第7章・Träumerei(トロイメライ、夢見るこども)
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「──いつまでこうしているつもりだ」
くぐもった声は、険しい。サガは表情を歪めた。
「耐えろ」
「いつまで」
「…………」
「──話にならん」
吐き捨てるように、そう言った。サガはぎゅっと拳を握り、俯く。
「だが、こうするほかない」
「馬鹿を言え、手段はいくらでもある。例えば──」
「黙れ」
サガは強い声で遮った。機嫌良さそうに踵を鳴らして話しだそうとしていたのを邪魔され、表情が歪む。
「いい加減にしろ。それ以上言うようならば、私にも考えがある」
「ほう? それはどういう──」
「サガ?」
背後から呼ぶ声に、サガの肩がピクリと震えた。
「……やあ、ミロ」
「? 今、誰かいた?」
「いいや?」
誰もいないよ、とサガは微笑んだ。もう冷たい風は吹かなくなっているこの季節、少しだけ濃くなった水色の空の下。ミロが覗き込んだ柱の影には、確かに誰もいなかった。
「誰かと話してるのかと思ったのに──」
「ちょっと考え事をしていたから、独り言を言ったかも」
「そうか」
ミロはあっさり納得して、頷いた。
「そういえば、カミュとは仲直りしたのかい」
「おう!」
サガが尋ねると、ミロは満面の笑みで良い返事をした。
「壊されたのはちょっと腹が立ったけど、ちゃんと謝ってくれたし、今度は姉ちゃんに頼んでカミュのぶんも作ってもらうことにする。──いつになるか、わかんないけど」
「……そうか」
ミロが最後に少ししょんぼりしたのは、家族に会うことを禁じられているからだ。期限はない。永遠に会うなという明確な掟が定められているわけではないが、聖闘士は外界での縁を絶つべしという、ぼんやりとした習慣が強く根付いている。……矛盾した言い方だが。
「……いつか、また会えるかなあ」
「会えるさ」
きっぱりした声が振ってきたので、ミロは吃驚して思わずサガを見上げた。サガはいつも優しいが、こういうとき、はっきりと断言することもあまりしない。それは適当な慰めを言わないという気遣いから来るものだということは、毎度その困りきった表情からして皆知っていることではあるのだが、それだけに、こうして断言したサガが、ミロにはとても意外だった。
「会えるさ。家族に会うのが、咎められることであるはずがない」
「う……ん」
いつになく強い言葉を発するサガに面食らいながらも、しかし真っすぐ前を見据えてそう言う姿が酷く格好良く見えて、ミロはほっぺたを林檎のようにしながら、こくこくと頷いた。
「それはそうと、私に何か用があったんじゃないのかい」
「あっ、そうだった!」
いつものふんわりした微笑に戻ったサガに言われ、ミロはハッと背筋を伸ばした。
「こないだサガがヒーリングしてやった候補生な、もう全然走れるようになったって!」
「そうか、それは良かった」
ミロの報告ににっこりと笑ったサガは、本当に嬉しそうだった。吊られてミロも更に笑う。
サガは皆と同じ鍛錬に加え、正式な聖闘士として神官たちと対等に話し、既に時には指示さえしている。そして更に、度々十二宮の下に降りて、聖域に暮らす人々の様子を見て回る。やるべきことが多すぎる故にゆっくりととは行かないのだが、それでも彼は、必ず毎日彼らに触れ、そして怪我をした人々に惜しみなく小宇宙によってヒーリングをして回る。ろくな医療施設がないこの聖域では、サガの行ないはまさに天の恵みに等しいものだった。
そして人々は、彼を神のような男だと──口を揃えてそう言っている。
「……私はね、ミロ」
サガはふと、目線を飛ばした。その策は十二宮の下、生活区である。
「この聖域に住む人々、……聖闘士も、そうでない人も、含めて」
ふわりと春の風が吹いた。サガの豊かなプラチナ色の髪が、きらきらと揺れる。
「怪我もせず、病気もせず、幸せに過ごして欲しい。それだけだよ」
「……うん」
ミロは、神妙に頷いた。サガの言うことがいかに難しいか、よく知っていたからである。
聖域は、外界と完全に隔たれた場所にある。何千年もの間結界で囲まれたこの地は、世界中のどの地図にも載っていない。そしてそれ故に、近代的な物資や施設は何一つ存在しなかった。衣食住に関してはほぼ百パーセント自給自足であるのだが、そのせいで、お世辞にも豊かとは言えない。天候によって飢えに苦しむことも毎年珍しいことではなく、また常軌を逸した修行を行なっているにもかかわらず、ろくな医療設備も技術者もいない。
