第7章・Träumerei(トロイメライ、夢見るこども)
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「カミュ。入るぞ」
ギイイ、ゴオン、と重々しい音を響かせて、サガは窓一つない部屋に足を踏み入れた。その部屋は他よりも尚一層温度が低く、冷凍庫だとしてもやりすぎなくらいの温度だった。
「カミュ」
サガは、吐く側からさらさらと結晶になって流れていく息を吐きながら、真っ暗な部屋の奥に進む。彼が入って来た扉から差し込む光が、部屋の端っこに踞る小さな子供の影を浮き上がらせた。
「カミュ」
再三呼ぶ声は、柔らかい。しかしカミュはといえば膝を抱えた姿勢で部屋の角にぴったり張り付いており、しかも向きも壁を向いているので、その様子は根暗極まっていっそ異様である。
「ここは暗くて居心地が良くないだろう?」
「…………」
「そろそろ昼食も近い。外に出よう」
「…………」
サガはゆっくりと話しかけるが、カミュは一層深く膝に顔を埋めるだけだった。
「カミュ。私と一緒にここから出よう。……お願いしてもだめかな?」
尚一層ゆっくりと言ったその言葉に、カミュがほんの僅かに、ぴくりと身じろいだ。
「みんな心配しているし──」
「してない」
サガの声に被せて発された声は、固い。
「心配なんか、してない」
「そんなことないよ」
「嘘だ。みんな怒ってる」
「怒っちゃいないよ」
「わたしなんか一生ここに居ればいいんだ」
取り付く島もない。小さい身体をますます小さくし、よくそこまで縮まれるものだというくらい背中を丸めて縮こまるカミュに、サガは眉尻を下げた微笑を浮かべ、鼻から小さく息を吐く。そして持っているものを、ばっと両手で広げた。
「──!?」
頭からすっぽり毛布を被せられた、ということをカミュが認識した時には、サガは既にカミュを抱き上げていた。以前のように力ずくで引きずり出されると思ったカミュは身を強ばらせたがしかし、ただ自分を抱えて立っているだけのサガに、カミュは毛布の下から、恐る恐る、目の前にあるだろうサガの顔を覗いた。
予想通りすぐそこにあったサガの顔には、笑みが浮かんでいる。その表情には確かに怒りなど微塵もなく、ただ少し困ったような色が浮かんでいて、そしてそんな表情の上にかかる霜が浮かんだプラチナ色の前髪を見たカミュはつい申し訳ない気持ちになって、また俯いた。
「私たちが、何をそんなに怒ってると思ってるんだい」
サガは、赤ん坊をあやすように、とてもゆったりとした動きでカミュを揺すりながら言った。
「誰も君のことを怒っちゃいないよ、カミュ」
「……でも」
「ん?」
サガの声は、急かすようなものが一切篭っていなかった。
「……シュラが、怒鳴ってた」
「うん、まあね。でもあれは怒ってるんじゃないよ」
「……?」
「単に寒くて喚いてるだけさ」
サガがそう言うと、カミュはぽかんとしてサガを見上げた。赤褐色の目が、真ん丸になっている。
「もちろん私も怒っちゃいないし、アイオロスだってね。ムウやアルデバランはきみを心配してる。ほら、誰も怒ってないだろう?」
「…………」
カミュはくしゃりと表情を歪めると、下唇を噛み締めて俯いた。
「……カミュは、誰が怒ってると思うんだい?」
途端、小さな肩が小さく跳ねた。
「………………ミロ」
小さく小さく、カミュは話しだした。
カミュは、ミロと仲がいい。皆から離れてぽつんと一人で居るカミュをミロが勢いで引っ張って来たのがきっかけで、最初は目を白黒させていたカミュも、ミロの屈託のなさに勢いのまま流され、今では殆ど行動を共にしている。今までこんな風に接してもらったことがないらしいカミュは、ミロに対してかなりの信頼を置いている。
そしてミロもまた、実家の家族に持たされた色々な宝物をカミュに景気よく貸したりするくらい、カミュに対して信頼を置いている。
「……ミロが、おねえさんからもらった人形だったんだ」
「うん」
「なのに……」
