「さあ、これでもう大丈夫だろう。完全に治るまで安静に」
「ありがとうございます……! ありがとうございます、サガ様!」
ヒーリングを施してもらった候補生は、涙を浮かべてサガに何度も礼を言った。ここ聖域で聖衣を得ることの出来なかった候補生は雑兵になるが、身体を壊すことでそれすら出来なくなると、その暮らしは一気に苦しいものになる。それをこうして回避できるのは、何よりの助けなのである。
「サガ様、この間治して頂いた怪我、すっかり良くなりました!」
「それは良かった。気をつけて」
「サガ様、この間見て頂いた件なのですが……」
「ああ、今行く」
誰かが何かを言い、サガがそれに丁寧に答えると、矢次早にまた誰かがサガに声をかける、それの繰り返し。しかしサガはいやな顔一つせず、始終柔らかな笑みを浮かべてひとつひとつそれに対応している。
近代的な技術が一切使用できないここ聖域において、いざという時に頼りになるのが聖闘士たちの持つ特殊技能の数々であるのだが、こんな風に、聖闘士でもなければ雑兵でもない聖域の人々に自分の力を持ってして丁寧に手を差し伸べ始めたのが、サガである。そして聖闘士自体が殆ど居ない今、黄金聖闘士として強大無比な力を持ったサガは、皆に頼られ、慕われていた。白いマントが翻り、彼の纏った双子座の黄金聖衣がきらきらと輝く様は、人々の目には神以外の何者にも映らない。
「……サガ」
その声に、サガを取り囲んでいた人々が、慌てて道を空けた。視界が開けた先に立っているのは、訓練着姿のシュラだった。
「ああ、シュラ。……どうした?」
怒っているとまでは行かないが、何やら異議ありげなしかめ面をして突っ立っている黒髪の細っこい少年に、サガは首を傾げる。
「十二宮に戻ってくれ。爺さんが呼んでる」
「……シオン様が? 気付かなかったな」
嘘つけ、とシュラは心の中で悪態をつく。デスマスクとアフロディーテに早く出発しろと怒鳴り込んで来たシオンは、サガにいくらテレパスで呼んでも気付かないから、ついでに探して呼んで来い、とシュラに命じた。
飛ばされたテレパスに気付かない、という事態は、皆無ではない。超能力の才覚が薄いシュラは、何かに集中している時であれば気付かないこともある。しかし超能力において聖域いち、要するに世界一の強大な力を持つシオンが飛ばしたテレパスに、こちらもまた超能力においては相当の実力を持つサガが気付かない、などということはあまり考えられない。しかしそこを突っ込んでもサガはいつも困ったような笑顔ではぐらかすだけであり、また超能力の才覚のないシュラは「そういうこともあるのだ」と言われてしまうと、何も言い返せない。
もう一人の様子を見終わったら行くよ、と言うサガの後ろ姿を、シュラは胡乱げに眺めた。
「あ、シュラ、サガ!」
十二宮に向かう道すがら、元気に手を振りながら声をかけてきたのは、アイオリアだった。横には、射手座の黄金聖衣を纏ったアイオロスも居る。こうして並べて見ると、本当によく似た兄弟である。Lサイズ・Sサイズとタグをつけたいくらいだ。
「ああ、今から行くのか?」
「うん、兄さんに会っていこうと思って」
「そうか」
アイオリアが獅子座の黄金聖衣を得るために課せられた試練は、直線距離・徒歩での地球一周を制限日数内で、という、まるで『走れメロス』のようなものだ。黄金聖闘士でなければできない所業だが、アイオリアならやってのけるだろう、と誰もが当たり前に確信している。むしろ、一人で遠出をしたことの無いアイオリアが道に迷わないかということの方が心配だ。
「大丈夫だアイオリア! 常に夕陽に向かって走っていれば迷わない!」
「うん!」
「……それは……ああ、まあ、そうかな」
満面の笑みで力強く言ったアイオロスを見上げ、きらきらした目でいい返事をするアイオリアに、シュラは半笑いのような微妙な表情で、曖昧に頷いた。突っ込みを放棄した、ともいう。
「でも、しばらくアテナに会えないのはさみしいなあ」
「そう思うならとっとと地球一周して戻って来てくれ」
「えー、アテナ、かわいいのに」
シュラがうんざりした様子で言うと、アイオリアはぶーと唇を尖らせた。
「かわいくても、あんなに手がかかるんじゃな。誰かさんは全然手伝ってくれないし」
「……だから、悪かったと言っているじゃないか……」
サガが、ひっそりと言う。
