第6章・Wichtige Begebenheit(重大な出来事)
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ああでもない、こうでもない、相変わらず図書室らしからぬ煩さで言いあいながら、少年たちは本を漁った。
この場において大抵の場合指南役であるデスマスクは、カプリコーンの色々な質問に素早く答えつつ、絵本を読むアフロディーテが何か突飛な事をやらかさないかどうか、忙しく目を光らせている──というのが通例なのだが、サガがアフロディーテを引き受けて絵本の棚に行ってくれたので、自分の読みたい本を持って、彼の読書時の定位置である脚立の上に座り込んだ。
「なあ」
「何だよ」
大理石の床に寝転がって戦記物を読んでいるカプリコーンの呼びかけに、デスマスクは、三国志の分厚い訳本を読みながら返事をする、という高度な事をやってのけた。その声はうざったそうだったが、しかし根っこが世話焼きな彼が実際にはそんなに苛々しているわけではないという事を熟知しているカプリコーンは、けろりとした様子で言葉を続ける。
「さっきのサガの話だけど」
「ユビキタス?」
「そう。……俺、昔、神父に聞いたって言っただろ。「神様はどこに居るんだ」って」
「あー」
「そんで、こないだ神官にも聞いたんだよ」
「何を」
「“アテナはどこにいるのですか”って」
デスマスクが、本から顔を上げた。
数百年に一度しかその姿を実際には見せないアテナと実際に謁見したことがあるのは御歳二百数十歳になるという教皇・シオンだけだ。
「……で? なんて言われた」
「“アテナはいずれ来る聖戦に供え、この世にご降臨なされるのです。今はまだその時ではございません”」
「つまんねー答え」
デスマスクは吐き捨て、再度物語の中に意識を戻そうとした。しかし集中力が切れかけてきたのか、先程からいまいち本に身が入っていないらしいカプリコーンは、おかまい無しに続けた。
「俺もそう思って、また聞いたんだよ。“じゃあどこに降臨するんですか”って」
「ふーん」
「そしたら“アテナ神殿にございます”だってさ」
「………………」
正確な記憶力を誇るらしいカプリコーンが神官の口調そのままに言うと、デスマスクはあんぐりと口を開け、呆れきった、間抜けとも思えるような表情をした。
そして「相変わらず“お話しにならない”ことしか言わない連中だ」、そういう意味の表情である。デスマスクは聖域の人間たちがどこまでも聖域的である事を痛いほど理解していたが、実際にその様子を見聞きすると、やはりいつも辟易した。
そして最近その様子をいちいち面白がって遊ぶ傾向にあるカプリコーンは、デスマスクのリアクションに満足したのか、ニヤニヤ笑う。
「なんと俺の三件隣におわしになるそうだぜ。……ああ、教皇の間があるから四軒隣か」
「近所だろうがオリンポスだろうが知った事か」
デスマスクはそう言って、とうとう本を閉じた。
「ユビキタスが本当なら、“まだ地上に降りていらっしゃらないから”云々、ってのは理屈にあわねーだろうが。神のくせにスケールの小さい言い訳してんじゃねえっつーの」
「別にアテナが言ったわけじゃないだろ」
「同じ事だろうが」
脚立も降りた。本格的に議論をする気分になったらしい。文字を追うのに完全に飽きていたカプリコーンもそれは望むところだったので、寝転がっていた身体を起こして座った。カプリコーンとしては適当な話し相手になってもらえればそれで良かったのだが、デスマスクは会話より議論が好きで、ふっかけると必ず乗って来るものだから、彼はそれを利用したのだった。
「いいか、組織ってのはなあ、頭が居なくなってもそれなりに機能するようでなきゃあ、組織である意味がねえんだよ。“ボスがいないからわかりません”なんて言い訳が通用すると思ってるってのがまず三流以下ってことだ」
「アテナが居ない代わりに教皇が居るんだろ」
「教皇は人間だ」
「どういう意味」
カプリコーンが曲げた膝の上に肘を立てて頬杖をつくと、デスマスクは言った。
