第6章・Wichtige Begebenheit(重大な出来事)
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「──ぐあっ!」
 涼を通り越して薄ら寒い心地になっていたデスマスクとサガを引き戻したのは、バッシャーン! という派手な水音と、ミロのうめき声だった。
「ちっくしょう、カプリコーン! もう一本だ!」
「いいぜ、いくらでもかかって来いよ」
 どこまでも透明な水の中から喚くミロを岩上から見下ろしたカプリコーンは、余裕綽々でニヤリと笑う。五老峰に来て大はしゃぎするのは誰も同じだが、カプリコーンもしっかりとそうだった。
 しかし、このみごとな景観の中で運動するのは、否が応でも気分が盛り上がるというものだ。
「でやあっ!」
「甘いっ!」
 水から勢いよく飛び上がるや否や蹴りかかってきたミロを、カプリコーンは先程童虎に習った動きを使って、流れるように躱した。
 ちびたちと違って、カプリコーンは水遊びよりも童虎が教えてくれる拳法指南の方が目当てだった。彼は様々な流派の拳法の技を目覚ましい勢いで吸収し、格闘術の鬼の名をますます欲しいままにしている。既に小宇宙無しの純粋な格闘なら、アイオロスでさえ十本に一本は取られてしまうほどだ。
「──くらえっ!」
「うわっ!?」
 ミロが指を指した途端、その小さな指先から、ビシュッ、と何かが飛んできたのを感じたカプリコーンは、慌ててそれを避けた。振り返ると、岩に何か小さいものが当たったような跡がついている。
「……何だあれ」
「おまえが剣ならおれは銃だぞ、カプリコーン!」
 ずぶ濡れのミロは、えっへん、と何故か大層得意げに腰に手を当てた。
「おい、小宇宙無しって言ったのはお前だろ、ミロ」
「……そ、そうだっけ?」
 ヒュー、と下手な口笛を吹いて誤摩化したミロに、カプリコーンはあきれ顔でため息をついたがしかし、突然、目を細めて薄く笑った。
「──後悔するなよ」
「げっ……」
 五老峰の澄んだ空気の中に、ズン、と降りたのは、小宇宙──否、殺気である。
 戦士に必要なのは、小宇宙はもちろんだが、この殺気こそが一人前の証のひとつでもある。ただ試合に強いだけでは、戦争には出られない。命を奪う事を知っていなければならない。
 “殺す”という本気の意思を持って相手に向かう事を躊躇しない精神、それを構築しているか否かが、実戦に出られるか否かで最も重要なポイントなのである。
 そしてカプリコーンは、既にそれが充分にあった。

