第6章・Wichtige Begebenheit(重大な出来事)
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「だから……。……ええ、なんでわからないんだ?」
「普通わかんねーよ、馬鹿」
呆れた声でそう言ったのは、デスマスクだった。どうやらミロが滝に落ちた音で様子を見にきてから、ずっとそこにいたらしい。その隣には、苦笑を浮かべたサガも居た。
馬鹿と言われたカプリコーンは、むっとして口を尖らせる。
「なんでお前に馬鹿呼ばわりされなきゃならないんだ」
「馬鹿は馬鹿だろ。そんなことできんのお前だけだっつーの」
ヘッと小馬鹿にしたような笑みが付いていたが、言葉だけ見れば、褒めているのかけなしているのかよくわからない言い様だった。
「俺だって、一回殺気出したら大概は殺しちまうまで止まんねーもん。殺さないの前提で殺気全開なんて絶対ムリだね。ま、チビどもはその殺気出すのもまだムリみてえだけどな」
「……そういうものなのか」
「そーゆーもんなんだよ」
「そうか……」
頷くものの、まだ納得が行かないらしいカプリコーンは、不思議そうな顔で眉を顰めていた。
「……ふむ。天賦の才、じゃな」
いつの間にか、童虎が風景の端にちょこんと座り込んでいた。この老人が移動している所を、誰も見た事がない。
「完全に己を滅することが出来るからこそ、殺気すら操ることが出来る。これはそれを生まれつき、……いや、性格でやっとるな」
「己を滅する、ねえ。……それは、自分の意思がなくなる、ってこととは違うのか?」
デスマスクが、なんだか気に入らない風な表情をして、顎を掻いた。
ちらり、とサガが彼を見る。
「それは違うのお。お前さんが言うとるのは、自分の意思が無くなり、他人の言うままに滅私奉公するということじゃろ。根本から意味が違う」
「へえ?」
「これがやっとるのは、極限まで思考を狭め集中するという事じゃよ。そうじゃなあ、……お主、殺気を出して戦っておる時、どういう気分じゃ?」
「え?」
自分の話題ではあったものの、突然質問され、カプリコーンは素っ頓狂な声を上げる。しかし慌てて姿勢を正すと、聞かれた事を思案した。
「……ええと、……楽、です」
「何故じゃね?」
「他の事を何も考えなくていいから」
カプリコーンは即答した。
「だから俺は、デスマスクなんかのほうが信じられないけどな。お前、いっぺんに五つも六つも用事をこなすだろ。本読みながら飲み物飲んで、サガと話題二つぐらいを同時にこなしながらちびがヘマやらかさないか注意して、しかもサイコキネシスで作業してたりするんだ」
「確かに、デスマスクは凄く器用だからな。お前とは対照的だ。しかしどちらがいいという事でもないと思うがね」
サガが言った。うんうん、と童虎が頷く。
「こういうことじゃよ。雑念を全て取り払い、殺すという意思と、寸止めでそれを止めるという事、この二つしか考えとらんから、ああいうことができる。……今度よく見てみい。このわっぱ、殺気を出しとる最中は瞬きしとらんぞ」
童虎が言ったその言葉に、全員が再び唖然とした。カプリコーン本人だけが、きょとんとした顔で「そうでしたっけ」と首を傾げている。
本当に生まれもっての感性と性格だけであの所業を行なっていたという彼に、デスマスクなどは、「こいつ、そのうち息もしないで戦うようになるんじゃないのか」と、げてものを見るような目でカプリコーンを見ていた。
「……きみは、阿修羅のようだな」
滝の音に支配されたその場を壊したのは、ずっと黙っていたシャカだった。
「──なんだって? あしゅら? ……俺の事か?」
「そうだ」
こくり、とシャカは頷く。彼は水辺にずっと居たので濡れてはいないが、空気中に霧状で濃く漂う水気に金色の真っすぐな髪は湿っていて、乾燥したギリシアにいる時のように、さらさらと流れる事はなかった。
「戦闘神だ。六道のひとつである修羅界の王で、三面六臂のすがたをしているとされる」
「へえ、カッコイイじゃねえか」