「神ってのは当然人間より優れてるんだろ? だから人間から恐れられてるし、頼られてる」
「そうだな、神だから」
「その代理を、教皇とはいえ人間が出来ると思うか?」
カプリコーンは、さほど考える様子も見せず、軽く首を振った。
「無理、なんじゃないのか?」
「無理なんだよ。……つまり人選がなってねえってことだ。だから女が犯されるし子供は殴られるし、飯も足りないし病気にもなるんだ」
「全部神のせいか? それ」
「…………」
特に何も考えずに発された言葉だったが、カプリコーンのその言葉は、不意打ちにデスマスクの隙間を穿ったらしい。デスマスクは息を詰まらせたようになって、何秒か黙った。
「……本当にアテナが人間を守る神なら、あいつだってあんな目に遭ってない」
「…………ん」
「しかもあいつは聖闘士になるために訓練してんだぜ? それなのになんでひでえ目に遭ってんだよ。おかしいだろ」
おかしいだろ、と言ったデスマスクの声は、怒鳴り声に近かった。
デスマスクの言う「あいつ」というのは、この間雑兵に暴行を受けていた、あの娘の事だ。痣だらけの身体で気丈に返事をしたあの娘は、デスマスクの好みに叶ったらしく、手当をしたときも、ただの訓練生の身で雲の上の存在である“黄金の器”三人に囲まれて戸惑う彼女をやたら構い、更に戸惑わせては笑っていた。
そんなわけであれ以来何かと彼女の様子を見るようになっているデスマスクであるが、その付き合いから、今まで“黄金の器”という立場であるが故にあまり知り得なかった一般候補生たちが普段どういう生活をしているのかを知ることにもなり、デスマスクの聖域嫌いに拍車がかかる結果となった。
アテナのための聖闘士、そうなるために死と隣合わせの訓練を課された孤児たちの暮らしは、デスマスクが母と暮らしたあの町の、どんな路地に行っても見られないほどひどいものだった。
「──何がアテナだ。不在だろうが何だろうが自分の兵隊も管理できねえなんざ、大将としても最悪じゃねえか。その上処女、救いようがねえな」
聖域は、アテナの、アテナによる、アテナのために存在する場所だ。
だが意外なことに、聖域には所謂教典やら儀式など、アテナに対する宗教らしい体裁がない。それでいて、聖域という場所は酷く閉鎖されている。デスマスクがこうして徹底して聖域の外に出して貰えないように、聖域は外界との接触を極力持たないようにして存在していた。
そんな環境は、聖域の人間たちにアテナに対する忠誠心、最低限でも神に対する畏怖や信仰までも奪ってしまうに充分だった。地上の平和を守る為に存在するはずのこの聖域であるのに、質の悪い雑兵たちが女性や子供に不埒を働くことは珍しくなく、そして女性たちやアジア・アフリカ系の候補生たちは、俗世ではいまどき信じられないような人種差別を受ける。
シャカなどはインド人でも金髪碧眼のコーカソイドであるため、実際はインド人の半数近くがコーカソイド系だ、ということを知らない無知な聖域の人間たちに嫌がらせなどを受けたことはないようだが、彼がいかにもエキゾチックな肌と髪をしていれば、今頃どういう経験をするはめになっていたか、いくらかの想像はつく。
聖域生まれの聖域育ちでさえそんな有様であるのに、物心ついてからここにやってきた、しかもデスマスクなどは無理矢理連れて来られているのだから、アテナへの信仰や忠誠心がないのは当たり前だ。だからこそ、アテナへの忠誠心が足りないと言ってデスマスクを非難する兵や神官たちに彼は唾を吐き続けているのだが。
「そうだな──」
自分がデスマスクほど豊かな語彙を持ち合わせていない事を知っているカプリコーンは、無理に言葉を探そうとせず、ただ精一杯の気遣いを滲ませた、短い返事をした。
「そういや、元気なのか? 俺は最近会ってないけど」
「おー、前より小宇宙の感じが良くなってた」
「そうか。脚が速いからそこ活かせって言っといてくれ」
「体術マスターからのお言葉かい。ま、会った時にな」
