第7章・Träumerei(トロイメライ、夢見るこども)
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「わあ、かわいい」
「かわいい」
「小さいなあ」
 寝台に乗せられた小さな赤ん坊、柔らかな髪は亜麻色で、きょとんとした目は、赤ん坊特有の青みがかかった──灰色である。
 先日、空ごと振ってくるような流星群の夜、アテナ神殿の巨像の前に現れたこの赤ん坊こそが、今代のアテナであった。
 そしてそのアテナを一目見ようと集まって来た“黄金の器”たちは、きらきらした目で、その小さな女神を覗き込んでいた。
「シオンさまシオンさま、さわってもいいですか?」
「あっ、ずるいぞミロ。おれだって抱っこしたい」
「騒ぐでない」
 順番に抱かせてもらえることになった子供たちは、頬を赤くして、興奮気味に、シオンがそっと抱き上げた赤ん坊を目で追った。
「わあ……」
 一番手を担うことになったミロは、かなり緊張しながら、腕の中に預けられた小さな赤ん坊を見つめた。“黄金の器”の中でも一番小柄なミロが赤ん坊を抱く様は、本当に子供が子供を懸命に抱き上げているそのままの姿で、微笑ましい笑いを誘う。しかしミロは周りがどう思っているかなどおかまい無しに、夢中で小さな女神をじっと見た。
「これが、女神……」
「左様」
 シオンは、重々しく頷いた。
「この方をお守りすることこそ、我らの、お前達の使命ぞ。心せよ」
「──はいっ!」
 全員が、元気な返事をする。しかしその声にびっくりしたのか、赤ん坊が泣き出してしまった。まるで子猫のような声でみゃあみゃあ泣き始めた赤ん坊に、子供たちが一斉に狼狽える。
「わああ、ごめん、わあ」
「ばかミロッ、おまえがでっかい声出すから」
「あなただってうるさいですよアイオリア!」
「おろかものめ。わたしにかしてみろ」
「おまえだけはだめだっ、シャカ!」
「どういういみだね!」
 わあわあぎゃあぎゃあ、みゃあみゃあみゃあ。
 一気に騒がしくなったアテナ神殿、慌てた女官たちがぱたぱたと駆けて来る。
「ええい、うろたえるな小僧どもっ……!」
「うわ──ッ! だめですそれだめですシオン様──ッ!」
 一番とんでもない行動をとろうとした老人を、子供たちが必死で止める。青ざめたミロから赤ん坊を受け取ったカミュは、小さな布の塊をしっかり受け取ると、部屋の端に素早く移動した。
「な、な、泣かないで……! なかないで、よしよし」
 カミュも赤ん坊を抱くのは初めてだったが、ゆっくりと揺すりながら、なんとか穏やかに声をかける。すると落ち着いたのか、赤ん坊はまだ少しぐずりながらも何とか泣き止み、カミュはホッと息をついた。
「あつい……」
 赤ん坊の身体は布越しでもひどく熱く、カミュはもしかして熱でもあるんじゃないかと心配になった。しかし覗き込んで来たアルデバランが、赤ちゃんはみんな体温が高いのだ、とそっと教えてくれたので、そうなのか、と笑みを浮かべ、改めて赤ん坊を見た。アルデバランも、横からそっと小さな顔を覗き込んでいる。
「アルデバランは、赤ちゃんを抱っこしたことがあるのか?」
「あ、うん。……孤児院にも赤ちゃんがいたからね」
 アルデバランは聖域に来る前は孤児院で生活していたらしく、そのおかげで赤ん坊に接するのは初めてではないらしい。
「そうか。じゃあアルデバラン、ちょっと抱っこしてくれ」
「え?」
「……ごめん、ちょっと暑くて……本当は抱っこしていたいんだけど」
 少し申し訳なさそうなカミュに、アルデバランはこくりと頷くと、おずおずと赤ん坊を抱き取った。孤児院に居た時と違い、石柱も握りつぶせる力を身につけたアルデバランである。一瞬激しく躊躇したが、しかしもう完全に小宇宙はコントロール出来ているではないか、と自分を叱咤すると、彼はそっと赤ん坊を腕に抱いた。
 抱き慣れているからか、それともミロやカミュと違ってしっかりと安定した腕に抱っこされているせいか、まだ微妙にぐずぐずとしていた赤ん坊は、今度こそすっかり泣き止んだ。
「……かわいいなあ」
「うん、かわいい」
 涙に濡れた目できょときょとしている赤ん坊を、二人はほんわりと眺めた。
「むっ、アルデバラン! つぎはわたしに抱かせたまえ!」
「だめだ、おまえはだめだ。ぜったい泣く」
「うん、泣くな。だめだ、シャカはだめだ」
「だいじょうぶです、私がちょっとテレキネシスで浮かせますから」
「そうか、それなら」
「……きみたち、わたしになんのうらみがあるのだね!」
 アイオリアとミロ、そしてムウが真顔で言い、少し本気でショックだったのだろうか、ややどもったシャカの声は、若干勢いがなかった。