聖衣取得組がそれぞれ試練を受けに行ってしまったことで、アテナの子守りはアイオロスとシュラ、そしてサガの3人がこなさなければならない。しかしサガは、アテナの子守りをした事がない。
サガはいつも、十近く歳下である年少組たちの面倒を自分から進んで見ている──いやあれははっきり「とても可愛がっている」と言っていいだろう。実際、ミロなどは完全にサガに甘えきっている部分がある。そしてこうして“下”に降りた時は大勢の子供たちに囲われ、慕われ、また生まれた赤ん坊をサガに抱いてもらおうと頼みに来る母親も多く、そんな時のサガの目元は、その母親と同じくらいやわらかい。つまり、サガは結構な子供好きだ。
──だがサガは、なぜか、アテナに近寄りたがらない。
彼はいつも、何かと理由をつけて子守りの仕事から逃げる。そのぶんがアイオロスに回り、そしてシオンたちがアイオロスを避けた結果、結局シュラにお鉢が回ってくるのだ。
「子守りのせいで、俺は最近いつもの半分も鍛錬に行けないんだぞ!」
「すまない、と思ってはいるんだが……。しかし、どうにも忙しくてね。最近怪我人も多いし……」
「…………」
いつもこうである。シュラが文句を言っても、サガは困った顔で「忙しいのだ」と告げるだけだ。確かにサガはサボっているわけではなく、多くは“下”で怪我人や病人を見て回っているし、それが大事な用事であることもわかる。しかしそれらが、いくらやっても果てのない用事であること──要するに、子守りを回避するのに絶好の言い訳である、ということもまた確かなのだ。
「そうだぞシュラ。サガがやってるのはとても大事な事だ。アテナの面倒は俺とお前で見ればいい」
「アンタの面倒の見方が大雑把すぎるから、俺に全部回って来るんだろうが!」
とうとうシュラが怒鳴った。
確かに、アイオロスは赤ん坊だったアイオリアの面倒を見ていた経験があり、実際にアテナの面倒もよく見ようとする。しかし、彼のあやし方は何もかもが豪快かつ大雑把だ。高い高いをしようとすれば半ば投げるようにし、あやせばまるでシェイクするかのように揺らしかける。もしかしてこういう育てられ方をしたからアイオリアは丈夫なんじゃないか、とシュラは最近薄々思っている。ともかくそういう理由で、シオンや女官たちはあまりアイオロスにアテナの面倒を任せたがらない。
「でもアテナ、シュラの顔見て泣くよね」
「……黙れ!」
口を挟んだアイオリアの頭に、ゴン! とシュラの拳骨が落とされた。「痛い!」とアイオリアは忌々しげにシュラを見上げたが、あまりにシュラの表情が険しいので、渋々と目を逸らした。
「……そういう顔するからアテナが泣くんじゃないか」
「なんか言ったか」
「べ、べつに……」
地の底から響いて来るような声を出すシュラに、アイオリアはうっすらと冷や汗を流す。
シュラ少年は確かに整った顔立ちではあるのだが、お世辞にも、可愛らしい、とかいう形容詞がまったく似合わない顔つきをしている。今現在の年齢でこうなのだから、将来はさぞ鋭い強面になるだろうことは確実だ。デスマスクもそのあたり同様だが、彼はどこかしら愛嬌のある表情を多くするので、シュラのように近寄り難い鋭さはない。
そんなシュラは、気の毒にも、どこまでも子供受けが悪い。しかも、意図して表情を作る事──例えば愛想笑いとか──が壊滅的に下手だ。だから赤ん坊のアテナをあやす時も、「べろべろばあ」さえもろくにできないシュラは赤ん坊を泣き止ませることが出来ず、そして泣き止まない事に焦り、訓練に行けない事に苛ついた挙げ句、無理に作ろうとして盛大に引きつった笑顔で更に赤ん坊が泣き喚く──という悪循環に陥るのが、既にパターンになっている。ちなみに女聖闘士の仮面を被るというのも試してみたが、これも怖いらしく無駄だった。
そんなわけでシュラは最も子守りに向かないであろう人材なのだが、根が真面目なため、どれだけストレスをかけられても赤ん坊をアイオロスのように大雑把に扱う事はしないので、シオンたちはこぞってアイオロスではなくシュラに子守りを任せようとするのである。怪我を負わせる事を考えれば泣き疲れて寝るのを待った方が安心、そのうち慣れればシュラに抱かれても泣かなくなるだろうという魂胆だ。……アテナが降臨して既に二週間経つのに未だシュラに慣れる兆しがない事については、考えない事にしているらしい。
「……でも本当、忙しいにしたって、アテナを避けてるだろ? なんでだ?」
