第6章・Wichtige Begebenheit(重大な出来事)
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ユビキタス(ubiquitous)、という言葉がある。
現在ではコンピュータやネットワーク、社会の仕組みについての用語としても用いられることもある単語であるが、事始めはラテン語の宗教用語であり、「神はあまねく存在する」という意味である。
つまり、神はいつでも、どこにでも存在する、そういう考えを表す単語だ。あらゆる所に偏在する、という矛盾は神が持つ超能力がなし得る不可能であり、また神の存在定理の真理である、と。
(アテナもそうだろうか)
と、少年はびくびくしながら考える。神がどこにでも居るというのならば、自分の心の中など当然筒抜けであるのだろうから、心の中の秘密でさえ秘密ではない。だからこそ心から善であれ、と皆は言う。
しかしそうであるならば、神とはなんと厳しい存在なのだろうかと少年はぞっとする。ならば神とは、心の底から、息を吸って吐くのと同じぐらい当然に神を信ずる者にしか恩恵を与えない、ということになりはしないだろうかと。
少年は、神を信じていないわけではない。しかし、疑っている。
だからこそ彼はこうしてびくびくとしている。神を疑うことは罪であり、ここ聖域においては、時に死にも値する重罪だ。
ここで言う神とは、アテナである。聖域において、アテナ以外に神は存在しない。
──アテナ以外の神を殺すために、聖域と聖闘士は存在しているのだから。
「サガ、サガ」
呼ばれて、少年──サガは、僅かだけびくりと肩を震わせて、声のした方を振り返った。
「やあ、また読書か、三人とも」
にこり、とサガは微笑んだ。その笑みは教会にある真っ白い聖母像にとてもよく似た表情で、まさに神々しいという言葉がぴったり当てはまるようなものだった。像の微笑み、人が理想を石に刻んで作った、その表情。
老若男女が見蕩れるその表情を見て、カプリコーンは子供らしい素直さからくる反射的な笑みを返し、アフロディーテは全く変わらず眠そうだった。
そしてデスマスクは、片眉を上げて目を細める奇妙に歪んだ笑みを滲ませた。彼はサガの微笑みを最初に見たとき、驚いたような顔をした。しかし二回目以降は、ずっとこんな風な表情を返すようになった。サガはそれにびくびくと怯えながらも、しかしどこかで安心している。その複雑な感情は、スリル、のようなものに似ていた。
「本を読みにきたんだけど」
「訓練をさぼって?」
「さぼってない」
あとで山羊とやるからさぼってない、とデスマスクは口を尖らせた。
「サガは何読んでんの」
デスマスクに手元の本を覗き込まれ、サガは彫刻の微笑みを浮かべながらもどきりとした。恐怖刺激がサガの心臓を刺激する。灰色の目は今、自分を見ているのだろうかと。
そして血色が濃く透けた目を持つ少年は、先程の笑みを更に深いものにして、フンと鼻を鳴らした。
「ユビキタスか」
しかし予想に反して、そう言ったのはデスマスクではなく、カプリコーンだった。彼は最近この図書室に入り浸ってはいるが、元々自分の興味のある物しか読まない。そして彼が宗教哲学に興味があるとはとても思えなかった。サガは素で驚いて、目を丸くする。
「知っているのか?」
「ここに来る前に、近所の神父に教えてもらったことがある」
ええと、とカプリコーンは視線を宙に漂わせて、記憶を探った。
「──“神はお前の心の中にいらっしゃる。おまえが自分のしたことを善か悪かと悩む時、神様は良心という尊い姿になっておまえの心に現れるだろう。神はおまえの目で全てを見ておられ、おまえの耳で全てを聞いている。神はいつでもおまえと共にある”」
「……よく覚えているな」
「ん、暗記はわりと得意だぞ」
カプリコーンは、少し照れくさそうに言った。
「へっ、バッカバカしい。そんなもんがあってたまるか、気色悪い」
「こら、デス……」
「だよなあ」
デスマスクの予想通りの発言に同意したのは、またも予想外のカプリコーンの発言だった。一応諌めようとしたサガは、言葉を失って彼を見る。カプリコーンはけろりとした顔をして、続けた。
「神様はいつでも見てるから、悪いことすると地獄に堕ちるぞとかそういう事だろ?」
「……まあ、そういう風にも取れるな」
「だけどこの壷を買えば今までやった悪いことがチャラになりますとか、この神の化身たるオッサンのハーレムに入ればご加護が得られます、とかなんとか言うんだよな」
サガは唖然とした。デスマスクはといえば、目を丸くしたかと思いきやひどく上機嫌そうにゲラゲラ笑いだし、カプリコーンの肩に腕を回して俯き、ひいひいと引きつった声まで上げ始めている。カプリコーンはそれをうざったそうにしながら、やはりけろりとした様子で言った。
「インチキ詐欺の常套手段じゃないか」
「カプリコーン、それは神への冒涜だ。謝罪をしなさい」
