第7章・Träumerei(トロイメライ、夢見るこども)
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「きみはなぜ修行をせぬのだね」
もくもくと読書をしているデスマスクに向かって、シャカはそう尋ねた。
竹の格子が嵌まった円形の窓の向こうには、柳がさらさらと涼しげな音を立てている。それを背にしてラタンの長椅子の上に寝そべり、端が黄ばんだ明朝綴じの古書を読んでいる様は、優雅とすら言えた。少なくとも、戦士らしくはない。
「そういうきみはなぜここにいるのかね」
「まねをするな」
本から目線を上げないまま、口元に笑みを浮かべて人を食ったような返事をするデスマスクを、シャカはただ見下ろした。
デスマスクとの会話は、まず軽口から始まる。ここで本気に取って怒るような相手とは、デスマスクはまともに会話しない。だからこれは彼特有の会話相手を選ぶテストのようなもので、それを知っているシャカは、ただ彼が寝そべる長椅子の下に、ちょこんと胡座をかいた。
ここ五老峰に居着くようになってからというもの、デスマスクは大概、麓の市で値切って買ったという、子供が着るものにしてはいい生地の中国服を身に纏っていた。元々身体にぴったりしたデザインではないそれはゆったりしていて、なんとも楽そうだ。そして、銀髪に赤目、さらにまるでアジア系ではない顔立ちであるにも関わらず、それはデスマスクによく似合っていた。
「つーか、お前、また抜け出して来たのか。優等生なんだか問題児なんだかわかんねーなあ」
「きみとちがって信用があるのだよ」
シャカはこうして、最近ではデスマスクよりも強力な威力を持ち始めた超能力を使い、五老峰に結構頻繁にやって来る。今日は居ないが、ムウが共に居ることも少なくない。
テレポートといえど聖域の強固な結界を越えてくるのは同じなので、ここに来ていることはシオンにはもちろんばれている。しかし童虎が口添えをしたのと、デスマスクと違ってある程度の信用があるのとで、それは黙認されていた。そしてその目的は、童虎に教えを受けることと、デスマスクとの問答、である。
いくらシャカがその辺の童子とは天地ほども違う頭脳を持っているとはいえ、二百歳を超える童虎との会話は、一方的に教えを得るものにしかならない。それももちろん良いのだが、三つ年上で、シャカと同じくそこいらの子供とは一線を画した知識量を持つデスマスクは、シャカにとって実のある議論・問答が出来る、数少ない相手だった。ムウもそれなりなのだが、シャカが発した言葉に突然臍を曲げてしまって感情的になることがある。その点、デスマスクは逆にシャカを先程のように試すくらいで、シャカにはそれがとても手応えがあり、それでいて居心地がいいのだった。
デスマスクは独特の形をした釦を上二つ外した格好で、漢字の本をひたすら読み漁っている。
「きみはなぜ修行をせぬのだね」
「必要ねえからだ」
もう一度シャカが発した同じ質問に、デスマスクはやはり本から目を上げずに答えた。
「なぜ」
「お前の言う修行ってのは、自分の技を磨いて精度を上げるとか、格闘技の鍛錬とか、そういうことだろ。そういうのは、効率よく敵を倒す、とどのつまりいかに手際よく、多く、正確に、確実に殺せるか、その精度を上げるためにするもんだ」
「……まあ、そうだな」
「その点、俺は殺そうと思えばいつだって殺せる。だからいいんだよ」
さらさらさら、と柳の葉が揺れる音がする。その中で、ぱらり、と古い紙がめくれる音。会話と読書を同時に行なうことぐらい、デスマスクには朝飯前だ。そして彼は、そんな風にして殺すのも造作もないことだ、と言う。
「寝っ転んで本読んでたってな」
──ぱらり。紙がめくれる音とともに、デスマスクはふいに人差し指を立てた。さらさらさらさら、と、柳の葉がひと枝、瞬時に枯れ落ちて風に流れていく。
「殺せる」
読書の片手間に命を積尸気に送った少年は、無造作に足を組み直した。その拍子に片方脱げた布靴が、長椅子の下に転がる。
「毒で殺そうが、斬り殺そうが、呪い殺そうが、結局殺すことには変わりねえだろ。確実に殺せる力がありゃそれでいいんだ。俺の殺し方でまずいってんなら他の殺し方が出来る奴が殺しゃいい」
「誰が殺そうが、殺せればいい?」