途端、ぐしゃ、とカミュの表情が崩れ、赤褐色の目から涙が溢れ──そしてその全身から、骨も凍るような凍気が噴出する。サガはすかさず小宇宙で自分の身を守り、自分の腕の中で吹雪を発生させる子供をもう一度、ゆっくりと揺すった。
声を挙げて泣きはしないものの、ぐずぐずとしゃくり上げるカミュの言葉を噛み砕いて並び替えると、カミュはミロの宝物である人形を、何か驚いた拍子にうっかり凍らせ、しかもそのせいで人形を壊してしまったらしい。
「そうか……。しかしそれなら、少しでも早くミロに謝った方が良いと私は思うけど……、どうした?」
「……う、」
またも泣き始めたカミュを、サガが覗き込む。
「……どうしてわたしは、いつもこうなんだろう……!」
絞り出すような声とともにカミュの目からぼろぼろと涙が溢れ、そして彼の感情の乱れと比例して膨れ上がった凍気がそれを凍らせる。ぎゅっと瞑った瞼が涙の氷で閉ざされるのにも構わず、カミュは泣いた。
「こんなちから、だいきらいだ!」
「カミュ」
サガは、カミュを抱え直した。
「ミロには謝ったのか?」
サガが尋ねると、カミュはふるふると首を振った。どうも、人形が壊れたのに真っ青になって、そのまま逃げて来たようだ。
「もしかして、会ってもいないのか?」
「……うん」
「なら、怒ってるかどうかもわからないじゃないか!」
今度はサガが驚いた声を上げると、カミュは「でも……」と呟いて、項垂れた。
「怒ってるに、きまってる。許してくれなかったら、どうしよう……」
ぐすぐすと鼻を鳴らすカミュ、サガはそんな彼の小さな背中を、毛布越しにポンポンと叩いた。
「ばかだな。そうしたら、許してくれるまで謝ればいい」
「え……」
カミュが、顔を上げた。ひっく、といちどしゃくり上げるものの、驚きで涙に一時停止がかかっているようだ。そしてサガは、小宇宙を高めた手のひらで、カミュの両目をそっと覆った。するとカミュの瞼を固く接着していた涙の氷が溶け、赤褐色の目が再び露になる。
「確かに、ミロは怒っているかもしれない。でも心から謝れば、ミロだって許してくれるさ」
「……そうかな」
「そうとも。それに、カミュはミロに悪いことをして、そのまま逃げて来てしまったのだろう? 私は人形を壊したことより、そのことの方がミロの機嫌を損ねると思うよ」
ミロはそういう子だからね、というサガの言葉に、カミュははっとして目を見開く。
「だから少しでも早く謝った方がいいんじゃないかな? どうだ? 外に出て、私と一緒にミロに謝りに行かないか?」
そう言って微笑み、僅かに首を傾げてみせたサガの前髪で、パリ、と氷が音を立てた。凍り付いたまつげや服や髪、それをまるで感じていない風な、いや感じているはずなのにそんな風に振る舞えるサガに、カミュは唖然とする。
「…………うん」
ほとんどぼんやりとしたまま、カミュはこくりと頷いた。
「よし、良い子だ」
きらきらと氷の結晶を纏って完璧な微笑を浮かべるサガ、その姿はまるで美しい氷の精のようだった。
「お!」
毛布に包まったカミュを抱えて出て来たサガに、アイオロスたちが喜色を浮かべた。
「よかった。出てきたんですね、カミュ」
「大丈夫か?」
ほっとした、そして心配そうな様子で、ムウとアルデバランが言った。
「やっと出てきたのか」
「あ……」
疲れたような声に、びくり、とカミュの肩が跳ねる。しゃがみ込んでいたシュラは、ぎろりと鋭い琥珀の目で、サガに抱えられたカミュを見ると、大仰そうに立ち上がった。
「ああくそ、寒かった。早くコントロールできるようになれよ、馬鹿」
そう言うと、シュラはカミュの丸い額をぞんざいな様子で、ぺん、と手のひらで突いた。カミュがきょとんとして黒髪の先輩を見ると、シュラは眉間に皺が寄ってはいるが、ただ疲れた、といった様子で、怒っている風な所は殆ど無かった。
「ほら。誰も怒ってやしないだろう?」
サガがカミュを地面に降ろしながら言い、カミュはこくんと大きく頷いた。まだ子供めいてぷっくりした唇がぎゅっと引き結ばれ、凍気のせいだけでなく、頬が林檎のように赤い。