「そんなことは……」
「嘘つくな」
琥珀色の切れ長の目は、やはり鋭い。ぎろりと睨んでくるシュラに、サガは怯んだように僅かだけ身を引く。しかしそれでも容赦する様子のないシュラに、彼は仕方なく、もそもそと口を開いた。
「……女神アテナの身辺のお世話など、……畏れ多くてね」
サガは、誰とも目を合わさずに、まるで懺悔でもするかのように怖々言った。シュラはそれにきょとんとしたが、「あー」と小さく頷いた。
「まあ……確かにちょっと普通じゃないみたいだけどな。うんこ緑色だし」
「ええ!? 本当!?」
アイオリアが、明るい緑色の目を思いっきり見開いて叫ぶ。シュラは「本当だ」と神妙に頷いた。
「でも他は別に普通だから、別にそこまで怖がらなくても良いと思うぞサガ」
「……シュラ。赤ちゃんはみんな緑色のウンチをするものだぞ」
「え!?」
「ええ!?」
アイオロスが呆れたように言い、シュラとアイオリアが異口同音で叫ぶ。
「アイオリアもしてたぞ、緑色のうんこ」
「う、嘘だ!」
「本当だよ」
何かショックだったらしいアイオリアは兄に嘘だ嘘だと食って掛かっているが、アイオロスは平然と「してた」と繰り返すだけである。
「なんか、腸の中で空気と混ざって緑になるとか何とか。な、サガ」
「……ああ、うん……“下”にいる赤ん坊たちもそうだった」
いきなり始まったやり取りに毒気を抜かれてぽかんとしていたサガだったが、突然同意を求められ、まだやや呆然としたままそれに応えた。
「……じゃあ、本当に普通の赤ん坊じゃないか」
間違った知識を披露してしまいやや恥ずかしかったのか、シュラが不貞腐れた様子で呟いた。
「アテナアテナって言ってるけど、やっぱり女官の誰かが捨ててっただけなんじゃ」
「──シュラ!」
びりっ、と鼓膜に痛みが走るほどの大声。まずその音に驚き、そしてその主がサガだということに、3人はまた驚いた。サガは何とも言えない、……怒ったような、泣きそうなような、……何かに恐怖し動揺したような表情をして、揺らぐ目をシュラに向けている。
「取り消せ、シュラ。女神の聖闘士として許されない発言だ。……謝罪を」
「……サガ?」
「早く謝れ!」
「な、いった……!」
サガは凄まじい勢いでシュラの頭を掴むと、アテナ神殿の方向に向かってぐいぐいと押し下げた。あまりに強い力に、シュラが痛みに顔を顰める。
「サガ! ……やめろ!」
突然の事に呆気にとられていたアイオロスとアイオリアだが、アイオロスがはっと我を取り戻し、慌ててシュラからサガを引き離した。
「どうしたっていうんだ!? やりすぎだ」
「……っ、謝れ、今ならまだ無礼を許して下さる!」
引き剥がされたサガは、いくらか冷静さを取り戻してはいるようだったが、それでもまだ悲痛な、切羽詰まった様子でシュラに畳み掛けた。
「落ち着け、サガ! ……シュラ、お前も確かに言いすぎだ! 取り消せ!」
「……ああ、もう、悪かった! 悪かったよ、もう」
悪いと思っているというよりはサガのあまりの剣幕に気圧され、シュラは早口で謝罪を述べた。しかし反省していない事を当然見抜いたアイオロスが、眉を顰める。
「シュラ。サガがああして皆を見て回らなければ、取り返しのつかなくなっている者が沢山居るんだぞ!? それを何だ、我が侭ばかり言って! それともお前がサガの代わりに“下”を見て回って病人の面倒を見れるのか!? 出来ないだろう! 出来ないくせにでかい口を叩くな!」
「う……」
もっともな言い分に、シュラはたじたじになる。
「でも、」
シュラの反論は、最初の僅かしか発されなかった。アイオロスがシュラの頭を思い切り殴ったからである。
「っだぁあ〜〜……ッ! っ、ああ、悪かった! ほんとに悪かったって!」
「本当だな?」
「本当! ……だからその拳下ろせ!」
おまけに喋りかけている時だったので舌を噛んだシュラは、口を押さえていいやら頭を抑えていいやら、とにかく涙目でアイオロスから距離を取った。
「まったく……。デスマスクを筆頭に、お前らはアテナに対する敬意が全然足りてないな。聖闘士としてあるまじき事だぞ」
「…………」
そんなこと言われても、とシュラは言い返したかったが、苦々しい顔をするのみで、黙っておいた。また殴られてはたまらない。
「その点、サガは本当にアテナを敬愛してるよなあ……。俺もそれなりにアテナを敬ってたつもりだったけど、やっぱりサガには敵わない」