デスマスクが言った。日本や中国の文化に興味があるらしい彼は五老峰で老師と話をしたり彼の蔵書を読みあさるのに余念がないし、最近はこのシャカとも以前より更に良く話している。
「そして、魔神でもある。もとは正義の神だったのだが、力の神にはむかいつづけたために天界からおいだされて鬼神となった」
「何だって?」
カプリコーンが、眉を顰めた。
「正義の神が、何で力の神に逆らうと地獄行きになるんだ?」
「正義に固執しすぎたからだ」
「? それはどういう────」
「こらこら、そう一気に質問したとてシャカも困るであろう」
シャカの前に乗り出したカプリコーンを、童虎が諌めた。
「阿修羅か。……まずはインド神話から話さねば理解出来んじゃろうな」
「俺、聞きたい!」
デスマスクが手を上げた。その横では、何故かシャカが得意げな顔をしている。自分の分野に興味を示された事が嬉しいのかもしれない。そしてぽかんとしていたミロとカミュをサガが自分の両隣に座らせると、小さな青空教室が出来上がった。
「ふむ、では話そうかの。……阿修羅はもとはインドの古代神で、アスラといってな。そして先程シャカが言うたように、アスラは正義を司る神じゃ。そんなアスラが悪神となったきっかけは、力の神インドラとの確執にある」
インドラは、紀元前14世紀のヒッタイト条文の中にも名前があるとても古い神である。特に『リグ・ヴェーダ』においてはヴァーユとともに中心的な神であり、また、『ラーマーヤナ』には天空の神として出てくる。豪放磊落な性格で酒を好み、強大な力を発揮する武器・ヴァジュラを持つ。雷を操る雷霆神でもあり、ギリシア神話に於けるゼウスのような存在と言ってもいいだろう。
「アスラには娘がおってな。インドラを好ましく思うておったアスラは、いつか娘をインドラに嫁がせたいと思っておった。しかしその話をする前に、豪放磊落で愛されるところもある反面、乱暴で好色なところもあるインドラは、町で見かけたアスラの娘を気に入って攫い、力づくで自分のものにしてしもうた」
「……なんかほんとにゼウスに似てねえ?」
どこの最高神も大体こんな同じなのか? と半目で軽口を叩いたデスマスクの頭を、サガが呆れ顔で軽く小突いた。
「何とも言えんのお。……ま、とにかく、それを知ったアスラは激怒した。確かにインドラに娘を嫁がせる気ではあったが、無理矢理攫って暴行したのではな」
童虎が言うと、全員が、それはそうだろう、という顔をした。
「怒ったアスラは、インドラに戦いを挑んだ。ところが、インドラは最高神で、『力』を司る。正義の神であるアスラといえど、『力』でかなうはずがない」
「………………」
「しかしアスラも『正義』の神じゃからの。自分の信じることを守るために、絶対にインドラを許すことができん。戦いは何度繰り返してもアスラの敗北じゃったが、アスラはいくら負けようとも、何度でもインドラに戦いを挑み続けた」
「根性あるいい親父だな!」
ミロが感心したように言った。カミュがこくりと無言で頷いている。
「じゃが、アスラのあまりのしつこさに嫌気がさしたインドラは、最高神の権力を使ってアスラを神々の世界から追放してしまうのじゃ」
「ええっひで──! インドラひでえー!」
「……!」
「静かにしなさい」
立ち上がって叫んだミロを、サガが抑えて座らせる。その横では、カミュが「ガーン」とショックを受けた悲しげな顔をしていた。
「だがそのご、アスラとインドラは他のインドの神々たちとともに仏教にとりこまれて阿修羅と帝釈天となり、阿修羅となったアスラは救いをえるのだよ」
シャカが得意げに口を出した。
「仏教伝承では、阿修羅は正義をつかさどる神、帝釈天は力をつかさどる神で、阿修羅の一族はもともと、帝釈天が主である三十三天にすんでいた。阿修羅には舎脂という娘がいて、阿修羅はいずれ娘を帝釈天に嫁がせたいとおもっていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪い、それにおこった阿修羅が帝釈天にたたかいをいどむ」