眉を顰めてサガがそう言うと、カプリコーンは少し怯む。しかし、そこに自分の出番だとばかりに身を乗り出したのは、やはり銀髪の少年だった。
「なんで? 謝罪なんかするこたねえよ。山羊の言ってることのが“ホントウ”だからな」
「デスマスク! またお前は」
「だってそうだろ? ユビキタスってのは、つまり脅しじゃねえか」
「何……」
「神様に逆らえば地獄に堕ちる。聖戦でハーデスに拳を向けた聖闘士は氷地獄行き」
デスマスクはサガが何か言う前に、にやりと赤い目を細めた。
「アテナに逆らった人間は」
「やめろ」
声変わりをしたばかりの少年の声とは思えない、とても低い声だった。
サガのその声にカプリコーンとデスマスクは驚愕の表情を浮かべたが、デスマスクはすぐにフンと笑った。彼の目の色は、赤。闇の底にある、血溜まりの赤だ。
「サガ、俺は神が大っ嫌いだ」
「……デス、」
「脅し上等だ。俺は地獄なんか怖くねえからな」
不敵に、というよりは何かに対しての敵意を滲ませたような顔でデスマスクはそう吐き捨て、行こうぜ、と踵を返した。ずんずんと図書室の奥に進んでゆく彼を、ぽかんとしていたカプリコーンが、ちらちらと何度もサガを振り返りながらも慌てて追いかける。
サガはそれを、本当に彫刻のような無表情でぼんやりと見送った。
「──サガ」
それは高いような低いような、大人のような子供のような、男か女か、……人のようなそうでないような、不思議に響く声だった。
「サガは、かみさまが、ほしいのかい」
舌ったらずな発音のアフロディーテの言葉は、子犬の牙ほど細くて刺さるように、無慈悲に鋭いようにサガには感じられた。しかしそう感じることが自分のせいであることも、サガはそれこそ痛いほど承知の上である。だから、表情を歪めた。彼は子犬をほんとうに愛らしいと思っているし、事実、心から愛している。しかしその牙が刺さる痛みに耐えられるほど、本当は大人でもない。しかし彼は、一度も泣いたことはない。泣かぬようにと、毎回毎回、我慢をしている。
「欲しいよ」
泣くのを堪える声で、サガは言った。神はどこにいるのだろう、と。
「神は、私を見ているのだろうか」
見ているのならば、と続けて呻くように呟いたサガは、そのまま俯いた。もうすぐ背丈が6フィートにも届こうかというサガだが、彼の白金の髪はまだ少年めいて細く、動作に沿ってさらさらと落ちた。
アフロディーテはそんな彼をじっと見ていたが、やがて近付き、相変わらず不思議に響く声で言った。
「かみさまはしらないが、わたしはサガをみているぞ」
サガが、反射的に振り向いた。少年らしさが色濃い髪の間から見た子供の顔は、この世の者ではないのではないか、と思うほど美しい。サガを含め、聖闘士には十人並み以上の美形が異様に多い。神官たちによれば、神に仕える聖闘士に美形が多いのは当たり前だと──何が当たり前なのやらさっぱりわからない、と正直サガは思うが──言うのだが、アフロディーテはその中でも、特に飛び抜けていた。
「サガにかみさまがあらわれるまで、わたしがサガをみてやろう」
人らしからぬ美貌の子供のその言葉を、サガは半ば夢心地のような気分で聞いていた。
アフロディーテは、ばさりと顔に髪が被さったまま自分を見るサガを訝しく思ったのか、まだ小さい手で、彼の髪を掻き上げた。しかしその手つきはまるで暖簾を押しのけるような適当な仕草で、ぶちっと音を立てて、サガの髪が一本千切れた。
クリアになったサガの視界に入った子供の顔は、やはり、絶句するほど美しい。しかし、よくよく見れば、ぽつりと小さな泣きぼくろがあることに気付く。
アフロディーテは、美しい。神に愛されるに何の遜色もない美貌。しかしその目の下には、小さく黒い点がある。
「……ああ」
神に愛される美貌に紛れた人間くささに、サガは泣きそうになった。
「ありがとう、アフロディーテ」
「うん、どういたしまして」
習った通りの返答を返すアフロディーテに、サガは笑う。その微笑みは柔らかく、彫刻のような硬質さは全くなかった。
「……サガは、どうしてかみさまがほしいんだ」
ことりと首を傾げて、アフロディーテが尋ねる。
サガは、無言だった。そして、今にも大泣きをしそうな顔で、笑った。それは完璧さとはかけ離れた、なまなましい表情だった。どんなに優れた彫刻家でも、今のサガの顔を石に刻ませることは出来ないだろう。アフロディーテに勝るとも劣らない美形の造作であるサガの顔は、奇妙にひきつり、歪んでいる。サガはそれを自覚しながら、静かに、絶望に似た気持ちになった。少なくとも、今この表情をしている自分に神が手を差し伸べることなど、絶対にありはしないだろうから、と。
サガは、アフロディーテの問いには答えなかった。
「……アテナ。──お許しを」
ただぽつりとそう言って、頭を地に下げて、祈った。
「──お許しを、お赦しを」
しかしアフロディーテにはそれが拷問に耐えているような姿にしか見えず、初めて眉を顰めたのだった。
Annotate:
『灰色の目』ーアテナは灰色の目をしている、と言われています。