第6章・Wichtige Begebenheit(重大な出来事)
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 空には、聖域にも劣らない星空が広がっている。童虎の庵があるとはいえ、明かりひとつない無人の山奥で見上げる夜空の美しさは、息を飲むほどに素晴らしく、凄まじかった。
 あのあと、童虎による恒例の拳法指南が始まり、疲れ果てた一同は、就寝に向けて飯と風呂を済ませた。といっても飯を作らされたのはデスマスクであり、薪を割って火をおこしたのはカプリコーンであり、木製の風呂場に来るや否や大はしゃぎするちびたちを洗いあげたのはサガである。
 いつもの役回りとその光景、彼らも以前は不満を覚えないでもなかったが、今ではどこか諦めの境地に達している。どうせちびたちに飯が作れるわけもなく、乾いてよく燃える薪を作っていい火加減を作る事も出来ないし、一人でおとなしく風呂に入る事など無理なのである。ちなみに、デスマスクの中華のレパートリーはちゃくちゃくと増えている。

「……納得できない」
「まだ言ってんのか、お前」
 考えんの下手なくせに、知恵熱出るぞ、とデスマスクに言われ、うんうん唸っていたカプリコーンは、眉間の皺を更に深くした。図星だったから、でもある。
「わかってるならお前も考えたらどうなんだ」
「俺はもう結論出てんだよ。阿修羅が阿呆なのさ」
「ええ!?」
 そればかりは認められない、とでも言う風に、カプリコーンはいきりたった。
「なんでだよ、どう考えたって阿修羅が正しいだろう!」
「まあそうだけどさあ、でも──……あ、サガ。あいつらは?」
「ああ、ぐっすり」
 庵から顔を出したサガは、微笑んで頷いた。風呂から上がったときはこれまた竹製の寝台に歓声を上げたちびトリオだったが、さすがに訓練の後に風呂ではしゃぎ放題はしゃいだおかげで体力が切れたらしい、スイッチが切れたようにしてあっという間に爆睡してしまった、とサガは言った。
「ほっほ。お主らはまだ元気があるようじゃのう」
「あ、老師」
 相変わらず気配なく、斜め後ろの岩の上に腰掛けた状態で現れた童虎に、三人の少年の視線が集まる。明かりひとつない闇の中、大きな岩の輪郭は全くわからず、三人には、まるで童虎が闇の中にぼんやり浮かんでいるようにも見えた。
「結構しごいたつもりだったんじゃが」
「ちびどもと一緒にしないで下さい。あいつらの面倒見て夜更かしする体力残しとくぐらいは朝飯前です」
「やるのう。ではこれは儂からの差し入れじゃ」
「やりィ!」
 デスマスクが喜色を浮かべた。童虎がサイコキネシスを使ってふわりと飛ばして寄越した籠の中身が、彼らの好物である甘い杏酒だったからだ。三人はそれぞれの器に杏酒を注ぐと、椅子代わりの丸太に並んで腰掛け、壮大な星空を見上げた。
「……俺は絶対、阿修羅が正しいと思う」
 短い沈黙の後、カプリコーンがぼそりと切り出した。
「だって最初に帝釈天が阿修羅の娘を襲ったんだろう。結局いいように収まったとしても、ケジメはつけないといけないと思う」
「……まあ、それが正論じゃがな」
 自分は自分で、やたら強そうな匂いの酒をちびちびやっている童虎が、のんびりとした相槌を打ち、カプリコーンはむっと顔を顰めた。
「正論じゃいけませんか」
「いけないとは言うとらん。……では、二人の意見も聞こうかの。デスマスク、お主どう思う」
「そうですねエ」
 デスマスクが、妙に熟れた仕草で杏酒を飲んだ。
「帝釈天も阿修羅も、両方が「自分が正しい」と思ってる。だから身内全員巻き込んでの戦争までやってるわけだろ。戦争ってのは、どっちが正しいか決めるためにやるもんだ。つまり、決着の方法に戦争という手段を選んだ時点で、強い方が正しい、とお互いに認めていることになる」
 月星の光に照らされて、銀髪が白く静かに輝いている。デスマスクの声は、まだ声変わりをして間もないためか、微妙な音域で掠れていて、煙草や酒のやりすぎで潰れた声にも少し似ていた。
「話では帝釈天は力の神で、阿修羅はそうじゃねえから、阿修羅は帝釈天に永遠に勝てないってことになってる。でも阿修羅はどうしてもそれが納得できなくて、いつか勝てると信じて何度も帝釈天に喧嘩を売った挙げ句、必死になりすぎて我を失い、悪鬼に成り果てて修羅道に堕とされた」
 一気に話したあと、デスマスクは、冷たい空気の中に、少し熱い息を遠く吐いた。
「阿修羅は正気を失った。何のために戦っているのかわからなくなった時点で、阿修羅は帝釈天との戦いに負けたことになる。そして戦争に負けたってことは、自分の主張を通せなかったってこと。正義を勝ち取れなかったということ」