「ああ──……」
 ひとりテーブルに突っ伏したシュラは、まるで風船から空気が抜けるような声で呻いた。いつもはぴしりと背筋を伸ばし、細身の身体であるだけにまるで刀剣のような姿勢を崩さないシュラなのだが、今は完全にだれきっている。
 ごろり、とテーブルの上で黒髪の頭を転がしたその時、バン! と大きな音が鳴った。
「おい、シュラ!」
「……デスマスク?」
 ドアをぶち破る勢いで突然飛び込んで来た、暫く会っていなかったその人物に、シュラは目を丸くした。
「お前、いつ帰って来たんだ?」
「今から帰るんだよ!」
「は?」
「デスマスク、落ち着け」
 落ち着いた声色で言ったのは、あとから入って来たアフロディーテである。その背には、双魚のレリーフが彫られた黄金の箱を背負っている。
「え、お前、聖衣……」
「さっき賜ってきた」
「軽っ!」
 さらりと言ったアフロディーテに、シュラは思わず突っ込みを入れる。
 アフロディーテに課された試練は、双魚宮で薔薇を育てることであったらしい。岩場に建てられた、しかも十二宮の中でも標高の最も高い双魚宮で植物を育てるのは、強大な小宇宙の力無しでは実現できないことなのだ。いま双魚宮は、あらゆる場所に薔薇が咲き誇る、双魚宮という名よりも薔薇の神殿と言った方がいいような有様であるので、試練には文句無しで合格であろう。
「で、初めての任務がこいつのお目付だ」
「お目付って、だから何の……」
「そんなこたあどうでもいいんだよ!」
 バンバンバンバン! と、デスマスクはシュラが突っ伏していたテーブルを勢い良く叩いた。これ以上ない興奮ぶりである。
「帰るんだよ!」
「は……?」
 デスマスクは見たこともないような、大きな笑みを浮かべている。先程から意味が掴めず困惑しているシュラに、アフロディーテがやはり淡々と言った。
「黄金聖闘士の試練は、それぞれの生誕地だろう?」
「……あ!」
 シュラが声を上げた。
「イタリア帰れるのか!? デスマスク!」
「そう!」
 デスマスクは一際大きな返事をすると、バン! ともう一度テーブルを叩いた。見ると、平手で叩き付けられた手には、畳まれた厚手の紙があった。デスマスクはがさがさと忙しなくその紙を広げると、テーブルの上に置く。
「ここ! ここだぞ!」
 黒い汚れが詰まった爪先で、彼は小さな長靴を何度も指差した。
「──俺は、ここに、帰るんだ!」