“彼女”に関する世間話を振ると、デスマスクは穏やかな言葉を返す。彼がこんな風な声色を出すのは、ルイザやトニに関する時だけなので、彼がいかに“彼女”を気に入っているかがわかる。それにカプリコーンやアフロディーテも、“彼女”のことは気に入っている。聖闘士訓練生らしくぶっきらぼうで、そして表情などひとつも見えないけれど、デスマスクに突然いっぱしの男がレディにするような対応を取られてびっくりしつつもどこか嬉しそうな空気を漂わせる様子は、とても愛嬌がある、と思う。
「──なあ」
今度は、デスマスクがカプリコーンに話を振った。
「あいつを襲ってた雑兵の奴ら」
「ああ、あの後サガが報告して、シオン教皇が“ドラコン”つったんだろ。しかも調べたら初犯じゃなかったらしいし、当然だろ」
それがどうかしたか、とカプリコーンが本を積み木代わりにして手遊びをし出すと、デスマスクは少し声を潜めて、呟くように言った。
「──俺、あの時な、……やったんだよ」
「あ? 何だって?」
ぼそぼそとした声が聞き取れなかったカプリコーンが聞き返す。するとデスマスクは「耳貸せ」と、先程よりも小さい、内緒話の音量で言った。カプリコーンが素直に耳を寄せると、彼は言う。
「かけたんだよ……積尸気冥界波」
「え」
カプリコーンが驚いてデスマスクを見ると、彼は戸惑った、しかし秘密を話す興奮の熱がこもった顔をしていた。
全然気付かなかった、とカプリコーンが言うと、デスマスク曰く、雑兵たちにしかけた積尸気冥界波は、聖域に来た頃のあの『呪い』に近いものだ、ということらしい。
積尸気冥界波は特殊中の特殊な技で、発動がとても静かである。全開で撃っても、いかにも聖闘士の闘法らしい破壊音が起こる事などない。だから、ターゲットの背後に極小さな積尸気の穴を開ける『呪い』は、気付く事がまず難しいのである。
「いきなり殺したのがバレたら俺の方が罰則受けるってのもあるけど」
あの場で“彼女”を気に入ったデスマスクは、危害を加えた雑兵たちを出来るだけ長く苦しめて殺してやろう、と思ったらしい。彼は相変わらず、気に入った者とそうでない者に対しての態度が極端だった。
「俺は、仕掛けた“穴”が魂を吸い込んだかどうか、その瞬間にわかるんだ。遠くに居ても」
「ふうん」
そんなもんなのか、とカプリコーンはおざなりな相槌を打つ。
「──“穴”は、魂を吸い込んだ」
「……? そりゃ、死んだから──」
「違う」
言い切らないうちに、デスマスクはカプリコーンの言葉を遮って、首を振った。
「“穴”が魂を吸い込んだのは、あの後すぐ、……あいつの手当をしてるときだ」
それを聞いたカプリコーンは、困惑気味に表情を歪めた。
ターゲットが死ぬまで何日もかかる『呪い』で雑兵たちが死んだわけではないのは明らかだが、サガがシオンに報告をしにやって来たのは、“彼女”の手当をして随分経った頃である。処刑はその翌日だった、と聞いている。デスマスクの話が本当なら、時間が合わない。
「魂が吸い込まれたのは、四人全員だ。一気に──嵐みたいに」
「それって……いてっ」
「……サガが殺したんだ」
カプリコーンの耳を引っ張って、デスマスクは小さく囁いた。耳の痛みに顔を顰め、カプリコーンはデスマスクを振り払う。
「サガが? ……そんなわけないだろ」
サガは誰かが争っている時、決して焦ったり、怒ったりすること無く、みんなの言い分を全部聞く人間だ。とてもまどろっこしく、しかし誰もが損をしない、納得する、しかしサガだけが大変な思いをするやり方。決してちびどもを頭ごなしにぶん殴ったりする事のないサガが、そんな事をするはずがない。
カプリコーンはデスマスクにそう言ったが、デスマスクは確信を持っていて、そしてその確信は、カプリコーンの語彙の少なさを差し引いても論破できないものだったので、カプリコーンは戸惑ったまま黙り込むしか出来なかった。
「でも、まさか、サガが」
「……じゃあ、サガがやったかどうかは百歩譲るとしても、だ。俺たちが行った後すぐ雑兵たちが死んだのは確かだぜ」
「じゃあ誰がやったんだ」
愚直ともいえる質問に、デスマスクは肩を竦めた。
「さあな。サガか、そうじゃなきゃ、サガじゃない誰かじゃねえの」