第6章・Wichtige Begebenheit(重大な出来事)
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「ふぁ……」
 早朝。
 デスマスクは、キンと心地よく冷えた大気の中で、大きな欠伸をした。清水がたっぷり溶け込んで湿った空気は清廉で、身体の中が洗浄されるような気がする。デスマスクは開きの悪い瞼を半開きにしたまま、激しくもどこか穏やかな大滝の音を聴きながら、ぼうっとした。
「お早う、デスマスク」
「うぉ!?」
 突然振ってきた皺がれ声に、完全に無防備状態だったデスマスクは妙な叫びを上げて肩をびくつかせた。
「……あ、……あー、老師。オハヨーゴザイマス」
 見上げると、大きな岩の上に、童虎が座している。この老人は、一体いつどこで休んでいるのだろうか。
「悪ガキの割に早起きじゃのう。それともあまり眠れんかったか」
「いや、別に……」
 デスマスクは、きまり悪そうに頭を掻いた。その銀髪にはあまり寝癖がついておらず、童虎の言葉が図星であった事を証明している。童虎はそんな少年の様子を無言で眺めると、ふと目を細め、言った。
「お主、ここに居らんか」
「は?」
 主語が奇妙に抜けた言葉に、デスマスクは素っ頓狂な声で反応した。
「え、どういう……」
「聖域を離れ、こちらに居らぬかと言うておる」
「え?」
 意外に大きい赤い目が見開かれた。
「老師、それ」
「言うておくが、聖闘士にならずとも良いということではない」
 童虎は、強い調子で言った。
「お主は蟹座キャンサーじゃ」
 二百年以上、落ち続ける滝を見つめてきた人ならざる目が、少年を見る。二百年あまりを生きた老人の目は、何かぶよぶよした粘膜に覆われ、しかし悠久の時を経た清流のように、静かで荘厳な光を宿していた。
 そんな童虎の目を初めて真正面から見たデスマスクは、怯んだ。そして怯んでしまった事と、向けられた言葉の理不尽さに強く拳を握り、ぎりりと歯を鳴らす。しかし老人、……いや仙人の目は、そんな事も全てお見通しであるようだった。幽玄な山奥に暮らし、不老不死を得た“人間”。
「……でも、シオン教皇が」
「シオンごときが何じゃい。儂を誰だと思うとる」
 フンッ、と童虎は鼻息を鳴らし、伸び放題の髭が何本か浮き上がった。
「お主は頭が柔い」
 しばらくしてから、童虎はぼそりと言った。
「視野が広く、そしてあらゆる角度からものを見る。こ憎たらしいほどにのう。……そういう自由さを持っとるお主は、聖域のような場所はさぞ窮屈で苛々するものであろうな」
「………………」
「そして理解できまい」
 多角の視点を持つだけに、飼い馴らされた馬のように一方方向のみしか見ない聖域の人々のことを理解するのは難しかろう、と仙人は言う。
「ならば教えて進ぜよう、少年」
 童虎は、ゆっくりと、そして重く言った。
「如何に聖闘士が聖闘士であるのか。あらゆる方面から知るが良い、……ここでな」
 悠久の時を変わらず流れる大滝の音は、何よりも重かった。