「そういうこと。それに俺、シュラと違ってあんまり喧嘩好きじゃねえし」
シュラは誰もが認める格闘技好きで、言い方を変えれば聖域きっての喧嘩好きだということは、彼といくらか接していれば自然と知ることである。“阿修羅”とはつくづくぴったりな名を選んだことだ、と今では誰もが思っていた。
口を開けば汚い言葉も飛び出すものの、シュラは基本的には物静かで穏やかで、自分から喧嘩を売るような真似はしない。そして、自分より明らかに弱いものとは戦わない。しかしそれ以外の相手から売られた喧嘩は全力で買うのが、シュラという少年だった。
黄金聖闘士である彼に喧嘩を売る相手など今では皆無に等しいが、それ以前、私刑をしかけようとした候補生の集団に囲まれたとき、シュラがいかに楽しそうだったか、デスマスクは今でもしっかり覚えている。あの頃は聖剣もよくよく使えなかったので、正真正銘の生身の殴り合いに等しい喧嘩だった。シュラは三十人近い、半数は年上の候補生とやりあい、勝った。
死屍累々の候補生が地に伏せる中、片腕片足をありえない方向に折り、さらにあらゆる箇所からどくどく流血しながら「見ろこれ、勝ったぞ!」と実に得意げに言ったシュラの笑顔は、どこまでも晴れやかだった。デスマスクの感想はもちろん、こいつ頭おかしい、である。
「相手が強ければ強いほど燃えるとか、正直理解できねーわ。どっか頭のネジぶっ飛んでるんだろーな。野蛮だねー、こえー。あ、弱いものイジメは好きだけどなー、殺すの楽だし」
「…………」
デスマスクにとっての“殺す”という行為は、ひどく淡白だ、とシャカは思う。正気を保ち、いわゆる常識的な倫理観を理屈でも感情的にも理解して居ながらにして、片手間に命を奪うことができるその精神構造を、シャカは半分恐いもの見たさのような心地で興味深く思っている、ということを自覚していた。
「じゃあきみは、自分がいちばん強いと思っているのかね」
「はっ、冗談。むしろ下の下だろ」
皮肉げに顔を歪め、デスマスクは即答した。吐き捨てるように。
「だがきみは、なによりも力こそが正義だと言い切った」
「そうだな」
「──では、きみの思う強さとは、何だね」
暫く間をあけてから、シャカは再び問うた。
「アテナや──それに敵対する神々にとっての力とは、武力──いや、小宇宙だ」
だからこそその戦士たちは、それを鍛えるために修行をしている。しかし、デスマスクの言う通り、結果的にきちんと殺す力があれば、確かにその修行は不要なものだ。
「きみがよわいというのなら、君にとっての強さとは、確実に殺せる力、ではないのだろう?」
そして武力でもなく、小宇宙でもない。そしてデスマスクが、弱いままで甘んじようとするはずがない。ならばデスマスクが鍛えている強さとは一体なんなのか、とシャカは興味が湧いた。
「…………」
デスマスクは、珍しく少し黙った。手際よくめくられていた頁がめくられないことに、デスマスクが読書よりもシャカとの会話の方に重きを置き始めたことを悟り、シャカは少し気分を良くした。
「いま、何世紀だ」
「何?」
突然発された言葉が予想外のものだったので、シャカは思わず半音高い声で返事をした。
「20世紀だ。つまり世界の過半数がそれなりの文明を持つようになってから、二千年以上経った。そしてもうすぐ21世紀」
「だから何だ」
「そんな時代に、いまどき、殴り合いで戦争?」
にや、と笑みが浮かんだ。小馬鹿にした笑みである。
「時代は情報戦だぜ、シャカ」
「……情報、戦?」
「インフォメーション・ウォー、フォース21」
いきなり近代的な言葉が飛び出したので、シャカは吃驚した。しかしこれが、議論においてのデスマスクの強みでもある。
“黄金の器”を含めた黄金聖闘士のうち、最も超能力が強いのが今の所シャカとムウであるが、それに限りなく近い二位として、デスマスクだ。少し前までは、一位だった。超能力にはさまざまな種類があるが、その中で最も頻繁に使うのが、念話、要するに思念での会話だ。
念話は、テレパスとエムパス、二つの能力を複合して可能となる。要するにテレパスが送信・エムパスが受信の能力であるのだが、デスマスクはエムパスのほうが断然強い。