そしていまどき外界では信じられないような男尊女卑と人種差別、そして身分差別が、根強く意識されている。規模としてはせいぜいが村程度のこの場所で身分とは甚だ笑える話だが、あの日女候補生があのような目に遭うことも珍しいことではないし、一応、ヒエラルキーの頂点である神官たちが生活区に住む人々にどのように振る舞っているのか、サガたちも知っている。だからこそ、サガがそこを歩いて回るのは有効なことだった。神官たちは、サガたちの前ではおとなしい。
ミロたち年少組とてそんなことを許せるような性格ではないし、見つければ必ず間に立ちはだかってみせる。だが神官たちは、彼らを子供としか見ていないので、所詮その場しのぎにしかならないのである。
「……ちくしょう、ぶん殴ってやりたい」
「ミロ」
唸るように言ったミロのふわふわの金髪を、サガが諌めるように柔らかく撫でた。
本気を出せば──、いや出さなくとも、“黄金の器”であるミロたちが神官たちを殴り伏せることなど容易い。しかし、それはできない。……存在そのものが極秘であるために外界と関わりを持つことの出来ない聖域において、神官たちが外界との間に持つパイプこそが、この聖域のライフラインであるからである。
聖域は、貧しい。そして三千人を超える人口を完全に自給自足で賄う生活は厳しく、いざという時の命綱がなければ、聖戦の前に息絶えてしまうのがオチだ。そうでなくでも、ここでは、訓練中の怪我や、医療設備のない中での病気で命を落とす──、つまり“戦わずして命を落とす”人間の方が、聖戦による戦死者よりも何倍も多い。そんな環境で、なけなしの薬や食料を手に入れるパイプが途絶えてしまったら。
外部から入って来た者たちに取っては信じられないようなあり方だが、これが、もう何百年も、いや何千年も前から変わらない聖域のあり方なのだった。改善、という言葉を頭に思い浮かべている者が、この聖域に何人いるだろうか。それほどに、このあり方が聖域の“当たり前”だった。
「でも、サガがいてくれるから」
ミロが、にこにこと言った。
「みんな言ってる。サガは、神様みたいだって」
「…………」
「サガ?」
どこか誇らしげに言うミロだったが、サガが浮かべた苦笑に、きょとんと目を丸くする。泣きそうにも見える表情だった。
「……もし、私が神なら」
「え?」
「……いいや、何でもない。……ほらミロ、もう鍛錬の時間だろう。またシュラに叱られるぞ」
太陽と影の位置を指し示してそう言ってやれば、ミロは「やっべえ!」と叫んで飛び上がると、まるで子犬のように走って行ってしまった。サガはきらきらと輝く癖っ毛の頭が遠ざかるのを見送ったあと、小さく、密やかな息をつく。
「……神のような、だと。聞いて呆れる。神に逆らおうとしているくせに」
「黙れ」
影の中でクックッと喉を震わせて笑う声に背を向けたまま、サガはぴしりと言った。
「──答えろ。私に非があるか?」
「……ない」
「なら黙っていろ。何も問題はない」
「…………」
何も言わなくなった彼を見もしないまま、サガは目を細めて空を見た。春の風が吹く、少しだけ濃くなった水色の空。
「完璧だ。……私に、何も非などない」
「…………」
「もう少しだ……きっと」
サガは噛み締めるようにそう言うと、踵を返した。
「馬鹿な。早すぎる!」
滝の前に座した老人は、そう叫んだ。
「何を考えておるか、シオン! まだその時ではない!」
「何を言う、童虎。きさまがだらだらと時期を延ばしていただけであろうが」
ギリシアから中国・五老峰、ほぼ地球の反対側同士であるにも関わらず、熟練者二人の間で躱されるテレパスは、まるでその場にお互いがいるかのように滑らかである。
「皆、聖衣に相応しい力を既に身に付けておる。何が問題だというのだ」
「まだ十にもなっておらん!」
何十年ぶりだろうか、童虎は怒りを露にした。
「我らとて、似たようなものであったであろうが」
「だからこそ……!」
「明後日、御降臨なされるとしてもか」
重く、そして緊張感の篭ったシオンの声に、童虎はハッとした。
「なんじゃと……」
「星読みにて、そのように。急ではあるが、先代もそのようであったらしい」
「しかし!」
「くどいぞ、童虎。もう決めたことだ。……始まるのだ。新たなる、聖戦が」
シオンの声には、興奮が混ざっていた。
「そして、私たちの聖戦が、終わるのだ」
「シオン!」
「……“黄金の器”全員に試練を受けさせ、正式な黄金聖闘士とする」
きっぱりと、シオンは言った。
「そして──……」