「死ね」

 深いアンバーの目が、ぎらり、と獣じみて輝いた──と認識したその瞬間には、千の血濡れの刃を鍛えた剣が、ミロの目前まで迫っていた。
「──ッ」
「……馬ー鹿」
 斬られる。
 そう思った時には既に、鼻先ぎりぎりで寸止めされた手刀の向こうにあるカプリコーンの表情は、悪戯っぽい柔らかな笑みになっていた。してやられた事を知ったミロは、悔しそうに顔を顰める。
「くっ……そお──! また負けた──!」
「ズルするからだろ。しかもそんな豆鉄砲で俺のエクスカリバーに勝てるもんか」
「豆鉄砲だとう!?」
 ミロは濡れた身体から蒸気が上がらん程に真っ赤になったが、悲しいかなどうかかっても勝てそうにない事も確信したため、心底悔しそうに歯をぎりぎり鳴らした。
「くッ、……カミュ! お前も挑戦しろっ、おれの仇を取ってくれー!」
「……いやだ」
 少し離れた所でシャカとともに魚の掴み取りに興じていた赤毛の少年は、喚き散らして訴えて来るミロに、ぼそりと暗い声で返事をした。
「なんでだよ! お前だって一回ぐらい勝ちたいと思うだろ!?」
「……カプリコーンは本気で殺す気でくるから」
 いやだ、と、カミュはふるふると首を振った。
「そりゃ、カプリコーンとの手合わせが一番怖いのは俺もわかるけどな、正式な黄金聖闘士になるんだったら殺気慣れは絶対しとかなきゃ、って言われてるだろ」
「でも試合なのに」
「そうだけど、」
「さっきから何言ってるんだ? お前ら」
 言いあうミロとカミュに、カプリコーンは奇妙に眉を寄せて、首を傾げた。
「型の練習とか一人でやる基礎練習ならわかるが、相手がいるなら試合だろうが実戦だろうが、殺気出してやるのがホントだろ。……まあさっきは遊びで、ミロが小宇宙使ったから本気出したんだけど」
 カプリコーンは、本気で不思議そうな顔をしていた。何故そんな事を論じるかという根本的な事がわかっていないらしい彼に、ミロは困ったような顔をし、カミュはどこか嫌そうな顔をする。
 聖闘士は、小宇宙の闘法を用いて戦う。そしてその頂点に立つ黄金聖闘士は光速の動きを可能とするが、魂のオーラとも言える小宇宙を燃焼させることで生み出すその状態は、集中力が倍増し、身体感覚の拡大、知覚神経の鋭敏化・時間の感覚の遮断などをもたらし、極限状態、いわゆるZONE状態となる。
 全てがスローモーションに見える超感覚状態だからこそ、彼らは普通ではなし得ない超速の世界を見極める事が出来るのである。
 そして実戦においては、この精神状態に加えて殺気を込める事で、相手を凌駕し倒そうとする要素が働く。衝動的に殺人を試みて急に強くなったりするように、普通なら殺気を出す事で自分を極限状態に追い込んでしまうものなのだが、小宇宙によって既に意図的に自分をZONE状態に追い込んでいる聖闘士は、殺気によって更に自分に勢いをつける。
「……殺気というのは、……殺そうとすること、だ」
 黄金の器の中でも最も無口なカミュには珍しく、彼は懸命に単語を探しながら、カプリコーンに訴えた。
 殺気とは、相手を殺そう、滅そうとする気迫のこと。
 その気迫を、ひとつの事に対して超常現象の域にまで高まった極限の集中力をもって行なうというのは、どういうことなのか。
 それはつまり、「相手を殺す事」、この事しか考えられなくなる、という事。カッとして殺人を犯した後に我に還る、その状態がまさにこれだ。
 聖闘士である彼らは、聖戦、──戦争に出るために、訓練を積んでいる。本当に何かを、まだ見知らぬ敵を殺すために、己を磨いている。……どうあれ、実戦であれば本当に殺す事が目的であるので殺気の気迫の差は重要な所だ。しかし、試合では、どうか。
 つまりカミュは、試合で殺気を出して本当に相手を殺してしまったらどうするのだ、と言っているのである。
「……それに、試合でも、と……と、ともだちや、仲間に殺気なんか、向けられない」
「おお……がんばってるなカミュ……」
 自らの赤毛に負けないほど顔を真っ赤にしながら自分の主張を口にしたカミュを、ミロが感心の表情で眺めている。カプリコーンはそんな二人を見下ろしながら、不思議そうに首を傾げた。
「そんなの──簡単だろ」
「え……?」
「殺す直前で引っ込めればいい。それだけだろ?」
 何が問題なんだ? と本気で首を傾げるカプリコーンに、ミロとカミュだけでなく、後ろで黙って話を聞いていたシャカも唖然としていた。開眼すらしている。
「でっ……できるわけないだろう、そんなの!」
「なんで?」
「な、なんでって」
「俺はいつもそうやってるぞ? さっきも、こう……」
 シュラは緩く手刀を構えると、ゆっくりゆっくり、カミュの顔に下ろしていく。
「今、“殺す”って思ってる」
 カミュが、奇妙な表情で固まった。
「それで────」
 ピタリ、と手刀が止まった。カミュの鼻先と彼の手刀の間には、花びらがやっと一枚挟まるか挟まらないかという距離しかない。
「ここで、やめる。それだけ」
「………………」
 ミロが、あんぐり口を開けて固まっている。
 そして手刀を目の前から下げられたカミュが、恐る恐る、と言った様子で口を開いた。
「じゃあ、あなたは、……最初から、ぎりぎりで止める、と考えて」
「違う。殺そうと思ってる」
「え、で、でも」
「殺そうと思ってる時は、後でやめるとか考えない。覚えてるけどな」
 カプリコーンは身振り手振りまで加えて丁寧に説明しようとしてくれているらしいのだが、その動きが一体何を表現しているのか、三人には全く理解できない。奇妙な動きを繰り返すカプリコーンを前に、三人は頭の周りを疑問符だらけにするばかりだった。
「……ええと、……殺す気……なんだよな?」
「そうだ」
「それで、途中でやめるんだよな?」
「そう」
「……でも殺すって思ってる時は、忘れてる……」
「忘れてない。考えてないだけだ。直前になったら考えて、やめる」

 ──わからない。

 三人は困惑顔のまま黙ってしまい、そしてカプリコーンもまた、どうしてこんな当たり前の事がわからないのだろう、と本気で首をひねる。
 夏の日差しの中、力強い滝の音だけが、豪快に響いていた。
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BY 餡子郎
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