エムパスは、軽いものなら世界でおよそ20人に1人はこの素質を持っているため、ZONE現象と同じく一般にも存在をいくらか認知された感覚でもある。そしてエムパスとはempathy(共感)力が高い、他者の感情や感覚を取り込みやすい人間のことを指し、人が密集する場所へ行くとどっと疲れる、体調不良や落ち込んだ人の側にいると自分も不調になる、また霊媒体質などがエムパス体質から来る派生現象だ。
デスマスクが議論に強いのは、このエムパス能力に優れているからでもある。いま相手の感情がどのように動いたか、瞬時に見抜くことが出来るからだ。もちろんデスマスクは小宇宙を自在に操れるためその能力を意図的に閉じることが可能なのだが、彼はこの能力をあえてよく使う。
エムパス能力者は、大概、人ごみを嫌う。様々な人間の思念が雑多に入り込んで来て、精神的にも肉体的にも負担になるからだ。だがデスマスクは、しばしば進んで人ごみの中へ入っていく。雑多な思念が濁流のように氾濫した人の波をにやにやと薄笑いを浮かべて受け流し、そして人の心の隙間を見抜き、非常に回転の速い知能と豊富な語彙によって感情が動いた心の隙間に的確に言葉をねじ込む様は、とても悪魔めいている。
ともかく、彼はそうして人間たちの思念の海に身を浸すことで、最新の情報を得ることを可能とし、また習慣化していた。
「世界が創造されてから、聖戦とやらは毎度毎度同じことの繰り返しだ。神ってのはいつまで経っても進歩しねえもんらしいな」
「…………」
デスマスクがきっぱりと神を貶めるのはいつものことだが、流石のシャカもまだ完全には慣れない。
「例えば、そうだな、お前、老師がここで何をしてるか知ってるか」
「前聖戦で封印した悪霊を監視しているのだろう」
「悪霊って何だ」
即座に返され、シャカは一瞬詰まったが、すぐに頭を回転させる。
「ハーデスの軍勢だ」
「その数は?」
「え、」
被せるような連続の問い、今度は答えられなかった。
「どれぐらいの勢力が封じ込められている? その封印が解けるのは最速でいつ? 封印が解けたら具体的にどうなる?」
「…………」
「はっ」
デスマスクは半目になると、鼻で笑った。
「お笑いだぜ。紀元前から全く同じことを何回も繰り返してるくせに、こんな基本的なことを誰も知らねえときた。学習するってことを知らねえのかね」
知恵と戦争の女神が聞いて呆れる、とデスマスクは吐き捨てた。
「聖戦はだいたい200年周期で起こると聞いたが」
「きっちり何年って測定するのは無駄じゃねえだろ。一年あれば兵力だって格段に上げることが出来る──それに、毎度毎度封印で片をつけてるんならその封印の期間を伸ばす研究くらいしてもいいはずなのに、それすらしねえ。戦争ナメてんのか。ガキの喧嘩じゃあるまいし──」
そこまで言って、デスマスクは、初めて本から視線を外した。
「──なるほど、ガキの喧嘩。……そうかもな……ふざけてる」
「何の話だね」
「ふん、神なんか全部死んじまえって話さ」
シャカは絶句した。罰当たりにも程がある。
「まあ、だから俺はこうして情報をかき集めてるのさ。相手の弱みを握るためにな。弱みさえ握っちまえばいつでも、糞をたれながらでも殺せる」
「神に弱みなどあるかね」
「……さあ」
数秒の沈黙の後、デスマスクが言った。目線は再び本に落とされている。
「あると思いたいね。人間としては。……ああ、そういやお前、聖域に来る前は仏陀の生まれ変わりとか言われてたらしいな」
「うむ」
突然発された質問に、シャカは頷く。それは小宇宙の発現による超常現象が引き起こした周囲の呼称だったが、デスマスク以上に生まれながらに小宇宙を完全にコントロールできていたシャカであるので、そういった呼び名がついたのはむしろ自然なことだろう。最も神に近い子供、とも言われていた。
「仏陀って元々人間だろ? しかもいい家の。王子だっけ」
「よく知ってるな」
「ゴータマ・シッダールタ、釈尊、釈迦仏、釈迦如来、世尊、仏陀」
本当によく知っている。
デスマスクが五老峰居残りを決めた理由の一つとして、童虎が所蔵する書籍の豊富さがある。多くは中国語の古書だが、中には聖域の図書館と被った書籍も多数有り、インドやネパ−ル、チベットなどの書物も少なくない。彼はその本をもう半分以上は読破しており、その中に仏教やヒンドゥー教に関する書籍も豊富であるらしい。今も、彼が寝そべる長椅子の脇には、本が積んである。もしかして今日中に読んでしまうつもりなのだろうか。
