろ良い事だと推奨したので、すっかり皆「お手伝い」が板についている。年少組とて食後の後片付けくらいは普通にするし、シュラもボタンの付け替え位は出来るし、妙に小器用なデスマスクに至っては裁縫までできるようになってしまった。それに、毎日おなじような訓練を繰り返す日々の中、子供たちには、パン生地をこねたり水遊びがてら洗濯をしたりするのは結構楽しいものであるらしい。
「そろそろ自分の下着くらいは自分で洗って下さいよ。黄金聖闘士が自分のパンツも洗濯できなくてどうします」
「あー」
「何ですかその返事は」
「うん」
「……うん?」
「はい」
そしてすぐさま大きく欠伸をしたシュラに、ルイザは小さく舌打ちをすると、犬が砂を蹴るような仕草で、彼の向こう脛を軽く蹴った。シュラはそれを避けずに、洗濯物の籠を抱えたまま、ふてぶてしくにやりと笑った。
「……あの悪たれはどうしてますかねえ」
シュラの訓練着のほつれをチェックしながら、ルイザがぼそりと言った。
「あの悪たれって、あの馬鹿か」
「多分その馬鹿ですよ」
「──さようなら、とは言わなかった」
ルイザの言いたい事を察して、シュラはぼそりと言った。ルイザは振り返らなかったが、ほつれを探す手は止まっている。
デスマスクが「帰る」と言うとき、それはいつだってあの小さい長靴の国を指していることを、シュラも、ルイザも知っている。そしていま、彼はその地に喜び勇んで向かっているのだ。
「また、会えますかねえ」
「さあ」
「……坊ちゃん、寂しくないんですか?」
あっさりと受け答えをするシュラに、ルイザは呆気にとられた様子で、眉尻を下げた表情で振り返った。だがシュラは彼女の方を見ず、片手で咲き始めた花の一つをぷちりと取って、口に銜えた。
「デスマスクに、反逆罪で追っ手が出されるかも?」
シュラは、さらりと言った。ルイザは頷かなかったが、真剣な目をしている。
「……だって、聖闘士を辞めてイタリアに帰るには……」
「ルイザ」
そう呼んで、シュラは銜えた花を指で摘んで離した。花が煙草でないのが不思議な位に熟れた仕草だった。
「俺の母親は」
シュラが、自分の実の親の話をするのは初めての事だった。彼が自分の父親をダニみたいに嫌っている事はルイザも知っているが、その理由は知らないし、母親の話に至っては本当に初耳である。
「色々端折るが、つまり、自分の旦那に嫌気がさして家を出てった」
ピチュピチュピチュ、と、名前のわからない小鳥の声がする。
「逃げたんだ。多分、男と一緒に」
「…………」
「そしてあの男を裏切ったって事は、九割九分もう生きては居ない。今考えても、あの人はあんまり頭のいい女じゃなかったし」
そう言って、シュラはもう一度花を銜えた。もう蜜は残っていないだろう、吸っても苦いだけのはずの花を。
「でも俺にこの花とあの曲を教えてくれたのはあの人だ。……だから俺を置いてったのは、自分があんまり頭が良くなくてきっと死ぬ事とか、だからもちろん俺の事も守れないだろう事とか思ったからかもしれない。そして、それでもあの家を出たかったんだろう。死んだ方がマシという事は世の中にいくつかある」
「坊ちゃん」
ルイザが呼ぶと、シュラは笑った。とても少年がするような顔ではなかった。
「だから俺は今でもあの人が好きだし、あの人が教えてくれたこの花が好きだ」
ぺっ、とシュラは花を地面に吐き捨てると、もう一輪花を取って、再び口に銜えた。甘い蜜を感じたのか、切れ長の目が、僅かに細まる。
「大丈夫だ、ルイザ。あいつはあの人と違って、馬鹿みたいに頭がいい」
「……知ってますよ。でも、どうやって」
「さあね。馬鹿の考える事なんかわかるもんか」
シュラは、にやり、と笑った。その笑みは、“あの悪たれ”の笑みとそっくりだった。
「大丈夫だ、あいつはそんなへましない。アフロディーテもついてるし」
言い切るシュラの背筋は、まるで刀みたいに見事に伸びていた。ルイザはぽかんとした表情になった後、弛緩した笑みを浮かべて眉尻を下げた。
「……坊ちゃんは、あの二人を信頼してるんですねえ」
「はあ? 阿呆抜かせ、誰が」
シュラは顔を顰めたが、ルイザはくすくす笑うだけだ。
「それにもし危なくなったら、助けに行くんでしょう? きっとイタリアくんだりまで」
「……あいつが頭下げて助けを求めて来たら、行ってやってもいい」
「下げて来なかったら?」
問われて、シュラは、くるりと視線を逡巡させた後、言った。
「ぶん殴って下げさせる」
「あっはっはっはっはっはっ!」
