第7章・Träumerei(トロイメライ、夢見るこども)
<1>
「助けてくれ、アイオロス!」
 そう叫び、人馬宮に向かって転げ落ちるように階段を駆け下りてきた少年を見て、アイオロスはブルーグリーンの目を見開いた。
「どうしたんだ、カ……、シュラ」
「どうしたもこうしたも!」
 シュラは肩を縮こませて、両互いに自分の二の腕をさすっていた。そして寒気を堪える為に、上下あわせた前歯の隙間から、シューッ、と蛇のような音を立てて息を吐く。そうしていくらか落ち着いてから、シュラは言った。
「寒い!」
「今は6月だが」
「──カミュ!」
「ああ」
 あまりに寒いのだろうか、単語のみを怒鳴るシュラを前に、アイオロスは納得して頷いた。
「今度はどうした、アイオリアにぶたれたのか、シャカになんか言われたのか? それとも猫にでもひっかかれたのか?」
「知るもんか、あの泣き虫! 下の宮の俺の身にもなれ!」
 アイオロスは、脱力した笑みを浮かべた。
 ここにやって来る前、なんというか──あまり他人から良くしてもらっていなかったらしい赤毛の少年は、ひどい人見知りで引っ込み思案な、とてもおとなしい子供だった。その上口数も少なく、喋っても声が小さすぎて聞き取れず、そして傷つきやすい繊細さを持っているため、何かというと小宇宙を暴走させるのである。
 ──彼、カミュの小宇宙は、凍気そのものである。
 感情が高ぶる度に、彼は絶対零度に近い凄まじい凍気をまき散らす。そして凍気というものは、もれなく上から下に流れるもので、宝瓶宮の下、磨羯宮に住むシュラは、カミュが泣く度にその被害に悩まされているのだった。
「扉は凍り付いてるし、井戸も凍っちまってて水も飲めねえ! 金属なんか絶対触れないし、」
「わかったわかった。……ルイザは?」
「……どうにかして来いって」
「……それで俺の所に来たのか?」
 アイオロスは、じとりと半目の笑みを浮かべた。シュラはぎくりとして目を逸らす。
 シュラのみならず、既に黄金聖闘士たちが絶大の信頼を寄せるルイザは、てきぱきと冬用の上着を引っぱり出し、「雑兵上がりのアタシに黄金聖闘士の小宇宙をあやせってんですか、坊ちゃんがなんとかして下さい、黄金聖闘士でしょう」と至極もっともな事を言い放って、さっさと女官詰所に引っ込んでしまったらしい。彼女に見放されたせいだろうか、シュラのほうが泣きそうな様子である。
「……お前、俺に頼まなくたって、小宇宙燃やせば入れるだろ」
「だって寒い!」
 だって、とはいうものの、理由になっていない。
 デスマスクが五老峰に残ってからというもの、シュラはデスマスクの分もちび組の面倒を一手に引き受けることになったわけだが、その反動だろうか、前にも増して先輩格であるアイオロスを頼るのである。甘えている、と言ってもいい。
 駄々を捏ねて地団駄を踏むシュラに、アイオロスはため息をついた。
「しょうがないなあ」
 ひょろ高い背丈を持つシュラだが、それでもまだアイオロスには頭半分は届かない。黒髪の脳天に被せるように置かれた大きな手に、シュラはくすぐったそうな笑みを浮かべた。



「こりゃひどい。冥界のコキュートスとどっちが寒いんだろうな」
 下に降りる凍気を塞き止めることになっている磨羯宮とそこから宝瓶宮へ続く階段は、永久凍土のように凍り付いていた。そしてそんな凄まじい凍気を放つ宝瓶宮はといえば、冗談抜きで血潮も凍るような有様だった。何しろ息が白くなるどころではない、吐いた息の水分がそのまま凍って唇に張り付くのである。小宇宙を操る聖闘士でなければ、階段を昇っている段階で既に凍死している事だろう。
「──あれ?」
 そしていつもカミュが閉じこもる、重たい鉄扉のついた離宮の一室の前にやって来たアイオロスとシュラは、既にそこに数人の人影が立って何かわいわい話している事に、目を丸くした。
「サガ? ……なんだ、何してるんだ?」
 扉の前にいたのはサガ、そしてなんとアフロディーテが居た。基本的に他人に無関心な気の強いアフロディーテが、こんな時にわざわざ足を運ぶのは珍しい。
「……下から風が吹いているせいで、私の所まで凍気が登ってきているんだ。これ以上凍気を撒き散らかされたら、わたしのバラたちがだめになる」
 せっかく咲き始めなのに、と言ったアフロディーテの眉は、顰められていた。植物と同化・同調し、そして支配する事の出来る小宇宙を持つアフロディーテは、中でも特に自分と同調しやすいバラを、愛情を持って育てていた。現在6月はバラがいよいよ盛大に咲き始める大事な時期なので、彼もさすがに他人事と言っていられないのだろう。
「で? カミュは?」
「相変わらずだ」
 アフロディーテが、ふるふると首を振った。
「……カぁ────ミュ! いい加減にしろ!」
 喉が凍らないように微妙に小宇宙を身体に巡らせながら息を吸い込んだアイオロスが、大声を張り上げる。
「何があったか知らないが、出て来い、カミュ!」
 しかし、重たい鉄扉の向こうで踞っているのだろう少年は、やはり、ウンともスンとも返事をしない。
「ちっ、この引き籠りめ」
「こら」