「俺の見た感じだと、仏陀やキリストってのは、神じゃなくて聖人だろ」
「ああ、わたしもそのように思っている」
「だから俺は仏教やキリスト教は嫌いじゃねえよ。まあ、お前みたいに、信者になりたいとは思わねえけど」
「わたしとて信者というわけではない」
「え、そうなの?」
初めてデスマスクがはっきり本から顔を上げてシャカを見たので、シャカは思わず笑みを浮かべた。
「ただ、仏陀の──仏教の多くの考えかたには賛同できる」
「それが信者だって事じゃねえの?」
「信者は、生きかたのすべてを教典にそわせるものだ。わたしにとっての教典はあくまで参考であって、すべてではない」
「袈裟とか着て合掌もするのに?」
「肉は好きだぞ」
けろりと返したシャカに、デスマスクは目を丸くした後、「そういや、そうだ」と機嫌良さそうに大きく笑った。しかし唇の間から覗く犬歯は尖っていて、細まった赤い目はやはり悪魔めいていた。
「じゃ、袈裟とか合掌は?」
「考えかたに賛同するということは、あいてをそれ相応に尊敬することになる。尊敬するあいてには、失礼のないように身なりをととのえて礼義をおもんじる。それだけのこと。きみとて神官たちには頭を下げぬが、老師には敬語をつかっているだろう。それとおなじだ」
「うん、……なるほど。じゃああれ、仏との対話とかいう瞑想、あれはなんだ」
「きみとこうして議論するのとさほどかわらぬことだ」
シャカにとって仏陀と仏教、それにまつわる教典の類いは、老師やデスマスクと問答をするのと同一線上のものだ。現実的かつ具体的に身も蓋もなく言ってみれば、仏との対話とはつまり、起源前五世紀の偉人ゴータマ・シッダールタの残した思想を参考に自分の思想を考察しているということだ。ただ仏陀は老師やデスマスク以上に深く、いくら問答しても果てがない。偉人の残した思想は、本人が居なくなって二千五百年経っても議論に値する深さを持っている、それだけの話だ。詰め将棋に延々のめり込むのとさほど変わりはない、とシャカは自覚している。
そしてデスマスクは、ふうん、と頷いた。端的極まりないシャカの返答であったが、彼ならではの機微の読みで正しく意味をとらえ、納得したらしい。デスマスクのこの話の早さ、説明の要らなさを、シャカは気に入っている。
「はなしをもどすが、……ではきみにとっての強さとは、情報かね」
「そうだな。情報での牽制はいざ戦いが始まった時はもちろん、そもそも戦いを起こさずにする力でもある」
言ったろ、俺は喧嘩が嫌いなんだ、とデスマスクは皮肉げな笑みで言った。
「殴り合う前に交渉。文明人としての最低ラインだろ」
「うむ、……そうだな。それはそうだ」
「……まあ、戦争に限ってのことだがな」
「なに?」
シャカがデスマスクを見ると、彼は既に、再び本を読み始めていた。シャカの眉根が僅かに寄る。
「もっと視野を広く持った場合、情報は強さを得るためのいち手段に過ぎねえ」
「それは情報がすなわち強さということではないのかね」
「そうとも言える」
「わからない」
素直にそう言ってみると、デスマスクは──、ほんの少しだけ、一瞬だけ、困ったような笑みを浮かべた。わざとわからないように言っていることぐらい、シャカにはわかる。そしてそれを、デスマスクはほんの少しだけ申し訳なく思っているようだった。
「禅問答みたいだろ」
「なにが禅問答だ。ただ煙にまいているだけだろう、きみは」
「そうかわらねえよ。俺は、強くなるために情報を集めてる、それだけ」
「……なんのために?」
デスマスクが、ちらりとシャカを見た。
「いい質問だぜ、シャカ。俺ァおまえのそういう所が結構好きだね」
「はぐらかすな」
本に目線を戻した。頁をめくる。
「黙秘権って知ってるか?」
「……わたしは、きみのそういうところがきらいだ」
シャカは今度こそ眉根を寄せると、立ち上がって、部屋を出て行った。
デスマスクは、シャカの気配がすっかり遠のいてから、本をばさりと顔の上に伏せた。頁はめくったものの、その中身は実は頭に入ってはいない。
「──あァ、」
絞り出すような、低い声だった。変声期は、殆ど終わろうとしている。
「……早く、……強く、なりてえ」
Annotate:
『インフォメーション・ウォー/フォース21』…情報戦争/21世紀の軍隊、の意。