「……ごめんな、さい」
「ああ、“黄金の器”は皆最初は自分の小宇宙をコントロール出来ないものだ。これから出来るようになればいい」
恥ずかしそうに謝罪を口にしたカミュの頭を、アイオロスがわしゃわしゃと撫でる。
「──ま、いつまでもそんなんじゃ困るがな」
「う……」
頭を撫でていた手ががしっと掴む手に変わったことで、例のパンチはやはり逃れられないかとカミュが苦い顔をする。しかしその時、アイオロスの訓練着の裾を、ずっと黙っていたアフロディーテがくいと引っ張った。
「パンチの代わりに、わたしのバラの手入れを手伝え」
「バ、バラ?」
「きみの凍気のせいでだめになった」
ずばりと言われ、カミュが青くなる。しかしアフロディーテは淡々と続けた。
「君の宮に近いほうを、寒さに強いバラに植えかえることにする。ロサ・グラウカとか。ウルメールミュンスターでもいい、君の髪の色と似てるし」
ぺらぺらと花の名前をまくしたてるアフロディーテは、ついこの間までまともに読み書きはおろかまともに喋ることさえ出来なかったなどとはとても信じられない。
「……怒ってないの?」
「手伝わなかったら怒る」
「手伝うよ! あ……でも……」
慌てて言ったカミュだったが、ちらり、とサガを見上げる。気付いたサガが笑みを浮かべて小さく頷くと、カミュは先程までとは打って変わって意思を込めた表情になった顔をぱっと上げた。
「あの、アフロディーテ、……ミロに謝ってからでもいいかな」
「ミロ? おまえ、ミロと喧嘩して泣いてたのか?」
シュラが、素っ頓狂な声を出した。
「喧嘩に負けて泣くなんて、格好悪い。喧嘩は全力で買え」
「……お前やデスマスクと一緒にするんじゃない」
サガがため息をつく。
「シュラ、正式に聖衣を賜った身で後輩にそういうことを言うなんて、もってのほかだ。聖闘士同士の私闘は厳禁、掟を知らないわけじゃないだろう」
「掟って、馬鹿馬鹿しい。たかが喧嘩ぐらいで」
「シュラ」
強い声だった。そしてそんな声とともに、同じく強い、そしてどこか悲しげなものを込めて顰められた眉と目線をサガに向けられ、シュラは怯む。
「──じゃあ、さっさと謝っちまえ。ほら、行けよ」
「あ、うん……」
きまり悪そうにそう言ったシュラに背を押され、どこかおろおろとそのやり取りを見守っていたカミュは、慌てて階段を駆け下りて行った。
「ああくそ、鍛錬しようと思ってたのに、なんで俺がバラの手入れなんか」
「きみがカミュを行かせてしまったからだろう」
ばっさりとアフロディーテがそう返す。
「それにしたって、面倒臭い花だな! こんなちまちま手入れしなきゃいけないのか?」
「いいじゃないか。きみだって花はきらいじゃないだろう? わざわざ植えるぐらいなんだから」
いつもなら薔薇に対して暴言を吐かれようものなら十倍の毒舌かもしくは拳を浴びせかけて来るアフロディーテだが、今だけはシュラの悪態をさらりと受け流していた。
というのも、アルデバランとムウが、自分たちも手伝う、と笑顔で申し出たからだ。双魚宮から最も遠い守護宮であるだけにカミュよりもそこに出入りする機会が多くない二人だが、それだけに興味があったらしい。そしてシュラもぶつくさ文句をたれながらではあるが、しかし細かい雑草をきちんと抜いていた。口がどんどん悪くなるのが神官たちやシオンの頭痛の種となっているシュラだが、根の性格はやはり生真面目なのである。そんなわけで、仲間の中で最も性格が細やかな3人が手伝いをしてくれているため、アフロディーテは機嫌がいいのだった。
「磨羯宮の……? ああ、あの赤い花ですか?」
「そう、お前が丸ごと食ったやつ」
「! しつこいですよ! いつまで言うんですか!」
幼い頃、と言っても今も充分幼いのだが、過去しでかした失態をもう何度目になろうかほじくり返されたムウは、如雨露を片手に顔を赤くして怒鳴った。
「へえ、あれ、シュラが植えたのか? 最初から植えてあるんだと思ってた」