シュラが答えた途端、ルイザは天を仰いで大声で笑い出す。シュラは少しばかりばつの悪そうな顔をしていたが、ルイザがあんまり楽しそうに笑うので、いつの間にか笑みを浮かべていた。
「でも、あの馬鹿が居なくなったって、俺が居るから寂しくはないだろ?」
「おやまあ、ちょっとばかし大きくなったとは思っていましたけど、いつからそんな女ったらしみたいな台詞を言うようになったんですか」
「俺はそろそろ大人だぜ、ルイザ」
「どうだか」
ルイザは次に手に取った訓練着のほつれの場所をしっかり脳味噌に刻むと、手際よく干した。
「自分のパンツも洗えないくせに、何が大人ですか」
「あー」
「破いた服は誰が縫うんです?」
「うん」
「うん、じゃありませんよ」
「……ルイザはどこにも行かないだろう?」
ぼんやりした口調で、ふとシュラが言った。
ルイザが振り返る。ここに遣って来た数年前と比べると、シュラの背は驚くほど伸びていて、既にルイザより高い。しかしルイザには、彼が抱える洗濯籠の影で所在無さげに動かしている彼の足下が見える。
「頭もいいし、……ここが好きだろ?」
「……まったく」
ルイザは盛大に息をつくと、苦笑して、また洗濯物を干し始めた。
「しょうがないですね。坊ちゃんが洗濯と裁縫が上手なお嫁を貰うまでは何とかしましょ」
「ルイザ、俺はね」
シュラは細長い身体を曲げてしゃがみこむと、また新しい花を摘んだ。
「この花と同じくらい、ルイザのケーキが好きだね」
ぴたり、とルイザの動きが止まった。そして上から振ってきたやや強めの平手を、空になった洗濯籠を被ってガードする。ルイザの顔が少し赤い事を、シュラは籠の編み目の隙間から見た。
「いつまでも甘ったれてんじゃありませんよ!」
すっかり洗濯物を干し終わって離宮に引っ込んでいくルイザを、シュラは洗濯籠を被ったまま見送る。
籠の影になって辛うじて見える口元には悪たれの笑みが浮かんでいて、いつまでもクックッと小さな笑いを零していた。
そして夕方になる前に、ルイザの言いつけ通りシュラは洗濯物を取りこんで、太陽の匂いのするシーツをベッドに被せて眠りについた。──その夜の事だった。
「──シュラ!」
彼の部屋に勢いよく飛び込んで来たのは、アフロディーテだった。シュラは驚いて飛び起き、何事かと彼を見た。アフロディーテは見た事もないような切羽詰まった表情をしていて、シュラはもう一度驚く。
「どうした。デスマスクは」
「そのデスマスクだ。一緒に来てくれ」
そのひとことで、何かまずいことが起きたらしい事を察したシュラは、素早く寝間着を着替えた。聖衣を着ていくべきか少し迷ったが、いざとなれば呼べば飛んでくる事は実証済みなので、そのまま行く事にする。二人で一気に無人の十二宮を駆け下りた。アイオロスは各地で試練を受けているちびどもを見て回る任務を受けたので、人馬宮も不在である。そして、サガも居なかった。
「くそっ、どうしてこんな時にサガが居ないんだ!」
アフロディーテがこんなに焦っているのは珍しい、というより初めての事だった。アフロディーテもまずサガに頼るつもりだったらしいのだが、彼が居ない事で余計に焦りが増しているようだ。
「テレポートする。掴まっていろ」
「……大丈夫か?」
「そんな場合じゃない」
アフロディーテも超能力は不得手ではないが、可もなく不可もなく、という程度でしかない。そのレベルの力で全く超能力が使えないシュラと二人分のテレポートをイタリアまで行なうのは結構無茶な事だ。しかも休み無しの往復である。
「だが」
「黙っていろ!」
シュラが生まれて初めてアフロディーテの怒鳴り声を聞いたと思った時には、もうそこはギリシアではなかった。
二人が立っているのは明かりのない、山の麓あたりの道ばただった。消耗したのだろう、がくりと膝をついて荒い息をつくアフロディーテに肩を貸して立ち上がらせると、シュラはアフロディーテの言う通りの方向へ歩き出した。
「どうしたっていうんだ。まさかもう追っ手が来てどうこうっていうんじゃないだろう?」
「違う」
小宇宙を消耗しているアフロディーテでは、聖衣を纏っていても重たいだけだ。シュラはパンドラボックスに収納した魚座の聖衣を片方に背負い、もう片方でアフロディーテに肩を貸しながら、夜の山道を出来る限りさっさと歩いた。
「……なかったんだ」
しばらくして呼吸の整って来たアフロディーテが、呟くように言った。
「なんだって?」
意味が分からず、聞き返す。アフロディーテは何度か大きく深呼吸をすると、苦々しい表情で言った。
「……デスマスクが帰りたがっていた町は、……もう、なかったんだ」