「……そういや、シュラはここで一人で何してたんだ?」
 いくらか落ち着いたデスマスクは、はちみつとナッツのケーキを頬張りながら聞いた。デスマスクがいかにイタリアに帰りたがっていたかよく知っているシュラが、気前よく、秘蔵のルイザのケーキを出してやったのだ。しかも全体の半分を大きく切ったそれは、いつもの割当の3倍はある。
「アテナが全然泣き止まなかったんだよ……」
 降臨したアテナは、女官たちがいつもついているとはいうものの、“黄金の器”を含む黄金聖闘士たちが交代で世話をすることになっていた。童虎の提案である。
 しかし昨日、シオンの指示でまだ聖衣を賜っていない者たちがその為の試練を受けに聖域を出てしまったため、年長二人とシュラで子守りをしなければならなくなった。ミロやアイオリアはこの聖域に居るのだが、試練中なので子守りの任は解かれている。……当人たちは大変残念がっていたが。
 だが、正直シュラは子守りが苦手だ。今まで赤ん坊を扱った経験などないし、あのふにゃふにゃした生き物が何をきっかけに泣き出したりするものやら、未ださっぱりわからない。そして先程、もうシュラの方が泣きたくなって来た所で見かねたルイザが助け舟を出したので、これ幸い、とシュラは磨羯宮までこうして逃げて来たのである。
 よほど手こずったらしい、シュラはぐったりしていた。一日中全力で組み手もできるシュラがここまでなるとは、アテナはよほど手強いらしい。
「ああ、それでまだぐずぐず泣いてたのかあれ」
「見たのか? アテナ」
「見た」
 ナッツを噛み砕きながら、デスマスクが頷いた。
「ふつうの赤ん坊だった」
 星の振る日にアテナの巨像の前に現れたという赤子、神の化身だというそれに、さすがのデスマスクも多少緊張していた。しかし女官たちが必死であやす赤ん坊は、どこからどう見ても、普通の、いやむしろぐずりのひどい、手のかかる赤ん坊だった。
「私の時は、ミルクを吐き戻した」
 アフロディーテが言った。
「……なんか本当に普通の赤んぼじゃねーか。やっぱあれだろ、インチキ壺とかと同じだな」
 どうせ女官の誰かが生んだはいいけど困って捨てたんだろ、とデスマスクは言った。そういう話はこの聖域ではとてもよく聞く話なので、十分にあり得る話だ。それに、赤ん坊が巨像の前に降臨したのを見たのは、シオンだけだ。
「普通の、人間の赤んぼだろ」
 神様がぐずって泣いたり、ミルクを飲んだりするものか。デスマスクがそう断言すると、アフロディーテも「そうだな」と完全に同意する。しかしシュラはそうせず、「うーん」と小さく唸った。
「おい、何だよシュラ、まさかあれが神様って本気で思ってんのか?」
 ユピキタスを完全にこきおろしたことのあるシュラの煮え切らない反応に、デスマスクは眉を顰める。
「いや、あのな……」
「何だよ」
 首を傾げると、シュラは身を乗り出して、テーブルの上に俯せになるような格好になった。それが“内緒話”だということを察した二人は、すぐに同じようにした。3人の顔が間近になる。
「……アテナな……」
「おう」
 シュラの小声はどこまでも真剣で、二人は神妙に頷く。

「……緑のうんこしてた」

 シュラの告白に、二人が驚愕の表情を浮かべた。
「……ほんとかよ」
「本当だ。見た。緑だった」
 こくり、とシュラは頷く。シン、と静寂が場を支配した。
「だから、やっぱり人間じゃないんじゃ」
「マジか……」
「……人間は、緑のうんこはしないな……」
 ひそひそと言いあう。
 それから三人は長いことアテナについての密談を交わしていたのだが、とうとうシオンからの「とっとと出発しろ」という怒号のようなテレパスが振ってきた。

 そうして銀髪の少年は、聖域を出た。
 ──南の方にある、長靴の形をした、故郷へ向かって。
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BY 餡子郎
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