 それから一時間ほどして、他の者たちが全員ぞろぞろと外に出てきた。ちびたちのどんぐり目がぱっちりしている所を見ると、サガは無事に彼らの顔を洗わせたようだ。……しかし一人の姿がどこにも見えない事に気付き、デスマスクは顔を顰める。
「サガ? 山羊はどうした」
「……おまえと一緒にいたのではなかったのか?」
 姿が見えないのでてっきりそうだと思っていた、とサガは目を丸くした。しかし、どこに行ったのだろうか、と誰かが言うより先に、庵の影から細く黒い影がフラリと姿を現した。
「俺は考えた」
「は?」
 現れるなりぼそりと言ったカプリコーンに、デスマスクは口をひん曲げた。
「……お前、徹夜したの?」
「考え事をしていたんだ」
 さらりとそう言ったカプリコーンの目の下の隈を見て、デスマスクは呆れた。彼は、本当に一度にひとつの事しか出来ないらしい。しかしこの年齢で、考え事の集中力が眠気に負けないというのはやはり大したものだ。
「俺は考えたぞ」
「何を」
 おそらく睡眠不足で頭の一部が妙な方向にハイになっているのだろう、尚も同じ事を繰り返すカプリコーンに、デスマスクは半目で相槌を打った。
「阿修羅は」
「お前、まだそれ考えてたのかよ!」
 かなりの大声で、デスマスクは突っ込みを入れた。そして素の驚きを見せたのは彼やサガだけでなく、ちびたちがあんぐり口を開けている。
「──お前、……本ッ当、に! ひとつのことしか出来ねえんだな!」
 なんかの障害なんじゃねえのかそれ、とデスマスクは叫びかけた。いくらなんでも程があるだろう、と。
「阿修羅が強くなればいいんだ」
「聞けよ人の話、……何だって?」
「阿修羅は悪くないし、正しい。でも強くなきゃ意見が通せないってのも本当だ」
 細身で背の高い黒髪の少年は、続けた。
「だから、阿修羅はまず強くならなくちゃいけなかったんだ。ただ闇雲に向かって行ってたら勝ち目もないだろ。冷静に考えて、まず修行だ」
「そうか。冷静に考えたのか。うんそうか」
「馬鹿にしてるのかお前」
 カプリコーンは眉間に皺を寄せた。デスマスクは、どこまでも生暖かい半目である。
「だから、俺は強い阿修羅になる」
「何?」
 もともと端的な話し方をするカプリコーンだったが、寝不足によって更にそれがひどくなっている彼の言葉は、少し解読し辛い。しかし彼は、目の下に隈を作ったまま、ニイと笑みを見せた。
「名前だよ」
「は?」
「俺の名前。阿修羅にする」
 黒髪の少年は、ひどく機嫌が良さそうだった。
「格好良いだろ」
「……ならば阿修羅よりも“修羅”がよかろう」
 阿修羅の“阿”は、中国南部においては愛称に転ずる場合に冠する文字だ、と、髭を撫でながら童虎が言う。シャカが勢いよく童虎を振り返った。信じられない、という顔をしている。
「へえ。じゃあ“修羅”、……“Shura”……5文字か。うん、短い方がいい」
「きみは正気か」
 言ったのは、シャカだった。
「阿修羅というのは、“非天”といういみでもあるのだぞ」
「へえ、ますますいいじゃないか。
 隈を作った目が、にやにやと笑う。
「ばかな。デスマスクでもあるまいし!」
「どういう意味だ、チビ」
 デスマスクは、ばしっ、と平手でシャカの頭をはたいた。シャカは目を閉じたままデスマスクを睨んだが、しかしそれどころではないとでもいう風に、黒髪の少年の方を向く。
「ききたまえ。阿修羅はたしかにもとは正義の神だが、正気をうしない、堕天した魔神だ。それなのに、きみはそのなまえを名のるというのかね」
「だから、俺は強い阿修羅になるんだよ」
 きっぱりとした、揺るぎのない、そして熱の篭った声だった。
「考えてみろよ。阿修羅が正気を失わずに、修行をして、立ち止まった帝釈天の軍を冷静に追いつめていたら?」
「何を、」
 言われて、シャカが、奇妙に眉を歪ませた。困惑しているらしい。
「知ってるだろ。俺は殺気をコントロールできる。阿修羅みたいに正気を失ったりなんかするもんか」
 それは、宣誓にも近い色を含んだ声だった。
「俺は強くなる。正義を貫き通せる、“力を持った阿修羅”になる」
「……力を持った、阿修羅」
 デスマスクが、自分の口元に手を当てた。そして二秒ほど思案するように目線を泳がせてから、ふうん、と笑った。
「いいんじゃねえの。。その上だ」
「ああ。ベストだろ?」
 くそがきの笑みで、二人が笑った。サガがため息をつく。
「“デスマスク”に“シュラ”……。言っては何だが、ちょっと字面が凶悪すぎないか?」
「いいだろ、サガ。俺は今日から、“シュラ”だ」
 少年は、名乗った。

「──俺の名前は、シュラだ!」

 黒髪の少年は、生まれて初めて、堂々と、自分の名前を名乗った。






「──じゃ、しばらくお別れって事だな」
 五老峰に残ることになったデスマスクは、聖域に戻って行くサガたちに向かって、ぞんざいに片手を上げた。
 デスマスクがしばらく帰らないと聞いた途端、いつもは彼に対して憎まれ口ばかり叩いているちびたちがむっつりしてしまったことに、サガは内心吹き出しそうになる。彼らはなんだかんだと言って、いつも面倒を見てくれる銀髪の先輩格に懐いているのだ。
「ま、ちょうどいいだろ。山羊の名前も決まった事だしな」
「山羊?」
「おお、悪ィ。シュラ」
 言い直すと、“シュラ”は満足そうに笑んだ。
「お前も、まあ、上手くやれよ、デスマスク」
「あん?」
「帰るんだろ」
「……おう」
 力強く言われ、デスマスクは曖昧な相槌を打った。照れくさかったらしい。シュラは寝不足と名前が決まった事で何やらハイテンションなので、ついて行けない部分もある。
「デスマスクはいつ帰って来るんだ?」
 帰る、という台詞に反応したのか、ミロが言った。デスマスクが故郷に帰りたがっていることを知っているのは、サガとアイオロス、そしてシュラ、アフロディーテ、それにシオン。年少組は、彼がイタリア出身である事もよく知らないのである。
「──さあな」
 デスマスクは、少し、──少しだけ困ったように眉を歪ませ、笑いながら言った。それを見て、ちびたちが不安そうな顔をした、その時だった。
「……シオン?」
 童虎の声だった。相変わらず岩の上に座した老人の目は、限界まで開かれている。
「老師? どうなさいました」
 サガが尋ねた。
 しかし童虎は答えず、皺だらけの、というよりも、皺がない所などないような黒ずんだ小さな手で、「おお」と小さく呻きながら、顔を覆った。尋常ならざる老人の様子に、少年たちが困惑する。その時、遥か遠い地から、声が届いた。

 ──星読みにて、託宣があった

 テレパスである。
 超能力は小宇宙と無関係ではないが、少し質が違うものでもあって、向き不向きが存在する。歴代のアリエスは超能力において希有な力を有するものが多いらしいが、ムウ、そしてシオンも例外ではない。そしてシオンのそれは、まだまだ幼児の域を出ないムウとは比べ物にならないほど強大だ。

 ──いよいよ、

 ほぼ地球の裏側にある聖域に要るはずの老人の声は、五老峰中に響くようにして聞こえている。それは神の声と言っても十二分に説得力があるほどに神秘的だった。

 ──アテナが、近々御降臨なされる、と

 シオンの声は、震えている。
 一番後ろに立っているサガが、目を見開いてごくりと喉を鳴らし、

 ──ぎゅっと、拳を握り締めた。
第6章・Wichtige Begebenheit(重大な出来事) 終
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BY 餡子郎
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