「……アイオロス」
「聖闘士の鑑ってやつだなあ」
苦笑しながら、アイオロスは言った。そして、サガは表情を和らげ、強張らせていた身体から力を抜いた。
「ほら、シュラ、アイオリア! お前達もサガを見習えよ!」
「……よしてくれ、アイオロス」
「いいじゃないか」
にっこりと笑むアイオロスに、サガはやっと、力なくだが、安心したような薄い笑みを返した。
「……それにしても、アイオロスはなんでこんな所に居るんだ? アンタも爺さ……教皇に呼ばれてただろ」
「ああ」
不貞腐れつつも、頭をさすりながら言ったシュラに、アイオロスは思い出した、という風に手を打った。
「アイオリアが出発する前に完成させようと思ってたのが出来たからな。激励ってことで見せようと思って」
先程の拳骨とは打って変わって、ポン、とアイオリアの頭に軽く手を置いてぐりぐり撫でると、アイオロスは「こっちだ」と3人を導いた。
「……何だよ、アイオロス。こんな所に何の用……」
「いいから、いいから」
アイオロスが3人を連れて来たのは、墓場だった。
かなりの数の墓標が乱雑に立てられたそこは、普段誰も近寄りたがらない場所でもある。
きちんと石棺で埋葬される聖衣を賜った聖闘士や、生前親しかった人物から何かしら棺のようなものを仕立ててもらえた者はともかく、その他の人間は大概、土を掘った穴にぞんざいに埋葬される。だから大雨などで土が流れ、目も当てられないような状態の遺体が姿を現す事も珍しくないからだ。いっそ白骨化までしていればまだいいが、それ以前の状態であれば菌が繁殖して病気の原因にもなるという、衛生面での危険もある。
「ほら、これだ」
アイオロスが示したのは、少し外れた所にある、真新しい一つの墓標だった。──しかし、そこに刻まれた名は。
「……何だよ、これ」
──黄金聖闘士 射手座 アイオロス
そう刻まれた石の墓標に、シュラは奇妙に表情を歪めた。横を見ると、アイオリアも同様である。
「いや、シオン様に聞いたんだけどな。聖闘士はこうして自分で自分の墓標を作るっていう、古い習慣があるんだと。“アテナの為に命尽きるまで戦います”っていう誓いだな」
頭が悪いわけではないのだが、蘊蓄をたれる、という機会が滅多にないアイオロスは、どこか得意げにそう説明した。
「俺は不器用だから、字を彫るのに何回も失敗して、結局アイオリアの出発ギリギリになってしまったが……。でも、間に合って良かったよ。……アイオリア、俺も気持ちを入れ替えて頑張るから、お前もアテナの為に立派な聖闘士になるんだぞ」
「うん……」
アイオロスはにこにこしているが、アイオリアの表情は相変わらず微妙だ。それもそうだろう、いくらそういう習慣や伝統があるのだと聞かされても、自分の墓標をどうだと見せられて困惑しないはずがない。
「アテナが降臨した事だし、俺も気合を入れようと思ってな」
「……ふうん。アンタも結構なアテナ信奉者じゃないか」
よく見ると細かい所がガタガタな文字を見ながら、呆れたようにシュラが言う。
「いや、そうじゃないから気合を入れようと思って作ったんだよ。さすがにサガには敵わない……──サガ?」
後ろに立っているサガを振り返ったアイオロスは、驚いて目を丸くした。
サガは、アイオロスの墓標を、まるで石像にでもなったかのように微動だにせず、じっと見つめている。──そしてその顔色は、真っ青だった。
「おい、どうしたんだサガ。大丈夫か?」
「あ、あ……」
心配そうに顔を覗き込むアイオロスに、サガは笑みを返した。……それは、シュラよりも遥かにひどい作り笑いだった。
──いつまで待たせるか、お前達
「あ、シオン様」
響いて来たテレパスに、アイオロスが反応する。シオンの声は、超能力の才覚がないシュラでも、頭が痛くなるぐらいはっきりと聞き取ることが出来た。やっぱり気付かないなんてあり得ないよなあ、とシュラはちらりとサガを見た。彼はやはり、蛇に睨まれた蛙のように身体を強ばらせている。
(何だってんだ)
先程から奇妙極まりないサガの様子に、シュラは眉を顰めて首を傾げる。そして、シオンのテレパスは再度続いた。
──サガ、アイオロス。二人に大事な話がある
聖域いち、世界一の強大無比な超能力を持つシオンの声。
それはまるで、神の声のようにも聞こえた。
第7章・Träumerei(トロイメライ、夢見るこども) 終