第6章・Wichtige Begebenheit(重大な出来事)
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「……ハァッ!」
──ドン!
少年の気合とともに、滝の流れが青空に逆流する。
その現実らしからぬ光景に、他の年少の子供たちの歓声が上がった。清流の飛沫がざんざん落ちて来る中をおおはしゃぎしながら駆け回っていると、晴天の光の恵みによって、今度は大きな虹が浮かぶ。
「ほ、見事、見事」
被った笠の上でばちばちと音を立てる水の粒を感じながら、老人は呟いた。
「お主、名前は何というたかの」
「カプリコーンです、老師」
「何じゃ、名無しか?」
「…………」
そう言われて、滝を逆流させた少年はきょとんと目を丸くしてから、はにかんだ表情で、「はい、今考えています」と答えた。
──中国江西省九江市南部、廬山五老峰。
天秤座ライブラの黄金聖闘士である童虎は、現役でありながら教皇シオンの同輩でもあるという、異例の聖闘士だ。
前聖戦が終わったとき、シオンは教皇として聖域に、そして童虎は冥界の封印の監視として、ここ五老峰に留まったのだという。
そしてここは、黄金聖闘士たちの課外修行の場でもあった。大先輩であり同輩でもある童虎老師に修行をつけてもらうという名目で、彼らはサガ組かアイオロス組の二組に分かれ、それぞれ交代で一月に一度、つまり一組二月に一度の割合で、彼らは揃って童虎の所まで徒歩──正しくは、走って赴く。
ギリシア・アテネから中国の五老峰まで、徒歩。神話の時代の殉教の旅にも似たその所業は一般人からしたらありえないものだが、聖闘士、しかも黄金聖闘士である彼らにとっては、いい修行になる道行きだった。所要時間は、大体三日か四日ほど。
彼らならではの超常能力であるテレポートを使わないのは、メンバーの一人であるデスマスクが途中で脱走するかもしれない、という理由からだ。しかも、デスマスクは超能力の面ではトップクラスに優秀であるので、気が抜けない。
聖闘士と言えどマラソンを心から喜ぶ者などそうそう居ないので、デスマスクは特に年少組たちから恨めしげな視線をたっぷり貰ったが、本人は蛙の面に小便もいい所で、屁とも思っていないようだった。
しかし、何だかんだでまだ充分に子供の域である彼らは、この課外修行を楽しみにしていた。
確かにギリシアから中国の道行きは楽なものではないが、道行きで食べる弁当を持ってサガかアイオロスかに引率され、到着すれば五老峰の素晴らしい清流で好きなだけ遊べるし、食事も美味しい。五老峰での課外修行は、彼らにとって、ちょっと大掛かりな遠足に他ならなかった。
「二百……何だって?」
「だから、童虎老師は御歳247歳になられる」
冷たい水に裸足を投げ出していたデスマスクは、サガとそんな会話を交わしていた。
「シオン様も同輩で」
「……人間?」
「人間じゃよ」
頭上から聞こえてきた嗄れ声に、デスマスクは驚いて肩を跳ね上がらせた。見ると、いつの間にか童虎が、デスマスクたちの側の大きな岩の上に座し、煙管の煙草に火をつけていた。
そして、ぷかり、と煙の輪を吐き出す。
「──残念ながら、な」
童虎はそう言ったきり、口を閉ざした。
そして、黙って煙草を吸う。デスマスクは、この老人の事が結構好きになれそうな気がしていた。
「……人間って、そんなに生きれるモンなんすか」
相手を敬う物言いをしたデスマスクを、サガがひどく驚いたような顔をして見ている。最近すっかり忘れかけた敬語はややチンピラくさい口調であったが、デスマスクも、口の利き方というものは一応知っているらしい。
「生きれるようじゃよ」
ふざけたことにな、と続くのかと思うような言い方にも聞こえたが、童虎は煙管を銜えただけだった。
「なんで?」
「アテナの御意思じゃよ、少年」
笑いが含まれていた。デスマスクだけでなく、サガも、その笑いに少しぞっとする。
「神にとって、二百年そこらの時間など、そう大した事ではないのじゃよ」
「でもアンタ人間だろ」
「そう。儂も、シオンも、人間じゃ」
「……だったら、」
だったら、大(・)し(・)た(・)事(・)であるはずだ、とデスマスクが訝しげな顔をして苦々しく言う。すると、童虎は、笑った。あの、ぞっとするような笑みで。
「そうじゃとも」
童虎の笑みは、何かを孕んでいる。その正体が何なのか、少年たちにはわからない。247年、人間にあるまじき時を生きてしまった人間がどういう心境に陥るのかなど、二十年も生きていない彼らには、見当もつかない。
童虎の笑みに含まれた何かは、死界の入り口よりも静かで、真っ暗で、音すらしない穴のように果てしなく、そして得体が知れなかった。
「しかし、それが聖闘士というものなのじゃよ、少年」