「さっきのといっしょじゃん。名前が変わっただけだろ」
「だまってききたまえ」
野次を飛ばしたミロに、シャカは鋭い声を返した。
「仏教では、ここからがすこしちがうのだ。……たたかいをいどまれた帝釈天は、配下のきょうりょくな神々の軍勢も遣わせて阿修羅に応戦した。たたかいはつねに帝釈天側が優勢だったが、あるとき阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天は阿修羅の軍勢におされて後退していた」
「おお」
子供たちが目を輝かせた。彼らにとって、すっかりインドラ・帝釈天は悪役であるらしい。
「そのときのことだ。帝釈天の軍は蟻の行列にさしかかった。そして帝釈天は、蟻をふみころしてしまわないようにという慈悲心から、軍をとめた」
「……ハァ?」
「しかし、そうとはしらない阿修羅はいきなり帝釈天が軍をとめたのにおどろいて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念をいだき、撤退した」
「………………」
「それまでは阿修羅も同情的な目でみられていたのだが、そのことがあってからというもの、蟻のいのちをいたむ慈悲のこころをもつ帝釈天にたいし阿修羅の狭量さはどうしたことだ、というはなしが天界でひろまり、阿修羅は天界をおわれ、人間界と餓鬼界のあいだに修羅界がくわえられ、正義の神であった阿修羅はそこに落とされて、えいえんにたたかいつづける戦闘神になったというわけだ」
「ちょっと待て」
異論ありありの顔で言ったのは、カプリコーンである。
「何だそれ、意味わからん。阿修羅は全然悪くないだろ。むしろ完全に帝釈天が悪いだろ。なんで阿修羅が地獄に落とされるんだ、おかしいだろそれ」
「確かにな。まー帝釈天のが強かったってのはしょうがねえけど、婦女暴行レイプ犯が蟻を潰さなかったから何だってんだ」
デスマスクも、カプリコーンにおおいに同意する。しかしシャカは背筋をピンと伸ばし、しっかりした声で言った。
「たしかに、阿修羅は正義ではある」
「だろ?」
「だが、舎脂が帝釈天のせいしきな夫人となっていたのに、阿修羅はたたかいをいどむうちに、ゆるす心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執しつづけると善心をみうしない、妄執の悪となるという戒めがこめられているのだよ」
「終わりよければ全てよしってことか? 納得できねーな。だいたいその娘もどーなってんだ。レイプされて泣き寝入りどころか何嫁入りしてんだよ。プライドのねー女だな」
「くちをつつしみたまえ」
シャカは顔を顰めた。
「仏教において、蟻とにんげんのいのちに差異はない。それに阿修羅の娘はさいしょこそ暴力で帝釈天の妻になったが、けっきょくは幸福な帝釈天の妃になっているのだとつたえられている。にもかかわらずこだわりつづけるのは、魔類の正義にほかならぬというわけだ」
「だからおかしいだろそれ!」
「あっわかった。おい山羊、わかったぞこれ」
「あ?」
人差し指を立てたデスマスクに、カプリコーンが振り返る。
「帝釈天が阿修羅の娘に暴行したっての、あれがフェイクだ」
「は? フェイク?」
「マジ暴行じゃなくて、プレイの一環だったんじゃねーの? そうなら阿修羅が悪いわ、娘がマゾでショックなのはわかるけどそこは空気読まねーと、痛ェ!」
「……本当、お前にだけは馬鹿呼ばわりされたくない」
銀髪の頭を鋭く殴りつけたカプリコーンは、据わりきった目でぼそりと言った。
「お主は頭はいいのに、阿呆じゃのう」
「老師まで何スか。だってそのっくらいしか考えつかないでしょう」
「お主は雑念が多い」
「えー」
そんなこと言われても、とデスマスクは不貞腐れた顔をして、頭をぼりぼり掻いた。
「……しかし、お主のそれは、考え方が柔軟という事でもある。しかも己の雑念を全て把握して有効に使っとるところが、お主の特異なところじゃな。阿修羅とは正反対のやり方かもしれん」
「? どーゆーこと?」