大きな桶に井戸水を汲んで来たアルデバランが、目を丸くする。あの花が咲く季節になるとよくシュラが赤い花を口に銜えているのは確かに見たことがあるが、自分の住処にわざわざ植えるほどだとは思っていなかったからだ。
「もともと咲いてもいたけど、更に植えたんだよ。勝手に教皇宮から引っこ抜いてきて。あんまり乱暴だから私があとから植え直したけどね」
「いちいち恩着せがましいな!」
「恩着せがましいんじゃなくて正真正銘恩人だろう」
シュラが怒鳴るが、淡々と、しかし的確に剪定を行なっているアフロディーテは、振り返りもしない。そしてそんなやり取りにいい加減慣れている年少二人もまた、やれやれといった様子でさほど気にせず会話を続けた。
「ふうん、でもなんでわざわざ?」
「別になんでもない。俺はあの花が好きなんだ」
ぶっきらぼうに、シュラは言った。だがその態度に若干照れ隠しが含まれていることを察した少年たちは、あの花が確かに彼の大事なもの、宝物であることを確信した。
「こんなにちまちま世話しなくても勝手に満開に咲くしな」
「確かに、かなり強い花だけどね」
アフロディーテの言う通り、あの花はかなり強い霜などに当てさえしなければ冬でも枯れない常緑樹で、そしてあたたかくなると再び新芽が伸びて甘い蜜をたたえた花を咲かせる。
「それにしても、カミュはいつまでもぐじぐじぐじぐじ、鬱陶しいな」
「鬱陶しいってシュラ……そんなはっきり」
シュラの言うことがきついのはいつものことなのだが、あんまりな言い草に、アルデバランは困ったような顔をした。
「……シュラは弱いものがきらいですか?」
花であれ人であれ、手間のかかるものを嫌う発言を重ねるシュラに、反感を持ったわけではないが、何となくムウは尋ねた。
「違う。俺ははっきりしない奴がきらいなんだ」
「はっきりしない……」
反芻するようにムウがぼんやり繰り返すと、シュラは生真面目に雑草を抜きながら続けた。
「だって弱いのは仕方ないだろ。生まれつき力の弱い奴は沢山居るし、そもそもオレたちが普通と全然違うんだから」
「……そうですね」
「うん」
ムウとアルデバランが、納得して頷く。
「カミュは強い力を持ってるのに、どう使うかはっきりしないから暴走させるんだろ。あいつ、いちいち全部、どうすればいい、って聞くだろ? あれが鬱陶しい」
「まあねえ……。ああ、シュラ、これ切ってくれ」
言い方がきついシュラの言葉を年少二人がややハラハラした心地で聞いている中、アフロディーテはやはり飄々と彼の言葉を聞いていた。そして枯れきっているのに強く柱に巻き付いた、木と言ったほうがいいような、太い蔓を指差す。シュラは初めて振り返ると、目を細めた。琥珀が、黄金色に光る。
「……ふん」
キュン! と、鋭く短い音がして、シュラの目が普段通りの琥珀色に戻ったときには、枯れた蔓はすっぱりと数カ所が切られていた。しかし、柱や枯れ蔓に巻き付いていた緑色のバラの蔓は一カ所たりとも斬られていない。
童虎から助言を受けてからより目的を明確にした鍛錬を積むようになったシュラの聖剣は、更に精度を増していた。さすがにまだ四肢に同時に聖剣を宿らせて自在に操ることは出来ないが、利き手一本に集中すれば、複雑に絡み合った蔓の一本だけを一閃で断ち切る位は造作もない。そしてそれは髪筋一本ほどの迷いすらない意思がなければ出来ない芸当で、それを知っているからこそ、シュラのきつい物言いに誰も反論できないのだ。彼は、自分に出来ないことを他人に要求することを絶対にしない性格をしていた。
「……まあ、カミュもそのうちしっかりするさ」
せっかく斬らずに残った柔らかい緑の蔦を千切らないように、丁寧に枯れ蔓を取り除きながら、アフロディーテが穏やかに言う。
「そりゃそうだろう」
鬱陶しい、ときついことを言う割には、シュラの気配はごく平淡だ。それはカミュの優柔不断がいつまでも続くものではないことを知っているからである。
「でないと、聖闘士になんかなれるものか」