 ──強い方が、正義だ。

 デスマスクの掠れた声は、とても重かった。その重さに気圧され、カプリコーンの表情が僅かに歪む。
「どれだけ筋が通った理由があろうと、力で押さえつけられちまえばそれでお終いだ。それを押し通せる力がなきゃあ、意味はねえんだ」
「……でも、」
「でもじゃねえ」
 重さの正体は、怒りだった。
「力がなくても正しければその意見が通るってんなら、俺は今頃ここにはいねえ」
 デスマスクは吐き捨てた。
「強いほうが、……力こそ、正義だ。これが俺の答え」
「──そうか」
 ぐびり、と酒を飲みながら、童虎が言った。沈黙が降りる。すると突然、デスマスクが自分の杯の残りの酒を一気に煽った。
「……あー、なんか回っちまった。寝るわ、俺」
「え、おい、」
「じゃーな」
 いきなり立ち上がって庵の中に入って行ったデスマスクを、カプリコーンは呆然と見遣る。彼が議論を放り出してどこかに行ってしまう、というのは、今まで一度もなかったからだ。
 カプリコーンは居心地悪そうに「何だ、あいつ」と呟いてもみたが、デスマスクが何故ああいう風にしたのか、その理由はとてもよく分かっていたので、それ以上は何も言わなかった。
 語彙の少ないカプリコーンはその理由を明確に説明する事は出来なかったが、要するにデスマスクは、あれ以外の結論を持つ気など、どうやってもありはしない、だからああして消えたのだ。
「なあサガ。あんたはどう思う?」
「私、か?」
 何やら必死な空気を纏ったカプリコーンに問われ、サガはいつもの、困ったような微笑を浮かべた。
「……この神話から得られる教訓は、“大きな視点で物事を捉え、慈悲の心を広く持て”ということなのだろう」
 サガは、慎重な口調で、ゆっくりと言う。
「確かに阿修羅が怒りを露にするのは決して間違いじゃあない。……しかし、結局娘が幸せに過ごしているならば、その怒りは水に流すべきだと」
「そんな甘っちょろい事言ってるから、同じ事を何回も繰り返すんじゃないのか?」
 カプリコーンが、苦々しそうに言った。
「ゼウスなんか、ヘラにどれだけ睨まれても下半身ユルッユルだろうが。そんな甘い事言ってたら、つけあがって大変なことになりそうな気がする」
「カプリコーン……」
 サガは、呆れたような、とても困ったような顔をしていた。
「……しかしね、カプリコーン。神様はそれが正しいのだと言っておられるのだよ」
 優しく優しく言い聞かせるような、しかし強い声だった。
 カプリコーンは柔らかくも強いその言葉に、戸惑う。デスマスクもサガも、彼らの発する言葉には時折、こうして何か譲れない強いものが篭っている。それはまさに、魔道に堕ちても最初の正義を捨てられない阿修羅のように。
 カプリコーンは、それが無性に羨ましかった。
「……俺は、」
 俺はそんな強いものなど持っていない、とカプリコーンは困った。
「……もうちょっと、考える」
 そう呟き、カプリコーンは少し俯いた。どこか落ち込んだような彼だったが、童虎が「それもよかろう」と声をかけ、カプリコーンはそろそろ眠気の混ざり始めた困り顔で微笑んだ。
「──でも、サガは、あれだな」
「うん?」
 サガが首を傾げる。
「神様がそういっているから正しい、なんて」
 よっぽど神様が好きで、信じてるんだな、とカプリコーンは、とても素直な声色で言った。
「………………」
「ふわぁ、……俺ももう眠い。おやすみ」
 カプリコーンは大きな欠伸をひとつすると、庵の中に消えていった。
 闇の中に残されたサガは、カプリコーンの背中を見送ってから、宙にぼんやりと浮かぶ、人ならざる時を生きている聖闘士に、小さく問うた。
「老師。……私の答えは、──間違っておりますか」
「……いや」
 童虎は、だらりと酒を煽る。自棄酒のようにも見える飲み方だった。
「文句無しの答えじゃよ、双子座ジェミニ」

 神に従い、神のために、神あればこそ。

「──そう、ですか」

 サガは、満天の星を見上げた。
 双子座が輝く季節のその空は、押し潰されそうなほどに圧倒的で、荘厳だった。

「わたしは、神を信じ、従い、──愛する事を誓っております故に」

 誓っております、と、サガは戒めるように呟いた。
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BY 餡子郎
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