ミロが首を傾げる。童虎は、豊かだがぼさぼさの髭を撫でた。
「つまり、阿修羅はひとつふたつのことに極限まで集中しておるから、裂帛の気迫がある代わりに、動きが直線的で読みやすい。しかしこ奴の場合、常にたくさんの手を考えて様々な分岐を予想しておるから、相手は動きが読みにくい」
前者が剛、後者が柔ともいえるな、と童虎は説明した。すると、カプリコーンが強く頷く。
「わかります。こいつ動き自体は大した事ないのに、突然思ってもみない事したりするから不意をつかれるんだ」
「それが戦略ってもんだろ。俺に言わせりゃ、繊細に作戦練ってんのに気迫と力技で真っ正面からぶち壊しやがる方がたまったもんじゃねーよ」
「……ま、どちらも戦い方のひとつじゃ、どちらかが正しいという事はない」
童虎が、のんびりと言う。
「各々のやり方を高め極めるもよし、他のやり方を取り入れ新たな境地に付くもよし。例えばデスマスク、お主のやり方は冷静で確実じゃが、先程お主自身が言ったように、気合で押し負けてしまえばいくら綿密な策を練ろうと元も子もなくなってしまうでな」
「…………おー」
珍しく、デスマスクが納得の相槌を打つ。
「新たな境地……」
カプリコーンが、口に手をあて、何やらぶつぶつ言っている。童虎はそんな少年の様子を見て、すっと目を細めた。
「聖剣エクスカリバー」
童虎は、少年の、まだ細い手をじっと見る。カプリコーンはそれに気付き、顔を上げて老人を見た。人ならざるような時を生きている彼の目はやはり見当もつかないほど深く、清流のように澄み、そして滝壺のように底が見えなかった。
「殺気すら操る、お主のその生来の性格あってこそ扱える技じゃ。他の者が持てば、それは聖剣とはなるまい。お主の心こそがその剣の鞘じゃ」
「鞘」
「そう、業物であればあるほど、鞘こそが本質よ。マーリンも言っておろう?」
少し茶目っ気の篭った声で童虎が言えば、カプリコーンは笑みを浮かべつつ頷いた。
「お主が殺気に走り心失い鞘を捨てれば、その剣はデュランダルの如き魔剣となろう。……決してそうならぬよう、心するがよいぞ、名も無き山羊座よ」
「……はい、老師」
デュランダルとは、フランスの叙事詩『ローランの歌』に登場する英雄・ローランが持つ剣の名だ。のちに『イリアス』に登場するトロイの英雄ヘクトルが所持していたりもするこの剣は、「切れ味の鋭さデュランダルに如くもの無し」というほどの切れ味を見せる剣であった。
しかし、ロンスヴァルの谷で敵に襲われ瀕死の状態となったローランが、デュランダルが敵の手に渡ることを恐れて岩に叩きつけて折ろうとした。……デュランダルには鞘がなく、封印する事が出来なかったからだ。
だが、デュランダルは叩き付けた岩を逆に両断してしまい、結局折ることはできなかった。
持ち主が望もうと望むまいと、その刃に触れた物全てを斬り裂く魔剣、それがデュランダルである。
その点、エクスカリバーは同じく凄まじい切れ味を持ちながら、その鞘は人を癒す力さえ持つ。エクスカリバーを与えたマーリンは剣よりも鞘こそを大事にしろと忠告したが、実際にアーサーの異父姉モーガン・ル・フェイの策謀によって鞘が奪われたことで、アーサーはその人生の終焉を避け得ぬようになっていく。
アーサー伝承を愛読していただけあって、素直に、そしてしっかりと頷いたカプリコーンを見て、童虎は満足そうに、目を糸のようにして笑んだ。その笑みは本当に老人が子供に向けるに相応しい笑みで、ぞっとする事など微塵もなく、むしろホッとするような、あたたかい笑みだった。
「それにお主のその聖剣、今は右手一本でしか使えぬようじゃが、デスマスクのように隅々にまで目を行き届かせれば、右手だけに留まらず、手足全てを聖剣とすることが出来るやも知れぬ」
「……!」
カプリコーンの目が煌めいた。
「ただ、剣を増やすなら鞘もしっかり用意せねばならんぞ」
「はい、老師!」
あからさまにわくわくしている彼の表情からするに、早速今日からその為の修行を始めるだろう事は想像に難くない。その様子を見て、サガが少し微笑ましいものを滲ませて苦笑した。