 アイオロスに頼ったくせに、結局彼についてきていたシュラがついた悪態に、サガが短く叱咤を飛ばした。デスマスクがいなくなったぶんだけ、ガラも更に悪くなったような気がする──この舌打ちの堂の入りっぷりと言ったらどうだ。
「困ったなあ。……前はどうしたんだっけ?」
「ドアぶち破って引きずり出したんだろ」
「やれやれ、コキュートスの次は嘆きの壁か」
「……俺はもうやりたくない」
 ただこうしているだけでも小宇宙を使ってやっと息が出来る状態なのに、この凍気で冷えきった重い扉をぶち破る労力は、考えただけで疲れるというものだ。シュラは以前そうした時の事を思い出しているのだろう、先程までよりも更にうんざりした表情をしていた。
「でもこうなったらそれしかないだろう。……俺もやるからシュラも手伝えよ」
「え────」
「えーじゃないよ」
 くさくさした態度で口を尖らせるシュラの背中をドンと叩き、アイオロスは背筋を伸ばした、その時だった。
「ダメだ」
 まだ僅かに舌っ足らずな発音の声に二人が振り返ると、アフロディーテは先程よりも更に顔を顰めて、水色の目を彼らに向けた。
「前もむりやり扉を開けて、カミュを引きずり出しただろう。そうなったら凍気が今どころではなくなる。あれだけ大変なめにあったを忘れたのか」
 その言葉に、シュラが顔を顰め、アイオロスは上方向を意味なく見上げた。以前ちょっとした諍いでアイオリアにぶたれたカミュは、彼独特のネガティブな思考回路にのっとってひどく落ち込み、今のように凍気をまき散らしながら引き蘢った。
 そしてアフロディーテの言う通り、皆で無理矢理扉をこじ開けて彼を引きずり出したのであるが、そのとき、意地になって抵抗するあまりに更に凍気をまき散らすカミュのおかげで、宝瓶宮はその後一週間十二宮全体の強力なクーラー装置と化した。
 すぐ下の磨羯宮がやはり最も被害を被り、春先のギリシアとは思えない寒さ、いや真冬のピレネーで遭難した時のような生活を毎日強いられることになったシュラは、死んでも自宮を守護するという黄金聖闘士の鉄則も放り投げ、ルイザとともにアイオロスの人馬宮に転がり込んでいた。
 その記憶を思い返したシュラは、構えていた手刀を渋々と下ろす。
「でもお前、そんなこと言ったって」
「いいから待て。もう手は打ってあるんだ」
「は?」
 シュラが訝しげに首を傾げた、その時だった。
「持ってきましたよ、サガ」
「毛布もだ!」
 ここで金属に触るのが嫌なのだろう、サイコキネシスで鍵束を浮かべ、また自分も宙に浮かんでいるのはムウ、そして毛布を抱えているのはアルデバランだった。
「ありがとう、二人とも」
 サガは僅かに微笑むと、二人からそれを受け取った。
「それ、何だ?」
「ここの鍵だよ」
「そんなものがあったのか!?」
 シュラが驚くと、答えたサガは、「教皇様は聖域の施設の扉の鍵を全て持っているから、ムウに頼んで借りてきてもらったんだ」と、穏やかに言いながら、鍵を一本一本扉に試しはじめた。鍵もまた凍り付いているので、鍵一つ試すにも、カミュの小宇宙による凍気を小宇宙で制しながらでなくてはならない。そのコントロールは、多分、この中ではサガしか出来ないだろう。
 デスマスクも小宇宙のコントロールにおいて天才的なセンスを持つが、サガも彼に負けず劣らずのレベルでそうだった。両名とも、異次元と呼ばれる場所への扉を開く、という特殊中の特殊系統の属性を持つからだろうか。
「……毛布は?」
 サガはアルデバランが持ってきた毛布の端をなべ掴みのように使って鍵を扱っているのであるが、そのために持ってきたのかとシュラは聞いた。
「はは、違う違う。……ああ、」
 ガチャン! と、金属が重たい音を立てて回った音がした。
「開いた」
「やった! おい、カミュ、いいかげんに────」
「待て」
 扉の向こうに押し入ろうとしたシュラとアイオロスを止めたのは、またもアフロディーテだった。シュラはむっとして口を尖らせる。
「何だよ」
「ここはサガに任せて、きみたちはわたしたちとここで待つんだ」
「は? 何で」
「北風と太陽の話を知らないのか?」
「イソップがどうした!」
 この寒さの被害を一番に受けてイライラしているシュラが怒鳴ったが、そのとき、アイオロスがシュラの骨っぽい肩にポンと手を置いた。
「まあまあシュラ、いいじゃないか。俺とここで待とう」
「……ガキをあやすみたいな言い方すんなよな、アイオロス」
 シュラは不貞腐れたようにそう言ったが、カミュの件に限らず、全面的にアイオロスに真っ先に頼っているだけに、あまり説得力は無い。
「……待っていてくれるかな、シュラ」
 シュラは納得できない気持ちだったが、サガが困ったような微笑でそう言ったので、数秒の後、渋々頷いた。
「まあまあシュラ、サガに任せておけば大丈夫だ。な!」
 アイオロスは、にっこりと笑顔を向けてそう言った。
 サガはその笑顔に、困ったような、密やかな微笑を浮かべて返すと、毛布を綺麗に畳み直して抱え、扉を開けた。
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BY 餡子郎
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